『公研』2026年4月号 第673回 「私の生き方」
元アジア開発銀行総裁 国際経済戦略センター理事長
中尾武彦
なかお たけひこ:1956年大阪府生まれ。78年東京大学経済学部卒業後、大蔵省(現財務省)入省。カリフォルニア大学バークレー校にて経営学修士。主税局、国際金融局等で課長補佐、IMF政策企画審査局出向、銀行局金融会社室長、国際局国際機構課長、主計局主計官(外務・経済産業・経済協力担当)、国際局開発政策課長、在米国大使館公使、国際局次長、局長などを経て、2011年8月財務官。13年4月より20年1月までアジア開発銀行(ADB)総裁。帰国後に東京大学公共政策大学院と政策研究大学院大学で客員教授。編著書に『アジア経済はどう変わったか──アジア開発銀行総裁日記』『アジア開発史』『アメリカの経済政策』など。
父の書斎と宇和島への帰省
──1956年大阪生まれです。どのような街で育ちましたか。また、ご両親はどのような方でしたか?
中尾 生まれたのは、東大阪市です。町工場の多い、庶民的なところでした。両親は不動産価格がリーズナブルだったから、新婚の住居をそこにしたと言っていました。近所の子どもたちとカエルを捕ったり、缶蹴りやビー玉をやったり、昭和の遊びをして育ちました。ビー玉に負けて、泣いて帰ってくると、母に「ビー玉で負けたぐらいで泣くなんて情けない」と叱られました。
父は大正14年生まれで、旧制第三高等学校から京都大学に進み、毎日新聞社に勤めていました。母とは、母の兄がやはり京都大学を卒業して医局にいたので、共通の知り合いを通じて出会った恋愛結婚だったらしいです。途中から英文編集の部門に移って、50代の時に女子大の教授に転じました。子どものときの家はそんなに広くなかったけど、庭には砂場があったし、4畳半の書斎には本がたくさんありました。父は昭和のサラリーマンにしては飲み会が好きではなくて、仕事が早く終わる日はすぐに帰宅して夕食を家族と食べていました。
食事が済むと、書斎に引きこもって勉強したり読書したりするので、母は「お父さんの邪魔をしてはダメ」と言っていました。国際情勢に関心があって『Newsweek』を愛読し、クラシック音楽と散歩や山歩きが好きでした。前はそうも思わなかったけれど、大学で教える仕事や趣味も含め、いろいろな意味ですごく父に似てきたと感じています。
母は愛媛県の宇和島の出身で、昭和5年の生まれ、専業主婦でしたが、女学校の成績も良かったので、戦後の混乱がなければ東京女子大学などに進んで新聞記者になりたかったと聞いたことがあります。下に弟が二人いたし、いつも家事に忙しくしていました。
──少年時代を思い返して記憶に残っている風景はありますか?
中尾 毎年夏休みになると、母の実家に帰省し、ひと月くらい過ごしました。宇和島まで鉄道と宇高連絡船を乗り継いで行くのですが、和気清麻呂の出た岡山の和気町の辺りになると、畳の原料になるい草が一面に広がっているんですね。急行の窓を開けると、い草を渡る風が吹き込んでくる。宇高連絡船には船内に讃岐うどんの店があって、それを食べることができるかどうかがすごく気になって、食べさせてもらえた時はすごく嬉しかった。小さな島々の浮かぶ瀬戸内海は、なぜかいつも天気が良くて穏やかで、子供心に天国のように綺麗だと思っていました。私の原風景の一つです。
──小さいころの遠距離移動は記憶に残りますね。
中尾 宇和島では座敷の縁側に寝転がって築山のある庭をながめ、毎日のように1時間ほど離れた島まで船で海水浴に行っていました。まだ日焼け止めも普及していなかったから、母はそばかすだらけになってしまいました。いま考えてみると、贅沢な夏休みだったと思います。
週末には家族で奈良や京都、神戸にもよく行きました。父は生まれも神戸で、若いころに神戸の支局に勤めていたこともあって、親近感があったんですね。小学生の時に神戸にクイーン・エリザベス二世号という客船が停泊していて、父の知り合いに豪華な船内を案内してもらったこともよく覚えています。いまは京都のよさがしみじみわかるけど、子供の時はどちらかと言えば退屈だった。昭和風の遊園地のほうがよほど楽しかったですね。
ただ、当時の両親は経済的には大変だったと思います。父方の祖父は、父の母親と死別したあと再婚して未成年の子どもが二人いたのに、脳梗塞になって十分に働けなかった。父は実家に仕送りをしていました。この祖父は明治学院大学を出てドイツの染料会社に勤めていたのですが、競馬が大好きで家に騎手たちを連れてきて宴会をしたり、ハイカラでシェパードを6頭も飼ったりしていたそうです。戦前の話です。子どもよりもシェパードと馬を大事にしていたと父は不満を漏らしていました(笑)。そういう祖父を見ていたから、逆に父はギャンブルと酔っ払いが大嫌いで、ストイックになったのだと思います。

六甲山全山縦走に挑戦
──少年時代に夢中になったことは?
中尾 プラモデルが大好きでした。近所にプラモデル屋があって、お金が貯まったら「今度はあれを買おう」とかいつも思案していました。いま思うとすごく小さい店だったけど、憧れの店でした。お金を貯めて、戦艦大和の大きなプラモデルを買って、夢中になって組み立てました。それから日本中の鉄道の路線を覚えることや、『シャーロック・ホームズ』『名探偵ルパン』などの推理小説や少年文学全集を読むことも好きでした。お絵かきや習字、それにオルガンなどもやったけど長続きはしませんでした。ごく普通の昭和の少年だったと思います。
中学2年生の時に、兵庫県の川西市に引っ越します。西武の開発した郊外の一戸建ての住宅地で、家もずいぶん大きくなり、父は10畳の書斎を占有していました。両親は、私たち兄弟には特別な教育をさせなくても、実力があればいずれそれなりの学校に行くだろうと考えていたみたいです。お金の問題もあったかもしれませんね(笑)。だから私も塾に通ったことはないし、中学までは地元の公立に通っていました。高校はその地域の進学校ということで受験をして、大阪教育大学附属高等学校池田校舎に進みました。
──部活動などはされていましたか?
中尾 高校の時に岡部君という友人と二人で硬式テニス部をつくって、テニスをやっていました。私は下手だったけど彼はすごく上手だったから、申しわけないと思っていました。岡部君はその後、東大に進んでテニス部に入って活躍しました。それから山登りにもよく行きました。岡部君と須磨から宝塚まで踏破する伝統の六甲山全山縦走に挑戦したこともあります。摩耶山や六甲山を縦走するのですが、全部で55キロメートルもあるし、かなりのアップダウンが延々と続くんです。六甲山の山頂まで登ってあとは降りるだけというところで岡部君の足が痙攣し始めて、ケーブルカーで降りることになった。予想していなかったから、お金が足りなくなりそうになってヒヤヒヤしました。

コツコツとやっている人たちが 報われる社会にしたい
──55キロはかなり長いですね。日本の社会についてどのように見ていましたか?
中尾 東大阪にいたころは、同級生にも暮らしに余裕があるとは言えない家の子どもが結構いました。大阪環状線の周りなどは少し戦災の焼け跡が残っていて、社会全体がまだ貧しい時代です。小学校の時に腎臓の調子が悪い同級生が近所の町工場の母子寮に住んでいて、よく学校を休んでいたので、先生に頼まれて給食のパンを持って行ってました。とても綺麗な、繊細な絵を描く子でした。いまも元気にしているかなあと考えたりします。
カッコよく言い過ぎかもしれないけど、社会でコツコツやっている人たちに対する共感は強かったと思います。そういう人たちが 少しでも報われるように、社会を良くしたいという気持ちは小さいころから持っていました。霞が関にはいろいろな出自の官僚がいるけど、ほとんどは普通の家の出身です。しかし、そのなかでも、東京の山の手に育って 私立の中高一貫校を出たような人とは社会の受け止め方が少し違っているかもしれませんね。
──やはり経済にご関心があったのですか。
中尾 高校生のころは、NHKがやっていた「1億人の経済」という番組を毎週観ていました。経済学者で当時は法政大学教授だった伊東光晴先生が出演されていて、日本経済の諸問題について解説する番組です。経済を勉強することは社会を豊かにすることに役立つと知って、新鮮な気持ちで観ていました。
同時に、共産主義や社会主義への期待が世の中にまだ残っていた時代でした。ませた同級生などには信奉者もいて、「中尾君、共産主義国家では働きたい時に働きたいだけ働いて、食べたい時に食べたいだけ食べられるんだよ」なんて言っていました。そんなうまい話はないだろうと思っていたので、共産主義にはまったく興味がなかったですね。
宇沢弘文に渋谷で焼きそばをご馳走になる
──現役で東京大学経済学部に進まれます。お父様がおっしゃるように、特別な教育をせずとも勉強がよくできた。
中尾 もちろん私も受験勉強などは一生懸命やりましたが、二人の弟も東大に進みましたから、知的な家庭だったと思います。私も、じっくりと物事の理屈や仕組みを考えることや、文章でそれを表現することは好きでした。
大学時代は、風呂も付いていない4畳半一間の下宿で、毎日自炊して、畳に寝転がって小説や新書を乱読したり、車を持っている友達とドライブに行ったり、たまにビリヤードもやりました。いま考えてみると気楽な大学生活でした。高校の時と同じようにワンゲル部に入ったのですが、女学生も一緒に「おお牧場はみどり」などを歌いながら軽快に山道を歩くことを想像していたら、何日も藪の中を漕いでいくような合宿が多くて、1年半ぐらいでやめてしまいました。割と安易ですよね(笑)。
講義を聞いて特に影響を受けたのは、小宮隆太郎先生、館龍一郎先生、宇沢弘文先生などですね。それから法学部から経済学部生のために教えに来ていた民法の星野英一先生の「権利の濫用」などの話も刺激的でした。小宮さんの『国際経済学』は丁寧に読み込みました。全体の均衡のなかで貿易や為替レート、国内経済と国際収支の関係をどう見るべきなのかなどが解説されていて、いまでも時どき参照します。
駒場で受けた専門科目の宇沢弘文先生のマクロ経済学の講義は、微分方程式を使う「経済動学」に踏み込んだ内容で、2年生には難しすぎた。ただ、講義のあとに先生に質問に行ったら、そこにいた学生たちに「渋谷に昼飯を食いに行こうか」と誘っていただき、美味しい焼きそばをご馳走になりました。
──講義より焼きそば(笑)。
中尾 町中華ではない、きちんとした中華料理屋だったから(笑)。先生は大ジョッキでビールを飲んでおられて、偉い先生はこんな感じなのかと印象に残りました。ゼミは、浜田宏一先生(東京大学名誉教授、イェール大学名誉教授)のところにお世話になりました。鎌倉の自宅にも呼んでくださるなど、ゼミ生のことは大事にしてくれました。
学生運動とバブルのあいだの時代の空気感
──アベノミクスの理論的支柱とされた浜田先生ですね。
中尾 いわゆるリフレ派で、デフレ脱却のためには大胆に拡張的な金融政策や財政政策を実施することを主張されていて、私とはちょっと立場が違いましたが、最近は政策の規律を重視するほうに少し変わってきておられるようです。
普段はそんなに勉強するわけではないけれど、試験のひと月前になると、講義を受けた先生たちの教科書は熱心に読み込みました。せっかく授業料を払って大学に通っているのだから、試験の機会に勉強をしないとずっとできないし、損をすると思ったのです。この時期に学んだことは、その後も役所や国際機関の仕事に取り組む際の考え方の基本になり、そのうえに積み上げてきたので、大学時代に勉強したことはあまり役に立たないという人がいますが、私はまったく逆の印象を持っています。
大学時代を振り返った時にもう一つ思い出深いのは、映画をよく観たことですね。そのころは名画座と呼ばれるミニシアターがあちこちにあって、2本立てが300円くらいで観られた。渋谷パレス、池袋文芸座、テアトル新宿なんかに通っていました。
──印象に残った作品は?
中尾 邦画ではATG(日本アート・シアター・ギルド)の作品が好きでした。商業的ではなく芸術性が高くて、実験的な作品を中心に公開していた映画会社です。『サード』『もう頬づえはつかない』『祭りの準備』などはインパクトがありました。学生運動も終わり、ノンポリ的な社会になっていた世代です。でも成長して豊かになっていく社会に対してちょっと斜に構えるようなところがあって、ATGの映画はそういう時代の雰囲気をよく掴まえていたと思います。アンニュイな感じとか、言いようのない焦燥感。この後に来るバブルの時の熱狂や、調子に乗る感じではもちろんなかった。
自分には役所が向いていた
──大蔵省を志願した理由は?
中尾 ゼミの先輩に大蔵省や通商産業省に行っていた人が結構いたし、大所高所から経済理論を活かせる職場ということで、役所を意識するようになりました。ただある商社からも内定をもらっていて、「役所に落ちたらでいいから来てください」と言ってくれたのは本当にありがたかった。あとでお礼に行きました。父は狭い日本を出て海外に雄飛したいという気持ちがあって、オーストラリアとかブラジルに移住しようと考えていた時期がありました。実際、オーストラリアの大学の先生になる話もあったのだけど、家族持ちは余分に経費がかかるということで条件面で折り合いが付かなかったようです。私が小学校の5年生くらいのときのことです。
そんな父の影響もあり、商社には親近感がありました。毎週日曜に三井物産が提供する『兼高かおる世界の旅』を観ていたことも影響していたと思う(笑)。
振り返ってみると、やはり自分には役所が向いていたと思います。私のように理屈っぽい人間は、ビジネスは多分あまりうまく行かないような気がします。経済官庁のなかでは、通産省のほうがリベラルな印象があったから第一志望だったのですが、先に内定が出た大蔵省に進むことにしました。結果的には、自分の嗜好にあっている国際金融を中心に職業人生を送ることができてラッキーだったと思います。

