世界的デザイナーとの出会い
──小池さんが独立されてからは、無印良品を一緒に立ち上げた田中一光さんや、展覧会の企画・出版物など三宅一生さん(ファッションデザイナー)と活動を共にされます。お二人とはどのような出会いでしたか。
小池 田中一光さんとの出会いは、私にとって初めての非常に大きな仕事でした。大日本インクとか東洋インキとか大手の会社がありますけども、そういった印刷インキ業界の発展を目的とした「印刷インキ工業連合会」っていうのがあるんですね。そのPR誌を一緒につくりましょうって早稲田時代の友人から誘ってもらったのが私の独立後、最初の仕事の場でした。
1960年代の印刷業界は紙の時代ですから、新しい印刷技術の発達も著しかったですし、メディアで一番のメジャーでした。それを成り立たせている花形の印刷インキ業界のPR誌をつくることになったわけですから、「日本一のグラフィックデザイナーに、アートディレクターをお願いしたい」ってひらめきのように思ったんです。その頃、誌面づくりの主体は編集者だったから、アートディレクターを立てるっていうのもまだあまりなかったんですね。でも海外──特にアメリカの印刷物を見てると、絶対的にアートディレクターの存在が重要でした。

それでちょうどその頃、亀倉雄策さん(グラフィックデザイナー。代表作に東京オリンピックのポスターなど)たちがつくった「日本デザインセンター」で一番の若手のスターだった田中一光さんがフリーになられるっていうのを聞いて、本当にもうドキドキしながらお願いのお電話をしたのよ。
そのPR誌は、媒体としてはちゃんとしているし面白いものですけれど、今考えると、どんな人間が依頼に来るかも分からなかったのに、よく田中さんは会ってくれたなと思います(笑)。
お会いしてみると、とても話が弾みましたね。私が早稲田で演劇をやってたことを知って、田中さんがものすごく面白がってね。ご自身も京都市立美術専門学校(現在の京都市立芸術大学)で『アトリエ座』という学生演劇をやっていらしたから演劇が好きなのね。それで一気にお話が煮詰まっていきました。関心の方向も似ていたのかもしれませんし、仕事の話だけっていうことではなくて、生活全体に対する共感みたいなものがありましたね。それはものづくりをする私たちには大きいことでした。
そんなふうにして印刷インキ工業連合会の広報誌『プリンティングインク』が完成したんです。それが毎号賞をいただいてね、そういうことで私が仕事する足場がつくれたと思います。
──そういった流れの中で、三宅一生さんとも繋がっていかれたのでしょうか?
小池 そうですね。『プリンティングインク』をつくっていく中で、田中さんとこれからの日本を代表していく若手を探そうと野望を立てて調査をしたんですね。
それで、ファッションモデルの人たちに「あなたたちがいいと思うデザインの若手いないかしら?」と相談をしたら「すごい学生がいるわよ」っていうので話が盛り上がって。「三宅一生」っていう名前を引き出して、探しに行ったんです。
──モデルさんにですか?
小池 そうなの。私が面白いと思うのが、ファッションモデルっていうのは、いい意味での一表現者であるということ。カメラ前やステージの場限りの表現と思うでしょうけど、実際はきちんとデザインの世界のことを理解し勉強している。本当に素晴らしい人たちが多くて、彼女たちが三宅さんみたいな存在を知ってたのね。それは面白いきっかけではあると思いますね。
それで、三宅さんに会って話を聞いて、本当にこの人はすごいなって共感をして、もうそれ以来ずっとお付き合いが始まるんです。
──その後、田中一光さん、三宅一生さんと共に新しいクリエイティブの世界を切り開かれていきました。御三方で創り出す作業をされるときは、どういう雰囲気ですか。
小池 和気あいあいよ。食べるのが大好きで、三人でその頃青山にできたレストランにはほとんど行ってました。レストランの名前は覚えてないんだけど。昔表参道の交差点辺りにあったレストランとかね。やっぱり一緒にいる時間がすごく多くなってきましたね。それで、お互いに「こういう話があってね、こうやりたいんだけど」みたいなことが多くなっていきました。
まるで亡命者の夜中の長電話
小池 三宅さんとは、普段の会話とか食事の時の他にも、夜中にもよく長電話してたんですけど。そういうところで話していた私たちの会話は、「まるで亡命者が自国の文化を否定しながら、よそ(他国の文化)から学ぶような感じ」って──我々はよくこう言っていたのよ。その背景には当時のパリやロンドン、ニューヨークの文化の変革からの刺激っていうのもありましたね。
──自国の文化を否定するというのは、日本のどういったところに問題意識を感じていたのでしょうか。
小池 社会の話をよくしたわね。ファッションとか素材とかっていうよりも、もう新聞とかニュースとか全部やり玉に挙げて批判していました。すごく社会意識が強かった。同調性の強さとか、保守的な力が強いとか、そういうことは批判の対象にしてきました。
──同調圧力を実際に感じられたことがありましたか。
小池 三宅さんが新しい繊維の可能性にとっても興味を持っていた時のことだけど。第二の皮膚と言えるような、ストレッチ性も高い素晴らしいナイロン製の繊維が開発されたんです。その繊維に日本の入れ墨をプリントして、ボディウェアの美しさを表現しようって、三宅さんが見事な作品をつくったのね。この作品をフィーチャーする時のショーをワコールにスポンサーしてもらって開催したことがあって。そのショーの日の朝、うちの事務所に、繊維を開発した会社から電話があって「入れ墨っていうのは反社会的なものだから、ちょっと題材としてまずい」と言われて──驚きましたね。元々ショーの主題は「皮膚に密着するボディーウェアの美しい色彩デザイン」でしたから、何も問題ないですし、結局開催はしましたが。
そういう考えが日本の社会に厳然としてあるんだっていうことがもう身に染みてわかって。こういうのはもう一生さんと、夜中の二時間、三時間の電話になっちゃうんですよね。
──ファッションの話をされているのかと思っていました。
小池 いやもう全然。トレンドの話なんて一回もしたことないですよ。
──小池さんと三宅一生さんの社会意識の先に、表現としてファッションになっていった。
小池 そうですね、それが面白いですよね。やっぱりまずは人間の存在があって、つながりがあって、社会があるわけだから。その社会の成り立ちが、日本はここがおかしいよね、とかそういう話になるのは必然。もう政治家の悪口とか多かったです(笑)。

ロンドンとメトロポリタンの衝撃が 生んだ日本初の展覧会
──1975年には、三宅一生さんと日本で初めてファッションをテーマにした展覧会『現代衣服の源流展』を開催されます。開催に至った背景は?
小池 そうね、一つには、ファッション本来の社会的な位置・役割をきちんと根付かせる。それを認識してもらうのには、優れたデザインを展示することで認められるんじゃないかという思いが背景にありました。
もう一つにはやっぱり、三宅さんと私が60年代に原体験した時代環境が大きく影響していると思うのね。1970年代の前半は日本が高度成長期に向かっていく時期ですよね。世界では60年代から変化していって、特に文化・ファッションの分野で言うと、ロンドンがすごい発信を始めていました。
その頃、私の演劇好きはロンドンの新しい劇作家たちの演劇運動に浸るため、現地へ向かわせていましたから。私は、ビートルズとか、マリー・クワントとか、いわゆるスウィンギング・ロンドン(60年代イギリスの若者文化)のファッションを、自らが現場を目撃して原体験するわけね。その刺激は私を駆り立てていましたね。
三宅さんは三宅さんで、パリにオートクチュールの勉強に行くんだけれど、そこではもっとその先の世界に目を開いてましたね。つまりアフリカの衣服とか、多文化の力をよく見つめていらした。ですから、その後日本に帰ってきた時には、日本の文化的底力みたいなものに気づき、軸足をしっかり日本に置くことになるわけですが。
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そんな頃に、三宅さんとニューヨーク・メトロポリタン美術館で20世紀前半の革新的なモードコレクションの展覧会「Inventive Clothes 1909-1939」展(1909~1939年の欧米ファッションの変遷を展示)を目撃したんですね。これこそがファッションを認識してもらうのに素晴らしい展示だと感じて、もうそれを日本に持っていくって決めた段階で「やっぱりこれは一番いい会場でやりたい。国立の会場で展覧会にしましょう」って三宅さんと話していました。
三宅さんがすぐにワコールの塚本幸一さんに電話をして、私も美術館の仕事で敬愛していた、京都国立近代美術館の館長、河北倫明さんならわかってくれるはずだと、ニューヨークから京都に飛んで行ったんですね。そうしたら、すぐに「いいでしょう」と快諾いただいたんです。当時の日本だったら「ファッションの展覧会はちょっとうちでは…」とかって断られるかと思ったんだけど、全然そんなことなくて。河北さんの、その判断もすごいと思いましたね。
その頃日本では、ファッションは文化の一つの表現領域であるとは認められてなくて。女性の着るものっていうところに押し込められていたと思うんですね。だけど、テキスタイルにしても、着物にしても、日本の衣服文化の歴史にはすごいものがあるわけだし、人間が生活する中で考えたって、衣服なしにあり得ませんよね。だから重要なデザイン領域であること、展示の内容も最高のものであることを河北さんはパッと理解くださって即答いただいたんです。
展示には膨大な予算がかかるので、塚本さんが京都の商工会議所で全面的に応援しようって言ってくださいました。これは京都の産業界としても、とても良かったと思うんです。バブル期に向かっていくときの既製服産業の小さな会社も含めて、皆さん一緒になってファッション産業特別委員会を商工会議所につくって進めてくださいました。
──京都は伝統的な職人さんが多くて新しいことの受け入れに寛容なイメージはないですが。
小池 そうね。だから、すごかったのが、京都はやっぱり布地の都市ですから、京都室町の旦那衆とか、帯地などの西陣織で有名な上七軒の辺りのいわゆる着物産業の方たちが「ファッション産業のほうでそういう展覧会をするんだったら、着物のほうも頑張る。日本の衣服史も研究しよう」って言って。京都国立博物館では日本の衣装史も開催してくれたの。それには感動しちゃったのよね。その展示も本当に見事で。やっぱり京都ってすごいなあと思いました。どうしてあんな元気が違うんでしょう。
だからね、京都の仕事が終わってちょっと東京でホッとしたら、大ボスの亀倉雄策さんが「お前よくやったなぁ。今まで東京の人間がやろうと思ってもダメだったんだよ。女のくせによくやったね」って。その時初めて女のくせにって言われましたけど(笑)。
時代が何か新しいものを受け入れる姿勢があったのと、ニューヨークのコレクション内容がしっかりしていて。それが日本にとって、どんな影響を与えられるかっていうことまで示唆できたのでよかったのかと思います。やっぱり、日本っていうとコピーキャットとか言われてきた文化ですから。そうじゃなくて、「本物を見て、日本の本物をつくろう。いいものをきちんと見て自分たちの創作をしよう」っていう呼びかけをしたかったんです。
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──60年代のロンドンから刺激を受けて日本に新しいクリエイティブを生み出されていったわけですが。 91年に無印良品の海外第1号店をロンドンに出されたのは、リバティ社から小池さんへの「現代の東洋を無印良品から学びたい」とのお便りがきっかけだったそうですね。ロンドンから刺激を受けていた小池さんが、今度はロンドンへ文化的影響を与えた。この相互的な学びの関係に、どのような意味を感じられますか?
小池 東西の交流は時代によって変化し、常に新しい何かが相互の交流によって生まれるということでしょうか。無印良品という思想のようなものがあって、それを西側の人々が受け止め、共感、伝播するということが素晴らしいですね。日本という背景には、ミニマリズムとか、簡素、自然重視といった感覚があり、それを生活用品で取り入れるのが無印良品と思われたのだと見ることができます。ロンドン開店後まもなくしてパリにも開店するという「受け方」からそれが伺われます。
