日本はグローバルサウスに自由を語れ【兼原信克】

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『公研』2023年11月号

 昨今、グローバルサウス論が姦しい。新興国の台頭が著しいからである。産業革命以来、巨大な富を独占し、世界政治を切り回してきたG7がどんどん相対的に縮小している。20世紀末まで世界GDPの7割を超えていたG7の経済規模は、今や、5割を切る。中国はいうに及ばず、インドも、ASEANも、後10年で、世界第3位の日本の経済規模を抜く。しかも人口が若い。インドは、日本人より20歳も平均年齢が若い。 

 グローバルサウスの人々は、かつて人種差別され、プランテーション農場や鉱山で廉価な労働力として使われてきた人々である。その屈辱は数世紀に及ぶ。彼らの中には、鬱屈した先進工業国家に対する感情が、灰の下の炭火の様に熾ったままである。

 幸いにして、20世紀末のソ連邦崩壊によって、反帝国主義闘争といった力による現状変更をめざす動きは消滅した。BRICSの主力である中国も、ロシアも、世界の国々を反米・反西側で糾合することなどできはしない。グローバルサウスの内実はバラバラである。むしろ、インドやブラジルは、自由主義的世界秩序の中で序列の階段を登り、自らも指導的立場に立つことによって、多極化した自由主義社会を実現したいと考えている。

 実際、グローバルサウスの多くの国が、西側諸国が築いた自由貿易体制から裨益してきた。資本の論理は残酷である。直接投資が、先進国から廉価で優秀な労働力があるところに滝壺のように落ちていく。資本と、技術と、そして産業そのものが、先進国からグローバルサウスへと移っていく。先進国の産業が空洞化し、新興国が著しい成長を遂げ、世界経済のパイが膨らむ。それは正当な競争の結果である。

 今日、西側諸国は、自由という価値が真に普遍的なものであることについて、グローバルサウスの国々を説得せねばならない。そのために、リンカーン米大統領や、マハトマ・ガンジーや、キング牧師や、ネルソン・マンデラ南アフリカ大統領のような英傑たちが、命を懸けて闘ってきたのである。

 日本には特別な使命がある。フリーダムを自由と訳したのは明治人である。自由とは、仏教用語であり、「己に由る」という意味である。仏の心は己の中にある。煩悩の汚れを去って本当の自分を見つけよ。そこには無限の慈悲がある。そこから衆生救済のための無限の力が出てくる。この仏教の教えは、仁を人間固有の最高価値として、人はその実現のために浩然の気を膨らませるという儒教の教えと変わらない。そして、それは、原罪を償い、キリストの無限の愛に触れて、人は万人の僕になるというキリスト教の教えと同じである。そして、キリストは、神の国は汝の中にあると述べた。

 自由とは、自己実現である。本当の自分を見出すことである。人はそのために生きている。そこに気が付けば、人はみな平等であり、命と自由と幸せを守るために集い、政府を建て、その政府の正統性は人々の同意に基づくという自由主義の政治原理が出てくる。成熟した倫理を持つ東洋の文明は、17世紀の欧州啓蒙思想に基づく自由主義的、民主主義的な政治制度を見事に根付かせることが出来る。それを証明したのは、1889年に近代憲法を書き、1890年に帝国議会を開いた日本なのである。

 日本人は、独立不羈の武士の国である。儒仏の教えに従い、勤勉さと瞑想の中に、千年以上、本当の自分を探し続けてきた国民である。自由の価値が普遍的なものであるということをグローバルサウスに語ることは、日本人にこそふさわしい使命である。 同志社大学特別客員教授

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