『公研』2023年3月号「めいん・すとりいと」
日銀総裁の講演のテキストは文字だ。文字は読むもので分析するものではないというのがごく最近まで経済学の常識だった。文字は数字ではないので、統計的な処理ができないからだ。しかし自然言語処理の急速な進歩で、文字に統計処理を施せるようになった。
その恩恵を最も受けている分野が金融政策論だ。日銀総裁の講演テキストを分析すると何がわかるのか。その一端を紹介しよう。
黒田総裁は 2013年4月から2期10年間、在籍したが、その間に77回の講演を行った。その量は文字数にして約70万字になる。単行本数冊分の量だ。その70万字は黒田日銀が展開してきた政策の根幹がどこにあったか、それは前任者たちとどう違っていたかを私たちに教えてくれる。
黒田総裁が最も頻繁に使った言葉は何だったのか。それは「物価」だ。「物価」が単独で使われることもあれば、「物価」目標といったように使われることもあった。それらすべてを合算した「物価」の登場頻度は講演1万字当たり39回だ。A4サイズの紙が1頁1000文字だとすると、1頁に平均4回、「物価」が登場したことになる。かなりの高頻度だ。
頻度の高さは前任者たちと比較すると一目瞭然だ。黒田総裁の前任の白川総裁(08年から13年)と、さらにその前の福井総裁(03年から08年)の「物価」の使用頻度は、それぞれ1万字当たり16回と20回なので、決して少なくない。しかし、黒田総裁の使用頻度は前任者たちの2倍以上だ。
黒田総裁がこれほど頻繁に「物価」を使ったのはなぜなのか。日本の現状が「デフレ」との認識があったからだ。「デフレ」の登場頻度は前任者たちの3倍超だ。つまり、前任者たちはデフレという認識が乏しかった、したがって物価に何か問題が生じているという認識もない、だから「物価」を使う頻度も低かった。
日銀の伝統的な考え方(「日銀理論」とよばれることもある)では、望ましい物価上昇率はゼロだ。これに対して経済学者が望ましいと考える物価上昇率は2%、またはそれを少し上回る程度だ。物価上昇率が少々高くても5%以内であればそのコストは非常に小さい。一方で、インフレ率が低すぎると物価上昇率がマイナスに滑り落ちるリスクが高い。その2点を踏まえると、2%かそれを少し上回るインフレ率が最適となる。
日銀理論と経済学者のどちらが正しいのかはさておくとして、黒田総裁は日銀理論ではなく経済学者の考えに近く、その違いが使用する単語に如実に現れたということだ。
では、黒田総裁は「物価」の問題をどのようにして解決しようとしたのか。ここで登場する重要な単語が「予想」だ。「予想」の登場頻度は前任者たちの4倍超だ。
物価を決めるのは人々の予想だ。本欄でかつて書いたように、「インフレもデフレも人々の気分次第」だ。だから、インフレやデフレを抑えようとするときの要諦も、いかにして人々の予想をコントロールするかにある。
プリンストン大学を経てFRB議長となり、その後、ノーベル経済学賞を受賞したベン・バーナンキは「中央銀行の行う金融政策は98%がトークで、アクションは残りの2%に過ぎない」との名言を残している。黒田総裁が「予想」を多用したのは、人々の予想に働きかけることが重要との経済学者の考え方を踏まえたものだ。
これに対して黒田総裁の前任者たちが「予想」を語ることはほとんどなかった。なぜなら、日銀理論では、物価を決めるのは人々の予想ではなく、人口や生産性など経済の実物サイドの要因と考えるからだ。ここも経済学者と日銀理論が大きく食い違っているところだ。
新総裁の就任まで秒読みに入った。就任後、最初の講演で新総裁が語るセンテンスに多く含まれる単語は何だろうか。それを見れば金融政策の次の5年を占えるだろう。
東京大学教授