大学教員の「学外言論」とクレイム対応【谷口功一】

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『公研』2025年1月号「めいん・すとりいと」

 

 近年、SNS上の大学教員の言論をめぐって所謂「炎上」が発生し、所属大学にクレイム電話が殺到するといった場面をよく目にする。現今の私の職務上の立場からは、そのたびに「中のひとたち(当該大学の関係者や執行部)」が現在進行形でどのような目に遭っているかを生々しく想像し、そぞろ惻隠の情を催さずにはいられないのである。

 少なからぬケースが発言者当人の狭義の専門分野の埒外で行われているが、それらは憲法学分野では「学外言論(extramural speech)」と呼ばれる*。このような専門分野とは無関係な大学教員の発言は学問の自由(憲法23条)によって保護されるべきなのだろうか。

 まず専門分野内での発言の自由について考えてみよう。それは専門家としての正確さや自制とい

う一般市民には無い制約(基準)を課されたものであり、その基準に反した場合(研究不正等)には解雇されたりもする点で、後述の通り23条によっては強く保護されているという意味での「条件付きの特権」とでも呼ぶべきものだろう。

 ただ、専門家としての発言とそうでない一般市民(=非専門家)としての発言の区別には困難が伴う。「天文学者の関税についての発言」は専門外だと言い切れるかもしれないが、言語学者チョムスキーの外交政策論や進化生物学者ドーキンスのポストモダニズム批判などはどう考えるべきなのだろうか。

 一般市民は大学に対して「所属教員をキチンと管理しろ!」と思うだろうが、専門外の学外言論であるなら、それは端的に一般市民と同じく憲法21条(表現の自由)の保護のみを受けることとなる。専門内の発言であるなら23条の問題となり、そこで保護の対象となり得る専門的言論の当否は、民主的正統化にコントロールされない団体(教授会等)に委託されるべきであり、世論によって決められるべきものではないのである。

 しかし、近年のアメリカにおいて顕著に見られるように知性が専門の枠を超え出て権力と結びつこうとしたりすることに対しては、「反知性主義」からの激烈な反発が生じかねないこともよくよく銘記しておくべきではないだろうか。副大統領が「教授たちは敵だ!」と公言する光景は決して他人事ではないのだ。

 具体的な解決策としては、SNS等で何かをことさらに否定したり激しく批判したりすることを差し控えるというありきたりな話に尽きるのだが、加えて個人的には人や何かを褒めることにこそ意を用いるのをお薦めしたい。トルストイが『アンナ・カレーニナ』で不幸のバリエーションは幸せのそれを凌駕すると言ったように、ダンテの『神曲』が天国の単調な描写に比し圧倒的に豊かな筆致で煉獄や地獄を描き出したように、われわれ人類の侮蔑や罵倒の語彙は実に豊かである。対して称揚や賛美の語彙は限られ、それを巧く表現することは実に難しい。物書きの端くれとして、おのが筆の巧緻を尽くした技倆の見せ場としてこそ、褒辞のみからなる稠密な細工を彫鏤することに意を尽くしてみてはどうだろうか。

 最後にお願いがある。大学へのクレイム電話を受けるのは原則的に事務方の職員で、部局長などに報告はなされるが、そこで留めおくのが普通である(クレイム対象の本人にはいちいち知らせない)。ただ一点、電話の受け手の彼らにも家族がいることに思いを致してはもらえないだろうか。彼らも誰かの父や母であり、息子や娘なのである。強い言葉で長時間罵倒された後、どんな気持ちで彼らが家路に着くのかを想像してみて欲しい。職場の仲間に過ぎない私でさえ心を傷めるのであるから、それが自分の家族であったら、どうだろう。厳密には本稿もまた「学外言論」に過ぎないのではあるが、孟子様も言うように「惻隠の心は仁の端」(公孫丑章句上)であるのだから。

*文中の説明は、盛永悠太「「学外言論(extramural speech)」と学問の自由」北大法政ジャーナル25(2018)に負っているので、是非そちらも参照されたい。

東京都立大学教授・法学部長

 

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