原油価格の人類史的な下落は世界に何をもたらすのか【大場紀章】

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『公研』2020年5月号「issues of the day」

大場 紀章

 4月20日、米国の原油価格指標WTIは、始値の17・73ドルからおよそ300%急落し、一時マイナス40・32ドル/バレルを記録した。このような歴史的事態に多くの市場関係者が驚愕した。価値があるはずの石油がマイナス価格になり、厄介者の廃棄物同然の扱いを受けるなどと、一体だれが想像しただろうか。原油価格がマイナスになったことは、WTIの37年の歴史において初めてのことだが、大げさに言えば、数千年の人類の石油取引の歴史においても初めてのことだったに違いない。

オイルショックの百倍の減少スピード

 原油価格がマイナスにまで陥った原因は、言うまでもなく新型コロナウイルスの対策で行われた各国政府の政策にある。人々がほとんど移動しなくなり、輸送燃料の大半を占める石油消費量が急減した結果、世界の石油需要の約3割がわずか数週間の間に失われた。これは中国二つ分以上の消費量が瞬時に消えてしまったことに相当する。
このような急激で大幅な需要減は過去にも例がない。世界経済を大混乱に陥れた1979年の第二次オイルショックの時でさえ、4年をかけて15%減っただけだった。今回の減少スピードはその約100倍だ。世界規模であまりにも急激に石油需要が減ったため、生産側の対応が追いつかなかった。

 一般に、石油は生産を急に止めるのが難しい。その理由の一つは技術的なもので、在来型油田の場合、生産量を意図的に落としたり停止させたりすると、地層内の油分の移動性が低下したり端水面が上昇して坑井が水没するなどして、油田にダメージを与えてしまうことがある。そうなると、生産量を元に戻すことは困難で、復元するために多大なコストがかかったり、最悪の場合その油田は「オシャカ」になったりしてしまうというリスクがある。

 もう一つの理由は経済的なものである。当然ながら生産量を減らせば売上げは下がる。また、付随する設備の稼働率が落ちるので、事業コストが増大する。そのため個々の事業者は、自分以外の誰かが生産量を絞ってくれることを願いながら、自らは生産を継続しようとするため、生産者同士の競争は脱落者を待つ我慢大会になる。

 通常レベルの需要減の場合は、これまではOPEC(石油輸出国機構)が中心となり生産調整を行ってきた。しかし、今回の事態はOPECが対応できるレベルをはるかに超えている。3割もの需要減に対応するには、OPEC諸国はほとんどすべての生産量を停止しなければならず、さすがにそのような合意はできない。

 世界全体の石油生産量を調整する枠組みは存在しない。OPEC諸国のように石油会社が国営の場合は良いが、世界の石油企業のほとんどは民間企業である。米国では、独占禁止法の観点から、大統領が個々の民間企業の生産活動に停止命令を行う権限がないので、仮に国家として減産をやろうにも、意思決定の法的枠組みの懸念が残る。結局市場原理に任せて潰れるのを待つほかない。

 こうして、需要側の大幅な減少がわかっていても、生産側が即座に対応できないために、原油在庫が急激に膨れ上がった。世界中の石油タンクや地下空洞を利用した備蓄サイトは予約で埋まり、石油タンカーは浮かぶ在庫として扱われ運賃が暴騰した。さらに、使われていないパイプラインが石油で満たされ、普段は水や薬品を貯めるためのタンクまでもが石油タンクとして使われているという。

 そして4月20日は「5月もの」の現物渡しの期限日であり、現物を受け取らない投機筋はそれまでにすべて売り切らなければならない。特に当時原油先物市場に大量流入していた一部の原油ETF(原油価格連動型上場投資)が、期限ギリギリで投げ売りし、在庫キャパシティが不足するなかでお金を払ってでも引き取って欲しいという状況が発生したため、まさかのマイナス価格が実現したと考えられている。

 その後、原油価格は部分的に回復したものの、依然として年始の半値以下の低い水準が続いている。今後の原油価格の見通しは、短期的にはOPEC+による生産調整や、米国のシェールオイルを含むその他の産油国の減産と、新型コロナ規制の緩和による需要の回復のバランスによって、在庫キャパシティの懸念がどこまで払拭されるかに依っている。再度のマイナス価格突入の可能性も含め、極めて不確実な情勢である。

 一方、中長期的な原油価格の見通しについては、原油需要がいつどの程度まで回復するかに依っていると考えられる。経済界や石油業界は、早晩通常の経済活動が再開して、年末までには原油需要は平年並みに戻るという、いわゆる「V字回復」論を期待する向きがある。しかし、感染者数がなかなか減らなかったり、人々の動きが元に戻った途端に第二波が発生してしまったりすれば、経済活動の自粛状態が想像以上に長引いてしまうという可能性は十分にある。

 加えて、自粛生活におけるリモートワークや遠隔授業などライフスタイルの大幅な変化により、経済活動が再開しても、完全に元の生活には戻らないということが考えられる。人々の生活スタイルが変容すれば、今後の世界の原油需要が従来の水準に回復するまでに相当の時間がかかるので、原油価格は少なくとも数年に渡って低位で推移すると想定できるだろう。

米国の外交力にも影響が

 それでは、原油価格の低位推移を想定した時、そのことが世界情勢にあたえる影響としてなにが示唆されるだろうか。

 これまで、OPECが原油低価格戦略を取ると、メディアは「シェール潰し」「原油価格戦争」などと表現し、OPECが米国のシェールオイル企業を狙い撃ちしていると見なしてきた。

 エネルギーコンサルティング企業リスタットが4月に発表した分析によると、WTIが日量30ドルの水準であれば、70を超える米国の石油およびガス企業が年内に破産する可能性があり、また2021年まで30ドルが継続する場合は、その数が150─200社に膨れ上がるとしている。実際、4月1日にチャプター11を発動して破綻した中堅シェールオイル企業ホワイティングに続き、シェール革命を牽引したチェサピークを含む多くのシェールオイル企業が破綻準備に取り掛かっていると伝えられている。

 しかし、低い原油価格で経営が苦しいのは米国のシェールオイル企業だけではない。例えば、比較的高コストな重質油であるオイルサンドを生産するカナダの石油企業もまた不採算に苦しんでいる。もう一つの高コスト石油は、海底油田(特に深海油田)である。現在、海底油田開発を積極的に行っている国として、米国、メキシコ、ブラジル、ガイアナ、それからノルウェー、英国などが挙げられる。これらの国においても、大幅な生産計画の縮小や労働者の解雇などが伝えられている。

 IEA(国際エネルギー機関)のデータによると、原油価格が20ドル/バレルの水準の時、不採算になる石油開発のうち、56%は北米で、続いて中南米が16%、アジア・太平洋が11%、ヨーロッパが5%と続いている。一方、中東は3%、ロシアは4%である。

 このように原油価格の低迷が続くと、米国、カナダ、メキシコ、英国、ノルウェーなど、米国の同盟国や親米国の石油産業が打撃を受ける割合が大きい。この意味において、低い原油価格は、広い意味で米国にネガティブな影響があると言える。

 さらに、米国にとっては外交力にも影響すると考えられる。米国は、これまである程度高い原油価格が続いたおかげでシェールオイルの生産量が急拡大し、石油輸出国に転身したことで、外交的に強く出ることができるようになったという側面がある。

 例えば、昨年4月から米国はイランに対し極めて厳しい態度を取り続けている。今年1月3日には、米軍がイランのソレイマニ司令官を殺害し、中東で本当に戦争が始まるのではないかという懸念が高まっていた。このような強い外交を実行できた一つの背景として、中東が混乱に陥っても最悪自国の石油供給は賄えるという状況があっただろう。

 逆に考えれば、低い原油価格は米国(およびその同盟国と親米の産油国)にとって、エネルギー安全保障上の危機であると考えることができる。トランプ大統領の呼びかけでサウジアラビアとロシアを含む産油国が日量970万バレルの減産を決めた4月12日の10日前、トランプ大統領はサウジアラビアのサルマン皇太子と電話会談をしている。その際、「石油生産量の削減を行わなければ、在サウジアラビア米軍を撤退させようとする議会の動きを止められない」と話したと伝えられている(ロイター、4月30日)。

 実際、米国共和党上院議員のケビン・クレイマー氏とダン・サリバン氏は、この電話会談の直前にサウジアラビアが石油生産量を削減しない場合、同国に駐留するすべての米軍、パトリオットミサイル、ミサイル防衛システムを撤去させるという内容の法案を提出し、そのことをトランプ大統領に直接報告している。

 また、メキシコは協調減産の議論のなかで唯一原案を拒否し免除を要求、合意を3日遅らせるなど他の参加国を困らせたが、トランプ大統領はサウジやロシアに対して強く減産を求める一方で、なぜかメキシコを非難せず、むしろ免除分を肩代わりするという案さえ出すほど甘い対応をとった。こうした行動も、中東の安定より同盟国の石油供給を優先する姿勢が見て取れる。

 米国がサウジアラビアに対し、米軍撤退をカードに減産を迫ったというのはなかなか衝撃的だ。それだけ米国は、同国および同盟国の石油産業保護が重要であると考えているということだ。逆に言えば、中東の石油に依存する日本や台湾、韓国といった国のエネルギー安全保障が、知らぬ間に米国の石油戦略において天秤にかけられていたと言うこともできる。

 今後、低い原油価格が続けば、これまでの強い米国の背景にあったエネルギー安全保障がリスクにさらされ、それを取り戻そうとする力がせめぎ合う場所で、様々な摩擦がおきる可能性があるだろう。また、国際政治のパワーバランスが変化するなかで、これまで当然のようにエネルギー供給が守られてきた日本のポジションが失われる可能性があることも考慮すべきだ。

 そうした変化に柔軟に対処するには、自らの外交力で中東と友好関係を維持しつつ、有事に備えて防衛力を高めることに加え、石油の中東依存からの脱却を進める必要がある。一般に、安い原油価格は脱石油を難しくするが、コロナ禍をヒントに、ライフスタイルの変容によってエネルギー安全保障を高めるという道もあるのかもしれない。エネルギーアナリスト

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