2025年3月号「対話」

 

京都が生んだ伝説のフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」のきたやまおさむさんと

昨年2月に京都市長に就任された松井孝治さんに京都の町とその記憶について語っていただいた。

京都を訪れる人たちにとってこの町はどのような意味を持つのだろうか?

      京都市長          精神科医、ミュージシャン、白鷗大学学長
松井孝治                きたやまおさむ

 


精神科医、ミュージシャン、白鷗大学学長

きたやまおさむ 本名(北山修):1946年淡路島生まれ京都市育ち。72年京都府立医科大学卒業後、ロンドン大学精神医学研究所などを経て、北山医院(現・南青山心理相談室)を開設。91年~2010年まで九州大学大学院人間環境学研究院・医学研究院教授。同大名誉教授、2021年4月より白鷗大学学長に就任。他方、ミュージシャンとして65年ザ・フォーク・クルセダーズを結成。解散後は作詞家としても活躍。代表曲に『帰って来たヨッパライ』『戦争を知らない子供たち』『あの素晴らしい愛をもう一度』など。著書に『最後の授業』『帰れないヨッパライたちへ』『日本人の〈原罪〉』など多数。

 


京都市長

松井孝治

まついこうじ:1960年京都市生まれ。東京大学教養学部卒業後、通商産業省入省。内閣官房内閣副参事官、行政改革会議事務局への出向などを経て2000年退官。
01年参議院選挙にて京都選挙区より出馬し初当選。内閣官房副長官(鳩山由紀夫内閣)等を歴任。参議院議員を2期務める。13年~24年まで慶應義塾大学総合政策学部教授。24年2月京都市長選挙に出馬し、当選。


 

京都駅の火事とだし巻き卵入りのお弁当

 松井 今日は京都について語っていきます。今回編集部から「京都をテーマに対談してほしい」というご依頼をいただいた際に真っ先に思い浮かんだのが、私の洛星中学、洛星高校の先輩でもある、きたやま先生でした。京都についてはこれまでも繰り返し論じられてきましたが、先生であれば一般的な京都論とは違った角度から京都の本質に迫ることができるのではないかと思ったんです。

 きたやま それは光栄です(笑)。京都という町は地域や時代によって全然違いますから、まずは育った環境から話し始めるのが一番いいと思います。

 僕は1946年に、疎開先の母の実家があった淡路島で生まれました。生まれてすぐに、京都に戻ったんですね。いま京都タワーがあるあたりに当時「丸物」という百貨店があって、その裏に父が開業した医院がありました。僕はそこで育ちました。

 父は満州で結核に罹って送還され、療養してから開業しています。満州に残った人の多くが亡くなったらしいです。だから父は、一生懸命に働くことが亡くなった方々に対する償いだと考えるところがあって、あまり遊べない人でした。お見合いで結婚した若い母と二人で暮らし始めて、ほとんどお金のない状態からクリニックを開業しています。

 僕が五つ、六つのときに西洞院七条のもうちょっと広いところに移ります。いずれにせよ京都駅前ですから、駅前病院という特色を兼ね備えていました。なので、患者さんは旅行者が多いんですよ。駅前には被差別部落もあったので、そこに住む人たちも診ていました。いま関西電力京都支社がある場所は進駐軍のホテルだったので、外国人もたくさん行き来していました。最初に僕が覚えた英語は「ギブミーチョコレート」だったんです。進駐軍のジープを追い掛けるときにそれを叫んでいました。父はすごく嫌がっていましたけどね。京都駅や丸物が僕の遊び場であって遊園地でした。

 松井 駅前には本当にいろいろな人たちがいますよね。

 きたやま 人種のるつぼみたいなところで、階層のるつぼでもある。今で言うダイバーシティーですよね。身近に米軍の施設があったから、ジャズだとかアメリカ文化に親しみを感じたのだと思う。

 当時の記憶で、僕のトラウマになっていることが二つあります。一つは父がMP(ミリタリーポリス)に捕まって、一晩か二晩拘束されたことです。あるとき目が覚めて顔を見上げたら外国人兵士が側に立っていて、父が連れていかれました。僕たちはすごく怖かったです。理由ははっきりしないのだけど、どうも米軍兵士が日本人女性を妊娠させたときに、父が堕胎に協力したことが問題になったようです。

 もう一つは京都駅が燃えたことです。昭和25年のことだから、僕が五つくらいだったと思う。すぐそばにいたわけだから、父と一緒に火事を見に行って、自転車の荷台の上に立って、駅がくずれ落ちていくところを見ていたんですよね。このときに「しまった!」と思ったことをよく覚えているんです。

 松井 どういうことですか?

 きたやま 子どもが泣いたら、汽車を見せると泣き止む時代だから、僕も小さい頃から京都駅には何度も連れて行かれました。駅は出発する場所だから、お姉さんやお兄さんがそこから旅立っていく場面を見ていました。だから僕もやがてここからどこかに向かって出発するというイメージが京都駅と結び付いていたのでしょう。けれども駅は燃えてしまったから出発できなくなったと感じたのだと思います。

 新しい京都駅ができることを知らなかったから、幼少期の僕は「もうちょっと早く出ておけばよかった」という意識を持ち続けることになりました。駅舎が燃え落ちる光景を鮮明に記憶していて、そのときに感じた意識をそのあと何度も思い起こすことになりました。

 松井 その後の京都駅は私にとっても馴染み深いのですが、生まれる前ですからその時代の京都駅は知りません。

 きたやま 僕の記憶では瀟洒な木造建築でした。駅で働くメイドさんのアイロンの不始末で火事になったことも覚えているくらいショッキングな出来事でした。

 松井さんが育った京都はどんな環境だったのかお聞かせいただけますか?

 松井 私は1960年生まれなので、団塊世代のトップランナーの方々がちょうど中学校を出るぐらいの時期に生まれています。実家は旅館をやっていました。錦市場や六角堂(池坊さんの総本山)の近くにあって、今もあります。住所は中京区になりますが、昔は上京区と下京区しかなくて三条通りがだいたい境目だったので、かつての区分けで言えば下京区にあたります。祖父母の代までは個人旅館だったのを、両親は団体旅館に業態を変えたんですね。

 きたやま 修学旅行生をお客さんにされていた?

 松井 そうです。私は高校1年生までずっと旅館の一室で寝泊まりして育ちました。親父は旅館の亭主で、母親は旅館の女将ですからとにかく忙しい。ご飯は、板場さんがつくってくれた賄いにせいぜい色を付けるぐらいのものを親父も食べていました。母はご飯を食べる時間の余裕もなくて、冷めたご飯を掻き込むような感じでした。

 母は我々に愛情を注いでくれましたが、愛情弁当をつくってくれたことは人生で一度もないんです。遠足のときも板場さんがつくってくれはった弁当で、僕はそれを引け目に感じていましたね。

 きたやま 愛情弁当ではないから?

 松井 そうです。他の子たちは焦げ目の付いた卵焼きやタコのウィンナーが入っていたりしますが、うちの弁当は下手すると木の折り詰めなんです。ご飯には胡麻が振ってあって、だし巻き卵に鮭の切り身が入っていたりする。

 きたやま なるほど(笑)。

 松井 私はみんなのお弁当が羨ましくて仕方なかったんです。実は京都市では中学校でも全員制給食に踏み切ることを決めました。少し前まで京都市役所では一大争点でした。小学校はすでに実現していますが、中学校では保守的な人たちのなかには、「親御さんのお弁当がいいのだ」とおっしゃる方もいて、お弁当と給食を選択制だったのが、前市長の最後で全員制給食へと方針転換された。

 きたやま 小学生の頃の経験が、今でも影響しているわけだ。

 松井 そうですね。私はやっぱり給食はみんな同じものを食べさせてあげたいと思うんです。こうして振り返ると、高校の途中まで旅館の一室で過ごしたことは自分にとってすごく大きな経験で、考え方にも影響を与えていますね。

 

中京区はダウンタウン

 松井 それから私は地域社会に育てられたという思いが強くあって、それが自分の原点になっています。私が育った地域は京都の真ん中のエリアで、近所の六角堂には京都の中心を示す「へそ石」がありました。ここは町衆が多く住むエリアなんです。当時すでに一学年一学級40名くらいで、同級生には他にも旅館の子がもう一人いたし、商売をしてはる家や職人さんの家が多かった。だから、あのあたりはいわゆる旧市街でダウンタウンなんですよ。

 この言葉はあまり使われないんですよね。「中京区は下町なんですよ」と言うと、「え?」という顔をされることが多い。けれども暮らしている人々が繋がっているコミュニティがあったという意味でも、ダウンタウンだと思っています。

 きたやま 同じ感覚ですね。僕が住んでいたエリアもダウンタウン。

 松井 きたやま先生の後輩で私の敬愛する先輩である井上章一先生(国際日本文化研究センター所長)が書いてベストセラーになった本に『京都ぎらい』があります。この本では、洛中に住む人たちのことを「いけず(意地悪)」だと散々に貶しておられます。だからあれは京都ぎらいじゃなくて、洛中ぎらいなんですよ。

 井上先生は嵯峨のご出身ですから、上流階級の別荘があったところです。貴族はむしろ、町から離れた郊外で遊ばはるわけです。旧市街は和歌に出てきたりはしませんが、嵯峨野や宇治は和歌の舞台になっていますよね。井上先生には「洛中で暮らす人たちのことをいけずだと貶さはりますけど、貴族の別荘があった嵯峨の人がなんでダウンタウンを貶しているんですか」と苦情を伝えたことがありました(笑)。

 きたやま 京都と言っても、やっぱり地域によって感じ方は全然違いますね。

 松井 私は三条より南はダウンタウンやと思っているんです。

 子どもの頃の遊び場は、晴れていたら校庭で下校時間まで遊んで、その後は裏手にあった御射山公園で日が暮れるまで遊んでいました。雨が降ると、友だちの家を順繰りに回るんですね。「今日は◯◯さんとこに行っておやつをもらおう」という感じで、地域がなんやかんや言いながらも子どもの遊び場を提供していました。

 喧嘩になって誰かが泣いたとかいう話になると、すぐに親が知っていました。忙しい親でしたが、「あんた今日なんかあったやろ」「なんでわかんの?」「顔見たらわかるがな」という感じで、すでに伝わっていたりする。

 きたやま 親同士のネットワークがあるわけだ。

 松井 「自助・共助・公助」と言いますが、自助と言っても家族は様々ですから専心的に子育てに愛情を注げる時間的な余裕がある親もあれば、忙しい親もいる。なので、地域社会で子育てを助け合うような共助を大事にしたいとは思っているんです。

 

「ディープ・サウス」視点で京都を語る

 きたやま このところ僕は、自分が育った京都駅周辺を「ディープ・サウス」と呼んでいるんですよ。ある学会で、外国人の先生の発表に対する討論を依頼されたことがありました。その先生は京都学派の西田幾多郎について研究されていて、西田の純粋経験を切り取って「心の底には無がある」といった話をされていました。

 それに対して僕は「あなたは京都の北にいて、その環境を見て勉強しているからそう語るのかもしれないけど、南に住んでいた僕たちは京都の不純さや穢れみたいなものを

引き受けていて、それをどうこなしていくのかが課題だった。そんな人生があり得るのだ」といったことを伝えました。

 彼に僕が感じている京都のイメージを伝えるためにつくったのが、航空写真を使ったこの地図なんです(写真)。僕に関わりのある場所と京都の重要なスポットとの位置関係を記した「心の地図」になっています。

 

 さっき話したように実家があった京都駅周辺には被差別部落の崇仁もあったし、京都で一番古い遊郭があった島原もあって、少し北のほうに行くとこれまた遊郭の五条楽園がありました。島原や五条楽園は、今はもうありませんからイメージしにくいかもしれませんが、ディープ・サウスのそうした地域は京都の人々の裏側の感情を預かってきたところです。

 京都では北を「上(かみ)」、南を「下(しも)」と言いますが、この写真で彼に伝えたかったのは、僕たちはずっと下から京都を見上げていたということなんです。祇園祭、送り火焼きの大文字、上賀茂神社や京都大学など彼が象徴的に捉えている京都はすべて上にあります。上から下を見下ろしているという言い方はあまり適切ではないけど、そういう方々の京都論と僕が経験してきた京都は全然違うかもしれないわけです。

 松井 この地図には、伏見あたりにきたやま先生が結成されていたThe Folk Crusadersとありますね。

 きたやま 一緒にザ・フォーク・クルセダーズをやっていた友人のはしだのりひこと、加藤和彦は伏見区に住んでいて、そこで出来たのが「おらは死んじまっただ」と歌った『帰って来たヨッパライ』なんですよ。

 京都駅前の七条通りを左へ行って壬生ぐらいに行くとね、そこに杉田二郎がいました。金光教島原教会の息子で、彼と『戦争を知らない子供たち』をつくるんですよね。だから、僕にとっては南から北へ向けて歌っていたという気持ちがありました。小さい頃に過ごしたロケーションが深層心理みたいなものを決定していると改めて思うんですよね。

 松井 加藤和彦さんは京都の人じゃないですよね。はしださんのところに転がり込んでおられたのですか?

 きたやま 加藤和彦は龍谷大学に行くために、東京から京都に引っ越してきた。はしだのりひこがほとんど登校拒否状態だった加藤和彦の面倒を見ていましたね。

 松井 京都は北と南とでは印象がだいぶ違いますね。

 きたやま ディープ・サウスは不純で空気も澱んでいますよね。父が、昔は鴨川が氾濫して、泥沼になったところを鯉が泳いでいたと語っていたことがありました。宮本輝に『泥の川』という小説があって、あれは大阪の話だけど、鴨川についても似たイメージがありましたね。

 松井 私も下(しも)のほうは、上(かみ)よりも土の感じが濃厚で埃っぽいと感じていました。

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