『公研』2023年12月号「対話」 ※肩書き等は掲載時のものです。
ロシアとオランダは、同じヨーロッパにありながら対照的である。
今の時代に領土戦争を始めたロシアと先進的なオランダ。
この二つの国の違いの背景はどこにあるのだろうか?
ペテルブルクとアムステルダム、革命、君主制などから考える。
千葉大学法政経学部教授 水島治郎
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東京大学大学院人文社会系研究科(西洋史学)教授 池田嘉郎
ピョートル大帝はアムステルダムの造船所で働いていた
水島 本日は「ロシアとオランダ──ヨーロッパの東と西、大国と小国」と題して、ロシアとオランダという、ある意味で対極にある両国を比較しながら、その違いの背景などについて考えていきたいと思います。
オランダの人たちがロシアを思い浮かべたときに真っ先に出てくる歴史上の人物は、ピョートル大帝(1672年─1725年)だろうと思います。ピョートル大帝は、初めてオランダを訪れたときにアムステルダムで船大工に身をやつし、オランダ人に交じってしばらくのあいだ船づくりをしました。ピョートルはその経験を通じて、オランダから様々な新しい知識を学びました。それを母国に持ち帰ったことで、それ以降ロシアの大国化が進んだというように、このエピソードはオランダでは肯定的な文脈で理解されています。
今でもアムステルダムの海岸近くにはオランダ東インド会社の造船所跡がありますが、そこには「ピョートル大帝はここで1697年から98年まで働いた」と刻まれたレリーフがあります(下記写真)。私をそこに案内してくれたオランダ人も「どうだ! 17世紀のオランダはすごいだろう」と誇らしげでした。
近年のアムステルダムは、様々なかたちで都市再生を図っていて、グローバル都市としての地位を再び取り戻そうとしています。その際にアムステルダムの人たちが思い起こすのは、17世紀に世界経済の中心だったというかつての栄光です。ピョートル大帝がアムステルダムで最先端の知識を学んだという話は、その時代の繁栄を端的に示すエピソードでもあります。
この話に象徴されるように、オランダにおけるロシアの受け止め方や見方は、意外と温かい気がします。おそらく、オランダとロシアがこれまで戦火を交えていないことも影響しているのだろうと思います。
池田 私はこれまでピョートルとオランダの関係を意識することはあまりなかったんですが、あらためて考えるとピョートルがつくったサンクトペテルブルクは、アムステルダムの街をモデルにしています。最初にこの街がつくられた頃には、「サンクトピーテルブルフ」とオランダ風の名前で呼ばれていたそうです。それが1720年代に初めてサンクトペテルブルクとドイツ語風の表記で呼ばれるようになった経緯があります。
ピョートル大帝は、若いときにモスクワの外国人村でオランダ人と知り合ったことをきっかけにして、海や航海に関心を持つようになります。外国人仲間といっしょに隋一の海港であった北方のアルハンゲリスクをたずね、その関心はいっそう強まりました。
今の水島さんのお話は1697年から98年に大使節団を結成してオランダを訪問した際のエピソードで、ピョートルはお忍びで参加していました。オランダでは最初にアムステルダムに隣接しているザーンダムに行って友だちに会って、造船の現場を見ています。その後アムステルダムでは実際に船大工を経験していて、ライデン大学では解剖実習も見学しています。
水島 ライデン大学では顕微鏡の発明者であるファン・レーウェンフックに自ら会いに行って、顕微鏡でミクロの世界を眺めたと言われていますね。
池田 本当に好奇心旺盛ですね。オランダの当時の最先端の技術にずいぶん接している。ピョートルは思想的にもオランダのフーゴー・グロティウスから大きく学んでいるんですよ。彼は、君主または国家主権が公共の福利を増進することで市民の幸福を増すべきだと考えるわけですが、ピョートルも専制君主としてこの考えを取り入れています。
水島 ピョートル大帝は豪放磊落ですよね。モスクワにあった外国人村で知り合ったオランダ人たちとは、すぐに「俺・お前」の関係になっていて、オランダ語もこのときに身に付けています。いくらオランダが当時世界の最先端の国と言っても、君主がオランダ語を学ぶのはとても珍しいことです。ピョートル大帝は、外の世界の風物や学問、言葉に対して感受性があったと言えますね。
池田 子どもの頃のピョートルは、彼の義理のお姉さんが権力を持っていたこともあって、政治闘争の世界からは退けられていました。表舞台にいなかったために、他の人が行かない外国人村に出入りする余裕があったのかもしれません。それでオランダ語も勉強して、かえって新しい知識をどんどん摂取していきました。
ソフト面でも世界最先端だったアムステルダム
水島 人との出会いにも恵まれていますよね。最初に入ったザーンダムの街ではすぐに身分がバレてしまって居られなくなりますが、アムステルダムに移ったら、当時の市長ニコラス・ウィッセン──東インド会社の重役でもありました──がピョートルを大歓迎しています。住まいも手配しているし、造船所で働けるように万事取り計らっている。それで最終的に4カ月にわたって造船所で働くことができた。
17世紀の旅行でここまでしっかりやってくれるのは、なかなか珍しいことだと思います。ニコラス・ウィッセンは1664年から65年に自らモスクワに滞在したロシア通でして、ピョートルに対して畏敬の念を持っていました。ピョートルの好奇心旺盛で誰とでも仲良くできるキャラクターが、外国でのサバイバルを後押ししていますね。
池田 ピョートル大帝がオランダで船大工をやっていたエピソードは、ロシア人も大好きで、彼の伝記映画などにはよくそのシーンが出てきます。
水島 ロシア人も大好きなんですか。それじゃあ、その部分に関してはオランダとロシアは相思相愛と言える。
池田 そうですね。ロシア人は、今でも歴史上の人物で一番好きなのはピョートルです。プーチンも彼を尊敬しています。何と言っても、皇帝が自分でハンマーを振って船をつくったエピソードは、ロシア国民に広く愛されており。よほどオランダが好きだったのか、1716年から17年にも訪問しています。それから、オランダの都市計画に倣ってペテルブルクに街灯を建てたり、公園に彫像を置いたりしたとも言われています。
水島 あまり有名ではないけど、アムステルダムのヤン・ファン・デル・ヘイデンという人物が油を使った高性能の街灯を開発しました。ピョートルはその発明者にも会いに行って、発明品をもらったそうです。本当に好奇心が活発で、分野を問わずに誰にでも会いに行きますよね。そこで実際に体験して、あわよくば物をもらっている。
池田 アムステルダムは、都市計画においても当時のヨーロッパの水準では最先端と言えるのでしょうか?
水島 パリやロンドンも規模としては大きいですが、しかし、先進性という点でアムステルダムはヨーロッパ随一だったと思います。ハード面に留まらず、ソフト面においても充実していました。
例えば、出版業などはその典型です。アムステルダムにおいてこそ、非キリスト教的なものも含めて様々なジャンルの出版ができたわけです。スピノザ、デカルト、ジョン・ロックもアムステルダムに縁があります。限界はありましたが、当代一流の人物が集まっては、言論・出版活動を行っていたという点でも、アムステルダムは先進的です。
「ユダヤ人なくして17世紀のアムステルダムの繁栄なし」
池田 水島先生が今年発表された『隠れ家と広場──移民都市アムステルダムのユダヤ人』(みすず書房、2023年)は、有名な『アンネの日記』を書いたアンネ・フランクとその家族のエピソードを中心に、アムステルダムにおけるユダヤ人の存在をテーマにされましたが、その本でもアムステルダムがユダヤ人に対して開かれていて、それが街の発展の大きな力になったことが述べられていました。
水島 ユダヤ人に対する扱いに関してみれば、アムステルダムが常にその時代のヨーロッパで最先端であったことは事実だと思います。イベリア半島でのユダヤ人迫害を受けて、ポルトガルから多数のユダヤ人がオランダに入ってきました。オランダは都市によってそれぞれ政策が違っていたのですが、アムステルダムが最も宗教的に自由で、信仰の実践についても寛容でした。それでユダヤ人がアムステルダムに集中するわけです。
ポルトガルからきたユダヤ人の多くは、商業従事者でした。彼らはそれまでに構築してきた商業ネットワークをアムステルダムに移します。しかもブラジルなどのポルトガルの植民地とも関係があって、その関係も持ち込みました。それによって、アムステルダムは国際的な貿易の街として発展していきました。まさに「ユダヤ人なくして17世紀のアムステルダムの繁栄なし」です。
ただし、冒頭で紹介した造船技術に関しては、ピョートルはアムステルダムに満足できなかった面もあったようです。その後はロンドンに行ってより高度なものを学んでいます。オランダが海上帝国として名声を轟かせていたのは17世紀から18世紀にかけてのことでした。18世紀初頭になると陰りが見えていて、イギリスが台頭していきます。このあたりはピョートルの勘は鋭いですね。
池田 そうですね。確かにイギリスにも行って、子午線が通る世界の時間の基準となるグリニッジも見ている。ただ、やはりオランダとの結び付きは強くて、船大工を始めとして造船関係者をお雇い外国人として何百人も連れて来ています。
水島 西洋歴訪は1697年から98年で、スウェーデンを打ち破って北方戦争に勝利したのは1721年です。海軍がほとんど存在しなかったに等しいロシアが、海洋国家スウェーデンに勝利するに至ったわけですから、歴史的に見てもかなり急速な海軍力の発展ですよね。ここにはやはり多数のオランダ人の技術者、海軍関係者などがロシアに渡って行ったことも影響しているのでしょうね。
池田 間違いないですね。オランダ人、イギリス人を始めとして、いろいろな外国人を連れてきて鉄工所をつくらせ、船をつくらせています。
ロシアと日本は似ている
水島 海運関係のロシア語には、オランダ語に由来する言葉があるとオランダでは紹介されています。マスト(船の帆柱)、マトロス(水夫)、カピタン(船長)、フラッグシュトック(旗竿)などはいずれもオランダ語ですが、ロシア語でも使われているのですか?
池田 その大半は日常に溶け込んでいる言葉ですね。正直に言えば、私はドイツ語だと誤解していましたが、すべてオランダ語なのですね。他にはルーリ(舵)やルーポル(伝声管、拡声器)などもそうです。
私は、ロシアと日本は似ているといつも言っているんです。両国ともヨーロッパ文明を摂取しながら学んでいった歴史があります。日本もオランダ語やドイツ語を通じて、文明開化の前提をつくりました。お雇い外国人も同じです。ピョートル大帝と幕府・明治政府がやったことは本当によく似ています。
水島 そのあたりは、海上帝国としてのオランダの世界戦略の一環と考えることもできます。我々は「江戸時代は鎖国していた」と教科書では習いましたが、近年、国を閉ざしていたというより、西洋の知識や情報を取り入れていた側面に注目が集まっています。オランダとの交易、文化交流はずっと継続していました。
逆にオランダから見ると、日本は交易相手として非常に好都合な相手でした。日本はスペインやポルトガルと縁を切って、ヨーロッパ諸国ではオランダのみを交易相手にしましたが、ここに至るプロセスに関しては、オランダの外交戦略も大きい。オランダは、ロシアに対しても、日本に対しても、軍事力を前面に出すのではなく、いわゆるソフトパワーを通じて関わっている。
池田 ピョートルの側では、オランダのソフトパワーをむしろ軍事力強化のために使っています。けれども彼は、軍事力だけではなくて、文化や技術面でもヨーロッパ、特にオランダと交流を深めていきたいという気持ちはどこかにあったのだと思います。技術面、それに思想や啓蒙の面でもロシアに対するオランダの影響は大きいわけです。
ただし、技術や文化を社会に導入する際のやり方は、ロシアとオランダとではずいぶん違いがあります。ロシアの場合には上から人を動員します。皇帝の号令で、農民を工場で働かせたり、商人からお金を供出させたりします。ペテルブルクの街をつくるときには、職人も役人もモスクワから強制的に連れてきました。断ることは許されません。こうして最初は何もなかったところに、ペテルブルクという首都ができあがった。「とにかく首都にしたのだから住め!」と命令するわけです。
こうした強権的なやり方は、当時の西ヨーロッパではもうすでに難しかったのではないかと思います。けれども、そういうやり方こそが北方戦争での勝利に貢献したことは間違いない。おそらくここは、ロシアとオランダが似ているようで、大きく違っている点でしょうね。
水島 確かにオランダとは正反対ですね。
池田 ロシアの場合は、社会の側に新しい技術や情報、統治の思想を摂取する基盤が広くあるというより、まずは専制権力である皇帝が上からそれらを導入していきます。ロシア革命以後の社会主義の導入にも同じところがありました。オランダの考え方を学びますが、それを実践する手法はおそらくまったく違うものがあるのだと思います。
これがオランダなどであれば、市議会や商工会議所などが経済社会を支え、市民層が成長し、その力が国の発展を支えています。けれども、ロシアはそうではないんですね。すべて皇帝がコントロールします。ここの違いが大きい。この点ではロシアとオランダは対極にあると言えます。
日本の江戸時代も蘭学が文明開化の前提となっていました。ロシアも日本もまずはオランダから最新の知識を学んでいますが、日本の場合は主君が学ぶというより、各藩の内外に広くインテリがいたわけです。ロシアは専制権力が率先してやるパターンでした。
オランダは商業ネットワークで生きている国
水島 そもそも「ロシア帝国」は、北方戦争の勝利の後に成立したのですか?
池田 そうです。ピョートルが大帝になったのもそのタイミングです。
水島 となると、「ピョートル『大帝』が船大工になった」という逸話は正確ではないことになりますね(笑)。
池田 その頃はまだ「ツァーリ(君主)」ですね。1721年に北方戦争に勝ったことを記念して、元老院が彼に「インペラートル(皇帝)」の称号を贈り、かつピョートルの名に「偉大な」という形容詞も与えます。だから大帝なんです。ロシアではピョートルとエカチェリーナ二世だけが大帝の称号を公式に持っています。
ヨーロッパ側からすれば、インペラートルなんていう立派な称号を使えるのはハプスブルク帝国の皇帝だけですからね。だから、ハプスブルクやフランス、イギリスはなかなかその使用を認めなかった。ロシアは外交文書にインペラートルと書かせるまでに20年ほど粘りました。この点でもオランダはロシアに好意的で、すぐに皇帝の称号を認めてくれたんです。
水島 ロシアとオランダの社会の構造は、対極にあるといったご指摘がありました。しかし、だからこそお互いの交流がうまくいったとも言えるかもしれません。逆にイギリスとオランダは、似たもの同士ゆえの緊張関係があります。両国とも議会が存在して、貴族層や新興勢力など君主に対抗する勢力がしっかりしています。似たもの同士はライバルになるので、全面的に何かを学ぼうという関係にはなりにくい。1688年にイギリスで名誉革命が起きたときには、オランダからオラニエ公ウィレム三世が移っていますから、その時期はさすがに英蘭の戦争はなかった。けれども、17世紀を通じて両国にはいざこざが絶えませんでした。
ロシアとオランダの間にはそうした緊張関係がなかったがゆえに、オランダから見ると、ロシアはすごく素直に自分たちの技術や情報を受け入れてくれている感じがします。
池田 良い話ですね。ヨーロッパ側から見て、ロシアをポジティブなイメージで見る話はあまり聞きませんからね(笑)。オランダとロシアの関係はすごく大事であることがよくわかりました。
水島 オランダと様々な付き合いを深めても、それがロシアにとって致命傷になってしまう心配はなかったのだと思います。
池田 ロシアはイギリスとはパワーゲームをやっていますから、お互いに警戒することになる。先ほどおっしゃったように、オランダは商業ネットワークで生きている国ですよね。だから戦争でどこかの領土を奪ったり、権益を広げたりするのとは違う発想があった。それはロシアにとっても割と付き合いやすかったのではないかな。
水島 オランダの植民地支配は、東インド(インドネシア)は広大な領域になりましたが、16─18世紀に領土拡大を本格的にめざしたわけではありません。そういった点で、直接対決する契機はお互いに少ないと見ていたのでしょうね。
池田 これを機会にぜひロシア=オランダ関係を学んでみたいと思います。
「世界に開かれた窓」と「大きな村」
水島 私はペテルブルクには行ったことがないので、読書を通じて情報を得ただけですが、アムステルダムと多くの点で共通しているように思います。いずれも河川の河口付近に、海に面して建設された港湾都市です。都市の中に運河が張りめぐらされていて、石橋が多い。外国から船乗りがやってきますから、多種多様な人々が行き交う一種のコスモポリタンな空間です。それから出版業もかなり盛んで、外国の本を訳して出版しています。ペテルブルクは、ロシアにとって「世界に開かれた窓」となっています。
池田 ペテルブルクのモデルは、アムステルダムとヴェネツィアだと言われていますが、何と言ってもアムステルダムの影響が強いと思います。ピョートル大帝は、通りではなくて運河で街の中をつなぐという明確なビジョンを持っていました。だから、石橋が多いんです。国際都市として文化的にも開かれていて、そこはアムステルダムの一番良い部分を取り入れようとしていますね。
ピョートルは文明開化と同時に富国強兵にも熱心でしたから、軍事的あるいは領土拡張的な方向でもロシアを発展させました。それでもピョートルの時代は19世紀や20世紀の凄惨な戦争の時代に比べれば、健全な発展だったと思います。ペテルブルクは今でもロシアで一番ヨーロッパ化された街です。モスクワとは対照的です。
水島 モスクワとの比較は興味深いですね。
池田 モスクワは「大きな村」です。ペテルブルクは間違いなく都市です。ロシア文学でもロシア史でもモスクワとペテルブルクの対比は、常に出てくる普遍的なテーマです。ペテルブルクが首都だった帝政期には、ロマノフ朝自身がヨーロッパの文物を取り入れて、ヨーロッパとロシアをつなげたところがある。ピョートルが娘たちを外国の王室に嫁がせた結果、18世紀後半からはロシア君主自身もドイツ系となっていいことになります。
私はロマノフ朝を倒した1917年の2月革命は、一面においてインテリ層がロシアをヨーロッパにしたいと思って引き起こした革命だと考えています。けれどもその願いとは裏腹に、1918年には首都をペテルブルクからモスクワへ移しています。「ヨーロッパへの窓」としてのペテルブルクから、内陸の「大きな村」であるモスクワへ移ったわけです。ロシア革命はヨーロッパからユーラシアへのオリエンテーションへの転換と考えることもできるでしょう。
水島 ヨーロッパ的な新しい側面を持ち合わせていたロマノフ朝から、ロシア革命によって逆に古い世界へと転換していったわけですね。池田さんのご著書『ロシア革命──破局の8か月』(岩波書店、2017年)をたいへん興味深く読ませていただきました。また別のご論文では、ソ連は形式的には共和制だが、現実には一種の帝国だったという表現もされていますね。とてもおもしろい見方だと思いました。
池田 ロシアは常に一極集中で成長してきましたから、新しいものはすべてペテルブルクに集中していました。国会もあるし、重工業は首都に発展しました。当然そこには労働者の数も多いわけです。なので「ヨーロッパへの窓」は革命の都ともなりました。
ロシア革命はヨーロッパの時代からユーラシアの時代への転換だった
水島 ペテルブルクの革命を担った労働者たちは、先進的な印象があります。新しい思想や政治イデオロギーを受け入れる素地がペテルブルクの市民、労働者、あるいは兵士にはあったということでしょうか?
池田 そこはなかなか難しいですね。1917年の革命は、とにかく第一次世界大戦を早く終わらせたいという気持ちが、兵士や労働者たちにはありました。そこに一番寄り添えたのがレーニンだったので、十月革命はうまくいった。けれども、「社会主義とは何か」「共和制とは何か」といったことを労働者がどこまでわかっていたのかと言えば、それはまた別の問題です。それを理解していたのは、むしろ自由主義者たちでした。憲法という言葉一つとっても、労働者のあいだできちんと理解されていたとは考えにくい。
ただし、法律家や大学教授や改革派貴族など、最もヨーロッパ化された自由主義者たちは、極端な変化には反対でした。それで1917年の混乱の中では何もできなくなり、放逐されてしまう。一番ヨーロッパ化された街で革命が起こり、その結果ヨーロッパ的な人たちをすべて追い出すような大きな変動になった。そして、それが終わって首都がモスクワに移って、ヨーロッパの時代からユーラシアの時代になったと言えるのかもしれません。
水島 つまり最もヨーロッパ的な連中がペテルブルクにいて、それをひっくり返すエネルギーを持った連中もペテルブルクにいたと。
池田 そうなんです。最初に皇帝政府を揺るがそうと行動を起こしたのは、自由主義者の国会議員たちでした。第一次世界大戦中に彼らが「もっと自由主義者にも権力を引き渡せ!」と主張して、いろいろな働きかけをしたことで皇帝の権威が揺らいでいきました。そこまでは自由主義勢力がヨーロッパ的立憲主義をめざしていたわけです。ところが、そうすることで権力のバランスが崩れ、非ヨーロッパ的な民衆運動が街頭にバーンと出てくるものですから、そこでもうヨーロッパ的勢力はなす術がなくなってしまった。
ですから私は、ロシア革命はヨーロッパ的な理念や言葉に基づいているが、革命を実現した勢力や実際に起こったことは、近代ヨーロッパ的なものとは反対の方向を向いている出来事だと考えています。
ペテルブルクの街全体を劇場としてとらえる
水島 それから、私が注目したのは、ペテルブルクという都市空間のなかでロシア革命が起きたことです。池田さんの本では革命の舞台となったペテルブルクのネフスキー通りなどの大通りの名前や、民主主義派会議やアナーキストたちの拠点になった建築物などが丁寧に記述されています。アムステルダムという都市空間から、その街の歴史や社会の成り立ちを学ぼうとしている私にとって、すごく共感できるものがありました。大通りや公園、建物などの役割はやはり重要だと思っていますが、池田さんもそこは意識されて書かれたのですか?
池田 意識しました。具体的な場所こそが大事だと思っていて、それを書こうと思っていました。『ロシア革命』は1917年のちょうど100年後に合わせて発表しました。執筆する前に実際にペテルブルクに行ってきたので、鮮明に記憶していました。
水島 ロシア革命から100年のタイミングでペテルブルクを訪れるとは羨ましい。
池田 ペテルブルク自体は西洋的につくられていて、大通りがあって、国会あるいは劇場など様々な場所があります。その一つひとつの場所は、労働者的な空間もあれば、ブルジョワ的な空間もある。そうした特徴を理解していれば、革命当時の実際の動きを具体的に思い浮かべることができます。「あそこは労働者たちの拠点になっているから、デモ隊が離散するときはそこに逃げ込む」とか、逆に普段はブルジョワたちが集っているエリアに労働者たちが入り込んだりすると、非日常的な事態が起きていることがわかります。そう考えるとペテルブルクの街全体を劇場としてとらえることもできる。
水島 アムステルダムにも似ているところがあります。それこそ建物で言えば、コンセルトヘボウ(コンサートホール)やレンブラントの「夜警」などを収蔵しているナショナルミュージアムなどがある市中心部は、同時にアムステルダムの文化の中心です。
他方で、市内の西の地区には庶民的で土着的な雰囲気の強い地域があって、そこはむしろ共産党系が強いのです。市内に断絶があるわけです。実際にオランダの歴史を振り返ると、最終的には失敗に終わりましたが、庶民的な地区で蜂起が起きた例もあります。開明的な地域に住む住民はあまりやりたがらないことが、庶民的な地区では運動として展開されてきました。
アムステルダムは外からはとても進歩的に見えますが、都市の下層にはディープな感情が澱んでいたりします。その二つが歴史の中でいろいろなかたちで表出され、そこにユダヤ人が絡んできます。アムステルダムのユダヤの人たちは、中間層があまりいなかったという特徴があります。よくユダヤ人は金持ちだと言われ、高所得者に占めるユダヤ人の割合は確かに高いですが、同時に、最下層に占める割合も高いんです。そのためエリートもいれば、貧困層に根差した活動家も出てくる。ヨーロッパの他の都市でも同じことが言えますが、都市は相反する二つのエネルギーがないまぜになりながら発展していくところがありますね。
歴史叙述の新しい動き
池田 『隠れ家と広場』もタイトルからして、まさに都市構造をテーマにしていますよね。最近の歴史叙述は、リアルな空間を歴史家自身が歩いてみて、そこから得られた情報が盛り込まれる傾向があります。ここから、ここまではどのくらいの距離があるのか、どういった社会層の人たちが暮らしていたのか。現在でもその名残や雰囲気はある程度は残っていますからね。
水島 それはもう間違いないと思います。
池田 歴史家自身が現在に見たものを過去に落とし込んでいく叙述が近年しばしば見られます。フランスの歴史家イヴァン・ジャブロンカの『私にはいなかった祖父母の歴史』(名古屋大学出版会、2017年)も、アウシュヴィッツで亡くなった自身のおじいさん、おばあさんの足取りを現在のパリの街のなかで探っています。
最近なぜこうしたアプローチが増えているのか少し考えてみたのですが、やはり歴史家はシェーマ(形式、図式)ではない要素も含めて叙述したいからなのだと思うんです。労働運動や◯×主義があって、どこが対立していてどこが戦ったのか、それだけで叙述してしまうとあまりにも図式的になってしまう。
水島 そうなんですよ。よくわかります。
池田 叙述する舞台となる街を直接歩いたり、行かないにしても都市空間のいろいろな場所について自分なりに空想力を働かせたりすることは、有意義だと思うんです。当時そこで生きていた人々の毎日の生活や活動の範囲などを辿ることで見えてくるものがあります。喜びや悲しみも含めて、浮かび上がってくる感情もあるわけです。それが今の歴史学の中で新しい動きとして出ているように思われるんです。もちろん昔の研究も別に図式的に書いていたものばかりだったわけではありませんが。
『隠れ家と広場』は、まさにアムステルダムという街を平坦に描写するのではなく、そこで暮らしていた人たちの生活実感が湧き上がってくるような書き方がなされていますよね。第二次世界大戦中ユダヤ人は隠れ家に潜んでいたことが強調されがちですが、彼らは広場で交流もしていたわけです。他方で、行政官たちや鉄道員たちは非常に冷淡に彼らを移送した。
水島 そうなんです。非常に従順でした。
アンネ・フランクと「広場」
水島 アンネ・フランクは、一般的には2年間隠れ家に閉じ籠って地道に日記を綴っていたことで知られています。日本では、おとなしい、文学少女的なイメージが強いですよね。しかし実際の彼女は、隠れ家に入る前に8年間にわたって市の南部にあるメルウェーデ広場という三角広場の真ん前に住んでいました。その広場を舞台に毎日駆けずり回って友人をつくり、喧嘩をしたり恋をしたりしています。喜びも悲しみも、まさに広場という場で味わっていたのです。
このメルウェーデ広場周辺は、1930年代初頭に新しくできたユダヤ人たちの新築マンション地域でした。当時のアムステルダムは安全だとされていたので、ドイツからたくさんのユダヤ人が渡ってきていました。この三角広場があったおかげで、この空間を通じてユダヤ人の親も子どもも仲間をつくり、そこで様々なネットワークもつくりながら、結果的にそれが後の潜伏活動、あるいはレジスタンスの拠点にもつながっていきます。
そういう意味では「隠れ家」ばかりがアンネ・フランクやユダヤ人の代名詞のように使われるのは一面的だろうと思います。むしろ、彼ら彼女らの広場空間における自己実現、コミュニケーションそのものがユダヤ人たちの生活を規定していました。その後の弾圧から逃避、レジスタンスと様々なパターンがありますが、どのルートを辿ることになっても、やはり広場の記憶が彼らに付いて回りました。
アンネ・フランクの父オットー・フランクは、戦争終結後に失意のまま広場に戻ってきますが、彼はそこで出会った女性と後で再婚することになります。彼女は、アンネ・フランクの一家とは昔からの知り合いだったのです。やはり癒しを与えてくれるのは、広場の仲間たちでした。
もう30年以上前になりますが、私が最初にヨーロッパを訪れたときに広場を見て、日本にはない公共空間としての広場に衝撃を受けたことが、いわば原体験でした。政治学の論文を書いているときはなかなかかたちにできないでいましたが、今回アンネ・フランクに託すかたちで、広場の機能について書いてみたわけです。
やはり、具体的な「場」があることが重要です。そこで人と出会い、喧嘩をして、別れもする。場合によっては裏切りもある。そういった空間があったからこそ、その「次」を語ることができる。アンネ・フランクが2年間隠れ家であれだけ豊かな文章を書くことができたのは、広場という空間で豊かな体験と学びをインプットしてきたことが大きいのではないか、そんなことを考えたのです。
池田 アンネ・フランクの名前はもちろんみんな知っていますが、彼女の家族や友だちにはどういう人がいたのかは、あまり知られていません。オランダの歴史家リアン・フェルフーフェンが執筆して、水島さんが翻訳された『アンネ・フランクはひとりじゃなかった』(みすず書房、2022年)の表紙には、アンネが友だちの女の子たちと一緒にいる写真が使われています。
水島 アンネ、ハンネ、サンネの「仲良し3人組」を含む、アンネの仲間たちです。
池田 当たり前ですが、こんなにお友だちがいた。どんな人だって生活があって、家族がいて、市場で買い物をしているわけですが、そういう側面はなかなか見えてこなかった。今、広場こそがアンネ・フランクの素養となったのではないかとおっしゃいましたが、とても大事なことです。それは公共圏ですよね。要するにパブリックな空間です。
ユダヤ人を見棄てたことなどいろいろな問題はありますが、ヨーロッパにはやはり人々のつながりの土台になる公共圏がある。広場や大通りなどがうまく有機的に結び付いて都市空間を形成しています。
今の日本で都市計画をつくるときも、「広場をつくろう」という話が必ず出てきますが、理念なしに広場をつくっても単に空間ができるだけですよね。そこを行政が仕切って、それで終わりになってしまう。歴史的な経緯の中から労働者、商人、芸術家、ユダヤ人などがそれぞれに生活圏を築いて、それらの人的結合から空間ができてくるところには、非常に強固な公共圏ができます。けれども、それを行政が主導してつくろうとしてもむずかしいところがある。
水島 オランダに限らずヨーロッパの都市の広場は、何か起きたときにも、そこに行けば何らかの情報を得られる場所でもあります。今の日本には、そういう場所が見当たらない。阪神タイガースが優勝すれば、道頓堀に行けばファンが集っていますが(笑)、あそこを公共圏と呼ぶのはちょっと違う気もしますね。
ロシアにはそういった場所はありますか?
公共圏と民主主義を支えるインフラ
池田 歴史上は、ペテルブルクにはヨーロッパ的な価値観を共有する人たちの社交の場やつながりの場はありました。ただしロシアは身分制の名残が今でも色濃く残っていますから、それを超えてつながることは現在でもあまりないのかもしれません。帝政期の場合、与党と野党であっても、貴族や官僚の出身だったら党派を超えてつながっていました。そういう社会層の分断は強いんですよ。ですから、それを飛び越えた公共圏が現れることはあまりなかったし、もしかしたら今日でもそうかもしれない。
水島 「赤の広場」は、何かが起きたら、人々が集う場所ではないのですか?
池田 あれはもうパレードの場ですね。一般民衆が自然発生的に集まってくる場所ではないですね。どちらかと言えば、ロシアは大通りがそういう役割を果たしているかもしれません。あとは並木路ですね。
公共圏と同時に民主主義を支えるインフラも重要です。ペテルブルクの政治学者にハルホルジンという人がいますが、彼は民主主義の舞台となる場所、建物の重要性を指摘しています。典型的には議場です。議場にきちんと電気が通っているのか、あるいは議員の宿舎が整備されているのか、といったインフラが大事だと。電気が切られたら、議会ができません。実際にロシアはよく議会が破壊されていますからね。
私の同僚で古代ギリシャ史を研究されている橋場弦さん(東京大学教授)の『古代ギリシアの民主政』(岩波書店、2022年)を読むと、アテネの民主政がいかに民主主義のインフラを重要視していたのかがよくわかります。地方からきた議員の宿舎をいかに確保するのか、文字を読めない人向けの投票の器具をどうするのかなど、場所や物に細心の配慮がなされていたわけです。ドイツ史でも、先日院生に聞いたら、例えばワイマール共和国時代の議会がどのような建築物であって、その仕組みや構造がどうなっているのかを知ることが概説の導入部になっているということでした。
こうした民主主義のインフラはどこでも同じようにも見えるんですが、それをきちんと整備できるかどうかは場所によって違うでしょう。人々が集まったりアクセスできる空間をつくることは、公共圏を維持する上ではとても大事です。当たり前にも思えますが、今の歴史学できちんと考えるべきポイントになっています。
水島 そうしたインフラは、都市によっても違いがありますから、比較して考えると関心は尽きませんね。池田さんが訳出されたプラトーノフ『幸福なモスクワ』(白水社、2023年)でも、社会主義建設に邁進するモスクワの街の熱気が、さまざまな街路や建物を舞台に、臨場感あふれる筆致で描かれていますね。
池田 ありがとうございます。モスクワという名前をもつヒロインの運命が、都市モスクワと重なるように描かれているのだと思います。
革命と君主制の関係性
水島 次に革命と君主制の関係性について考えてみたいと思います。これに関して言えば、オランダとロシアは対極にありますね。ロシアは立憲君主制をめざす試みは挫折して、最終的にはロマノフ家を処刑するかたちで社会主義共和国を築きました。逆にオランダは「反革命」が勝利した国です。イギリスでさえピューリタン革命があったのに、オランダは一度も革命らしい革命を体験していない。
今のオランダは同性婚を制度化し、安楽死も認めています。さらには、売春は合法化されているし、ドラッグも事実上容認されている。非常にリベラルな国でありながら、他方で今でも君主制は健在です。個人間の平等にあれだけこだわっているのに、不平等の最たるものであるはずの君主制が維持されている。実に逆説的です。
オランダは革命も王室の廃止も経験していませんが、進歩的な社会を実現させている。その一方で、旧来の制度や価値観をすべてひっくり返したはずのロシアは、今現在もウクライナと戦争をしています。なぜこんなに分かれてしまったのでしょうか。
池田 ロシア人はよく「私たちは普通の国になりたい。けれども普通が何なのかわからない」と言っています。他の西洋諸国は今日、王政があろうがなかろうが、多かれ少なかれ平穏な日常を送っていますよね。ところがロシアの場合、革命で王権を倒してみると、その後は強権的な体制になって、それがまた突然瓦解するという感じで、断絶がとても大きい。そして断絶しても、強権的であるという社会の基本は変わりません。
この背景にはいったい何があるのか? すごく大雑把に言えば、やはり権力を下から支えるいわゆる市民社会が弱いのではないかと、私は考えています。今のロシアの元になっているのは、13世紀に成立したモスクワ大公国ぐらいからですが、その頃から君主の権利が常に強かったんです。他の中世ヨーロッパのように貴族、領主、騎士などの在地権力が存在している構造ではありません。土地はすべて君主が所有し、貴族の側には所有権が確立していません。実質的には、貴族たちは息子に領地を遺贈しますが、やろうと思えば、君主はそれを取り上げることができる。
だから、私的所有権が芽生えてこない。君主と臣下の関係も本当に一方的な関係ですから、ヨーロッパの封建制における相互の契約みたいな発想が出てこない。そのため貴族も弱いし、貴族の繁栄に促されて勢力を持ってくるはずの商業階級も弱いままです。
近代化していく局面でも、工場などは基本的に上から導入されました。出版業だって皇帝たちが導入しているので、検閲があります。だから、自立的な市民社会が脆弱なままでなかなか育っていかない。さらには、国民の8割を占める農民たちは、ずっと識字率も低いままでいるという社会でした。ですから、バランスに変化が生じて都市社会の支配が崩れると、農民たちが一気に反乱を起こして、それを収めるためには暴力を使うしかなくなるというサイクルがあります。
私はロシア研究者として「ロシアは市民社会が弱い」といったことを言い過ぎるところがあるので、他のロシア史研究の先生たちからは「それは偏見だ」と言われたりもします。けれども、ロシア史を学び、現地に2年間住んだ経験からすると、やはりロシアは市民社会が脆弱だと言わざるを得ないところがあります。アムステルダムの市議会や商工会議にあたるものの発言力が増したこともないし、地方もずっと弱いままでした。今のロシアもそうですが、国家行政は地方自治体と一体化していて、原理的に分かれていないんです。
水島 国家に権力が集中しているわけですね。
池田 役人や議員は、ある時はモスクワ市の役人だった人が、その次には文部省の役人へと動いていたりします。結局どういう原理で動いているのかと言えば、いくつか派閥みたいなものがあって、「誰の子分なのか」ということで動いている。役職や任期といった公の制度が確立されていないので、権力の側は、純粋に人間関係だけで人事を回しています。一般の人々はそれに従っているだけという世界なのでパブリックなものがない。
市民社会が強いほうが君主制を維持しやすい?
水島 逆に市民社会が強いオランダ、あるいはヨーロッパでも北の国々のほうが君主制を維持しやすい、ということになるのでしょうか。現在ヨーロッパで君主制を維持しているのはイギリス、スペイン、オランダ、ベルギー、それから北欧のスウェーデン、ノルウェー、デンマーク、あとは小国のリヒテンシュタインなどがあります。興味深いのは、どちらかと言えば北ヨーロッパの人権意識が強く、平等感覚が強い国々で君主制が残っている。
他方、南ヨーロッパのほうはフランスやイタリアを始めとして、王政を自覚的にひっくり返している国々が多い。結局、近代化の中ですべてをガラガラポンした革命ではなくて、漸進的な民主化、自由化を進めた国々のほうが、結果として見れば、君主制が生き延びている。そういうことが言えるのかもしれません。
池田 すごく逆説的ですね。この話を突き詰めていくと「民主主義とは何か」といった深淵なテーマに行き着くのかもしれません。イギリスであれ日本であれロシアであれ、一つの社会を統治していくためにはなにがしかの権力が必要です。そして権力を機能させるためには、誰がそれを体現するかについての合意が必要です。その仕組みや正統性がなければ、おそらく権力は機能しない。
もちろん選挙で大統領を選んでもいいのですが、実権がない象徴であるならば、それはもう世襲制の君主でも大して問題にはならないのかもしれません。むしろその人物を「私たちの社会の象徴」として置いておくほうが、社会を機能させていく上で割と安定感があるのだと思います。君主制は選挙がないだけに安定感はありますからね。極端に乱暴な君主が出てきたらマズいですが、今は大体どこでも立憲君主制ですからそれはできない仕組みになっています。
ですから、漸次的に議会の力を強めていき立憲君主制に移行した国のほうが、次は誰が権力を握るかという問題を恒常的に考えることなく、安定した社会運営ができるのかもしれない。
水島 実は徐々に民主化が進んで、徐々に君主制が廃止された国というのは、ほとんどないんです。君主制が廃止されたきっかけのほとんどが革命か敗戦です。逆に言えば、革命や敗戦を体験していない比較的安定的な自由民主主義体制の場合は、イギリスやオランダを典型として君主制が安定的に存続できている。
ロシアの場合は、そういった順調な民主化というかたちを取りづらかったために、君主制が革命の中で否定されざるを得なかったのかもしれない。
池田 ロシアは20世紀までずっと専制君主によって統治されていました。1906年に議会と憲法はできますが、その後も皇帝の権力はなお強いわけです。結局、憲法の上に立つ者として皇帝は居続けるので、憲法に縛られない。そういう状態で第一次世界大戦が始まりましたが、社会のあり方があまりに古かったので総力戦に耐えられなくなった。そして、労働者と農民の反乱が起こって政権が倒れた。
けれども政権を倒した民衆は、憲法に基づく共和制の国をつくろうといった理解をもっているわけではなかった。この民衆を率いるかたちで1917年10月に権力をとったレーニンたち共産党も強力な権力を中央に集中させて、自分たちこそが正しい道を知っているのだから我々に付いてこい、というかたちで人民を啓蒙しました。啓蒙専制の一番極端なかたちが共産党体制ですね。だからイデオロギーは違うのですが、ロシアはずっと啓蒙専制であることには変わりがないわけです。現在のプーチンも啓蒙専制君主のようなところがある。
水島 プーチンはロシア連邦の大統領ですが、一種の君主的な存在であると。
池田 そうだと思いますね。だから、彼が亡くなったときにあの国がどうなるのかは興味深いです。今のプーチンの体制も別に誰かに強制されてああなったわけではなくて、気が付いたら強権的な体制ができていたわけです。結局ロシア人の8割ぐらいの人にとって、プーチンのようなスタイルが馴染むのでしょう。
オランダでは、極端な主張もデモクラティックに解消されている
水島 プーチンはまさにペテルブルク出身ですが、彼には今日お話ししてきたようなペテルブルク的な、つまり西側的な要素はあるのでしょうか。
池田 あると思います。もともと彼はテクノクラティックで、西側の理屈をよく知っているリベラルな部分もある人物でした。少なくとも政権初期の頃は、西側とうまくやっていこうと考えていた節がありました。ロシアの近代化を追求する開明派のイメージは強かったんです。もちろん元KGBですから強権的なところはありましたが、同時に合理主義者だと受け止められていました。ロシアのリベラル──反体制派──の中でも、プーチンはヨーロッパ的な発想を捨てないだろうと信じていた人も多かったんです。けれども、今回のウクライナ戦争は彼のこれまでの基準からすれば、かなり極端な路線を突き進んでしまっている。
ちなみにオランダでは、極端な政治家が台頭してくることはあるのですか? ポピュリストはいるとしても、極端に民族主義的な政治家などはどうです?
水島 オランダは過去100年にわたって完全比例代表制で、150議席の選挙を1議席に至るまで配分するという選挙制度を採用しています。政党は0・67%の得票率を獲得すれば、議会に1議席を送れます。マイノリティであっても議席の獲得が容易ですから、様々な連中が政党を立ち上げて選挙に参加しています。イスラム教徒やヒンドゥー教徒など、ありとあらゆるマイノリティが議席を獲得できるわけです。直近の選挙では17党が議席を獲得しました。
興味深いのは、やや極端と思われた新興勢力も、議会でやり合っていると意外に議会のルール・オブ・ゲームに馴染んでくる。議会の場がデモクラシーの一種のガス抜きのようになっている面があります。良くも悪くも開かれたシステムだと言えるかもしれません。
池田 すごくいい話ですね。マイノリティも主張する機会があるわけですからね。
水島 ロンドンのハイド・パークに「スピーカーズ・コーナー」という場所がありますよね。自由に演説をすることができる、独特の空間です。ここでは様々な主張が飛び交いますが、あまりに極端な意見には誰も付いてこなくなります。そうすると、「自分が言っていることはまったく説得力がなかったな」と気付くこともあるでしょう。
オランダの政治空間も似たところがあります。極端な意見は次第に支持を失っていくことが多い。逆に、最初はキワモノ扱いされる極端な主張をしている政党が次第に人々の支持を集めることもあります。
その典型がアニマルパーティー(動物党)です。彼らは「動物の権利を憲法に書き込むべきだ」といった主張です。ユニークな政策を掲げる小政党は、これまでも登場しては消えていったので、同じ運命を辿るのだろうと見られていました。ところが、アニマルパーティーは、若い人たちを中心に勢力を拡大しました。特に博士課程に進んだような若い知識人からの支持もあります。
最近のヨーロッパでは、反肉食の主張をする人が広く見受けられますよね。
池田 ビーガン(完全菜食主義者)的な人たちですね。
水島 そうです。日本ではあまり実感する機会はありませんが、ヨーロッパではベジタリアンではなくてビーガン的な人が多くなっている。彼らは、残虐行為の禁止も含めた動物擁護、動物福祉の徹底を求めています。アニマルパーティーはその先駆的な動きですね。アニマルパーティーが強い市の市役所の食堂では、肉食が制限されるようなことが起きてきます。
いろいろな主張が出て支持を集めることもあれば、支持されないこともある。人々の支持を広く集めた主張は、政策として具体化されていく。民主主義とはまさにそういうものですね。オランダでは、極端な主張も結果的にデモクラティックに解消されていると言えるのではないか。
もちろんオランダにもポピュリストはいます。ポピュリストを「民主主義の敵」とする見方もあります。11月の下院選挙では、反イスラムを掲げる右派ポピュリスト政党の自由党が勝利し、第一党になりました。党首のヘールト・ウィルダースは「反民主主義的だ」と批判されています。他方、過半数の議席をとれるわけではないので、同党の政策が直接実現するわけではない。オランダの完全比例代表制のシステムは、極端な意見があったとしても、極端な行動や運動に結び付かないかたちでの一種のカタルシスや吸収力を与えていると見ることができると、僕は考えています。
池田 やはり優れたシステムですね。
オランダにも負の歴史がある
水島 最後に一点だけ追加させてください。今日は、オランダのいい話ばかりしてきましたが、オランダ擁護だけで終わるのは、ちょっと違うとも感じています。17世紀のオランダは世界で最も繁栄した国でしたが、同時にアムステルダムを中心に奴隷貿易を積極的に行っていました。それによってかなりの富を蓄積したことは、間違いない事実です。
オランダは南米のスリナムを植民地として、奴隷プランテーションを経営していました。アフリカの西側の海岸から奴隷を積み込んで、それをスリナム含む各地に売りさばいていました。この奴隷貿易の歴史に関しては、ようやく昨年から今年にかけて、首相や国王が謝罪を語ることで決着させようとしています。ただし、補償に関しては今のところ特に何も言っていません。アムステルダムは、自由で活発な経済活動と言論活動が繰り広げられてきたことは事実ですが、同時にその豊かさは奴隷貿易に支えられていました。
ただ、オランダはこうした歴史の負の遺産の対処に際しても、スマートです。昨年末に首相が奴隷制、奴隷貿易を謝罪したときは「オランダがついに謝罪した」と国際的にポジティブに報じられました。今年7月にオランダ国王ウィレム・アレクサンダーが謝罪したときも、「オランダは、かつて奴隷制を担った国家の中で最初に国王が謝罪した国となった」と好意的な評価を受けました。ネガティブな歴史をむしろ「オランダは先進的だ」と転換させて伝えることに成功したわけです。このあたりの扱い方のうまさは本当に見事です。
ただし、この点においてロシアは、奴隷貿易に手を染めた、血塗られた過去をそれほど持っていないですよね。
池田 西ヨーロッパ的な意味での奴隷貿易や植民地主義は、ロシアにはありませんでした。国外に植民地を持たなかったですからね。
ロシア人は、自分たちは民族差別をしないという自意識を持ってきました。中央アジア人だろうが、ジョージア人だろうが、一緒にやってきたのだという認識が強いんです。ただし、今回のウクライナとの戦争をきっかけに、それはロシア人の思い込みに過ぎなかったという面も浮き彫りになっています。諸民族共生を掲げてはいますが、過去の時代を振り返るとロシア人の側からの差別はあったし、政権の側から諸民族への激しい暴力ももちろんありました。「ロシア史にも植民地主義があったのではないか、再検討すべきだ」という議論が、いま研究者のあいだでは起こっています。
それでも、ロシアが海の向こうに植民地を求めに行かなかったことや、多言的文化の世界を尊重していたことは、本来はロシアの良いところであり、強みだった部分のはずです。
ヨーロッパの王室は進歩的?
──現代のヨーロッパの王室の方々は進歩的な人物が多い印象があります。
水島 確かにデモクラシーの発展した国の君主たちや王室の人々は、どちらかと言えば中道左派的なスタンスを取ることが多いですね。結果的には、それが一番幅広く支持を受けるうえで効果的だからでしょう。逆に右派の人々は、国王や王族がリベラルなことを言うのを苦々しく感じることもあります。
もともと100年前のヨーロッパでは、左派、社会主義勢力は反王室を前面に掲げていました。それが次第に弱まり、語りにくくなったのは、王室が比較的リベラルな意見を代弁してくれるところがあったためだろうと思います。このあたりの位置取りについては、ヨーロッパの王室はかなりセンシティブに反応しています。結果として見れば、それが立憲君主制を支える一つの王道になっている印象はありますね。
池田 よくわかります。だいたい19世紀に王権の側が国民化していって、国民の模範的な存在になっていたところがありますね。それまでは王家や貴族はコスモポリタンですから、自分の国のことはよくわからないけれども、ドイツやイギリスなどよその国の皇帝とはお互いに親戚同士だったりしたわけです。それが19世紀後半ぐらいからは、まずは自分の国の君主として振る舞うことが求められるようになった。そこがうまくできた国は君主制が割と安定して残って、それで議会制と調和してやっていく。そこがうまくいかないと革命で倒されるし、最悪ロシアのように殺されてしまう。
存続した王室の側はそうした例を見ています。なので、あまり目立たないようにすることも含めて、戦略的に振る舞っているのだと思います。
水島 まったくその通りだと思います。そして第二次大戦中にナチスドイツに占領されて亡命した君主たちは、一種のレジスタンスのシンボルとなりました。オランダ、ノルウェー、ルクセンブルクなどの王室はイギリスに逃げて、そこからBBCで自国民に対して奮起を促す呼びかけを行いました。ナチスドイツへの抵抗のシンボルでしたから、戦後になっても正当性は強いですよね。
ただ、あのときに微妙な立場を取ったベルギーの君主などは、今に至るまで国民的正統性が弱いところがあります。結局のところ、君主がデモクラシーの守り手、担い手として国民に理解されるかどうかが、君主制存続の試金石となるのでしょう。 (終)
水島治郎
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千葉大学法政経学部教授
みずしま じろう:1967年東京都生まれ。ライデン大学留学(94年──95年)を経て、東京大学大学院法学政治学研究科修了。博士(法学)。日本学術振興会特別研究員、甲南大学法学部助教授、千葉大学法経学部准教授、同大人文社会科学研究科教授などを経て2012年より現職。著書に『ポピュリズムとは何か──民主主義の敵か、改革の希望か』『反転する福祉国家──オランダモデルの光と影』『隠れ家と広場──移民都市アムステルダムのユダヤ人』など。
池田嘉郎
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東京大学大学院人文社会系研究科
(西洋史学)教授
いけだ よしろう:1971年秋田県生まれ。東京大学文学部西洋史学科卒業、同大大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。98年10月から2000年9月まで文部省アジア諸国等派遣留学生として、モスクワのロシア科学アカデミー・ロシア史研究所に研究員として留学。新潟国際情報大学情報文化学部講師、東京理科大学理学部准教授、東京大学大学院人文社会系研究科(西洋史学)准教授などを経て2023年より現職。著書に『革命ロシアの共和国とネイション』『ロシア革命──破局の8か月』など。