アジア開発銀行総裁として743日間出張
──2013年4月から2020年1月まで、黒田東彦さん(前日銀総裁)の後任としてアジア開発銀行(ADB)の総裁を務められています。
中尾 アジア開発銀行は、1966年にアジアの途上国に対して政府によるインフラ整備の資金を融資するために設立された機関で、本部はマニラです。発電所や道路を建設するための資金を貸し付けることが主な事業でしたが、教育や保健のプログラムへの融資、経済政策の改革を条件にする政策融資などに分野は広がっていきました。今では、気候変動対策などが重要なテーマになっています。
総裁の仕事は思ったより大変でした。私は、第1に、貸し付けや債券発行による資金調達についての政策と実施、第2に、68からなる加盟国(アジアが日、豪を含め49か国・地域、欧米先進国が19か国)や12の理事からなる理事会、メディアやNGOへの対応、第3に、3000人以上の各国から来ているスタッフからなる組織に関する予算、人事などの内部管理、の三つの役割があると考えてきました。スタッフは出身国に関わらず途上国の開発への意欲と専門性を持ち、ADBの目的、あるいは総裁の私に対して忠実だったので、そういう点で嫌な思いをしたことはありません。

──アジア各国にずいぶん出張されていますね。
中尾 総裁を務めた7年間で743日間出張しました。出張の際は、各国のリーダーたちや大臣たちと面会し、プロジェクトを視察し、各国のメディアや現地のADB事務所のスタッフと話をするので、朝から晩まで目の回るような忙しさでした。でも、各国への訪問は本当に得難い経験でした。もちろん、インドやインドネシアなどの重要貸し付け国への出張、モディ首相やウィドド大統領などトップとの面会は大事ですが、キルギスタン、ウズベキスタン、カザフスタンなどの中央アジア、それからジョージアやアルメニアなどのコーカサス地方はなかなか訪れる機会がないところです。
中央アジアはソ連に吸収されていたことで苦労した時代もあるし、コーカサスはローマ、ペルシャ、トルコ、ロシアとの複雑な歴史がある。ウズベキスタンのサマルカンドはかつてティムール帝国の首都で、15世紀までは欧州をしのぐ文明を誇っていました。こうした国々を訪れると、それぞれの国家の成り立ち、異なるアイデンティティ、文化、それらへのプライドがよくわかります。
ちなみに、台湾は、1986年に中国が加盟したあとも、Taipei,China(なぜかコンマのあとにスペースがない)という名前で、別のメンバー「地域」として残っています。当時の藤岡真砂夫総裁の功績です。もっとも、ADBの総会には財務大臣や中央銀行総裁が来ますが、中国との関係で総裁として台湾を訪問する機会はありませんでした。
訪れる前には、その国の経済と政治の状況、歴史や文化をしっかり勉強しました。日本に面会に来た外国政府の人が、明治維新のことも何も知らなかったらがっかりだし、逆に豊臣秀吉や徳川家康のことを知っていたら好感が持てますよね。各国首脳は何を言い出すかわからないところがあって、外交関係で困っているとか、そういう話も出てくるので、多少緊張しました。
中国は尊敬される国になってほしい
──中央アジアなどは民主的とは言えない国もありますが、印象はいかがでしたか。
中尾 確かに、言論や結社の自由が制限されている国はあります。地域ごとの部族が強かったり、過激派の脅威があるような国では、強い権力を奮って統治しなければ安全が保てず、国が分断したりします。そうしたなかで、独裁的な傾向が強くなる国はあると思います。ある国では、大統領が話し出すと、中央銀行総裁や財務大臣も起立して直立不動で黙って聞いているのです。そんなことも実際に訪れてみないとわからないですよね。
ただ、どこの国を訪れても国のトップや財務大臣は、教育やインフラの整備、国の財政や成長の戦略について明確な考えを持っていると感じます。特に大臣たちは、ADBに対してどう支援してほしいのかといった要求も具体的でしたから、実りある議論ができました。
──2016年1月には中国がアジアインフラ投資銀行(Asian Infrastructure Investment Bank:AIIB)を設立します。中国が経済超大国になっていく過程をマニラから見ていらしたわけですが、中国の行方についてご見解をお聞かせください。
中尾 私が実際に会った中国の要人たちの多くが、経済分野のエキスパートで、客観的な視点を持つ立派な人が多いと感じていました。ADB時代に中国を16回訪問し、その度に財務大臣や中央銀行総裁と長時間の面会をしましたが、大変有益な時間でした。李克強総理や何人かの副総理にも会いました。今はだいぶ減らしていますが、ADBが中国を貸し付けで支援してきた歴史があるからです。
私はAIIBについては、日本が多額の資金を拠出してまで入る必要はないと考えていましたが、だからこそADBとAIIBが協力を進めることは意義があると思っていました。特に金立群総裁は中国の財務省の国際畑で私とキャリアが似ているので、何度も会って意見を交換しました。
中国は経済力が強くなっていくに連れ、対外的に自己主張が強くなってきた。特に習近平国家主席が「中華民族の偉大なる復興」を目標に掲げるようになってからは、その傾向が前面に出るようになりました。中国は自分たちの理屈で自分たちの行動を説明していますが、相手の国や世界でどう見えているのかあまり考えてこなかったのではないかと思います。私は中国の高官に会うたびに、「中国が偉大であることはすでにみんなわかっているのだから、できるだけ穏やかな政策を採ったほうがかえって尊敬されるのではないか」と伝えてきました。
こんなに知的で刺激的な仕事はない
──最近では国家公務員をめざす学生が減っているとか、働く環境が良くないのではないかといった報道に接することが増えました。最後に後進へのメッセージをお願いします。
中尾 確かに待遇の改善や、国会の質問の準備などに時間を取られ過ぎるといった問題への対応は必要だと思います。ただ、中央官庁の官僚には、民間企業にはない面白さがあります。学者のように勉強しながら、それを政策として実践できるわけだから、こんなに知的で刺激的な仕事はないとも言えます。仕事は面白くて、退屈している暇はなかった。優秀で公平な先輩や同僚、後輩に囲まれ、私自身の役人人生は本当に充実していました。
これからも有為な若者に、是非官僚をめざしてほしいと思います。何と言っても国の制度や政策を見ている中心的な企画部門です。ここが弱くなったら国民の利益にはなりません。同時に、政治や国民の側でも、官僚の中立性や専門性を尊重する姿勢が必要だと思います。それに、国家公務員も人間だから、民間企業の処遇やオフィス環境がどんどんよくなっている時に、いつまでも君たちは慎ましくやっていろと言われても、それではなり手がいなくなります。
言うほど簡単ではないけれど、国家公務員には、政治的なプロセスに巻き込まれすぎずに、知識の府としての矜持を持って、引き続き国民の長期的な利益のために頑張ってほしいと願っています。
──ありがとうございました。
聞き手 本誌:橋本淳一
