『公研』2020年4月号「めいん・すとりいと」

砂原庸介

 日常が新型コロナウイルスの話題に飲み込まれている中で、少なからぬ人々がオフィスから自宅へと働く場を変えている。かく言う筆者も、もともと研究仕事は自宅で行う傾向にあったが、明らかに在宅での業務時間が増えている。とりわけ3月に入って小学校の休校が決まってからは、子どもたちの自宅学習を監視して昼食を提供する新たな仕事も加わった。感染者のウイルス排出期間が長く、無症状者が感染を拡大させるこのウイルスの特徴を考えると、仮に学校が再開しても感染者数が増えればまた逆戻り、という状況はしばらく続くことが予見される。

 子どもと長い時間一緒にいると、その間はなかなか集中して仕事をするのが難しい。どうしても物音がするし、中断が入ることも頻繁である。勉強を教えることを求められると、断るわけにもいかないのも悩みどころだ。結果として、子どもと近いところで教科書的な本を読むとか、簡単な調べ物をすることがメインになる。そして、彼らがだいたい一日の課題(ゲーム時間を含む)を終えて多少の外遊びに出る2時か3時頃からようやくまともな仕事が始まる(雨が降るとそれも難しい)。普段と同じペースで仕事をしようと思えば夕食前には終わらないから、どうしてもその後も「残業」を続けてしまうことになる。その時間も限られるが……

 個人がそれぞれ家庭の事情に応じながら自律的に在宅で仕事をして、時折ウェブを通じた会議を行うといった働き方が広がっていくとき、その働きをどのように評価するのかがあらためて重要になってくる。特にホワイトカラーの場合、職場にいるときのように労働時間で評価するのは難しいわけで、あらためて「成果」の測定をどのように行うかという問題が出てくるだろう。約20年前に流行して、その後下火になった「成果主義」がもう一度脚光を浴びるかもしれない。

 労働者が関係するであろう困難は、成果の測定だけではない。パンデミックの度に経済が収縮することが繰り返されれば、これまでは避けられてきたレイオフや整理解雇を実施するという話も浮上してくるだろう。企業自身の存続が難しくなってくる中で、聖域と考えられた部分にメスが入るかもしれない。これは筆者の所属する大学も同じである。大教室での講義が難しくなり、大学を超えたオンラインでの講義提供が行われるようになれば、「各大学で同じような講義を提供する必要はない」という主張が強まっても不思議ではない。また、新型ウイルスは職場で長い時間を共有する「日本的」な働き方を困難にするかもしれない。これが常態化すれば、それを前提としてきた働き方は見直しを避けられなくなる。

 しかし、こうした変化は必ずしも被用者側に不利なことばかりではない。子どものケアや働くことの危険性が増すことなどから労働の機会費用が高まることで、企業が労働者を雇うコストが全体として高くなっていく可能性もある。賃金の上昇は、これもまたこの20─30年間で実現されてこなかったことの一つだ。

 新型ウイルスの蔓延は、想像以上のショックを社会に与えることになりそうである。その中には、残念ながら痛みを伴う変化がいくつも出てくるだろう。変化が不可避なのであれば、場当たり的に変化に対応するのではなく、長期的な視野のもとで積年の議論を踏まえた戦略的な制度変化につながることを願うものである。神戸大学教授

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