オールドメディアの現状とジャーナリズムの行方【白戸圭一】【米重克洋】

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『公研』2025年8月号「対話」

若い世代を中心に新聞・テレビ・雑誌などの旧来メディア離れが著しい。

インターネットは勢いを増し続けているが情報の精度には疑問が残る。オールドメディア衰退の背景を探り、ジャーナリズムの行方を考える。

先の参院選についても考察いただいた。

立命館大学国際関係学部教授     JX通信社代表取締役

  白戸圭一             米重克洋

 


しらとけいいち:1970年生まれ。95年立命館大学大学院国際関係研究科修士課程修了後、毎日新聞社に入社。ヨハネスブルク特派員、ワシントン特派員などを歴任。2014年に三井物産戦略研究所に移り、欧露中東アフリカ室長などを経て、18年より現職。現在、立命館大学国際地域研究所所長を兼務。著書に『はじめてのニュース・リテラシー』『アフリカを見る アフリカから見る』『ルポ資源大陸アフリカ―暴力が結ぶ貧困と繁栄』など。


よねしげかつひろ:1988年生まれ。学習院大学経済学部在学中の2008年に19歳で報道ベンチャーのJX通信社を創業し、同大を中退。「報道の機械化」をミッションに、国内の大半のテレビ局や新聞社、政府・自治体に対してAIを活用した事件・災害速報を配信するFASTALERT、ニュース速報アプリNewsDigestを開発。選挙情勢調査の自動化ソリューションの開発や独自の予測、分析の提供など、テクノロジーを通じて「ビジネスとジャーナリズムの両立」をめざした事業を手がける。著書に『シン・情報戦略』がある。


 

 

情報環境は年代によってまったく異なる

 白戸 今日は「オールドメディアの現状とジャーナリズムの行方」といったテーマについてお話ししていきます。最初に自己紹介させていただきますと、私は今年で55歳になりました。メディアの問題を考えるときには、年代によって情報環境がまったく違っているので、育った情報環境を確認しておくことが大事だと思います。

 私はちょうど30年前の1995年に毎日新聞社に入社して、2014年まで20年間新聞記者をしました。最初は鹿児島4年、福岡3年の地方勤務。その後、東京に転勤して外国のニュースを扱う外信部に配属され、政治部を兼務しました。大学院の修士課程でアフリカの政治を勉強していたので、会社に「アフリカに赴任したい」と伝えていたところ、入社10年目に希望が叶い南アフリカのヨハネスブルク支局に派遣されて、家族と一緒に4年間駐在しています。

 帰国後は政治部で総理大臣官邸、与党、野党を担当した後、今度はワシントン特派員になりました。記者として新聞社の中枢での仕事を経験させてもらっていたわけですが、ワシントンで3年経過したところで新聞社を辞めました。

 その後、総合商社の三井物産が設立した三井物産戦略研究所に転職して、アフリカ諸国の政治経済情勢のリサーチを専門としました。2018年からは立命館大学で、アフリカ研究と国際ジャーナリズム論という講義を担当しています。

 米重 私は1988(昭和63)年生まれですから、昭和の最後ですね。37歳になりました。世代的な特徴としては大きいのは、メディアシフトを肌で体験してきたことだろうと思います。デジタルネイティブという言葉がありますが、我々はその走りの世代です。私自身も小学校の途中ぐらいから携帯電話に触れていたし、家庭でもインターネットにつながったパソコンを使ってきました。私よりも下のZ世代になると、もうスマホネイティブですよね。幼い頃からスマートフォンでSNSに触れているわけですから、メディア環境という意味では激変しています。

 私自身は小さい頃から新聞やテレビニュースが大好きで、選挙の票読みなどが好きでした。それが高じて、大学在学中に報道ベンチャー「JX通信社」を起業します。人海戦術で行われてきた様々な取材、情報の収集、編集・発信のプロセスをなるべく機械化していくことに取り組み、事業を成長させてきました。仕事に専念するために大学は中退しています。

 JX通信社では2016年に災害情報や事故、事件の情報をAIで処理して、どこで何が起きたのかを分析して、報道各社や企業に配信する「FASTALERT」というソリューションの提供を始めています。今や全国の大半のテレビ局や新聞社で活用されているほか、政府・自治体やインフラ企業、製造業などの企業にも導入が広がっています。加えて、世論調査の自動化や新しい調査技術の開発にも2017年以降取り組んできました。報道各社にいち早くオートコールの電話調査やネット調査の導入を進めてきました。

 直近の1年間は、自分が経験してきたメディア環境の変化やそれによって生じる新たな問題意識が、実際の選挙にも影響を与えていることが確認される事象が相次ぎました。兵庫県知事選挙や衆議院議員選挙、先日行われた参議院選挙ではそれが表面化した例と見ることができるのだと思います。私にとっては、いま起きていることが「クリアに見えた」「わかった」という感覚を深めた1年でした。

 

自民敗北の原因は「政治とカネ」だったのか?

 白戸 米重さんが雑誌『新聞研究』2025年1─2号に寄稿された「メディアシフトが変えた選挙の姿──転機を迎えた選挙報道」を読ませていただきましたが、感銘を受けました。この号では、昨年行われた衆院選を総括する特集が組まれており、新聞社のデスク級の記者たちが、自民等の敗因について分析記事を書いていました。しかし、彼らには申しわけありませんが、そうしたデスクたちの書いている分析が凡庸なのに対し、米重さんはものすごく鋭い指摘をされていると感じました。

 米重 ありがとうございます。光栄です。

 白戸 昨年の衆議院選挙では、自民党が敗北して過半数割れを起こします。その際に多くのいわゆるオールドメディアと言われている新聞社とテレビ局は、「政治とカネ」の問題に有権者が怒って、それで自民党は議席を失うことになったと報道しました。

 もちろん、そうした側面があるのは間違いないでしょう。「政治とカネ」の問題で自民党に良い印象を持っている有権者はいません。けれども米重さんは、「自民党の敗因は、本当に『政治とカネ』だったのだろうか」「他に大事なことを見落としてはいないだろうか」と疑問を提起されている。

 米重 当時の報道では「政治とカネ」にかなり焦点が当たっていましたが、一方、世論調査では関心事のトップは常に「物価高への対策」でした。

 白戸 今回の参院選の報道で、新聞・テレビはようやく「物価高対策」を中心に据えるようになりましたが、昨年の衆院選に関する報道で中心に据えていたのは「政治とカネ」の問題でした。衆院選を振り返った『新聞研究』における新聞社のデスクたちの総括記事もそうでした。

 いま新聞社でデスクをしている人たちは40代半ばから50代初めぐらいで、私より少し若い人たちですが、我々は1980年代後半から90年代にかけての若い頃に、リクルート事件、金丸信・元自民党副総裁の脱税事件に端を発したゼネコン汚職事件、野村、日興、山一、大和の4社の証券会社が検挙された小池隆一総裁屋事件などを見てきた世代です。自民党とカネの問題に憤りを覚えてジャーナリストを志した人がそれなりにいるので、我々の世代の記者は「政治とカネ」の問題には敏感になるんですね。テレビに出ている評論家などで私よりも上の世代の方では、その傾向はさらに顕著です。

 しかし、私は大学で教えるようになってから、卒業生を含む若い世代との接触時間がものすごく長くなっていますが、彼らが我々の世代のように「日本の政治がカネで歪められている」という問題に最大の関心を抱いて投票しているとは到底思えません。そして現に、昨年の衆院選で国民民主党などに投票した若い世代の人たちは、「政治とカネ」より「手取りを増やす」とか「所得を増やす」などの経済政策に関心を持って投票していました。

 問題は、オールドメディアの幹部に当たる私の世代が30年経っても自分の若い頃と同じ感覚で、政治や世論を「分析」してしまっていることではないでしょうか。私も同じ世代ですから「政治とカネ」に目が行く気持ちはわかるのですが、衆院選にしても、その後の兵庫県知事選にしても、ベテラン記者ほど今の社会で起きている現象をきちんと総括できていないのではないか。米重さんが『新聞研究』に書かれた記事の中で、データを用いてその点を鋭く指摘しておられたのが印象的でした。

 米重さんの論考でもう一つ興味深いと感じたのが、メディアシフトに関するご指摘です。若い人たちは新聞を読まないしテレビも見なくなっていて、ネットから情報を得ている割合が高くなっている。

ネットを駆使した選挙運動が大きな効果を生んでいる

 米重 私は、インターネットを使った選挙運動が解禁された2013年以降のネットと選挙の関係をフェーズ1、フェーズ2に分けて考えています。フェーズ1は、ネットによる選挙運動で全体の投票率の数パーセントを獲得すれば当選する状況です。参議院の全国比例や市議会選挙の大選挙区で1議席を取るような状況ですね。こういう選挙においては、わりあい早い時期から当選のためにネットを活用することが有効でした。ただ、選挙全体への影響は限定的でした。

 ところが2024年になってからは、それが数パーセントではなくて数割の得票率を取るようになっている。東京都知事選挙、兵庫県知事などの選挙で、インターネットを使った選挙運動がワークするようになったのが決定的な変化だと思うんですよね。私はこれをネット選挙のフェーズ2と呼んでいます。参政党が躍進した今回の参議院選挙はフェーズ2に完全に移行したことを象徴的に示したと思います。

 フェーズ1からフェーズ2に進展するにあたっての最も大きなポイントは、メディアシフトで投票に行く人たちの世代とネットを通じて長い時間メディアに接触する世代が重なったことだったと思います。総務省が毎年出している「情報通信白書」などの調査では、テレビとインターネットの接触時間を世代別に集計しています。これを見ると、2021年以降は基本的にネットのほうが接触時間は長くなっています。2023年のデータでは、大体50代より下の世代は基本的にネットのほうがテレビよりも視聴時間が長くなっている。

 白戸 高齢になればなるほど、テレビを見ている時間が長くなるわけですね。私が子どもの頃「テレビばっかり見てんじゃない」と怒っていた親が、今は朝から晩までにテレビを見ている80代になっていて、息子の私から「いい加減にしたら」と言われてます(笑)。

 米重 本当にそういう感じですね。一般的に選挙で投票率が高いのは40代後半から70代ですが、この世代でも、テレビよりネットを見る層の割合が高まってきているのです。ここ数年はそうした傾向がさらに強く出ていましたが、2024年に一定の閾値を超えたので、世間でも急に選挙にネットの影響が色濃く出ているように感じられたのではないかと見ています。

 メディアシフトは、社会全体のなかでかなり急速に進んでいます。30年前くらいの私の幼い頃は、情報流通はほとんどがいわゆる4マス(テレビ、新聞、ラジオ、雑誌)で占められていました。ところが、今はもう一億総メディア時代です。誰でもSNSを使って発信できる時代になっている。これはやはり選挙の結果に限らず、社会に大きな影響を与えていることは間違いない。

マスコミは嫌われている

 白戸 全員が新聞社でありテレビ局のような状態になっているわけですよね。

 米重 おっしゃる通りです。一億総メディア時代と言っても良いくらい、情報の出し手が格段に増えました。結果、競争相手が星の数ほどいる状態になっている。そうなると、当然メディアを見る目も厳しくなります。

 「敵対的メディア認知」という概念があります。これはマスコミなどの報道が中立であっても、偏っていると見なしてしまう心理的なバイアスを指すものです。メディアシフトについて世論調査で質問すると、世論に内在する敵対的メディア認知の強さに驚かされます。マスコミは、政治権力と同様の忌避すべき対象のように見られ出している。わかりやすく言えば、嫌われてしまっている。

 一方で組織ジャーナリズムとして情報をきちんと確認をして発信することや、バリューを判断してから出すといった機能自体はむしろ情報爆発時代の今こそより必要だと思います。ところがマスコミは媒体ごと支持されない状況になりつつあって、それが選挙を契機に露呈し始めています。私はこのことに危機感を持っています。

 白戸 まさにメディアを取り巻いている環境そのものが大きく変わっているので、報道の役割が問われているわけですね。米重さんのお話を聞いていて、「富士フイルム」という会社を思い出しました。ご存じのように元々はフィルムを作っていた会社でしたが、デジタルカメラの普及でフィルムが売れなくなります。このままでは会社が存続できないという状況に陥って、フジフィルムは大転換を迫られた。社名こそ残しましたが、フィルムを開発製造するために使っていた薬品に関する知識を活用し、医薬品や化粧品の開発などに業態を転換させることで生まれ変わりました。

 つまり新しい技術が出てきて、自分たちを取り巻く社会の環境が激変した時には、企業は自分たちの仕事を再定義せざるを得ないと思うんですよ。私が毎日新聞社に勤務していた1995年から2014年の20年間の前半10年は、昔ながらの新聞社のあり方そのままでいられた最後の時期だった気がします。後半の10年は、本来であれば富士フイルムが断行したような大変革が必要だったのだと思います。今の社会に必要とされる新聞社であり続けるために、自分たちの仕事を再定義しなければならなかった。

 もともと新聞社やテレビ局などのオールドメディアに求められていた役割は、まずストレートニュースの配信があります。従来はマスメディアにしかできなかったことです。

 それに加えて、例えば権力の監視的な意味も含めた調査報道がありました。毎日新聞も頑張っており、そこから旧石器捏造事件のようなスクープも生まれています。それから解説機能も新聞の役割ですね。世の中の仕組みがだんだん複雑になっていますから、人々が知りたいことに答えてわかりやすく説明するわけです。

 しかし、メディアを取り巻く環境が変わると、今まで通りの役割を果たしているだけでは社会から信用されないし、生き残れません。社会が激変しているときには、会社を取り巻く環境についてよく考えた上で、報道の内容や仕事の仕方を見直す業態変革をやらないと生き残れない。それをやっていたかと言えば、自分自身もよく考えていなかったし、私より上の世代はもっと考えていなかったと思います。もちろん社によって差があり、例えば日本経済新聞はかなりの程度デジタルへの転換に適応してきたでしょうが、自分が勤めていた毎日新聞社はうまくできなかったと思います。

ネットにはゴミのような情報が溢れている?

 米重 インターネットの受け止め方は世代によってだいぶ差がありますから、デジタル転換と言っても実際にはむずかしいですよね。

 白戸 私が新聞社で勤務していた当時幹部だった現在70代くらいの方々の中には、「ネットはゴミのような情報が溢れていて、人を中傷するばかりのどうしようもない連中が使うツールだ」と言っている人がいました。一面ではそれは事実です。けれどもネットの役割はそれだけではないのに「ネットなんてものを相手にするのはおかしい」という程度の認識で、メディアシフトに適応していくべき時代をやり過ごしてしまった。私はワシントン特派員だった2011年の頃から自信が属する新聞社の仕事の仕方やニュース選定の基準はおかしいのではないかと感じていて、新聞社を批判する論考を書いていました。

 米重 毎日新聞の紙面にですか?

 白戸 さすがに毎日新聞にはそうした記事は掲載してもらえないので、外部媒体に書いていました。特に新潮社の『フォーサイト』というウェブメディアにはそうした内容の記事を掲載してもらっていました。そうすると、後輩の記者が「白戸さん、こんなことを書いたらマズいんじゃないですか? 処分されませんか」と心配して電話をくれたことがありました。若い後輩記者はきちんとウェブメディアを見ていましたからね。けれども、何のお咎めもなかった。

 後でわかったのは、当時の幹部世代はそもそもそんなウェブメディアを見ていなかった(笑)。視界にも入っていない。入っていたとしても、ネットなどというのは自分たちに比べればレベルの低い人間たちがやっていて、見ている側も低俗な連中なのだから、放っておけばいいと考えていたのでしょう。そういうことをはっきり言っていた人の顔も思い浮かびます。そんな認識でしたから社会の変化に適応できていないのは当然です。残念ながら「変わるべきタイミング」で変われなかった。

 選挙に関する報道は、旧態依然とした仕事の仕方の典型的です。私が記者だった頃は、選挙の告示が始まったら「自分の考え」は1ミクロンも盛り込んではならないと徹底的に教育されました。そして、各候補者の情報を新聞に載せるときは、行数・字数まで揃えるわけです。ある候補者が大きな問題を抱えていたとしても、それには触れず、横並びを徹底する。基本的には今もそういう報道が続いている。

 

メディアシフトがオールドメディアに与えた打撃

 米重 それでは有権者は新聞を読まなくなりますよね。紙幅の調整は、マスメディアが社会の情報流通のほとんどを牛耳っていた時代であれば、公平性を担保するために必要な配慮だったとは思います。けれども今はSNSやYouTubeなどのネットメディア・プラットフォームか数多あるので、新聞はone of themに過ぎない状況です。マスメディアだけ昔の影響力基準で自主規制するのは、自分で自分を縛っている。

 白戸 別に公職選挙法で禁じられているわけでもないのに、自主的に自分たちを縛っていました。SNSが出てきても何も変えようとしなかった。

 米重 先ほど富士フイルムの例がありましたが、業態転換は私もポイントだったと思います。90年代以前の大手新聞は、今で言うNTTドコモ、KDDI、ソフトバンクのような通信キャリアに似た位置にいたというのが私の考え方です。要は社会の情報流通のプラットフォームの一つでした。朝刊と夕刊、そこに折り込みチラシを入れて全国どこでも戸別配達で各家庭に届ける。まさに生活の中心にある重要な情報インフラを担っていました。

 それが通信環境の改善や端末の進化によって、小さな機器にワイヤレスで情報がどんどん届くようになった。最初は文字しか送れなかったのが写真も動画も送れるようになった。リアルタイムに多くの情報が得られるように変わってきた結果、新聞が果たしてきた役割が急速にスマートフォンなどに奪われていきました。

 今の通信キャリアは莫大な月額収入があって、それを元手に非常に潤沢な投資をしています。かつてはまさに新聞社が同じような立ち位置にいたわけですが、購読部数の減少やメディアシフトにより、以前のような影響力を発揮できずにいる。白戸さんがおっしゃるように、組織ジャーナリズムや新聞社が担ってきた役割を再定義しなければならない状況です。

 私は、新聞社やテレビ局が担ってきた確かな情報をコンスタントに届ける、情報のライフライン的な機能は今後も向こう30年、50年と残すべきだと考えています。しかし、今までの仕事の仕方や仕組みでは残せないというのが私の持論です。というのは、私の目から見た報道機関は何から何まで人海戦術に頼っているからです。

 白戸 オールドメディアの世界に行った若い卒業生たちは、アナログ過ぎてびっくりしています。今の若い人から見た驚きでしょうね。どういう新しい方法があり得るでしょうか。

 米重 例えば、災害や事故が起きたときに、今までなら警察や消防に2時間に1回電話を掛けていましたが、そこをなるべく自動化できないかと。そうすると新聞記者が情報を伝えるよりも、災害現場にいる人たちが直接SNSなりに情報を上げているものを集約するのが一番早い。スマホで写真も動画も簡単に撮れますからね。ある意味では、バーチャル記者的な仕組みです。この仕組みが先ほどお話ししたFASTALERTです。おそらく2017年以降に新聞社やテレビ局に入社した若い記者の皆さんであれば、ほとんどの方は我々のサービスに馴染みがあるのではないかと思います。

 そういうかたちで、少しずつでもテクノロジーに置き換えていくことをやっていきたいですね。もっと言うと、機械でもできることは機械に任せて人間は人間でしかできないことをやる。そうするとコストを劇的に下げつつ、付加価値が上がるところに人間の力を集中できる。

 もう一つは、ニュースや情報の価値判断に関わるところでも変革が必要だろうと思います。かつては紙幅や尺の限界のなかで、重要な情報だけを絞り込んで提示することがメディアの重要な役割でした。けれども、一億総メディアとも言える現代では、一般の方の投稿も含めて社会のなかに莫大な量の情報が流通しています。要は情報は爆発的に増えているのですが「確かな情報」「裏付けのある事実」を見つけるのがものすごく難しくなっている。結果、確かな情報はレアアースのような希少財になっているのが今の状況だと思っています。これからの時代、報道機関がやらなければならないのは単純な価値判断で情報の足を切るということではなくて、膨大な量の情報を検証し、裏付けや確認をして発信していくことだと思います。確かな情報を、大量に、且つコンスタントに供給することです。これは人海戦術的なやり方でこなすのは不可能ですから、機械的に捌くことが必要になります。

 その一方で、確かな情報を踏まえて背景を探るような、人間にしかできない報道にこそ人的リソースを投入すべきではないか。我々JX通信社はその機械化の部分に関しては、解決策を提供できると考えています。

 

「人海戦術」は日本人の習性

 白戸 人海戦術という言葉を聞くと、どうしても記者時代の幾つかの場面を思い浮かべざるを得ません。私は海外勤務が長かったのでよくわかるのですが、人海戦術は、世界の中で日本のメディアに最も顕著な現象なんですよね。あえて言えば韓国メディアにも似たところがありますが、日本はズバ抜けています。

 私がワシントンに赴任していたときに、先進国首脳会議──当時はロシアも入っていたのでG7ではなくG8──が開催されました。プレスセンターには50人くらいの記者がいると、その半分以上が日本の記者なんです。NATOの首脳会議でもAPEC首脳会議でも日本の記者が一番多い。

 米重 なぜ日本だけ多くの記者が詰めかけるのでしょうか?

 白戸 細かいことも大きなことも、細大漏らさず網を張ろうという日本の新聞人の考え方なの反映なのだと思います。これは、メディアの人間だけの特徴ではなくて、おそらく日本人の働き方やメンタリティの深いところに関わっている気がします。

 例えば、首相官邸の玄関には全社の政治部記者がべったり張り付いている。私が駐在していた米国のホワイトハウス、あるいはアフリカの南アフリカやケニアの大統領府を見ても、46時中記者が張り付いているようなことはあり得ません。ムダを削ぎ落として必要なことを選択して集中するのではなく、とにかくすべてを捕まえるという発想です。

 米重 すごい横並び意識ですね。なぜ日本だけそういう発想になってしまうのか不思議ですよね。

 白戸 最近、『小学校~それは小さな社会~』というドキュメンタリー映画が国際的に注目されました。東京の世田谷区の公立小学校を1年間撮影した映画ですが、「6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、12歳になる頃には、日本の子どもは〝日本人〟になっている」というキャッチコピーが付いているんです。

 つまり、日本の小学校では、朝礼での「前ならえ」から始まって、縄跳びは全員が跳べるようになるまで、みんなで教室の壁に張った紙の上にシールを貼って競争していくとかね。運動会も楽しむことより時間通りに競技をこなすことが重視されるので、徹底的に予行演習します。卒業式も何度でも予行演習する。事前に決めた通りできることが、至上の価値であるかのように小学校を通じて刷り込まれるわけです。結果として、生産性や効率を考えるよりも予定調和や規律を重視するようになると。

 米重 小学校時代の教育が影響している。

 白戸 カルチャーなので簡単に変わらないでしょう。ただ、そうは言っても、良い面を残しつつ、変わるべき面は変わらないと先には進めないし、若い世代が日本社会の悪しき側面を変えようとしていることは本当にすごいなと思っています。

 米重さんは、高校生や大学生の頃に新聞やテレビなどのオールドメディアで働いてみようと考えたことはなかったのですか?

 米重 それはなかったですね。新聞社やテレビ局に就職しても、時間を掛けて昇進していかなければ自分がやりたいことは実現できないだろう、それではいろいろ間に合わないと考えました。

 白戸 待っているくらいなら、起業しようと考えられたわけですね。

 

オンラインでも稼げるニュースメディアをつくりたい

 米重 起業のきっかけは「オンラインでも稼げるニュースメディアをつくりたい」と考えたことでした。2000年代前半から半ばにかけて、いわゆる市民記者ジャーナリズムみたいなものが少し流行った時期がありますね。

 白戸 韓国でもありましたね。

 米重 代表的なものがオーマイニュースです。ソフトバンクが出資して2006年には日本にも上陸します。あの時期には他にも、JanJanやライブドアPJニュースなどの似たような取り組みがいくつかありました。私はその挑戦を横目で見ていました。上手くいくところもあるのかなと思っていましたが、数年ですべて潰れました。大きな衝撃でした。オンラインではニュースメディアはやっていけないのだなと思い知らされることになりました。ただ、失敗した先行例を見届けたことが、報道ベンチャーJX通信社を立ち上げる一つのきっかけになりました。オンラインでも生き残れる、新しいニュースメディアのビジネスモデルを模索したいと考えたんです。

 白戸 紙の新聞やテレビをネットに変えるだけではダメだと思ったわけですね。

 米重 おっしゃる通りです。そこで考えたのは、確かな情報を届けるという機能や役割は維持しながら、もうちょっと視野を広げようということでした。つまり、これからの時代は新聞社の競争相手は新聞社ではないし、テレビ局の競争相手はテレビ局ではないということです。一億総メディアというくらいですから、スマートフォンやパソコンを通じて誰しもが発信者になれる。情報は無数に溢れていますから、その中で抜きん出ないと選ばれないしお金が入ってこない。今はそういうビジネスになっていますよね。ところが日本の新聞社の記事などを読むと、未だに競争相手は

 白戸 他紙、つまり同業他社。

 米重 そうなのだと思います。私は新聞という媒体を愛していますが、基本的にデジタルでしか読まないので紙の新聞はもう触れていません。

 白戸 私も紙の新聞はこの10年くらい配達してもらっていないです。すべてネットで契約して読んでいます。

 米重 先日たまたま紙の新聞まとめて触れる機会があって、その日の1面トップは昨年1年間の日本の出生者数が70万人を割ったというニュースで共通していました。本当に全部一緒だったんですね。もちろん文章は違いますが、書いてあることはだいたい一緒でした。

 白戸 ああいうニュースは多くの場合、厚生労働省の投げ込みですからね。

 米重 日経新聞は経済的な角度から切っていたので、若干違いましたが、その他は基本的には一緒でした。そうすると、読者はわざわざ新聞からどこからでも知れるような情報を得たいのだっけ? と疑問に感じました。

 白戸 百歩譲って通信社一社が報じれば済む話です。それを新聞社はそれを買えばいいわけですから。

 

海外メディアの記事を読むようになり日本の新聞のつまらなさがバレた

 米重 そうなんですよ。新聞社は自分たちで取材して自分たちで書く自前主義にこだわりがあるのかもしれませんが、読者から見るとその新聞を選んで購読しなければならない理由が見当たりません。もっと言えば、なぜネットではダメなんだっけ? という話になります。結局、その新聞を読んだからこそ得られる情報や、読んだからこそ得られる角度の付いたナレッジを提供できていない。

 生成AIの発達によって翻訳機能が著しく進歩しましたから、かつては四苦八苦しながら読んでいた海外のメディアの記事をパッと日本語で読めるようになりました。

 白戸 ワンクリックですよね。本当に格段に仕事が捗るようになりました。

 米重 そうなんです。ニューヨークタイムズ、BBCなどのニュースサイトに接するようになると、日本の新聞記事よりもずっとおもしろいことに気付かされます。

 白戸 よくわかります。

 米重 本当にそうなんです。明らかに角度も違うし、情報量も速さも違う。リソース的にはそんなに大きな違いはないのだと思いますが、日本の新聞の記事は読んでいても予想を超えることは少ないし、読み応えが弱いんですよ。

 白戸 元々フランスやイギリスのメディアはインターネットが普及する前から、通信社と新聞社の役割がはっきり分かれていたと思います。今の出生者数のニュースは、要するに政府の公式発表なので、そのまま発表の内容を伝えているだけであればオリジナリティはまったくありません。

 新聞社の記者は自前で公式発表を取りにいくのではなく、出生率がこんなに低くなった背景を自分なりに解説するか、さらにいろいろなところに当たって深掘りする取材をすることで独自の記事をつくるのが望ましいわけです。欧米の海外のメディアは、その取材に記者というリソースを投入してきたと思います。

 ところが日本の新聞社は、他紙よりも早く報道することに躍起になり、同時に他紙よりも報道が遅れることを「特落ち」といって非常に恐れてきたました。私が若い頃は、公式発表より半日早く紙面に掲載しただけで「特ダネを書いた」と褒められて、社内で賞がもらえました。実際は半日経てば皆が知ることになるわけですから、速さにこだわっても無意味なはずです。

 でも、記者になって6年目くらいの時、「警察官の自宅を夜回りして捜査情報の一部を教えてもらい、半日待てば必ず公表される事実を他社に先んじて報道することにどんな意味があるんですか?」と社内の部会で発言したら、あとで上司に呼ばれてたっぷりお説教されました(笑)。その上司自身も結局、自分のやっていることを疑問に思いながらも「若い時は理不尽なことでも我慢してやるしかないんだ」ということくらいしか言えない。読者から見ればまったく意味のわからない業界内競争をひたすら続けていました。

 

記者に経営はムリ

 米重 日本にそうした傾向が根強くある背景には何があるのでしょうか? 何かお考えはありますか?

 白戸 戦後の日本ではひたすら人口が伸びていましたから、新聞の記事の内容に関係なく部数が伸び続けてきました。だから極論すれば、自分たちの仕事の仕方を見直す必要性を感じなかったのだと思います。終戦の1945年の時点で約8500万だった日本の人口は、ピーク時の2008年には1億2800万まで増えました。私が毎日新聞に就職した2年後の1997年に、紙の新聞の発行部数は最高を記録しています。インターネットは一部の人が使い始めただけでしたし、新聞の黄金時代ですよね。そういう状況でしたから、新聞業界の中でだけで他紙と競争していれば良かったし、読者のニーズを丁寧にくみ取って自分たちを改革するような発想はまったくなかった。危機感を持っていろいろなことを考えていた人は新聞社内にもいたが、社の「主流派」にはなれなかった。

 米重 恵まれた環境にいたために現状維持でもやって来られたわけですね。

 白戸 そういうことだと思います。そうした中でも、極少数ではありますが新聞業界の抱えている問題に自覚的だった幹部もいました。ある時、その方が私に「2010年代に入るくらいまで、そもそも新聞社の経営者なんて、他の業界に比べれば本当の意味での企業経営なんかやってこなかったし、できもしなかったんだよ」とおっしゃっていました。他業種が直面してきた切羽詰まった競争や潰れるかもしれないといった危機意識に向き合って経営したことなど一度もない、という意味です。

 ところが2010年代に入って人口減少が始まり、メディアシフトの影響もあって急激に新聞離れが深刻化しています。部数も減少の一途を辿っている。まさに経営危機と言える状況ですから、いくつかの新聞社は潰れることになるのだと思います。

 ところで、いま私が発言していることを新聞社の幹部がご覧になったら、「そんなに偉そうなことを言うのなら、お前が経営してみろ」という話になると思うんですが、私は国際報道記者、国際情勢のリサーチャーとして生きてきた自分に企業を経営する能力がないことを重々わかっています。

 私はジャーナリズム(新聞記者)からビジネスリサーチ(総合商社系シンクタンク研究員)、それからアカデミズム(大学教授)とまったく違う世界に転職を繰り返しましたが、その過程でつくづく感じたことは、経営者として企業を経営していくには、やはり「ビジネスマンとして訓練されること」が重要だということです。

 日本の多くの新聞社では、記者上がりの人物が社長をやっています。むかし読売新聞は販売畑出身の人が経営者になった時期がありましたが、基本的には記者として社内の出世レースを勝ち抜いた記者が「上がりポスト」として役員になり、その頂点に社長がいるという構造です。

 「言論機関としての独立を守り抜く」という意味でそうした構造が正当化されてきましたが、50歳になるまで財務諸表を見たこともなかった社会部や政治部の記者が、慌ててバランスシートの読み方を勉強して「企業経営者」になっているわけです。金融、製造業、サービス業など一般企業で「ビジネスマン」としてお金を稼ぐための訓練を積んできた経営者たちとは根本的に違う「素人経営」です。「新聞社は経営と編集をきちんと分離すべきだ」と長年にわたって指摘されてきましたが、なかなかそれができていないのが現状です。

 米重 同じようなビジネスモデルでも、例えばブルームバーグやロイターなどは、ビジネスのあり方が日本の新聞社・通信社とはずいぶん違っているように思います。金融や経済の情報提供をメインにしていますが、金融マーケットに自分たちの存在をきちんと定義していることが大きいですよね。

 

ビジネスとジャーナリズムの両立をテクノロジーで実現する

 白戸 専門的に特化した領域でお金を稼いで経営を成立させ、そこで稼いだお金でジャーナリズムのところに持っていくビジネスモデルになっていますよね。

 米重 漠然と社会においてジャーナリズムや確かな情報が必要であると訴えるだけではなくて、具体的にお客様の課題を解決することで利益を得る仕組みになっていると思います。顧客のビジネスに必要な情報や課題解決策を提供することで、購読料や課金してもらう意義を説明できている。

 こうした視点は、今の日本の新聞社やニュース産業全体に不足しています。逆に言えば、今後10年くらいはそちらの方向に急速していかなければ、産業全体が沈んでしまいかねない懸念を感じています。

 白戸 ただビジネスマンに新聞社を経営させることに、編集・制作の現場で恐怖を感じる記者はすごく多いです。収益だけですべてが測られることになって、ジャーナリズムの現場が抑圧されることになるのではないかと。確かにそれは分かります。米国のワシントンポストは、今それで揉めています。それでも経営と編集は分離して、それぞれが自分たちの仕事の内容をアップデートして見直さざるを得ないと思います。

 米重 私はよく「ビジネスとジャーナリズムの両立をテクノロジーで実現する」と言っていますが、ジャーナリズムを突き詰めるためにビジネスの側面は無視して良い、触れなくて良いということではなくて、両者は一体不可分なものであるべきだと私は考えています。結局ビジネスとして成り立たなければ、意味がない。

 私もいちベンチャー企業の経営者ですが、その立場からすれば、経営は端的に言えば資源配分なのだと考えています。どこにどういう資源をどれぐらい配分すれば、収益が一番上がるのかを見極めて、動かしていく。その上でジャーナリズムの価値を最大化していくという考え方が必要になります。

 全体のなかでコストの割合が高いのは多くの場合、人件費ですよね。人間に資源が厚く配分されているのであれば、付加価値をかなり多く生み出さなければなりませんが今はそうなっていないように思えます。

 そうすると、やはり資源配分を変える必要があります。今まで人手でカバーしていた情報収集などは、テクノロジーに代替してもらう。中には今まで出していた情報を出せなくなるということもあるでしょうが、それも決断した上で資源の配分を変えることで、新聞社が生まれ変わり報道産業が再び成長産業に変わっていく道筋はあると考えています。

 幅広く世の中を見てみると、コンテンツを発信する商売してきた業界は新聞以外にもいろいろあります。どこも同じようにデジタルの課題に直面したときに、そこを突破してV字回復している業界がいくつかありますよね。例えば漫画、アニメなどは代表例です。

 白戸 もう電子書籍の大半がコミックですもんね。

 米重 音楽もそうですよね。CDは売れなくなりましたが、サブスクリプションの普及で業界はV字回復している。他所の業界でできているわけだから、報道産業でももう一度成長するビジネスモデルをつくることは可能だと、私はあえて楽観しています。その希望を実現するテクノロジーを提案するのが我々の仕事だと思いながらやっているところはありますね。

 

若い記者の離職が相次いでいる

 白戸 現場の記者としては、まったく相反する二つの要求を突きつけられて悩んできました。一つはストレートニュースをとにかく一刻も早く流せと命じられる。もう一つは、その記者ならではの調査報道みたいな記事を書けと。

 米重 矛盾していますね。

 白戸 そうです。一人の人間が両方できるわけないんです。米重さんがおっしゃるように、新聞社はストレートニュースをすべて担っていくことは諦めたほうがいい。独自の報道に活路を見出すべきでしょう。ただ、そうすると記者の淘汰が始まることになります。新聞社の中でもオリジナルな記事を書ける能力を持った記者は限られていて、ストレートニュースを右から左に流したことしかない人はかなりの割合に上りますからね。

 白戸 私が曲がりなりにも記者をやってとても良かったと思っているのは、情報の収集や分析の訓練を積むことができたことです。人海戦術で現場に張り付かされるのは単に心身を疲弊させるだけですが、記者をしていると普通の人が行けないところに行って、会えない人に会うことができるのは醍醐味だろうと思います。

 アフリカでは戦場取材も経験しました。実際にアクセスした膨大な情報を分析する際には、何が事実で何が嘘なのか、どの情報が誇張でどの情報が正確なのか判断が求められます。それを何度も繰り返すことで判断基準が自分の中に形成されていきます。そして、その判断が独り善がりにならないようにオープンソースと突き合わせる。このプロセスの繰り返しです。時代が変わっても、オールドメディアがそういう訓練をする場であってほしいという願望はあります。

 米重 私も新聞社には今後もそういう役割を担うことを期待しますね。そういう機能やノウハウを組織としてきちんと残すことは、とても大事だと思います。私自身は記者というバックグラウンドはありませんが、読者として幼い頃から新聞やテレビニュースに慣れ親しんできました。その体験を通じて得たものはたくさんあると感じています。

 例えば、行間を読むという行為ですよね。それから客観的な「事実」と書き手の「意見」を峻別しながら情報に接するといった習慣は、新聞社で訓練された記者の文章に接することで身に付いたと感じています。

 白戸 そうおっしゃっていただけるのはたいへん有り難いですね。

 その一方で、新聞社の仕事に若い人たちが仕事に魅力を感じていないという問題は深刻になっています。新聞記者出身ということもあって、私のゼミには毎年ジャーナリスト志望の学生がやってきます。いろいろな批判があっても、新聞記者やテレビ記者になりたい若者はそれなりにいるんですね。

 昔であれば「記者はいいぞ、楽しいぞ」と彼らに言っていれば済んだのですが、今はそう単純ではありません。先日、私のゼミ出身で新聞記者になった卒業生が「我々は『白戸先生に騙された被害者の会』を結成しました」と言ってきました(笑)。「何だ、それ?」と聞くと、「だって先生、『新聞社は楽しくてやりがいがある』と言ってましたよね? 嘘じゃないですか」と。半分は冗談ですが、若い人たちがそう感じるのは当然だろうなとも思います。

 昔の同僚がそろそろ局長や役員になる歳になっていますが、彼らに話を聞くと若い社員がものすごい勢いで退職していくそうです。ただ、私は退職していく社員が悪いとは思いません。卒業生を見ていても3、4年働いたら半分は転職しているという時代なんでね。おそらくすべての業界がそれを前提にした採用や育成、組織設計をせざるを得ない時代になっている。

 

メディアの「敵」が変わった

 米重 転職は当たり前の時代になりましたよね。ただ若い人たちが定着しない企業は、将来の見通しはどうしても暗くなる。

 白戸 今の若い記者たちは、私が働いていた頃よりも何倍もストレスを感じているのだと思います。オールドメディアで働いていた人間の感覚からすると、言葉として適切ではないかもしれませんが、メディアの「敵」が変わったという感覚があるんです。私たちの世代が新聞記者になった頃、一般的には敵は権力だと認識していました。そう教えられていたし、自分たちもそう思っていました。なので、我々メディアの後ろには市民が味方として存在していてくれるのだと感じていました。だから、権力が間違った行動をしたときには権力と対峙し、市民が応援してくれると信じていたところがありました。けれども今は、市民が次々と後ろから記者を撃ってくる。若い記者からすれば、市民が味方だという意識をまったく持てない状況になっている。

 米重 オールドメディアは市民の味方というよりも、権威的な存在として受け止められるようになっていますよね。

 白戸 そういうなかで仕事を続けるのは酷なことです。経営陣からすれば、辞め続ける若い社員の対応に手一杯で、とても改革にまで手を付けることができないところもある。キツイ言い方になりますが、若手は沈み行く泥船から逃げている状態です。

 

排外主義的な意識が加速している

 編集部 7月20日に行われた参議院議員選挙では与党自民党が議席を大きく減らし、参政党や国民民主党が躍進しました。お二人は今回の選挙をどのようにご覧になりますか?

 米重 昨年から顕在化したネットの選挙の影響、ネット地盤の役割の大きさが今回の参院選でさらに可視化されることになりました。この流れはメディアシフトつまり消費者の行動に起因するもので、構造的な変化です。したがって不可逆だと考えています。今回議席を伸ばした参政党や国民民主党は、SNSやYouTubeを通じて支持を獲得してきました。冒頭でお話しした数パーセントの支持を獲得するフェーズ1の段階から、一気にフェーズ2の局面に突入したと見ることができるのではないか。

 参政党躍進の背景には、かつて安倍政権を支持していた、どちらかと言えば右寄りのイデオロギー重視の若い世代の受け皿となったことが挙げられます。それに参政党も気付いていたのだと思います。かつては反ワクチンを主張していましたが、そうした側面はトーンダウンさせて、右派の新しい選択肢にならんとしていることが選挙戦を通じて窺えました。

 今、日本の政治も欧州などのように中道のポジションが弱くなって、極右と呼ばれる新興政党が勢いを増していく入り口に立っているのではないかと捉えています。その背景にあったのは、物価高による生活不安と日本に来る外国人の増加の相乗効果ではないかと思います。円安で「安くなった日本」をめざしてやってくる外国人観光客は激増しており、昨年はついに3600万人超に達しています。彼らは日本人より購買力がありますから、一杯5000円のラーメンとか、1泊10万円のホテルにも気軽に手出しできます。一方で日本人は、物価高で今の生活や将来に不安を感じる人が多い。また、技能実習生など労働力として日本に来ている外国人も多く、定住者は人口の3%程度に達しています。

 そんな中、SNSでは「新幹線で外国人に席を取られた」とか「首都高を外国人の車が爆走している」といった投稿が大量に拡散されています。外国人との摩擦や軋轢を体験する人が増えて、社会全体の「体感治安」が悪化している可能性がある。結果、欧州のような排外主義的な意識が加速しているようです。これは単にネットの影響だけではなく、分断的な社会の姿がよりはっきり見えてくる最初の入口に立っている可能性があるのかもしれません。

 

日本社会に深い分断が生まれつつあるのではないか

 白戸 「日本人ファースト」を掲げた参政党の躍進を見て、私はこんなに多くの日本人が過去四半世紀の間に誇りを失い、深く傷つき、不安を抱え込んだ人生を送るようになっていたのかと悲しくなりました。四半世紀の間、官界、メディア、大学、大企業などに身を置くエリート層によって、新自由主義的経済政策と深く結びついたグローバリゼーションが半ば無条件で賛美され、推進され、競争が奨励されてきました。

 しかし、そうした流れの中で「自分には何の利益もなかった」と感じている人が社会には大勢いると思います。物価上昇で生活が苦しく、主食の米が高くて買えないのに、大挙して来日した外国人観光客は「日本は物価が安い」と言って爆買いしている。その光景を見ながら、経済大国だった日本の凋落を思い知らされ、汗水たらして働いても給料が上がらない不満をどこにぶつけていいのかわからなかった庶民が大勢います。そんな状況下で外国人という「敵」を設定しつつ、「我々は決してあなたを忘れていない」というメッセージを庶民に発して支持を得たのが参政党でしょう。同党の躍進の底流には、グローバリゼーションとその推進者であったエリートに対する庶民の反発、憤怒、怨念のようなものを感じます。

 私が普段お付き合いしている人の中には、社会的地位が高く経済的に恵まれ、高い知的水準を誇る人々、すなわちリベラルなエリートが大勢いますが、一つ気になるのは、彼らの中に参政党支持者たちを見て「バカ面の群れ」「とても対話できる相手ではない」と切り捨てる人が少なくないことです。差別や排外を許さないことは当然なのですが、私はそうしたリベラル・エリートたちの発言を見聞きしながら、日本社会にも修復不能なくらい深い分断が生まれつつあるのではないかと懸念しています。(終)

 

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