大蔵省の個性的な先輩たち

──1978年に大蔵省に入省されます。若手のころに影響を受けた先輩は?

中尾 大蔵省の面接で「国際金融に興味があります」と言ったからなのか、国際金融局(現在の国際局)調査課に配属されました。課長が行天豊雄さん(元東京銀行会長、元財務官)で、1年先輩はゼミの先輩でもある藤井真理子さん(東京大学名誉教授、元駐ラトビア大使)でした。最初はコピー取りや資料の読み合わせのような単純労働、夜12時すぎまで働くのが当たり前で、当時は土曜日も半日勤務があり、なぜか深夜に及ぶこともありました。
組織に自分を同化させるのは良くないという気持ちが強かったから、夜遅くなるのが当たり前、お酒の付き合いも当たり前のような文化には抵抗がありました。私が課長になったころ成立した公務員倫理法やその後の働き方改革でだいぶ変わったのはよかったと思います。実際、私が課長や主計官の時は二人の幼児を抱えて共働きをしていて、ほぼ毎日夕食は私が作っていました。

大蔵省の同期入省の仲間たち。中尾氏は2列目の右から1番目

 

 理不尽なこともあったけど、大蔵省の先輩たちは個性的で尊敬できる人がたくさんいました。3カ月だけ重なった行天さんは、おしゃれで大らかな上司でした。夕方6時になると、よくオーデコロンを身にまとってどこかに出かけていました。その次に課長だった宮本一三さん(元衆議院議員)は、淡路島出身、ハーバード大学で博士を取っている人ですが、就職前に病気で1年遅れた経験から、「健康は自分で守るしかない。働き過ぎて健康を害しても『気の毒に』と言われて、それで終わっちゃうんだから」といつもおっしゃっていました。本当にその通りだと思いますね。

 それから大橋宗夫さん(元関税局長)ですね。大橋さんは、育ちの良さそうな、余裕を感じさせる人でした。私がまだ2年目の時ですが、課長だった大橋さんと一緒に局長のところに説明に行ったことがありました。当時は、第二次石油ショックで経常収支が急激に赤字になってました。経常収支の赤字は、国民経済計算のISバランス(投資貯蓄バランス)からすれば国内の生産よりも消費、投資、財政の国内支出の合計が多い状態ですから、いわば大きすぎる国内支出が問題であって、財政を切り詰めなければならないということを局長がおっしゃっていたそうです。大橋課長の指示を受けてペーパーを書くことになりました。

 国内支出の各項目を価格と実質に分解してみると、石油ショックの影響で国内の価格が上がっているから消費や投資が増えているように見えるけれども、実質ベースではむしろ減っているということがわかります。だから、ここで財政を締めたりしたら余計に景気が悪くなるというのがペーパーの結論でした。

 大橋さんと二人で局長のところへ行って、私が自分の書いたペーパーを説明しました。その時はそうも思いませんでしたが、いま考えてみると入省2年目が局長に直接説明するなんて異例のことだったと思います。大橋さんは私のことをそれなりに見込んでくれていたのかもしれませんが、そういう機会を経験させたいという考えがあったのでしょう。大橋さんは亡くなっていますが、いまでも恩義に感じています。

 私の同期は男ばかり26名いました。同じような学校を出た同質性の高い集団だから、多様性の観点から言えば褒められたものではないし、弊害もあると思います。けれども若衆宿のような一種のコミュニティのよさがあり、先輩たちは後輩を育てようという意識がありました。

──1980年からカリフォルニア大学バークレー校に留学されています。当時の米国は憧れの対象だったのではないですか?

中尾 私が初めて外国へ行ったのは1978年で、大学を卒業する一カ月ほど前に、バスでシアトルからロサンゼルスまでホームステイしながら下っていく旅に申し込みました。米国の豊かさと米国人の善良さが身に沁みました。なかでもサンフランシスコはすばらしいところで、留学先にその郊外にあるバークレーを選びました。

 統計学や計量経済学、会計などを実務に使えるようなレベルまで勉強し直したのはよかったです。外国人の友だちも含めて、すき焼きの会をよく開きました。ゴールデンゲート・ブリッジが見える丘の上のアパートで、ジャズを聴きながら夕陽を見るのはなかなかの青春でしたね。

28歳で勤めた泉大津税務署長

──1984年7月から泉大津税務署長をされています。20代の若さで署長を務める心境はいかがでしたか?

中尾 28歳の時に1年間、90人ぐらいの署員のトップになりました。車も付いていました。組織の上に乗っているだけで、業務の中身まで把握しているわけではないから、象徴的な存在ですよね。50代の副署長がいて課長たちもいるから、何か指示を出したりといった記憶はありません。

納税協力団体の年次総会などに顔を出して、「いつも納税ご苦労様です」と挨拶することが署長の大事な仕事でした。総会が終わると決まって宴席に呼ばれるのですが、私はそんなにお酒は強くないし、署長時代はすごく楽しかったと振り返る同僚は結構いるけど、正直言えば、私は本省での勤務のほうが充実して楽しかったですね。

──いまでも、若くして税務署長を経験することは、財務省の一つの典型的な人事のラインになっているのですか?

中尾 以前はほぼ全員がやっていましたが、いまはだいぶ減ったらしいです。昔はいわゆるエリート教育だとされていましたが、そこまで必要な教育なのかどうかはわかりません。でも、署長の経験は、組織や人間について考えるきっかけになりました。メンツであるとか、人は50代になっても偉くなりたいと考えているとか、口は上手だけど成果を出していない人がいる一方で地味に見えても坦々とよい仕事をしている人がいるとか。どこの組織でも同じようなことが言えるのでしょうが、そうした機微を学ぶ貴重な機会だったと思います。

貧しかった時代の中国からの訪問者

──ご経歴を見ると、40代に掛けてほぼ2年ごとに様々な業務に関わられています。印象に残るお仕事をいくつかご紹介願います。

中尾 自分の基礎を固めてもらったのは、税務署に出る前に主税局調査課で外国調査係長をやっていた時です。課長が濱本英輔さん(元国税庁長官)で、4年後輩の1年生にはフランス税制を担当する片山さつきさんがいました。財務大臣になられたときに久しぶりに大臣室に挨拶に行きました。

 濱本さんはとても勉強熱心な人でした。私は米国税制を担当していたのですが、ちょうどレーガン税制(レーガノミックス)の時期だから、濱本さんがいろいろなことを聞かれるわけです。米国の税制改革の詳細に加え、付加価値税のすぐれている点や法人税と比較した際の違いとか、各国の税制の歴史などなど。毎朝のように濱本さんは出勤すると私を呼んで、ポケットから折り畳んだ紙を取り出して、そこには五つから十の質問が書いてある。それを元にすごく丁寧に質問をされるのです。そのうち半分はその場で回答して、半分は少し調べて答えていました。
このときに税制の原理を理解して、各国の租税のあり方や歴史を勉強できたのは大きかった。英語の税法を読み込むことで難しい英語の訓練にもなったし、充実した毎日でした。濱本さんの下で働いたことのある同期は、「宿題が多くて大変だぞ」と助言してくれていたけど、私にとっては、20歳ほど上の課長に直接質問をされて、それに答えていくことは率直に光栄だったし、やりがいを感じていました。

──年齢差は関係なく、日々真剣勝負という感じですね。

中尾 その言い方は正直恐れ多いです(笑)。1987年から主税局国際租税課で課長補佐をしていた時には、1983年に締結された日中租税条約に基づいて「みなし外国税額控除」の適用を行ったことがあります。中国から、財政部の人たちが女性をトップに数人で交渉に来ました。みんな人民服のような質素な服を着ていましたね。中国は深圳を始めとした四つの経済特区で、日本企業を誘致するために減免措置を与えることを考えていま
した。日本でもそうですが、企業が国外で法人税を支払った場合、国外所得について二重課税にならないように、自国の法人税額か
ら外国税額を控除する制度があります。この制度では、海外で減免を受けて外国での法人税が減額されたら、その分自国での税額控除が減って、減免の効果がなくなってしまいます。

 そのため租税条約には、外国で減免されたとしても、その分は法人税を「払ったとみなして」外国税額控除を適用することにより、減免措置の効果が法人に及ぶようにする仕組みがあります。私は中国の財政部の人たちの話を聞いてペーパーを書き、課長、局長まで了承をとって、四つの経済特区はみなし外国税額控除の対象にすることにしました。そのころの中国は1978年の改革開放から時間が経っておらず、まだ遅れていて貧しかったから、日本には中国の発展を助けようという機運がありました。中国が日本を非常に頼りにし、関係もすごく良い時代でした。

「それじゃ国で入れるか?」

──課税対象を増やすほうが大蔵省的には評価されるのでしょうか?

中尾 みなし外国税額控除は、もともと租税条約に基づき中国に進出する日本企業に対してインセンティブを与えるものだから、税収を増やすことが目的ではありません。主税局は大蔵省の中でも伝統のある強力な部門であり、非常に理屈を重視しているところがあって、私には居心地のよいところでした。

 1989年からの主税局の税制第一課課長補佐時代には、所得税制に加え、土地税制の見直しに関わりました。バブルのころですから、投機的な土地所有が増えて、地価が高騰していたことが問題になっていたのです。固定資産税による保有課税が弱いことが、土地の利用ではなく値上げを期待する所有につながっているという指摘がありました。私は30代半ばでしたが、各課の案をまとめて政府税制調査会の土地税制小委員会報告のもとになるペーパーをつくったり、報告に添付する「土地税制の経済効果」の原案を書いたりしました。

 ある日、課長の長野庬士さん(元証券局長)と一緒に自治省に行って、「(地方税の)固定資産税をもっと上げられないのか」という議論をしたら、「適切な理由がない」と言われたことがありました。固定資産税は資産としての市場価値ではなく、地方自治体のサービスの対価として土地の使用価値を基準に課税するものです。資産価値が市場での取引で上がったとしても、そのまま使用価値が上がるわけではないので、固定資産税を引き上げる理由にはならないというわけです。まったくその通りですよね。それに、100個の土地があったとしても、その年に取引されているのはせいぜい2、3です。ところが市場価値は、それ以外の土地も同じと考えます。

 自治省からの帰り道に長野さんは、「それじゃ国で入れるか?」と突然つぶやかれた。そのあといろいろの調整、交渉、法令の準備、国会審議を経て、一定規模以上の土地保有者を対象に、国税としての「地価税」が課せられることになりました。もっとも、導入してすぐにバブルが弾けて土地の価格は下落したから、地価税は停止されましたが。この経験を通じて、社会の必要性があれば制度を変えていくのが官僚の仕事であるという意識を強く持つようになりました。すでにある法律を前提としてそれを執行するだけでは、何のための中央省庁の官僚なのかわかりません。

各国の「通貨マフィア」たちの素顔

──その後1991年には国際金融局に移り、IMFやG7を担当する国際機構課の補佐、1994年にはIMF(国際通貨基金)に出向され、1998年には国際機構課長に就かれます。1991年以後、主に国際畑を歩まれていますね。

中尾 国際畑の醍醐味は、同じ分野で仕事している世界中の人たちと交流を持てることです。課長、次長、局長、財務官とそれぞれの時代に、同じような人と交渉するから、お互いに性格や考え方なんかもわかってくる。1993年のG7東京サミットの財務大臣代理による準備会合のことをよく覚えています。その年の4月に京都の都ホテルで開かれた会議には、財務官の千野忠男さん(元アジア開発銀行総裁)、それぞれ各国の次官級であった米国のローレンス・サマーズ(元財務長官)、フランスのジャン=クロード・トリシェ(元欧州中央銀行総裁)、イタリアのマリオ・ドラギ(前イタリア首相、元欧州中央銀行総裁)、ドイツのホルスト・ケーラー(元ドイツ連邦共和国大統領、元IMF専務理事)といった錚々たるメンバーが参加していました。

 日本は議長国なので、私は7人のほかに1人だけ書記として加わっていたのです。各国の「通貨マフィア」とも呼ばれる官僚が一堂に会するわけだから、議論はもちろん大事ですが、彼らの素の表情を垣間見ることができたのも興味深かった。食事の時にサマーズさんは小さなお櫃からそのままご飯を食べていたし、会議中もダイエット・コークばかり飲んでいました(笑)。私よりはずっとシニアな人たちですが、トリシェさんもドラギさんも私の顔は覚えてくれていて、今でもたまに会うと声を交わします。一昨年の秋に上海で開催された国際経済関係のフォーラムでは、先進国の産業政策の復活の問題が取り上げられ、横に座っていたトリシェさんと、日本の自動車産業と欧州のエアバスは、世界的な競争を促したという意味で「産業政策の成功例ですね」という話をしました。

ロシアのIMF参加とパリクラブ

──世界経済の重鎮たちの素顔を間近で見られるのは貴重ですね。

中尾 1990年代初のソ連の解体に伴い、ロシア支援という大きなテーマにも取り組みました。ロシアがそれまで入っていなかったIMFへの参加に際して、投票権にも連動するロシアの出資比率はどうするのかが問題になりました。ロシアは経済的な実力以上の比率を要求してきました。局長の江沢雄一さんと一緒に宮沢喜一総理のところに説明に行ったことがあります。宮沢さんは「なんでロシアがそんなことを言う資格があるんだ」と怒っていました。日本がシェアを上げていくのには、IMFの最貧国向け基金への拠出など、相当の国際貢献をしてやっとの思いということがあったからです。結局、ロシアのシェアは確か2・8%で決着しました。ちなみに日本は6%強でした。ロシアの市場移行を助けるためにIMFや各国からどのような支援をするのか、G7で一生懸命議論しました。ロシアは市場化して自由主義、民主主義の国になっていくだろうという期待があったのです。

 国際交渉の場として印象に残っているのは、パリクラブですね。パリクラブは、アフリカなどの途上国に対して公的債権を持っている先進国の代表がフランス財務省に集まって、債務の再編交渉をする場です。日本で言えば、国際協力銀行(JBIC)や国際協力機構(JICA)を通じた途上国への貸し付けが返済できなくなることがあります。債権の繰り延べや最貧国には免除までして、途上国経済の再建を図ります。

 パリクラブは1956年のアルゼンチン向け債権の再編が始まりです。国際収支上の困難があるときに、IMFがつくる経済改革プログラムを前提にし、抜け駆けして債権を回収したり、単独で緩い条件で合意したりすることはしないなどのルールがありますが、どの債権国も自分の債権を簡単にまけたり、返済を先延ばししたくないから調整はたいへんです。

 私も2002年から2年間、開発政策課長の時に何度も日本の代表として参加しましたが、インドネシアの再編交渉など金額の大きな難しい案件では、よく夜中の3時ころまで交渉して疲労困憊になりました。パリクラブは非公式な集まりなのですが、いったん結論を出したらみんなそれに従います。フランスは、優秀な官僚たちがパリクラブの運営に携わっています。各国の首席代表だけが集まって、セーヌ川を望む食堂でワインを飲みながらランチをする時間もありました。フランスのソフトパワーを感じました。

 ちなみに、中国はまだパリクラブには入っていません。中国は先進国が途上国を支援するのとは違って「南南協力だから入る必要がない」と言っているのですが、途上国の多くに多額の貸し付けをしているから、パリクラブに入っていないのは本来おかしいのです。日本は第2次世界大戦の前も、もちろんあとも、先進国のメンバーに早くなりたい、先進国としての責任を果たし、途上国を支援したいという意識を強く持ってきた。それに対し、中国は自分たちはまだ途上国だと主張しています。あれほど大きな経済力、金融力、軍事力を持った途上国というのは歴史上例がないのです。中国はそうした先進国の協調から離れて、無秩序に巨大な貸し付けをしてしまうので返済できない国が出てくる。

個人の経験や能力が重要になる世界

──「債務の罠」は「一帯一路」の負の側面として、ますます顕在化している印象があります。こうしてお伺いしていくと、国際畑だけに交渉される相手も多彩ですね。

中尾 貸している側も損をするので、「債務の罠」を意図しているとは思えませんが、結果的には債務問題を起こしています。国際金融などの分野には政治家もそこまで強い関心と専門性があるわけではないから、各国の官僚による専門領域と言えます。G7もパリクラブもクラブ的な集団だから、それだけに相手のことをよく知っておく必要があります。

 G7の大臣代理会合などで電話会談をするときは、最初は名前を名乗っても、議論がヒートアップしてくると声だけで誰が話をしているのか聞き分けられなくてはなりません。場合によっては、3時間も電話で議論することがあります。的確なことを言わないと聞いてもらえないから、英語力を大前提として個人の経験や能力が重要になる世界なのだと思います。もちろん財務省という組織の一員なのだけど、自分で考えて一人で交渉する機会が多いから、常に自分を鍛えていく努力が求められます。他国の参加者も、国益をかけて交渉する相手であると同時に、国際金融、援助などの領域で協力する仲間という気がしてきます。

 思えば、G7あるいはG20との関係だけでも、課長補佐時代の日本のバブル崩壊後の米国からの財政拡大圧力、ソ連の解体への対応、課長時代のアジア通貨危機の後始末とIMFによる危機対応の仕組みの改革、米国大使館での公使から戻ってから次長、局長、財務官時代のリーマン危機、欧州公的債務危機への対応など、さまざまなことがありました。G7の議長国も、課長補佐の1993年、課長の2000年、次長の2008年と何度も担当しました。いま俯瞰して振り返ると、各国の力関係や国際通貨制度、経済政策の基本的な考え方の変化を身をもって経験してきたと思います。

 1990年代からのアジアの存在感の拡大により、ASEANとの関係も強くなり、二国間の協議や日本とASEANとの会議も増えていきました。アジア通貨危機後には、日中韓とASEAN諸国が外貨準備を融通しあうチェンマイ・イニシアティブという仕組みができました。中国、韓国を含むアジアの高官たちとの交流もよい思い出です。外国で教育を受けて英語でコミュニケーションをとる人たちなので、価値観は似ていると思うことが多かったですね。

ミャンマーでアウンサンスーチーさんと面会。2016年6月

 

超円高時代に財務官に就任

──2011年8月に財務官に就任されます。中尾さんが財務官をされていた2011年10月には1ドル75円まで円高が進み、大規模な為替介入を行っています。 

中尾 1ドル75円は明らかに行き過ぎでした。米国やヨーロッパが金融危機が起きたあと拡張的な金融政策を続けていたとは言え、日本は3月に東日本大震災が発生したばかりで、経済が強いとは言えない状況でした。私が財務官になった直後と10月末からの2度のドル買い円売り介入をあわせて、外国為替特別会計で13兆6000億円を投じて1700億ドルを買いました。平均して1ドル79円ですから、ドルをすごく安く買ったことになります。どうにかそれ以上に投機的な円高に行くことは止めることができたと思います。

 米国は基本的に介入には反対の立場ですから、理解を得ることに苦労しました。日本の単独介入に対し米国が「円を安くするような介入はけしからん」といった声明を出したりすると、介入しても効果がなくなりかねません。米国はラエル・ブレイナードという女性の財務次官が相手で、何度も電話会議で交渉をしました。行き過ぎた円高には対応せざるを得ないと言っても、「市場に任せるべきだ」という原則が強くて、完全には説得することはできなかったのですが、ガイトナー財務長官と安住淳財務大臣の電話会談をセットしてくれました。米国に一応仁義を切ったうえで、ドル買い介入に踏み切りました。

ニューデリーでナレンドラ・モディ・インド首相と。2019年8月

 

アベノミクスの舞台裏

──2012年12月には民主党から自民党が政権を奪い返して、一転円安が進みます。

中尾 首相が安倍晋三さんに代わって、いわゆるアベノミクスが打ち出されました。政権交代前から公約で「大胆な金融緩和によりデフレ・円高から脱却をする」と標榜し、実際急速に円安方向に進んだので、海外からは金融政策で円安を誘導するのかと強い非難を受けました。一方、デフレ脱却という国内目的のための金融緩和ならわかるし、その結果としての円安なら容認するというのがブレイナードさんからのメッセージでした。それを受けて、自民党や政府の文書から「円安是正のために日銀の政策を変える」といった表現はすべて「デフレ脱却のため」に統一するように変更しました。

 そのような過程で、菅義偉官房長官の秘書官から電話があり、官邸に来るように呼ばれたことがあります。長官からは、リーマンショック後に米国が大胆に金融緩和して円が強くなったことを日本はだまって受け入れていたのに、なぜ円が少し安くなったぐらいで文句を言われなければならないのだとお叱りをいただきました。まったく正論ですよね。

 私からは、「長官のおっしゃる通りですが、米国もデフレ脱却の政策のいわば副作用としての円安であればよいと言っているのだから、どちらが得かで考えるべきです」と説明し、何とか納得いただきました。深夜に及んだ激しいG7代理の電話会議を受けて、2013年2月12日に発表されたG7財務大臣・中央銀行総裁の緊急共同声明でも、日本への非難は避けることができました。

 ブレイナードさんは、敵ながらあっぱれという優秀で立派な女性でした。電話口で小さな娘さんの声がすることがあったので、あとになって面会の機会に日本のお菓子を持って行ったら大変喜ばれました。

──今とはまるで逆の状況ですね。

中尾 今のように円が安すぎるのも深刻な問題です。欧米やアジアから日本にやってきた観光客は、日本の物価を「安い、安い」と喜んでいる。こちらは海外旅行にはこわくて行けない。シンガポールはもちろん、上海でもソウルでも物価は日本より高い。日本はアジアでは圧倒的な先進国だったのに、今や中間層に限っては相手国のほうが豊かな人が多くなっている印象です。背景には複合的な理由があるのでしょうが、極端な円安が一つ要因になっていることは間違いないでしょう。

 米国のFRB(連邦準備制度理事会)や欧州のECB(欧州中央銀行)がコロナ後のインフレ率の上昇に応じて政策金利を上げているのに、日銀だけがまだデフレ脱却を確実にするためと、慎重な姿勢を続けています。米欧と日本の中央銀行のスタンスの違いが、最近の極端な円安を招いています。物価、そしてその前提になる為替の安定は、本来金融政策の責任です。円が安くなると株が上がる傾向はありますが、それは輸出志向で海外に資産がある大企業が有利になるからで、一般国民は輸入物価の上昇に苦しんでいます。日本人の購買力や存在感が小さくなることは、国益に反すると思います。

モンゴル訪問中、財務大臣のゲルを訪ねて馬に乗る。2013年7月

 

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