いま生まれている創作表現を いま楽しまないでどうするの?
──1983年、江東区の食糧ビルに美術館でもギャラリーでもない『佐賀町エキジビット・スペース』(森村泰昌、内藤礼、大竹伸朗など世界的な現代美術家を輩出したアートスペース)をつくられます。なぜ現代美術の展示だったのでしょうか。
小池 これも、その時の社会的・時代的な環境にあります。日本の美術市場ってエスタブリッシュされた人たちの作品は購入されているけれど、現代の新しいものが生まれていることに対する対応って全然できてなかったと思うんです。
過去の名作とか古典とか印象派とか、もちろん素晴らしいんだけれど。いま、私たちが生きている時間の中で生まれている美術、生まれている創作表現をいま楽しまないでどうするの? っていう思いですよね。それが一番の動機なんですよね。でも、日本の美術館で新しいアーティストの展覧会をするようなところはなかった。その頃私がデザインに関連する仕事で海外出張をよくしていましたが、そこで感じた状況とは違ったわけです。だから、余計に「なぜ日本では現代美術が見られないんだろう」と疑問が湧いてきたんですよね。
一方で、私はセゾン美術館の仕事をしてましたから、表現の場所には関わっていました。でも、構造的にも経済的にもいろいろな制約から自由になって、表現者が主体の表現の場ができないかなって思って。「どうしても自由に新しい表現を見せるオルタナティブな場がつくりたい、もう自分たちが持つしかない」と思ったんですね。それで頑張って場所探しから始めました。
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──運営をする中、時代的にはバブルの崩壊を経験されていると思います。経済が変わっていく中で、アートの価値を再定義しなければいけないような場面はありましたか。
小池 確かに経済的には大変なんです。無名で新しい作家の作品をわざわざ見に来てくれる人なんてそんなにいないし。しかも、作家はつくるための経費がかかるわけだから。
でもここは貸し(商業)ギャラリーではない、というプライドがありましたので、スペースを貸すのではなくギャラリーがこのアーティストを押し出すんだ、という姿勢を持っていました。だから作家を選び企画展示をするのはあくまでギャラリーが主体なんですね。ですから、ギャラリーの運営元である私たちの小さなデザイン事務所で負担するには、とても経済的に難しいこともありました。本当に予算が厳しい中でやってきたから、「この壁一枚建てたいので、寄付お願いします」みたいなことで走り回ったり、時にはスポンサーと相談して協力いただくこともありましたね。でも基本的には我々の細腕で働いて得た事務所の収入が元になっていたものですからね。アーティストも現場も大変でした。
それでも、なるべくオルタナティブな立場で、アーティストを前面に推し出すために、努力をしました。新しいアーティストをまず見てもらいたいので、入場料も無料で公開していたことが多かったですね。
受け継いでもらうためのアーカイブを
──そういった小池さんの思いが、多くのアーティストを世界に輩出したのですね。小池さんは、コピーライター、キュレーター、クリエイティブデイレクター、エディター、翻訳者、など目が回りそうなほど多岐にご活躍をされてきているわけですが、職業の名称は何とお呼びすれば?
小池 取り組む内容によって、共働する人、チーム、ビジネス形態も変わります。いずれにしてもある種のディレクションを含むので、クリエイティブディレクターという呼称が適切と思っています。
──今、取り組まれたいことは何ですか?
小池 長年仕事をしてきたのでそれらのアーカイブをしっかりして、これからの方々に受け継いでいただく。アーカイブの仕事が最重要と思っています。アーカイブといっても資料の温存ではなく、現役の働き手の役に立つものでなければならないでしょう。それらの見え方、アクセスのしやすさみたいなことも大切なのです。
──小池さんがクリエイティブな世界に出会われて以来、時代がまた大きく変化しています。その中でいま、アートの役割は変わっているものなのでしょうか?
小池 そうね。全然変わらないはずだし、無ければ無いものだと思うんですよ。つまり、「これがアートだ」とか、際立っていなくても存在するアートも多いし。言葉じゃなくて、あり方とか存在そのものを考えると、なくてはならないもの。例えば、日の出とか日没とかを見て、美しいって思う感覚っていうのは誰の中にもあるわけで。それを再現したり、表現したりする仕事っていうのは、人間が人間の感覚を持っている限りずっと続いていくものだと思います。そういう意味では何か特別なことをしているわけじゃないって思っているので、それがなくなることはないし、人間がいる限りアートも生活に必要なデザインもあり続けるっていうふうに思います。
──ありがとうございました。
聞き手 本誌:並木 悠
