『公研』2025年10月号「めいん・すとりいと」
下駄には標準的な二本歯のものの他に、「天狗下駄」とも呼ばれる一本歯のタイプがある。一本歯ではむろん、バランスをとるのが難しく、歩きにくい。険しい山道を歩くにはむしろ適するらしく、一本歯は修験者に好まれてきたというが(一般人はそもそも登山の際に下駄を履かない)、今日では一風変わった体幹トレーニングをしたい人向けの特殊な履物である。
何の話をしているのかというと、この1年間の日本政治は、いわば一本歯下駄を履いて走っていたようなものではなかったか、ということである。昨年秋に与野党第一党で執行部交代があり、立憲民主党では野田佳彦氏が、自民党では石破茂氏がそれぞれ新党首に選ばれた。彼らはそれぞれ立憲民主党内保守派、自民党内リベラル派に分類され、要するに両者とも中道的なスタンスの政治家であった。両党党首が入れ替わったとしてもさほど違和感がないほど、この2人はイデオロギー的立ち位置として近い者同士だったといってよい。結果、日本政治の重心は一時的に、中道的位置に集中することになった。この状況は、あたかも一本歯下駄のようではないか。
その結果どうなったかと言えば、周知の通り、日本政治は極端に不安定化した。この間、与党は2度の国政選挙で議席を大幅に減らし、他方で野党第一党の存在感も従来以上に薄くなった。「一本歯」の日本政治はバランスを崩し、前か後ろかに──政治的に言えば「右」の方向に──倒れこんだ。そして結局、立憲民主党が陰に陽に助け船を出したのもむなしく、石破内閣は約1年という短命で文字通り倒れてしまった。
他方、思い返してみれば、第二次安倍晋三政権期は、政治的に非常に安定していたが、その時期の日本政治はしっかり「二本歯」であった。自民党は右派的スタンスを鮮明にし、それに対抗した野党第一党は左派的スタンスを明確にしていた。結果としては安倍自民党が選挙に勝ち続けたが、リベラル野党陣営の側も活動のモチベーションが高く、活気があった。有権者目線でいえば、右派にも左派にも、それぞれに応援しがいのある大政党が存在したのであり、実際、与野党第一党の支持率は(むろん与党に偏ってはいたが)きわめて安定的に推移していた。
もっとも、政治の過剰な安定は必ずしも善ではあるまい。第二次安倍政権期の「二本歯」の幅は広すぎて、むしろ安定的でありすぎた結果、健全な新陳代謝の機会を欠いていた、というネガティブな評価もあり得よう。
こうした観点で見たとき、高市早苗政権の誕生は、日本政治史上どのような意味を持つだろうか。安倍路線継承を公言する高市首相は、程度はともかく、右派色を打ち出してくるであろう。外国人政策の厳格化はもとより、しばらく静まっていた憲法改正問題の争点化も試みるかもしれない。自民党の「保守回帰」は、参政党などに流れた右派的有権者層の支持を呼び戻すためであり、良し悪しの問題ではなく、民主政治における競争の力学から当然に想定される動きである。
かくして、日本政治における「二本歯」の幅は再び開いていく。ここで注目されるのは、自覚的な右派政権に久々に直面することになる野党第一党の対応である。現実主義路線を維持するのか、政権側の挑発に乗って再び左傾化してしまうのか。日本政治が「適度に緊張感のある安定的状況」へと落ち着けるかどうかは、高市政権の手腕とともに、「二本目の歯」たる立憲民主党のバランス感覚にかかっている。
東京大学教授
