日本型雇用の限界
濱口 確かに、高度成長期においては、年齢別人口構成がピラミッド型であったため、年功的な処遇は企業にとって有利な面がありました。つまり、たくさんいる若者は賃金が低く、賃金の高い中高年齢者は数が少なかったからです。それが70年代から90年代に逆ピラミッド型になってくる中で、企業側が、人件費がかさむ上の年齢層が増えてくることに対してなんとかしなきゃいけないと、かなり露骨なやり方をするようになってきた。
例えば1995年に出されたいわゆる有名な「新時代の『日本型経営』」を見ても、日本型雇用システムを否定するものではなく、若いうちは今までと基本的に同じで、その先でもっと厳しくやるんだという内容です。そこからわかることは、日本の企業側の人事政策というのは、中高年に対するものに比べると、若者に対しては昔と変わらないし、変えようともしていない部分なのではないかなと思います。
本来であれば、少子化で少なくなってきた若者に対して変えるべきところを、昔と変わらず低い給与でたくさん働かせ、その傍では中高年層が高い給料でプラプラしていたら、それは冗談じゃないって話になってしまいます。
だから最近で言うと、初任給だけがどんどん上がっている現象がありますが、これこそ本質的には何も変えようとしていないにも関わらず、現実に押されて起きていることなのではないでしょうか。
小熊 もう一つ補足すると、理念としての日本型雇用というのは、じつは一度も実現したことがないのではないか。
ここでいう「理念としての日本型雇用」とは、正規の 社員として雇用した人は、全員に勤続年数に応じた昇給と昇進を適用し、やむを得ない場合以外は解雇せずに人事異動等で対処するという考え方です。このような慣行は、たしかに戦前の大企業にも一部の幹部ホワイトカラー層には適用されていましたが、それがブルーカラーや下層のホワイトカラーにも適用されるようになったのは高度成長期以降です。そして当時、その時期に入社した世代が50代になった90年代には、もう中高年の「リストラ」が始まっていた。
つまり「理念としての日本型雇用」は、高度成長期以前には大企業でも一部の労働者にしか適用されていなかった。そして全員に適用するということになってから新卒入社した世代が中高年になった1990年代には、もう維持できないと宣言されていた。つまり大企業正社員に限っても、全社員の全世代にこの理念が実現できた時期は、じつは存在しなかったということです。
そしてこの雇用慣行を変えようという意見は、じつは高度成長期からずっと唱えられていたのだけれど、変えることができていない。それは、それに代わるシステムがないからです。人材評価や賃金に何の基準もなく、すべて営業成績だけで決まる企業には、優秀な人材は集まってこない。勤続年数を基準にするのはよくないとはいっても、職種別の評価基準が確立されているわけでもない。結果として、改革しようとしても旧来の形態を手直しすることしかできていない。そして近年では、先ほどから述べている三つのかたちで、人手不足という問題、という形態をとってこのシステムの限界が表面化している。私はこのように考えているわけです。
濱口 つまり全体として見ると、やや人手不足であることは確かなのですが、これを裏返して言うと、細かく見ればまだ人余りがあることになります。ではその人余りは一体どこで起きているか、それを職種別で見ると明らかに事務職なんです。
しかし、この日本の事務職という括り、実はかなりインチキな概念です。なぜならその中に専門職的な機能を果たしている人や管理職的機能を果たしている人が含まれているからです。
例えば、表1も職種別の表と言いながら、表の下のほうのブルーカラー的なものは確かにある程度、職種概念があるけども、上のほうのホワイトカラーについて言うと、まともな職種概念が医師や建築土木技術者などを除くとほとんど存在していません。だから実は具体的にどこで人余りが起きているかが現れないことになります。
例えば「管理的職業従事者」の有効求人倍率を見ると、結構低いですよね。これは外国人から見ると、おかしいと感じます。なぜマネジメントのプロフェッショナルを企業が求めないのかと。
しかし、日本人にとってみれば当たり前で、日本の管理職というのは、それまでの職種に関わらず単に年功で上がって管理職ポストに置かれただけの人がほとんどです──もちろん中にはマネジメントの能力を発揮していることもありますが。
だから20世紀の週刊誌などでは「管理職残酷物語」というような表現で特集が組まれたほど、企業からすると一番欲しくないし、できれば出て行って欲しい、というのがこの数字の裏にある。ですから人手不足を議論する際、どこで人余りが起きているのか、というのがポイントになると思います。
小熊 それもまた、日本の雇用のあり方の現れの一つだと思います。経済学者のピーター・ドラッカーは、マネジメントというのは職種であって、それはオーケストラの指揮者のような存在だと言っています。オーケストラには役割分担が明確な各種の職種、つまりヴィオラがいて、チェロがいて、バイオリンがいて、フルートがいて、それをマネジメントするのが指揮者です。同様に営業、会計、人事、それぞれ専門職種の人がいて、それをマネジメントするのがマネージャーという専門職です。一緒にフロアに降りて楽器を弾くような人は指揮者ではない。
一例を挙げると、私が読んだ英会話の教材で、イギリスの女性事務員の日常会話がありました。女性事務員が朝通勤してきたら、まず自分の個室に行き、デスクの上にあるマネージャーからの仕事指示書を確認する。その指示書には、今日の分の仕事が書いてある。それを終わらせたら、他の個室で働いているマネージャーや、他の事務員にかまわず帰宅してよいのは当然の前提です。
つまりマネージャーの仕事は、一緒にフロアで働くことではなく、各人の仕事の割り振りを考え、指示書を書いて、仕上がってきた仕事を統合することです。さらに自分がまかされた部署の目標を立て、どういう人を雇い、各人の人事評価をし、限られた予算の中でどうお金を回すかを考えるのがマネージャーの役割です。ただこういう意味での「管理職」は、それぞれの仕事が専門職ごとに決まっている雇用形態、濱口さんがいう「ジョブ型」でなければ成り立ちません。
なぜ日本がこうなったのか
濱口 20世紀から21世紀において欧米型の雇用システムが一応世界のスタンダードなのだとすると、日本社会はそれとはだいぶ違う方向に進化したのだと思います。
小熊 欧米以外の諸国をみても、東南アジアや中南米では、日本のように独自のシステムが広く定着する前に、アメリカ型のシステムが入ってきたことが多かったようです。
社会学者のロナルド・ドーアが、非欧米圏の後発国なら日本のようなシステムができるのではないかという仮説を立てて、セネガルやスリランカ、メキシコの雇用を比較研究したことがあります。結果としては、欧州のような産業別労働組合がこれらの国で主流というわけではないけれども、日本のようにブルーカラーとホワイトカラーの双方に長期雇用や年功賃金を適用するというのは国営企業にしかなかったそうです。
日本は明治期の官営企業が払い下げられるところから民間大企業が始まっていて、それらの官営企業の幹部職員層では年功賃金と長期雇用が適用されていました。そして戦後の民主化と労働運動でホワイトカラーとブルーカラーの双方が「社員」として加入する企業別労働組合が台頭して、職員と工員の処遇を平等化した。さらに高度成長で、企業の側も長期雇用と年功賃金が保障できるようになったのです。
つまり日本型雇用が定着する条件になった戦後の民主化や高度成長に対応するものが、セネガルやメキシコなどの国にはなかった。韓国は1987年の民主化のあと労働運動が活性化し、日本に近いシステムが大企業に広がったことがありますが、十分に定着しないうちに1990年代末には経済危機で雇用が不安定化してしまった。非欧米圏でも日本と同じシステムが広範に定着している国がみられないのはこうした条件の違いのためでしょう。
濱口 それには戦時中の国家総動員体制と終戦直後の労働組合運動が日本独自の雇用システム形成に大きな影響を与えています。
総力戦の中で統制された国家総動員体制(国家のすべての人的・物的資源を戦争遂行のために動員・統制する戦時体制)はある種世界に先駆けた仕組みをつくりました。そして、戦後の労働組合運動は平等にみんなが同じように階段を上がっていく現在の日本型雇用の社会をつくった。全く逆のことをやっているように見えて、実は全く同じベクトルを指していたのです。労働組合は、産業や職種ではなく、企業ごとに組織化したことにより、これまでお話ししたような他国には例がない変わったシステムが出来上がったのだろうと思います。
小熊 戦時動員も、戦後の民主化で何を実現させるかを方向づけた要因の一つだったと思います。ただそうして成立した日本型雇用も、じつは全社員・全世代に適用できたことはないし、「もう維持できない」とずっと言われ続けてきた。
では、どのように変えていくべきなのか、読者はそれを知りたいと思いますが、どうお考えでしょうか。
濱口 どう変えていくのかは一番難しいことですから、そう簡単に答えにくいことです。ただ、日本がここ十数年来、強調し始めているのが「スキル」です。リスキリングもその一つですよね。
日本は、半世紀以上前から職務に対する個々のスキルに着目するより、もっと一般的な「能力」に着目して処遇をしていく能力主義でやってきました。しかし、ここにきて、能力重視だと産業がうまく回らなくなったので、スキルを強調しているのです。
小熊 「スキル」と「能力」もおもしろい論点ですね。これも日本では、スキルに対する評価システムが確立してこなかったことから派生している問題なのだと思います。
国や地域により違いますが、欧米でも経営幹部など一番上に立つ人については、特定の専門的な「スキル」ではなくて、汎用能力的なコンピテンシー(意欲、行動力、柔軟性など目に見えない特性)が必要だとされています。特定専門職としての「スキル」は、その仕事に必要な資格の何級を取得しているか、その職種の経験年数はどれくらいかで客観指標が産業ごとに決まっている。しかし「コンピテンシー」というのは測るのが大変難しく、客観的な基準はほとんどないので、欧米では自由交渉制、あるいは目標管理などで俸給が決まることが多い。つまりスキルとして「何ができるか」では測れないので、「結果」からしか評価できない。
それに対して日本の場合、職種ごとの「スキル」の評価システムが確立されていない。結果的に、全員を「能力」で測るしか、評価基準がない。そしてその場合の「能力」は、結局は「職場でのがんばり」を上司が評定するか、特定企業での勤続年数しか基準がない。勤続年数については、特定企業における熟練度と比例するから「能力」の基準にしてよいのだという建前になっていますが、本当のところは「スキル」の評価基準がないことに対する応急措置のようなものです。
どうしてこんなアクロバットのようなことになったのか。それは、戦後の民主化と高度成長のなかで、他に「高い給与の払い方」が見当たらなかったからです。戦前から、企業の幹部層になる人間には高い給料を払うという習慣はあった。戦後になって下級の事務職や工員が、労働組合を通じてより高い給与を要求したのだけれど、日本には技能で人材評価する基準がなかった。そのため、大卒の経営幹部候補層と同じく勤続年数で評価する以外に「高い給与の払い方」が見当たらなかった。それで、こういうかたちになったのだと理解しています。
濱口 おおむねそうだと思います。細かく言うと、実は製造業や建設業の技能労働者と言われていた世界では、今から約70年前に技能検定制度ができて、今でもブルーカラーの、特に正社員の現場ではそれなりに使われています。ただし、処遇はあくまでも年功賃金プラス態度という日本的な能力主義の評価です。
一方で、こうした客観的な評価基準が全くつくられなかったのが、おっしゃるようにホワイトカラーの世界でした。ホワイトカラー社会では、自分たちの仕事を「技能」と言わず「能力」と呼びました。技能は工場や建設現場で 働くブルーカラーの人々のスキルを指すイメージが定着していたからです。その代わりに幹部層のイメージを持つ「能力」という言葉を使った。しかし「能力」とは何をもって能力と呼ぶのかを厳密に説明しようとすれば、それだけで何冊も本が書けるほど曖昧で複雑な概念だと言えます。
小熊 日本の大企業では、総合職として新卒採用した人全員に経営幹部候補が歩むような道、つまり人事異動で各部署を渡り歩き、広い視点を持たせるような働かせ方を歩ませてきたのです。欧米でも幹部職員候補として新卒採用する人は確かにいますが、それはごくわずかで、数万人の企業でも10人程という研究を読んだことがあります。
経済学者の八代尚宏さんが、日本の労働の特徴は、必ずしも経営幹部になるとは限らないような人たちをエリートのような働かせ方を無理やりさせていることだ、と書いていましたが、まさに私はその通りだと思います。しかし日本の場合、ほかに「高い給与の払い方」が見当たらない。スキルの熟練度で昇給させる評価基準がないので、幹部候補生として扱って管理職に「昇進」させる以外に昇給する基準がないからです。だから全員を経営幹部候補生のように処遇して、スキルではなく「能力」で評価し、ある年齢までは人事異動させながら長時間労働させている。
濱口 私も同じ意味で「みんながエリートを夢見る社会」という言い方をしたことがあります。欧米・アジア社会とは一番違うのは、日本はエリートとノンエリートが全部ごちゃまぜになってしまっていることです。それは平等主義からすると素晴らしいことである反面、上に行ける可能性が極めて乏しい人間までがエリートになるかのごとく低い給料で猛烈に働かせられることになります。つまり企業にとっては「能力」という曖昧な概念は実に便利なものでした。
これは若年人口が多かった80年代まではプラスに機能していましたが、先ほどからお話ししているピラミッド型の人口構造が逆転して中高年が増えてからは、その矛盾が露呈してきているのだと思います。
日本型雇用の適用範囲
小熊 基本的に同意なのですが、それは大企業正社員だけでの平等で、つまりは一部の労働者だけのことだったと思います。
さまざまな労働経済学者の推計をみても、また私自身が推計をしても、「終身雇用」が実現していたり、年功賃金が適用されていたりしたのは、全有業者の30%程度の大企業正社員を中心とした人びとだけだったことはほぼ明らかです。残りの70%は、中小企業、非正規雇用、自営業など、日本型の内部労働市場のルールが十分に適用されていない人たちだった。その一方で、30%の側では単身赴任とか人事異動とか、他の国から見ると人権侵害のようなことを受け入れなければならなかった面もあります。
このような問題が起きるのは、スキルの評価によって昇給する基準がないためです。職種としての熟練で昇給していく道がないので、大企業正社員として管理職になっていくのでない限り、安定的に賃金が上がる見込みが立たない。
先ほども述べたように、欧米など他国でも、経営幹部やその候補生のエリート層は「能力」で評価される。その人たちは目標管理や自由交渉で俸給が出るので、賃金決定のルールのない世界に位置している。しかし他の大多数の労働者は、資格や経験年数にもとづく「スキル」の評価でそれなりの賃金を得ていた事務職や専門職で、これが欧米その他における中間層をなしていた。この後者にあたる部分が日本にないことが、先ほどから述べている様々な問題を日本にもたらしていると私は思います。
濱口 全体として言うと、典型的な日本型雇用システムでカバーされているのはむしろマイノリティである大企業正社員である、というのはおっしゃるとおりだと思います。
ただ、30%と70%という言い方をすると、あたかもそこに明確な線があるかのように聞こえてしまいますが、日本の特徴は全てがグラデーションで連続的であることです。
先ほどのエリートとノンエリートが社内で連続的であることと同じように、日本的な雇用システムが確立している超大企業から中くらいの大企業、中堅企業、中小企業、零細企業に至るまで連続的につながっていて、明確な線はありません。
全体としての量的な割合で言うと大体30%、70%くらいではあると思います。しかし例えば上から50%ぐらいの中小企業では、待遇は大企業並みではないのに働く規範だけは大企業的と言った、日本型雇用システムが水で薄められたようなかたちで存在しています。つまり、一応形式上では毎年少しずつ定期昇給の規範はあるけれど、実態としては長年勤めたってそれほど給料が上がらず、家族経営の雰囲気は守られているようで仕方なく退職させられることが結構ある。
もし30%と70%に明確な線引きがあれば、大企業と中小企業の間でthem and us(経営側の「やつら」と労働者の「俺たち」という階級意識を示す)という意識・感覚の線が見えてくるはずです。社内にその線がないのと同じで、日本社会全体としてもthem and usがないんです。
そのため、マイノリティである大企業で確立した「技能よりも、コンピテンシーのような漠然とした能力のほうが大事」というような感覚が、実際はスキルが重要な中小零細企業にも、あるべき姿として影響を及ぼしてしまっている。これがさらに問題なのは、政府が「欧米に負けないように、スキルを重視しよう」と言っても、現にスキルで生きているはずの中小企業や零細企業の人たちは、あるべき規範としての日本的雇用システムを守るべきという感覚になってしまっていることです。
小熊 他に基準がないので、大企業の慣行を薄めたようなものが中小企業でも適用されている、というのはその通りだと思います。
ですが数字をもう少し細かくみていくと、非正規雇用と自営業主・家族事業者の合計は全有業者の約45%で、これは1982年から2022年までほとんど変わっていない。この45%のなかで、自営業部門である自営業主と家族従業者が減って、非正規雇用が増えているだけです。少なくともこの人たちは、上の30%とは違う世界にいますよね。
それから30%の内訳は、企業規模を問わず専門職、管理職、そして従業員500人以上企業の男性の事務職、営業職まで加えた正規労働者で、これが全有業者約27%です。これも1982年以降、ほとんど比率が変わっていない。その下に、従業員が500人未満企業の営業職と事務職の正規労働者が約27%いて、これが統計上の正規労働者の約50%を占める。
概略で言うと、全有業者は三つのグループに分かれて、それぞれ有業者の27%、27%、45%という数字になる。真ん中の27%は、正規労働者ではあるけれども、おそらく年功賃金は実現できていない。他にルールがあるわけではないので、大企業と似たような賃金や昇給の規範はあったりするけれども、全社員にそれが実現できるわけではなく、保険営業職に典型的なように個人の営業成績しだいだったりする。労働者の側も、長く勤続しても昇給するメドが立たないから、定着度が低くなる。
つまりご指摘のように、中小企業の正社員と大企業の正社員に明確な線引きがあるわけではなく、グラデーションではあると思いますが、やはり格差はある。つまり大企業正社員を基準に日本の雇用の全体像を語れるわけではない。ましてその外の約45%、つまり自営業と非正規雇用の人びとについてはなおさらです。
濱口 日本に実線があるとは言い難いのは、例えば日本よりもはっきりと線があるアメリカを見るとわかります。アメリカではブルーカラーとホワイトカラーは全然違う世界だし、ホワイトでもアシスタントクラークとエグゼンプトは全然違う世界です。つまり違うということが社会規範になっています。日本でも、昔は男女の労働に関して、歴然と線がありました。男性は新卒採用から定年退職まで。女性は新卒採用から結婚退職までで、基本的には補助的な仕事だけだった。この明確な実線が、点線になり、今だんだんぼやけてきているわけです。
小熊 しかし現代の日本でも、正規と非正規には明確な線引きがありますよね。
濱口 平等主義だという日本社会で、正規と非正規という歴然たる格差が確かにありました。ところが最近、非正規の現場で起きているのは、処遇を正社員並みにしていないにも関わらず、一般正社員と同様に柔軟に働かせることです。「この仕事だけすればいい」というのがかつての非正規の典型的な姿だったのが、パートの基幹化が起きているのです。特に流通サービス系の業界では、店長以外が皆非正規になってきたということもあり、正社員に代わる動きをしているわけです。
戦後80年間の日本社会のベクトルは、敗戦直後に起きた労働民主化運動や格差是正の動きによって、平等主義へと向かいました。そのベクトルは今でもあって、線が生まれては同時並行でその線をぼかす動きがあるんじゃないかと思います。
非正規の基幹化も、処遇は伴ってはいないものの、現場の仕事の仕方としては実線が点線へと動き始めているのではないでしょうか。その線がこれからどちらにいくのか判断はしにくい。それもあってグラデーションという表現をしています。仕事の内容という観点ではなく、基幹化しても処遇が上がっていない点で身分の差はあると思います。ただ全体的に日本は明確な線ではなく、グラデーションなのが特徴です。
小熊 社会学の立場から言うと、秩序が変化することはあっても、つまり線引きの仕方が変わることはあっても、秩序や線引きがなくなるということはない。ある線引きがぼやけて点線になっていくと、別の線引きが新しく明確に実線になっていくということも起こったりします。
日本の雇用で言えば、戦前から1950年代半ばまでは、ホワイトカラーとブルーカラーの線引きが明確で、企業規模はあまり関係がなかった。大企業であろうと中小企業であろうと職工(工員)はだいたい同じ賃金で、職員よりはるかに低かった。ところが戦後の民主化と高度成長を経て、1950年代後半からは、一つの企業のなかでは職員と工員の格差が少なくなっていった。しかしそうなると、今度は工員のなかでも、大企業の工員なのか、中小企業の工員なのかの格差が目立つようになった。これは古い線引きが消えていくと、新しい線引きが現れてくるということです。
そして高度成長期以後は、少なくとも初任給については、中小企業と大企業の格差が減少した。1970年代に解雇規制の判例も定着して、正社員ならば中小企業でも社会通念に反する解雇はできにくくなった。しかしそうなると、こんどは正規と非正規という線引きが明確化していったわけです。
歴史を調べると、日本の非正規労働者ははじめから「基幹的」でした。1980年初めの労働白書は、欧米諸国との国際比較から、日本のパートタイマーは労働時間が著しく長いことを指摘しています。平均でも週に36時間程度で、週に48時間以上労働の「パートタイマー」もいたことは、労働力調査特別調査などでも示されている。これは明らかに、労働時間を基準にした「パート」ではないし、おそらく職責を基準にしていたわけでもない。
どうしてそうなるのかというと、そもそも技能や責任度を評価する基準がないので、企業内の身分で待遇を決めていたからです。身分が「パート」ならば、労働時間や職責にかかわらず「パート」の賃金だった。職責や労働時間を基準にするようになったのは、一連の訴訟や判決を経た1980年代から90年代以降だった。そのことは、正社員と同一業務で同一労働時間だったのに賃金が約6割なのは差別だと訴えた丸子警報機事件(1997年に高裁和解)などからも傍証されるでしょう。
つまり歴史のなかで、ある線がぼやけることはある。それは平等化かもしれませんが、他の線がそれに代わってできていくことが多い。非正規労働者の「基幹化」についていえば、それは日本では昔からある実態ではないでしょうか。それに対して、職責を平等にすることは平等化につながるはずだという基準をあてはめるのは、実態を見誤ることになる可能性があるのではないか。
私が終始思うのは、日本でも職種ごとの評価基準を導入したほうがよいということです。例えば事務何級で、事務職としての経年年数がA企業とB企業で合計何年であれば、中小企業であっても非正規であっても一定程度以上の賃金がもらえるという基準を企業を超えて共有する。そうなれば、最初に議論した人手不足も含めて、日本の雇用にまつわる問題は改善されるのではないかと思います。
濱口 80年代のパートの基幹化が注目され議論されたのには語義矛盾も要因の一つにあります。非正規労働者は、かつては臨時工と言われ、低賃金や不安定雇用が問題とされていました。ところが高度成長期に臨時工が本工化する代わりに、家庭の主婦層がパートタイマーとして活用されるようになりました。その中にはフルタイムで働く人も多く、フルタイムパートという語義矛盾で呼ばれました。
また、評価基準を入れるべきというのは私も基本的には同感です。しかし「世の中スキルなんかよりも『仕事ができる』ほうが大事だ」と言った本もたくさん出ていて、多くの人がそういったファンタジーに共感しているのが実態だと思います。
