『公研』2021年2月号「めいん・すとりいと」
「気付いたんです、料理は化学」
新春に放送された人気ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』のスペシャル版を楽しく見ていたら、こんなセリフに出くわした。5年前に放映された連続ドラマ版では、家事代行業のヒロイン・みくりが雇用主の平匡にプロポーズされた際、有償の家事が結婚によって無償になることを「愛情の搾取」と告げたことで話題を呼んだ作品である。
愛情を理由に無償労働を一方に押し付けてはいけないと考える共働き夫婦は、いかにして家事をやりくりするのか。家事は不得手だが優秀なエンジニアである平匡は、材料を入れるだけでいい調理家電の導入によって解決を図る。調味料の組み合わせと加熱温度次第で味を調節できることに理系的探求心をそそられた彼は、冒頭のセリフを発するのである。
ここには「料理は愛情」「おふくろの味」といった家庭料理にまつわる伝統的な価値観はみられない。世間の常識よりも合理性を重んじる平匡は、「おふくろの味」を参照すべきだとも、手間をかけることが愛情の証だとも考えない。ただ自らの試行錯誤によって、料理を追求する。自分たち夫婦も共働き育児の過程で似たようなことをしてきたことに気づかされ、身につまされた。
もっとも、家庭料理の変遷を文化人類学的に分析した書物『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』(久保明教)によれば、「おふくろの味」の歴史はさほど古くない。「一汁三菜を女性が心をこめて手作り」という家庭料理(=おふくろの味)のあり方は、1960―70年代に確立されたものだという。スーパーも冷蔵庫もガスコンロもなく、食材といえばその土地で採れる作物がせいぜいだった時代に、毎日違う献立で何品も作ることはまず不可能である。さらに薪の用意から始まる炊事は、母親一人ではまかないきれない大仕事だった。
現代の我々が理想化する一汁三菜の「おふくろの味」は、その伝統的なイメージとは裏腹に、多様な食材を揃えたスーパー、便利な家電・調理設備、化学調味料・レトルト・固形ルーなどの家庭用加工食品、メディアを通じて伝えられる多彩なレシピといったインフラの近代化に支えられたものだ。「おふくろの味」自体、料理研究家の土井勝がこの時期にメディアで広めた言葉である。
著者の久保明教氏は、社会の近代化によって生まれたこの時期の家庭料理を「モダン」と呼び、モダンな家庭料理の規範を無効化するようなインターネット時代の家庭料理を、「ノンモダン」と名付けている。平匡の料理は、まさにノンモダンそのものだ。
戦後の女性たちの自己実現の場となり、家族を結び付けたモダンな「おふくろの味」は、同時に女性たちの足かせにもなった。手の込んだ料理を女性の愛情に結び付ける価値観は、料理に手をかけない女性への非難につながる。料理のハードルが上がれば、男性は台所に入りづらくなる。「おふくろの味」の代表格とされる料理研究家の小林カツ代は、家事育児の責任が自分一人の肩にかかるつらさと夫への怒りのあまり、真夜中に自転車で車道の真ん中に飛び出して爆走したというエピソードをエッセイで綴っている。
子どもの頃の私にとっても、女だからと押し付けられ、ときに母から怒られながら作る家庭料理は息苦しいものだった。初めて料理の面白さを知ったのは、実家を出てからだ。市販の固形ルーやレトルト、合わせ調味料を使わないシチューや中華料理は、別格のおいしさだった。同時に、画一的な加工食品を利用してでも日々料理を何品も手作りしなければならなかった母世代の苦労を思った。以来、いかにモダンな「おふくろの味」から離れるかが料理のテーマとなった。
ドラマでは、息子が嫁と仲良く料理をすることに驚いた亭主関白な平匡の父が、平匡に「大黒柱」たるよう説教する。父と息子は言葉ではわかりあえなかったが、息子の味噌汁に感服した父は、ひそかに同じ調理家電を購入する。モダンでもノンモダンでも、おいしい料理は家族をつなぐのだ。文筆家