タブーを受け入れられるように表現するのがアーティストの仕事
松井 今のディープ・サウスが京都の穢れの部分を引き受けてきたという先生の表現にはハッとさせられました。我々は街中の子なので「あそこには行くな」というエリアがあちこちありました。
きたやま ありましたね。「いっちゃいけない」「見ちゃいけない」「語ってはいけない」タブーみたいな地域が、そこら中にある。でも、その地域の子とも友だちにはなるんですよ。例えば、崇仁出身で洛星に行っていた子がいて、近所だったから僕とは大親友でした。ところが、中学2年生ぐらいで突然いなくなることになった。何で学校に行けなくなったのかずっと気になっていました。どうも親の職業が問題になって経済的に立ち行かなくなったという事情があって、彼は中卒で就職しましたね。親からは「行くな」と止められたけど、彼のところを訪ねて行ったこともあるぐらいです。
それがきっかけになって、僕のなかに多くの問題意識が芽生えるんですよ。差別、精神障害者、あるいは虐待されている子も含めて、世の中にはいろいろおかしなことがあることが目に付くようになりました。「なんでだろう」と疑問を抱くようになって、それに答えてくれる学問を探していたら精神分析学に出会ったわけです。
松井 京都府立医科大学の医学部に入られたときも、精神分析学を学ぼうという思いだったのですか?
きたやま 大学に入ってからですね。人間には心に抑圧してしまうものがあって、心の中ではそれが自分を決定しているのだけれど、意識したくないものがある。それを日本語では「穢れ」と言うのだろうと思ったのが最初の発想で、そこから今日に至るわけです。穢れは結局のところ「死」というものに繋がってタブーになる。『帰って来たヨッパライ』がなぜ売れたのかと言えば、タブーを破ったからなんですよね。歌詞に「おらは死んじまっただ」なんて出てくる歌なんて今でもない。
松井 ないですね。
きたやま でも、人々にタブーを受け入れられるように紹介したり、表現したりしていくのがアーティストや精神科医の仕事なんですよ。そういったことを考えるきっかけが、崇仁地区出身の友人の存在でした。だから2023年に京都市立芸術大学が西京区から崇仁地区に移転したことは、僕にとって画期的なことなんですよね。
松井 ぜひ先生には京都市立芸大でお話ししてほしいですね。崇仁や東九条などのエリアで新しい文化が芽吹いていくのはとても素敵なことだと思います。
鴨川の印象は上(かみ)と下(しも)で違っている
松井 崇仁地区出身の友人の存在が世の中を考えるきっかけになったというお話でしたが、私は小学校5年生から塾に行くようになって、世界が広がった気がしたことをよく覚えているんです。先生の時代にはなかったかもしれませんが、植物園前に成基学園という塾があって洛星をめざすような子はここに通って勉強するんですね。北大路通の北側でしたから、それまで洛中の学区の狭さに慣れていた子どもにとっては、遠くです。そのときに京都の町がこんなに広いということを知ったんです。
きたやま その感覚はよくわかりますね。
松井 鴨川も上(かみ)のほうは下(しも)とは違って澄んでいる印象がありました。山の景色も普段見ている山とは違います。塾に通うようになって、京都にはこういう景色があるんやなと歩いていて実感しました。
きたやま 京都は南から北にいって、上から下へ降ってくる往復運動がおもしろいんですよね。上に行くと澄んでいて、下に行くと澱んでいる。僕が小さいときにはすぐ近くに島原があったから、あのあたりは本当に抑圧されている雰囲気がありました。
松井 子どもから見てもそう感じたのですね。
きたやま それが三条くらいまで上がると確かに空気感も変わりますね。下京区から上にいったらまったく景色が違うことに驚いたことがありました。この往復運動は世界というものがこんなにも違うのだと実感できるし、人間の心はこういうものなんだなぁと納得するところがある。今でもその名残を垣間見ることができますから、京都を訪れる方はぜひ歩かれるといい。
こうして話をして思ったのだけど、ダウンタウン側から京都を語ることって滅多にないと思うんですよね。
松井 確かにそうですね。京都というと観光地、あるいは上(かみ)から見た京都を語ることが多くて、下(しも)から見た京都を語ったものにあまり出会ったことがない。
きたやま 北の文化に対する南の意義という意識はずっとあって、それが自分も動かしたところがありますよね。それが歌を作らしめて、レコードを作らしめた。それで人前で歌うことが楽しくなって、祇園祭に対抗するような格好で若者による若者のためのもう一つの祭りを作りたかったんです。
松井 1973年に円山公園音楽堂で始まった宵々山コンサートですね。
きたやま そういうことです。あれが関西フォークの一つの原点になったのは、裏を返せば、昔ながらの古典的な京都の北にある観光地に対抗する意識があったことはもっと語られてもいいかなと思っています。
心のありようと似た構造が京都の町にも溢れている
松井 龍谷大学など例外も少なくはありませんが、大学も北に集中していますよね。京都大学、同志社、立命館、産大、府立・府立医大、工繊大、佛大、大谷大もみな北にあります。私からすると、上の人たちはものすごくプライドがあるなと感じるところがあります。
きたやま だから先ほどの「心の地図」のように、心のありようと似た構造が京都の町にも溢れているのだろうと思う。
松井 京都人の上(かみ)下(しも)意識は根強いけれど、今は、京都の町が東西に拓けて、山科区があったり従来の右京区から西京区が分区されたりしましたから、意識はだいぶ変わっているのかもしれません。
人口集積地であり、かつ独自の歴史のある町として、伏見もあります。ここはディープ・サウスとはまた別の地域ですね。3年間ぐらいですが、伏見市だった時代がありましたから伏見、桃山地区は別のプライドがあるような気がします。
きたやま そうすると七条、八条、九条のあたりのディープ・サウスはやっぱり独特ですね。あそこに京都駅ができたのは、未開発で土地が残っていたのが理由でしょうね。鴨川の氾濫で、あの辺りの開発が遅れたのだと思います。職業的に水を必要とする人たちがあそこに集まったという理由があるので、やはり土地の形状によって地域の役割が決まってくるところがある。
松井 鴨川はまさにそういうエリアなんですね。美しい町の美しい川ですが、その水を使っていろいろな穢れを水に流す仕事をされていた人たちがお住まいにもなっていました。あるいは傾奇者と言われるような方々がそこに流れて、ある種の文化を生んだのが鴨川でもある。歌舞伎は日本の古典芸能ですが、それは傾奇者がなした芸です。高貴な人間国宝に溢れた古典芸能の歴史は奥深いものがあります。それも含めて新しい芸能が生まれて、磨かれているということなのだと思うんです。だから、鴨川はとても一つのイメージだけで語れるような存在ではないですよね。
きたやま ザ・フォーク・クルセダーズのライブで南座に出たことがありました。あの時のことはよく覚えています。檜舞台でしたね。僕らのなかでは歌を歌って演奏するのは河原者という感覚があって、南座はそのシンボルでした。
松井 今では南座のロケーションの意味を知っていらっしゃる方もだいぶ少なくなったかもしれませんね。
オーバーツーリズムの問題をどう考えるか?
きたやま 繰り返しになるけど、僕はディープ・サウスには人々が抑圧している要素が集中していることをずっと肌で感じていました。うちのお墓は東山の大谷さん(大谷本廟)にあって、家からすぐのところにお西さん(西本願寺)がありました。要するにお寺に囲まれていて、あの辺り一帯が墓場ばかりということも若い頃の僕を悶々とさせていたのだと思う。
松井 先生でも悶々とされていた時期があったのですね。
きたやま ありましたよ。その感情をどうこなしたらいいのだろうと思ったときに、最初に思い付いたのは京都を出ることでした。でも冒頭でお話ししたように、小さい頃に燃えてしまった影響なのか「ここから出発することはできない」という意識に縛られていたところがあった。
僕は1952年に完成した京都駅(3代目、今の京都駅の前の駅舎)にはすごく愛着があったの。駅にできた京都駅観光デパートにはレコード売り場もあったし、丸物百貨店のなかには映画館もある。京都駅周辺が僕の青春時代を育んでくれたわけだからね。そういう意味では、あの一帯は海外の文化が混在する国際性のある地域でした。
いま現在の京都は、観光客が押し寄せすぎるオーバーツーリズムが問題にされているけど、僕自身は観光客がいっぱいやってくる様子を見るのがすごく好きなんですよ。
松井 私も繁華街で育ちましたから、未だに閑静な住宅街に住むよりは街中のほうが安らぎます。あまり静かだと逆に落ち着かへんのです。
オーバーツーリズムは世界的な潮流で、バルセロナなんかでは住民たちが「No more tourist!」と訴えるデモが起きています。京都にも私が子どもだった頃とは比較にならないくらい多くの外国人がやって来ていますから、迷惑だと感じている住民がいらっしゃることはよく理解できます。
ただ先生がおっしゃるように、僕も多くの外国人がやってくる京都の町の多様性がとても好きですね。だから、差別的な制限をして町を守るという気持ちにはあまりなれないところがあります。やはり生まれ育った環境が繁華街で、しかも家はいろいろなところから来はるお客さんを受け入れる商売をしてきましたからね。
きたやま それはそうだ。
世界が京都を発見した
松井 私は京都という町は閉じたらいかんと考えています。勘違いかもしれませんが、外国の人をシャットアウトしたら京都の町ではなくなると理念的には思っています。実家の旅館に住んでいた頃は、まだそんなにたくさん外国人の観光客は来ていませんでした。けれども北海道から沖縄まで全国のお客さんを受け入れていましたから、その経験がやはり自分の考え方の根っ子にはなっているのかもしれません。
きたやま 僕は「ギブミーチョコレート」と言ってチョコレートをねだっていましたからね(笑)。振り返ったアメリカ人の顔を今でも覚えていて、小さいときから親近感がありました。
眼科医だったおばさんは、米軍兵士を本気で警戒していたみたい。終戦直後はポケットに毒物を忍ばせていて、レイプされるようなことがあれば「自分で飲んで死んでやると思っていた」と僕に言っていました。おばさんは考え過ぎだったかもしれないけど、当時の教育の影響もあって海外の人たちを極端に恐れていました。
けれども僕にとっては、欧米の文化こそがディープ・サウスの抑圧を解き放つものでした。占領政策の一環だったのだと思うけど、FEN(Far East Network:極東放送網)が始まって、ラジオからアメリカの音楽が流れるじゃないですか。そこから英語の歌詞に目覚めていって、日本でもフォークソングというものが生まれたわけです。昨年8月に高石ともやが亡くなったけど、ああいった人たちの心を煽っていたのが、アメリカ音楽ですよ。
ボブ・ディランと同じように自分たちで音楽を作り出して歌を歌い始めたのは、外国人との出会いが影響していますよね。それまでの日本の音楽は、年寄りの大先生が作って若い人たちに歌わせていました。その構造を維持していたのが芸能界だった。それを「お前たちも作ってもいいんだよ」と言ってくれたのがアメリカの音楽であり、イギリスのビートルズですよね。当時、京都の保守的な空気のなかで悶々としていた僕は、外国人や西洋文化との出会いによって救われていたなぁと思うんですよ。
松井 都倉俊一文化庁長官は「京都は世界に売り込んだわけじゃないけど、世界が京都を発見してしまったんだよ」とおっしゃっていましたが、この魅力ある町が発見された以上はこれからも外国の方々がたくさん来られるんですよね。それに京都は大学の町ですから、日本が少子高齢化していくなかで、外国人留学生を受け入れなければ存続し得ないですよ。
大学が優秀な人材を集めようとするならば、国際都市にならざるを得ません。
やっぱり僕は旅館でお客さんのなかで育っているので、海外の方でも迎え入れてなんぼのものだという意識がすごく強いですね。
きたやま 給食の話にしても外国人観光客の受け入れにしても、旅館で育ったことが今の松井市長の考え方に影響していますね。それが幼いときの経験によって決定されているなんて、誰も知らないですよね。
松井 私自身もあまり意識したことはなかったですね。
きたやま 最近になって本当にそうなんだと思うようになったのだけど、人生は幼いときに多くのことが決定されていますよね。僕は京都によって決定されました。良い意味でも悪い意味でもね。それが僕の結論。
人と人との関わり方の塩梅がいい
きたやま これまでディープ・サウスやダウンタウンをキーワードに京都を見てきましたが、それを前提にして京都市長であられる松井さんと京都をどのような町にしたいのか考えてみたいと思います。
松井 やはり私はディープ・サウスがある町であることをすごく大事にしたいですね。帝の在わすところでしたが、高貴なものばかりで構成された均質な町ではないわけです。受験勉強をしている頃ですが、私も先生と同じようにこの町を出たいと考えるようになりました。この町のちょっと滞留した空気から離れて、東京の空気感はどんなものなのか知りたいと思ったんです。大学進学で東京に出てからは、東京と京都を行ったり来たりするようになりました。それでわかりましたが、東京は京都より空気が軽いですよね。
きたやま そうですね。わかります。
松井 なぜなら、知り合いが圧倒的に少ないからです。店で食事していても電車に乗っていても、隣に知り合いがいることなんてないわけです。誰にも見られていない気楽さは素晴らしいのだけど、同時に歳を取るにつれて、その自由さがちょっと違うなと感じるようになりました。砂粒がサラサラとしていて、砂粒同士がくっつかない感じがするわけです。
ただもっと田舎出身の人と話をすると、「田舎に帰りたくない」と言われる方が多いですよね。「どこの店に行っても、知り合いばかりでリラックスできない」と。京都はそんな感じがしないんです。知り合いはいるけど、隣の席が常に知り合いと言うわけでもない。市長だから私のことを知っている人はそれなりに多いですが、市長だからと言ってあまり粘られない。そこは京都の良さだと思っています。みんなどこかで知っているけど関わり方が過剰ではなくて、その塩梅がとてもいい。東京で暮らしてみて感じたのは、人間関係はもうちょっとスティッキー(粘り気)で、知り合いがいたり、誰かと繋がっていることが実感できたほうが私にとっては安心ということでした。
「earth」という言葉があります。放電した電気を地面に流す避雷針のこともearthと言いますが、土地に繋がっているといった意味があります。地面に繋がっているから、仮に何かあっても地面に流れていくわけです。その感じが京都にはありますよね。地面や人と繋がっている感じがあって、なおかつそれが雁字搦めにはなっていない。いわゆる常連文化ですね。
きたやま そのキーワードは大好きですね。偶然だけど、僕も「earthy」という形容に注目しているんです。earthyは土臭いとか泥臭いといった意味ですが、同時に発言や考え方が下品、卑猥、俗っぽいといったニュアンスも孕んでいます。逆に「unearthly」と言うと高貴な、俗っぽくない、得も言われぬ、この世のものとは思えないといった意味になる。京都の町はearthyなところ、つまり人間臭さ、土臭さ、泥臭さを残しているところがありますよね。それを象徴しているのが下京あたりだろうと思います。
松井 私にとっては町中、下町はそのバランスが良いのかもしれませんね。上(かみ)のほうに行くと明らかにunearthlyな、我々の日常や下町の大衆文化みたいなものとは違う要素がある。下(しも)のほうに行くとおっしゃるようなearthlyな感覚が色濃くなる。京都の町中は、本当に自然豊かな地方のように土に直接触れているわけではないけど、やっぱり人間も含めて土俗的なその人々のコミュニティに繋がっていますよね。
きたやま 穢れは汚れ(けがれ)とも書きますから、泥にまみれている、つまりearthlyという言葉を当て嵌められる。僕が住んでいた辺りがどういうところだったのかと言えば、earthlyな場所でした。「穢れている」とか「汚れている」と言うと、卑下しているように聞こえるけど、根をちゃんと土に根付いているという紹介もできますよね。だから松井さんのearthという言葉とearthlyという言葉はすごく符合する。