公研2025年11月号「対話」

混迷の時代に辣腕を振るった政治家・原敬。
現代政治は彼の生涯から何を学び、
生かしていくべきなのか。

衆議院議員
齋藤健(画像左)

慶應義塾大学総合政策学部教授
清水唯一朗(画像右)


さいとうけん:1959年東京生まれ。83年東京大学経済学部卒。同年4月通商産業省に入省。91年ハーバード大学ケネディ・スクール留学、修士号を取得。2003年経済産業省資源エネルギー庁電力基盤整備課長、04年埼玉県副知事、09年自由民主党より衆議院議員選挙に出馬し初当選、現在6期目を務める。環境大臣政務官、農林水産大臣、法務大臣、経済産業大臣を歴任。著書に『転落の歴史に何を見るか─奉天会議からノモンハン事件へ』などがある。


しみずゆいちろう:1974年長野県生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学。専門は近代日本政治。博士(法学)。2007年慶應義塾大学総合政策学部専任講師、10年同大准教授、17年より現職。米・ハーバード大学客員研究員、台湾・国立政治大学客員副教授、ドイツ・ルール大学客員教授として日本研究の国際交流にも努める。著書に『原敬』『近代日本の官僚』『政党と官僚の近代』、編著に『内務省 近代日本に君臨した巨大官庁』などがある。


 

徹底した努力の政治家

 清水 今日は日本の政党政治を切り拓いた政治家である原敬についてお話しする機会をいただきました。

 原敬は研究者のなかでは人気が高いのですが、一般にはあまり人気がないと言われます。そうしたなかで、私が『原敬──平民宰相の虚像と実像』(中公新書、2021年)を書いた際に、政治家の中にはごくわずかですが「原敬好き」を表明する方があること、その中でも齋藤さんは格別だという噂を耳にしていました。政治家のリーダーシップや政治家論として、現代的な問題意識を踏まえながら、原についてお話しできればと思います。

 さっそくですが、齋藤さんは原のことをどのように見てらっしゃいますか。

 齋藤 一言に要約すれば、原敬は一人の優れた政治家の徹底した努力というものがいかに重要かを我々に示してくれています。

 原の政友会は自民党の源流と言われており、今でも自民党の幹事長室には『原敬日記』や原敬の揮毫が飾ってあります。ですが「それをちゃんと見てんのか?」と私は常々思うわけです。今の自民党の若い政治家たちが、これほどの巨大な政治家の生涯を勉強することで吸収できるものは絶対にあるはずですから。

 私は自民党の中央政治大学院で「背骨勉強会」という企画を主催しています。今年の第1回目では、私が「政治家のための原敬」という講義を行いました。彼の生涯や彼の努力について、80分間ひたすら話したわけです。

 清水 具体的に原のどういった努力を伝えられたのですか。

 齋藤 当たり前のことですが、まずは徹底した勉強です。たとえば原は山縣有朋の通訳を務められるくらいフランス語が堪能でした。しかも彼はパリの公使だったときに、フランス語で日記をつけたり、ロシアの国政を論じるフランス語で書かれた本を翻訳していたりもしました。

 原敬だけかというと、そうではない。陸奥宗光も刑務所にいたときにジェレミー・ベンサムの『道徳および立法の諸原理序説』を邦訳していて、出所後にそれを出版しています。それから「力の政治家」こと星亨も、移動中の電車の中では英書を読んでいたと言われています。

 こうした当時の人たちの勉強に対する気迫を、今の政治家はどう思うかですよね。当時でさえこうだぞ、と。単に英語やフランス語ができればいいわけではないけど、世界を知ろうとするための勉強の量という意味で言うと「俺たち劣化してないか?」と思ってしまいます。

 それからもう一つは、情報収集について我々はもっと意識を高めるべきということ。原は外務省にいたころ、公電や手紙で、色々な人から個人的に情報収集していました。香港領事だった中川恒次郎さんという人からは、公電以外に60通も手紙をもらって必死に勉強していたとか。

 多様な経験も非常に重要です。原は自分の足で外国へ赴き、自分の目でその国の実情を見ることに心がけていました。そのうえで、たとえばアメリカについてはこんなことを言っています。「将来を考えれば、日米は同盟とまではいかぬとも緊密な連携が必要であり、そうすれば中国問題の解決につながる」──。当時の情況を的確に踏まえた、当時としては実に見事な洞察ですよね。

 また原は交渉力にも長けていました。山縣有朋と5、6時間も議論したというのがよい事例ですよね。

 あとは総理大臣のときに3年間大臣を変えなかったこともすごいと思います。

 清水 そうですね。戦前の内閣は本当によく大臣を変えていましたが、原は変えませんでした。

 齋藤 病気になった陸軍大臣・田中義一の代わりに山梨半造を立てたことと、大木遠吉を自分の後釜として法務大臣に任命したことがあったのみ。3年間でたったの2回。こういうところを見ると、参考になる部分がたくさんありますよね。

 原敬について私が一番好きなエピソードを紹介しておきましょう。

 ある人が入閣をしたかったができなかった。だからせめて議長になりたいという相談が来たとき、原はこう答えました。「君のため運動するものは何人もある。ナントカという3人は盛岡までやってきたが、彼らは実は君には不親切である。大臣というのは運動してなれるものではない。なったとしても運動したと笑われ、入閣に失敗すれば一層笑い者になる。君は狭量の人ではなく、今日まで不名誉なこともなく、誠実に政治のために奔走してきた、いわば篤望の人である。その名声を汚さないでほしい。運動することが最も名声を汚す。君が議長になることに意義はないが、自分が請け負えるものではない。議長選挙まで4カ月あるから、この間一切馬耳東風で過ごせば一般の同情も集まる。切に運動する考えを戒めておくほうが、君に損はない」と。

 すごいですよね、この人間力。これなら断られても恨まない。

古今勉学事情

 清水 今までのお話を伺っていますと、やっぱり本、読書を通じた学びが齋藤さんの念頭にあるように感じました。昨今の議員のみなさんはそれほど読書をされていないのでしょうか。

 齋藤 原敬が司法省法学校にいたころの読書歴を見ると『古事記』のような日本の書物もありますが、基本的には中国の治乱興亡を記した歴史書や思想書が多いんですよ。彼はそういうものを読んで、知らず知らずのうちに「あるべき指導者の姿勢」を学んでいたんじゃないかと思います。中国の歴史書・哲学書は人間の成長にとってきわめて重要なんです。

 ただ、私が国会議員になってから、中国のそういう書物について話題になったことは一度もありません。宮澤喜一さんのような昔の人はそうではなかったでしょうが。

 清水 宮澤さんは『六韜』の話などをよくされていましたね。

 齋藤 原敬が司法省法学校を受験したころは、入学試験に漢文が課されていました。ところが、入学したら授業はすべてフランス語で行われる。これってすごいですよね。中国の古典で受験者の「背骨」の有無を確認して、「背骨」があるとわかったら、今度はフランス語による徹底的なグローバリズム教育。明治ってすごいなと。

 清水 東京に正則学園という学校がありますが、この「正則」は本来「英語で教える」という意味なんですよね。明治初期には、英語を通じて学んでいる分野は、翻訳ではなく、直接に英語で学ぶのが正しい方法と考えられていました。それが「正則」です。逆に、日本語で翻訳して教えることを「変則」と呼んでいました。

 その後、欧米で専門知識を獲得した青年たちが博士号を取って帰ってくると、日本語で直接にさまざまな分野を専門的に学べる環境が整っていく。そうして「正則」という言葉は薄れていきました。

 そう考えると、母国語で専門的な内容を教えられるのは現在においても日本の大学の強みになっています。一方で、齋藤さんがおっしゃるようなグローバリゼーションの必要性も理解できます。

 齋藤 私は今こそ英語で教えるべきなんじゃないかと思いますけどね。

 清水 学生たちは英語の授業もたくさん取ってくれています。今、私もJAPAN IN WORLD HISTORYという英語クラスを担当しています。16人クラスで10人は留学生や英語話者の学生ですが、残りの6人ほどは日本人学生です。このクラスはMIT(マサチューセッツ工科大学)歴史学部のWORLD HISTORYのクラスとジョイントで実施しているんですが、学生はとても熱心に参加しています。MITの学生よりも日本人学生のほうが積極的にディスカッションを進めています。

 そうした状況を見ていますと、若者の英語力は、さほど心配ないと考えています。

 齋藤 それは非常にいい。そしたら英語力がないのは国会議員だけかな(笑)。

古典が顧みられなくなった理由

 清水 ただ、齋藤さんのおっしゃるような「バックボーンとしての読書」の経験を多くの人が持っているかと言われると、微妙なところですね。

 齋藤さんはいつそうした教養を身につけられたのですか。

 齋藤 私だって全然身についてないですよ。読むと言っても解説本ばかり。だけどそれでも、大変参考になる。

 たとえば『貞観政要』にこんな趣旨の話があります。「天下を取る過程において貢献した人物は、天下を取った後の統治で地位につけてはいけない」と。天下を取るまでに必要な能力と、取った後の統治能力は違うということです。だから天下統一に貢献してくれた人にはあくまで金と名誉で報いるべきであって、ポストで報いてはいけない。総裁選はポストで報いてしまっていますが(笑)。こういう「統治のありかた」みたいな教養は、明治時代の政治家はもっと持っていたのではないかと。

 清水 なぜ変わってしまったんでしょうか。『貞観政要』は江戸や明治の政治家たちも読んでいました。

 齋藤 武士が絶対読まなければならない本の中に入っていますよね。旧制高校のころまではそうした「必読書」をみんなが読んでいたんじゃないでしょうか。

 しかし戦後、「武士道や中国の古典のような考え方が軍国主義につながった」といった短絡的な考えが広まり、古典が顧みられなくなったのではないかと私は推測しています。

 清水 そこにパラダイムシフトがあったと。面白いですね。

 齋藤 こればかりはもう少ししっかり研究してみないといけないですけどね。

 清水 外国語の話に戻りますが、原敬が学んだ司法省法学校はフランス語で授業を行っていました。ここでも授業についていけない人がたくさん出ています。面白いことに、なかでも決して優秀ではなかった人材が、その後外交官になります。条約改正交渉が喫緊の課題となるなかで、外務省はフランス語話者が少なく、難渋していました。このため、外務卿であった井上馨が人材を探していたところ、司法省法学校の卒業生に山のようにフランス語話者がいることに気が付いたのです。当時はすでに国内法の整備が進み司法官における語学のニーズは下がっていました。そうであるなら外交官に回してくれ、となるわけです。

 原が外務省で存分に力を発揮できた背景には、司法省法学校時代のフランス語を話せる仲間たちが、ヨーロッパをはじめとする各国へ外交官として現場にいたことがあります。彼らとの密接な相互協力関係は、原にとって大きな力になりました。

 齋藤 当時の原は官僚として15年ぐらい経験を積み、今で言う事務次官まで上り詰めました。その他にも、内務省大臣、大阪毎日新聞社長、北浜銀行頭取、そして内閣総理大臣までをも歴任したわけです。政で上り詰め、官で上り詰め、マスコミで上り詰め、ビジネスで上り詰め、本当にあらゆる分野で経験を積んだ人物でした。

 清水 原は内務大臣として豊富な経験がありますからね。今年4月に、私は仲間の歴史家と共同で『内務省──近代日本に君臨した巨大官庁』という本を出版しました。当時の内務省が持つ力は絶大だったんですよね。閣議では、内務大臣は必ず総理の隣に座っていました。

 齋藤さんは農林水産大臣も経済産業大臣も務められていますが、閣僚応接室において農水大臣・経産大臣はどのあたりに座られるんでしょうか?

 齋藤 端の方です。戦後になっても内務省の後継組織である総務省や司法省の後継の法務省の大臣が総理と官房長官の両脇を固めているんですよね。未だにその序列なのかよ、と法務大臣のときに改めて感じましたね。

人事と成長

 齋藤 私は通産省(現在の経済産業省)で、30~40代くらいまでの課長補佐クラスの人事の責任者をやっていました。人事の責任者というのは、単に適材適所だけではなくて、意図的に不適材不適所の人事をやることもあります。「この人には少し難しいかもしれないけど、これを契機に成長するかもしれない」と。だから人事っていうのは、職員がどうしたら成長するかということを試行錯誤する仕事でもあるわけです。そこで発見したことは、成長には多様な経験をすることがきわめて大事だということでした。

 我々の人生は乗り越えなくてはならない難局の連続です。しかし多様な経験を積んでいれば、全く新しいできごとに直面してもある程度の見当がつく。これはあの人に話を聞いてみたらいいヒントがあるんじゃないか、とか。

 清水 原敬はまさにその体現者だった。

 齋藤 一方で、何らかのできごとが起きたときに、自分のどこが良くなかったんだろうか、と内省する力が欠けている人は絶対に成長しません。こうした力はもしかしたら中国の古典や日本の歴史書・伝記などから身についてくるものなのかもしれません。「内省力のある人が多様な経験をする」ということが成長にとって一番重要です。

 持論ですが、原は国内外を問わず多種多様な経験を積んでいたからこそ、大局的な判断で大きな道の間違いをしないで済んだのではないかという気がしてなりません。

 清水 直接的、身体的な体験をすると読書経験もより活きてきますし、ネットワークが広がることでいろんな情報が入ってきて、新しい局面に対応できるようになる。政治家には欠かせないスキルですね。

「多様な経験」を積む方法

 清水 他方、たとえば世襲で議員になられたり、官僚から議員になられたりといった確定しているルートを歩むことが政治家として成功する方法になっているようにも思われます。こうした状況下で政治家はどのように多様な経験を積んでいくのでしょうか。

 齋藤 意図的に積んでいくしか方法はありません。自分で海外に行くことや、いろんな人と会うということ、あるいは本を読むことも十分多様な経験です。そうしたアクションを通じて、知らないうちに吸収していくものも多い。だから政治家はそれを徹底してやっていかないといけません。

 清水 齋藤さんの場合は、具体的にどのようなことをされたのですか。

 齋藤 たとえば議員連盟への参加。私は今、オランダの議員連盟の会長をやっています。だからオランダとの関係に興味が湧けば、自分でコネクションがつくれます。政治家はそういうことが割と簡単にできるんです。背骨勉強会ではその役得を生かすことがいかに重要かということを強調しました。

 清水 さきほど原の海外経験の話がありましたが、アメリカに渡航している際の彼の日記を読むと、ある特徴が浮かび上がってきます。彼は著名人にほとんど会ってないんです。会おうと思えば会えたはずなのに、大統領にもアンドリュー・カーネギーにも会っていない。むしろ彼は工場を見学したり、新聞社を訪れたりしました。政治家の外遊ですから、市長や大統領に会うのが定石だと思うんですが、原はちょっと外れています。どう見られますか。

 齋藤 それって昔からですよね。彼が記者の頃から。古河鉱業の副社長になったときも、彼はすべての鉱山を自分の目で見ていますしね。そもそもそういう人なんですよ。

 彼が秋田の尾去沢銅山などの視察に行ったときの話なんですが、彼はその敷地の面積、労働者数、賃金、主要都市の人口、生産物の量、士族の動向、住民権、地方議会の様子、農園工場とその中心人物、人情、女性の旅行の危険度、博打、刑罰、地形、道路、そして歴史に至るまで全て書き留めていました。アメリカに行ったときもそのときと同じノリだったんじゃないですかね。

日記を通じた内省

 清水 今、書き留めるというお話があったのは重要だと思います。原でいえば、82冊に及ぶ長大な『原敬日記』がそれに該当しますよね。

 実は『東京人(2025年11月号)』の「日記特集」で政治家の日記について書かないかと言われたので、原の日記を軸に書いたんです。

 齋藤 政治家の日記といえば原ですからね。

 清水 あれは全部で8500ページほどあるんですよ。恐るべき積み重ねですよね。

 彼は平日にメモを書いて、週末に腰越の別荘で休息する際にそのメモを元に日記をまとめていました。以前、御厨貴先生の主宰で原敬日記の研究会を行っていたのですが、そこでは『原敬日記』は原が翌週の自分に向けて書いた戦略書であるという理解に辿り着きました。原は休日を内省の時間と捉え、腰越で休みながら翌週の仕事の準備に勤しんでいたというわけです。

 今の政治家には日記を書いたり内省をしたりするような時間はなかなか確保しづらいですよね。

 齋藤 内省する力も、自分の時間を取ることによってはじめて鍛えられてくるものですからね。

 清水 私たち研究者の場合は、かろうじて夏休みと春休みがあります。そこで調整をすればなんとか研究と内省の時間が取れますが、政治家には難しいですよね。

 齋藤 私は今でも毎週地元に帰って、駅でビラ配りなどもやっています。休んでばかりいたら落選してしまいます。

 原の時代は国会議員であっても半年間の外遊等が容易に許可されていましたが、今同じことをやろうとしたら大変です。海外に行くだけで毎回許可を取らなくちゃいけない。多様な経験が重要なのに、それをするなという方向にどんどん規制が強化されていく。

 清水 アンビバレントなところですよね。

 昨年、政務調査会の歴史的展開を紐解く共同研究を行いました(奥健太郎・清水・濱本真輔編『政務調査会と日本の政党政治』(吉田書店、2024年)。政務調査会が通年化していくのは原内閣からなんです。政党政治が本格化するから政務調査会が力を持ち、いろいろ意見できるようになる。そうすると、閉会中も政務調査会が行われて、そこでどれくらい意見を言うかが、選挙区との関係でも大事になる。政党政治が充実すると政党政治家は忙しくなるという、なかなか悩ましいところですよね。

 齋藤 現在、政務調査会はいちおう一年中活動しています。国会が開かれていれば活発だけど、閉会後は基本的にそれほど動かない。ただ選挙が行われるようなことがあれば、閉会後でも動きます。

 清水 閉会中はそこまでではないですか。

 齋藤 閉会中はほとんど動いていません。なぜかといえば、国会議員がみんな地元に帰っているから。

 清水 私は一度閉会中に伺ったことがあります。農林部会でしたね。

 齋藤 農林は閉会中にもやることがあります。ただ、珍しいケースだと思いますね。

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