「ユーら、ちょっと東京に出てこないか」
──大阪「なんば一番」は当時の若手バンドの登竜門ですね。大阪では西成区の岸里に住んでいたとか。どのようなことを感じながら生活していましたか。
岸部 僕らは三畳一間のアパートを借りて、二人ずつで住んでたから、いつもみんなで一緒にいましたね。もちろん、もらうお金は少なかったんですけど、大阪行ってからファンの人がちょっとずつ増えていった。だから、東京行けるんじゃないか、行ったらすぐに人気出るんじゃないかなとか、そういういいことばっかり考えてるんですよ。その頃は、自分が夢みることはいつも実現しそうだって思ってましたね。なんとなくこのグループだったらうまくいくんじゃないかなって、みんな思ってたんじゃないですかね。
──なんば一番でさらに人気が上がります。演奏楽曲はどのように選曲していたのでしょうか。
岸部 オリジナルがないので、全部洋楽でした。誰が決めるわけでもないですけど、自分でこの歌を歌いたいとか、それぞれ自分で考えていましたね。
ゲストで「内田裕也とブルージーンズ」が出て、僕らが前座をやったんです。その時に裕也さんが「ユーら、ちょっと東京に出てこないか」と言ってくれて。それで裕也さんが渡辺プロの人を連れてきたんです。
──音楽活動やデビューのことを、ご両親はどのように思われていたのでしょうか。
岸部 誰も反対しなかったですね。むしろうちの父は、派手なことが好きなんで、喜んでました。ちょっとお祭りっぽい感じがするじゃないですかこの業界って。
渡辺プロダクションに入るのには、当時まだ未成年だったから契約は親が来ないとダメなんですよ。京都の花見小路の旅館で契約をすることになって、それぞれの親もみんな喜んでましたね。
その後、渡辺プロから「ザ・タイガース」として『僕のマリー』でデビューしましたが、最初はピンとこなかったですね。それまで僕らがやっていたのが洋楽ばっかりだったんで、いきなり『僕のマリー』は「こんな感じなのか…」っていうのはちょっとありましたけど。言われたらしょうがないという気持ちもありました。
今より面白くなりそうな気配とムッシュ
──デビュー間もなくして、日本中にザ・タイガース旋風が巻き起こるわけですが、徐々に自分たちのめざすものとギャップが出てきたと。
岸部 ザ・タイガースとしてやってたのが全部で4年。3年目に加橋かつみが一人辞めて、解散してから瞳は音楽自体をやめてね。
その頃、他のGSも同時期に解散へ向かっていったのも、不思議な現象でしたね。別に誰が取り決めたわけでもないですけれど。でも、解散して終わるんじゃなくて、なんか次の段階でまた好きなことができそうな感覚が、他のグループにもあったように思いますね。僕も、タイガースよりも面白くなりそうな気配を感じて「PYG」の結成に繋がったのだと思います。
──他のGSグループとの交流もあったのですか。ムッシュかまやつさんとも親しかったとか。
岸部 ムッシュは「キャンティ」(当時音楽グループ、芸術家などがよく集っていたイタリアン)でも会いましたけど。家に遊びに行ったりもしてました。
PYGを結成するとき、渡辺プロのマネージャーがムッシュに「こういうバンドをつくろうと思うんだけど、どう思います?」と、相談したらしいんですよ。ムッシュは、相談されたからには当然自分もそのメンバ―の候補だろうと思って「いいですね」って話していて、とんとん拍子に話が進んでた。でもいざ結成となった時に自分がメンバーに入ってなくて、それがすごいショックだったらしいです。
僕はPYGの話がある前から時々会っていたから、PYGがなければムッシュとかと一緒にバンドやりたかったんですよ。面白いしセンスが良くて楽しそうじゃないですか、ムッシュって。
──そのような経緯があったのですね。そこからいよいよPYGがスタートします。
岸部 PYGはザ・テンプターズのショーケン(萩原健一)とドラムの大口広司がいて、ジュリーがいて、スパイダースから大野克夫さん、井上堯之さんが入って、僕がいて、ものすごい面白いことができるなと思ったんです。ある程度自分たちで曲や詩を書いて、ステージではちょっと今までにないやり方をやろうとかね。
でもむつかしかったのは、僕らはこれまでとは違うつもりで活動していたんですけど、全くお客さんが来なくなりましたね。今まではキャーキャー言われる、主に女の子のファン層が僕らにはいた。でも日比谷の野音のような会場で、キャロルとか当時のロックバンドグループが出てくるようなステージに出演すると、客席からは「帰れ!」と言われてびっくりするくらい物を放られるんですよ。女の子相手のGSの寄せ集めみたいに見られていたんでしょうね。その上、ジュリーのファンはショーケンがいるんで来ない。ジュリーがいるとショーケンのファンは来ない。もうどこ行ってもガラガラでしたから、1年くらいで解散しました。
自分だけが感じていることを表現に
──そういった観客の反応には、1970年という時代の影響があったのかもしれませんね。ザ・タイガースのアルバム『ヒューマン・ルネッサンス(1968年)』、岸部さんが詞を書かれた『坊や祈ってくれ』は反戦の思いもあったのではと思いますが。
岸部 やっぱりその時代ですから、そういうのも中にはあります。でもね、何か運動としてそういう方向でやっていこうっていうのは別に何もないんです。ただ自分で思っていること、自分だけが感じていることを表現の中に言葉をちょっと変えて出す。それぞれが思っていることをやっている、というだけですから。そんなに、オーバーに世の中に訴えているんではないんです。
でも、この年代になって振り返れば、20代に日比谷野音でものぶつけられるとか、PYGの時にこんな詞を書いてみようとか、いろんなことをやってきたのが、今に繋がってる感じがします。
──タイガースやPYGでの活動が今の俳優での表現につながっていると。その後、なぜ音楽から離れようと思ったのでしょうか。
岸部 音楽は全部で10年やったんですけど。井上堯之バンドの中で「沢田研二と井上バンド」でツアーやったりしてた時に、自分で自分をちょっと考える時期がありました。正直に言うと「才能がない。努力してない。勉強してない。どうするかな」って考えだしたんです。考え出すともうずっと考えるんですよ。音楽やめるなら結婚してないほうがいいだろう、とか。
音楽は経験とか雰囲気でやろうと思えばできるんですけど、PYGとか井上堯之バンドで大野克夫さんと一緒にやっていると「自分は勉強してない、才能ないんだ」と、どうしても考えてしまう。あの人はもう音楽とかあらゆることができる人ですから。
考えた末、井上堯之さんに「もう辞めようと思うんで、あとは僕に付いてるボーヤ(バンドボーイ)が引き継ぐから」って言って辞めました。何をするかは決めないで、もう音楽を辞めようと思った。まあ結果的にはね、辞めといてよかったと思いますけど。
──「音楽やめるなら結婚してないほうがいい」というのは、収入がなくなることを覚悟の上だったということでしょうか。
岸部 もちろんそれまで、安くはない給料をもらっていたので備えはありました。でも結婚して家庭があると、独身とは違ってどうしてもそこに生活していかなければいけないということがあるでしょ。だからやめるなら独身がいいと思いました。希林さんの事務所に入ってから結婚をしました。
