「日本一の投手コーチ」の原点となった一カ月の猛特訓【佐藤義則】

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『公研』2023年7月号「私の生き方」

 

元プロ野球選手、野球指導者 佐藤 義則

 

 

 

出身は北海道奥尻島

──1954年のお生まれです。ご出身の北海道奥尻島はどんなところですか。

佐藤 小さい島で、何もない静かなところですよ。一時期は観光客を呼び込もうとPRしていて、夏場になるとそれなりに賑わっていたこともあったけど、それもなかなか上手くいかなかった。

 札幌あたりに比べると、そんなに雪は降らないほうだけど、降るときはどっさり積もることもある。

 実家は漁師をやっていて、春から冬までは主にイカ釣りをしていて、冬になるとマス漁を中心にいろいろなものをやっていました。実際に爺さんに聞いたことはなかったけど、一族は秋田のほうからやって来たらしいです。後になってちょっと調べる機会があって、初めて知ったんだけどね。

──丈夫な身体や運動能力はご両親のどちらに似ていると思いますか。

佐藤 運動をやっていた姿を見たこともないから、学校で足が速かったとか、そういう話も聞いたこともないからわからないですね。ただ親父は戦争に行っていたときに「手榴弾を遠くまで投げられた」と言っていたけどね(笑)。身体も丈夫だったし、運動能力は親父に似たんじゃないかと思う。

──お母様はどんな方でしたか?

佐藤 親父は夕方には漁に出て朝に帰ってきて、昼は寝ている生活をしているから、普段は朝飯を食べるときくらいしか顔を合わせる機会がなかった感じでした。

 お袋とは、家の仕事もやっていたから常に一緒にいる時間は長かった。高校に進学するときに島を離れて、函館で下宿生活を始めてからは、いろいろと心配もしてくれました。田舎の人だからね。

 両親からはあれこれと言われたことは、ほとんどなかったね。僕も自分勝手にしていたわけではないけど、やりたいことは好きにやらせてくれた感じでした。

──お手伝いはどんなことをされていたのですか。

佐藤 釣ってきたイカをさばいて、それを広げて干してスルメにする作業です。今みたいに生では売らないからね。多いときは1000匹くらい釣れるので、毎朝、家族総出でやっていました。それが終わってから学校に行くのが日課でした。

──それはたいへんですね。

佐藤 同級生も漁師の家が多かったから、同じように手伝いをしているのを見ていて、そういうものだと思っていたね。土曜日や夏休みなんかで、学校が休みのときには漁にも出たりしていました。船の操縦はできないけど、舵を取るくらいのことはやったことがあります。

 自分で釣ったイカは小遣いになったんだけど、家の近所では買うものがなかったこともあって、中学までお金を遣ったことがなかったんです。

 

「センターからちょっと投げてみろ」

──野球を始めたきっかけは?

佐藤 野球が上手だった兄貴とキャッチボールから始めたのがきっかけでした。子どもの数も多い時代だし、みんなで遊ぶとなれば野球やソフトボールでしたね。だから、野球が好きで夢中になったというよりも、他にすることがないからやっていただけなんですよ。

 他の子たちよりも投げるのも打つのも上手かったと思うけど、当時はみんなで楽しんで遊ぶという感じでした。今のリトルリーグみたいに、小学校から野球の練習に明け暮れていたわけじゃない。それから剣道もやっていて、学校同士の大会に出たりもしました。

 本格的に野球を始めたのは、中学校で野球部に入ってからですね。これも兄貴が先に野球部に入っていたのを、追いかけるようにして入ったんです。

──北海道は冬になると寒くて家に籠もりがちになるイメージがあります。

佐藤 冬は冬なりに楽しみがあったね。山に行ってスキーをしたりね。だから、南の人たちが思うよりは、冬でもけっこう遊んでいたりする。雪が降るのは当たり前のことだから、それで家に籠もりがちになることはなかったね。

──当時、憧れたプロ野球選手はいましたか。

佐藤 特にいなかったね。友だちとグラウンドで野球をするのは好きだったけど、東京オリンピックが始まるまではテレビもなかったし、野球を観る機会もそんなになかった。北海道だから巨人戦しか映らなかったけど、目標にした選手はいなかったな。

──中学校の野球部ではやはり最初からピッチャーだったのですか?

佐藤 1、2年のときは内野手をやって、3年になってからピッチャーになりました。最初の2年間は野手をやらせて、ピッチャーは3年生のなかから選ぶのが監督の方針でした。

 島にも中学校の野球大会があって、勝ち進むと奥尻島の対岸の街も含めた檜山大会に進むことができる。そこでも勝つと、今度は函館で渡島大会があって、最後は札幌で行われる大会に行けるんです。

 3年生のときには同級生たちに上手い選手がいて、函館の大会まで進むことができて、そこで優勝して札幌での大会に出ることになった。奥尻に比べたら函館は本当に大きい街で、オレらの時代には修学旅行で行くようなところでした。札幌にいたっては、未知の国に行くようなものだね。大会に出られるだけで舞い上がっていたから、どんなふうに負けたのかも覚えていないくらいです。

 函館での決勝戦には函館有斗高校の上野美記夫監督が見にきていました。上野さんはチームで4番を打っていた同級生に興味を持ったんですね。それで島までテストをしにやってきた。このときに僕も、「センターからちょっと投げてみろ」と言われたんですよ。それでセンターから思い切り投げると、バックネットにボールが突き刺さりました。その返球を見た上野さんが家まで来て、「函館有斗で預からせてくれませんか」と申し出てくれました。

 自分は中学を出たら親の船に乗って漁に出るものだと考えていたから、高校に行くつもりはなかったんですよ。兄貴は漁が好きじゃなかったし、網元だった親の跡を継ぐのは自分かなと思っていたからね。けれども、特待生として学費の全額免除で誘ってくれたので、函館有斗高校に進むことになった。生活費の面倒も見るという話もあったらしかったのだけど、自分で工面することになりました。うちの爺さんが「飯くらいは自分で払え!」とうるさく言ったらしい。後で聞いたら、あまり優遇されることで、上級生からやっかみを受けてイジメられることを心配していたみたい。

 

甲子園をあと一歩のところで逃す

──15歳で親元から離れて奥尻島から函館で暮らすとなると、環境の違いに戸惑うこともあったのではないですか?

佐藤 函館有斗は函館大学付属の高校で、大学で事務員をされている方の一軒家に野球部の4名が下宿していました。下宿は山の上のほうの田舎にあって、そこから40分以上かけて歩いて学校に通っていました。

 3年間、野球部の練習と学校の授業に明け暮れる毎日を送っていたから、街に行って遊んだ記憶もない。だから島からいきなり大きな街に出て来ても、面食らうようなことはなかった。

──函館有斗高校は当時から強かったのですか?

佐藤 いや、強くなかったね。まだ一度も甲子園に出ていなかったし、常連校になったのは自分たちが卒業した後のことです。甲子園に出場しても一回戦を勝つのがやっとだったし、とても名門と言えるような野球部ではなかったね。

──自分の実力には自信はありました?  

佐藤 自信は別になかったね。それに函館から出て試合をしたことがほとんどなかったので、実力がどの程度なのか自分でもよくわかっていなかった。たまに大谷室蘭高校なんかが練習試合に来てくれることもあったけど、それくらいだったからね。

 高校時代も最初はサードやショートを守っていたけど、2年生の秋からはピッチャーとしてエースを任されるようになりました。函館にも2校くらいライバルがいて、そこにもよいピッチャーはいました。ただ、自分が投げればたいてい抑えられていましたね。

 3年生の春季北海道大会の決勝戦では、苫小牧工業と対戦して70の完封で勝利したんです。函館有斗が全道の大会で優勝したのは、初めてのことでした。

──やはりすごいですね。才能の片鱗が見えてきている。

佐藤 ただ一番大事だった3年生の夏の大会では、南北海道大会の決勝戦で春は勝利した苫小牧工業に20で敗れて、甲子園には行けなかった。試合が始まってすぐに、1番バッターがデットボールを受けて骨折してしまった。2年生だけどショートを守るチームの要だったから、最初から厳しい状況に追い込まれてしまった。ヒットは3本しか打たれていなかったけど、3塁打を打たれて、そのランナーをスクイズで返された。

 相手投手の工藤敏博さんはシュートピッチャーで、それを打てなかった。甲子園に行くためにずっと頑張っていたわけだから、あと一歩でそれを逃したのは本当に悔しかった。いま思い出しても悔しい。

 結局、全国大会で投げる機会は一度もなかったから、自分の実力をはかることがないままに高校時代を終えることになった。ただ、日本大学の北海道担当のおじいさんスカウトが関心を持ってくれて「大学セレクションを受けてほしい」と声が掛かった。その頃もう就職先も決まっていたから進学するつもりはなかったんだけど、東京まで行って選考会で投げてきた。

 北海道から出たことがなかったから東京に行きたいというのもあったけど、選考にやってくる選手たちを見てみたいという気持ちがありました。甲子園に出た選手もたくさん呼ばれていましたから、自分の実力がどのくらいのものか知りたかったんです。

 セレクションではすごく調子がよかったこともあって、スカウトから「ぜひ来てほしい」と熱心に口説かれるようになったんですね。学費もすべて免除してくれるということでしたから、やれるところまで挑戦しようと決めました。

 

拓銀に内定をもらっていた

──ちなみに就職先はどこに決まっていたのですか?

佐藤 北海道拓殖銀行でした。

──ご両親としては手堅い銀行のほうが安心されたかもしれないですね。

佐藤 末っ子だったこともあって、そのあたりは自由にさせてもらっていました。確かに銀行は手堅いけど、拓銀は1997年に破綻したからね。就職していたら、働き盛りに路頭に迷っていたかもしれない。本当に先のことはわからないよ(笑)。

──東京での暮らしが始まります。楽しかったですか?

佐藤 いや楽しかったね。1年のときは当番制で寮の仕事をやらなければならないので忙しいけど、2年生になってくると外に遊びに出る余裕も出てくる。お酒も飲むようになっていたから、練習が休みの前の日なんかには新宿によく繰り出しました。野球部の寮は世田谷にあったから、飲みに行くのは新宿でしたね。

──大学でも活躍されてプロを意識されたのは?

佐藤 3年の終わりですね。2年生で日米大学対抗、3年生のときにアジア大会の日本代表に選ばれたんです。4年生の秋には78奪三振の東都大学リーグのシーズン最多記録も達成しました。よその大学でドラフトされたピッチャーを見ていて、自分も頑張ればプロになれると実感するようになったね。

──同世代で野球をされていた人で有名な選手は?

佐藤 オレらの世代で一番騒がれていたのは、法政にいた一つ下の江川卓だろうね。ただ法政とは練習試合でよく対戦していたけど、江川と一緒に投げる機会は一度もなかった。

──佐藤さんのなかではライバル意識はありましたか。

佐藤 ないです。後輩だし、リーグも違ったからね。

 

阪急ブレーブスにドラフト1位で入団

──同年秋のドラフト会議で阪急ブレーブスから1位指名を受けます。

佐藤 大学では4年間で通算22勝していたので、駒大の森繁和や大商大の斉藤明夫と並んで「大学生投手三羽烏」なんて呼ばれるようになっていましたから、もうプロ一本で社会人野球や就職のことは念頭になかった。

 阪急はスカウトの三輪田勝利さんが寮まで来てくれて「絶対に指名する」と言ってくれていました。実は巨人のスカウトもよく来てくれていましたが、結局1位では指名されなかった。巨人戦は北海道でも放映されるから、両親にテレビで観てもらえるなという期待も少しはありましたね。

 あのときの阪急は3年連続で日本一になっていて1番強いチームだったから、1位指名は嬉しかったですね。プロ野球選手になりたかったわけだし、迷うことなく入団を決めました。

──当時の阪急はすごい選手ばかりですね。

佐藤 打者陣は福本豊さん、加藤秀司さん、長池徳士さん、ボビー・マルカーノさん、投手陣は大エースの山田久志さん、足立光宏さん、山口高志さんなどがいました。

 阪急は、派閥みたいなものがなかったのがよかった。福本さんのような大ベテランが外野手を囲い込んだりすることはなくて、トレードでやってきた選手たちにも分け隔てなく接していました。もちろん上下関係はあるけど、みんなが一緒にチームをつくる感じでした。

 他のチームでは派閥のボスがいて、その人についていかないと嫌われてしまって、やりにくくなるような話も聞いていたからね。人間が集まっているわけだから、どうしてもそういう面は出てくるけど、阪急はそれがないのがよかった。

 ただ、強いチームだからプレーは練習でも綿密で本当に隙がない。ベテランもよく練習するから、グラウンド上ではいつも緊張感があったね。でも試合が終われば、みなでよく飲みました。普通は、投手は投手同士、野手は野手同士で飲むことが多いのだけど、加藤秀司さんなんかはピッチャーにもよく声を掛けて飲みに連れていってくれましたね。

──日本シリーズ3連覇を達成した上田利治さんはどういうタイプの監督でした?

佐藤 上田さんは、とにかく選手のことをよく見る監督でした。キャンプの初日に僕のピッチングの癖を見抜かれたんですよ。右手首の位置で、カーブなのかストレートなのかを指摘されたのは驚きました。上田さんはデータも重視しましたが、それ以上にその日の選手の状態をよく把握していて、それを頼りに采配を振るうんです。僕もいろいろな監督のもとで野球をしましたが、観察眼という点では上田さんに勝る人はいなかったね。

──入団当初のプロ野球選手の生活サイクルはどういう感じですか?

佐藤 球場の近くにあった寮に住んでいて、決められた集合時間になったら歩いて通っていました。練習が始まって、平日だったら夜に試合をして、終わったら飯を食って寝る。その繰り返しですよ。

──朝は割とゆっくりですか?

佐藤 1軍は、平日は大抵ナイターだけど、2軍はデーゲームだから生活サイクルは変わってきます。お陰様で、2軍でやったことがほとんどないので、早い時間から練習するのは、調整で投げるときくらいでした。だから朝はゆっくりしていました。

 

「オレたちは出稼ぎに来ているんだ」

──1年目から1軍に定着して、初登板は5月11日西京極球場での対クラウンライターライオンズ戦でした。プロの壁を感じたり、緊張したりすることは?

佐藤 大学卒は即戦力だと考えられていたし、ドラフト1位だったからプロでもやっていけるという自信はありました。最初から自信が持てないようでは、プロには向いていないよね。デビューのときは、先発投手が打たれた後の敗戦処理だったから、そんなに緊張する場面ではなかった。マウンドに立って投げ出してしまえば、投球に集中するだけですよ。このときは3回をパーフェクトに抑えることができた。

──1年目から7勝を挙げられて新人王を獲得されています。

佐藤 7勝2敗1セーブだから勝ち星の数としては、新人王をもらえるような成績ではなかった。けれどもこの年は新人にライバルもいなかったし、登板数が少ないなかで7勝を挙げたことが認められたのだと思う。

 当時の阪急は強かったから、最初は敗戦処理から始まって、日程的に先発投手の頭数が足りなくなる「谷間」にようやく先発する機会が与えられる感じでした。初めて先発したときも初完投・初勝利を飾ることができたのだけど、次に先発する機会はけっこう空きました。それでも次に投げたら勝つことができて、次第に先発する間隔が短くなっていきました。

──阪急の大エースと言えば、山田久志さんですね。

佐藤 山田さんにはずいぶん可愛がってもらっていました。山田さんが秋田県の出身で、僕が北海道だったから「東北・北海道の会」をつくって、食事会をしたりしていました。今井雄太郎さんは新潟だから、東北・北海道ではないのだけど、勝手に入ってきた(笑)。山田さんは「オレたちは出稼ぎに来ているんだ。頑張らんといかんやろ」と繰り返し言っていましたね。

──プロの選手はチームメイトであってもしのぎを削るライバルですから、後輩であっても優しくするのは難しくなるのではないかとも思います。

佐藤 基本的には厳しいですよ。山田さんが大ベテランの足立さんに「浮き上がってくるカーブとシンカーの投げ方を教えて欲しい」とお願いしたら「金を持ってこい」と言われたらしいです。そういう世界ですよ。自分もそうだったけど、絶対に追い抜かれないという立場にならなければ、若手に教えるような余裕は持てないですよ。プロの世界は味方であっても、みんなが競争相手であってライバルだからね。

 ただ山田さんのように、チームのエースには投手陣をまとめる役割も求められます。80年代頃の阪急の投手陣は、山田さんが長男、今井さんが次男、三男が僕という感じでしたね。今井さんは性格が優しすぎて後輩を叱れなかったから、そういう厳しい役割は僕が担当していた感じでした。

 

阪急投手陣の伝説的なエピソード

──今井雄太郎さんは、登板前にビールを飲んでいたという伝説がありますね。

佐藤 今井さんはデビューしてからしばらくは、本来の実力をなかなか発揮できなかった。どうもマウンドに上がると緊張してしまうところがある。それでピッチングコーチの梶本隆夫さんが、度胸を付けるためにビールを飲ませて送り出したことがあった。それがきっかけだったかどうかはわからないけど、見違えるように投球がよくなっていったから、その伝説が広まったんだよね。もちろん毎試合飲んでいたわけじゃないですよ。

 今井さんは新潟の出身だしお酒が好きですごく強かった。もう365日飲んでいる人ですけど、酔うまで飲むことはないし楽しいお酒でしたよ。山口高志さんともよく飲んだけど、みんな楽しく飲むのが好きな人たちでした。

──日本球界史上で一番速い球を投げたのは山口高志さんではないかという話をよく聞きます。実際どうでした? 佐藤さんが入団された頃はもう衰えが見えていたのでしょうか?

佐藤 まだバリバリでしたよ。とてつもなく速かったです。阪急の投手陣はベテランが多かったから、1軍では僕が一番年下で、僕より2歳上の山口さんはまだ2番目に若いぐらい。だからブルペンではいつも山口さんの隣で投げさせられていたんです。最初の頃は一球投げるごとに「え! なんだこの球は?」という感じでした。隣で投げていると、自分の球が遅く感じられるのが嫌だったね(笑)。

 

急に勝てなくなりフォーム改造へ

──2年目には13勝、3年目も10勝と2年連続で二桁勝利を達成します。先発ローテーションの一員として十分な活躍をされていますが、4年目は4勝13敗と大きく負け越しています。故障があったのですか?

佐藤 違います。ただ勝てなくなったんです。この年のシーズン前に、大学生の頃から付き合っていた嫁さんと結婚しています。媒酌人は、当時、監督をされていた梶本隆夫さんにお願いしました。だから、頑張ろうという気持ちは強かったのだけど、それが空回りした感じになって、何をやっても上手くいかなかった。

 もう本当にグラウンドに行きたくないと思ったこともあったんです。それでも梶本さんから「ローテーションは絶対に外さない」と言われていました。その期待に応えたかったのだけど、それでも勝てなくて、終わってみたら13敗もしていた。

──なぜ打ち込まれるようになったのか、ご自身のなかではわかっていましたか?

佐藤 自分ではよくわからなかったですね。もともとコントロールはよくなくて、馬力で打者を封じ込めていたところがありました。4年目ともなると、相手も慣れてきたところがあったのかもしれない。原因はよくわからなかったけど、とにかく勝てなくなった。

 このシーズンはチームも5位に低迷しましたから、責任をとるかたちで梶本さんは辞任されました。ただ当時としては珍しいことですが、梶本さんはピッチングコーチとして残られた。その梶本さんから「一からフォームをつくり直そう」と言われて、フォーム改造の特訓に取り組むことになったんです。

──フォームの改造は勇気も要りますね。

佐藤 一人で9つも負け越したのだから、自分のピッチングが悪かったことは間違いないんですよ。結果が出なければ、生き残っていけない世界だからもうやるしかないわけです。

 シーズン後の全体練習が11月いっぱいで終わって、12月から西宮球場の雨天練習場で梶本さんの指導が始まりました。30日まで続いた特訓は、加藤安雄さん──現役引退後は各球団で長くバッテリーコーチをされた方です──に受けてもらって、連日200球投げ込みました。

 改造のポイントは、フォームの上下動のブレをなくすことでした。梶本さんは、「お前のフォームはギッコン、バッタンしていて、タイミングが合ったときはすごくいいボールがいくけれど、合わないとボールがちらばってコントロールがつかない」と指摘してくれたんです。それを改善するために「まっすぐに立てるようにしよう」と。ただそれだけのアドバイスです。

 つまり、左足を上げた反動で、上半身がブレないようにすることが狙いです。それが改善されれば、その分コントロールもつけ易くなるというのが、梶本さんの考え方でした。

1230日まで毎日投げ続けたお陰で、体重移動で頭を反らさず、むしろ少し前屈みに立つ感覚が掴めてきました。

──梶本さんのアドバイスはシンプルだけど、的確だったわけですね。

佐藤 格段によくなったと実感できました。本当にボールの角度も出てきたし、カーブもよく曲がるようになった。梶本さんも「来年は絶対また10勝以上できる」と太鼓判を押してくれた。シーズンオフに自分の時間を犠牲にして、親身に指導してくれたのだから、梶本さんには本当に感謝している。現役引退後にピッチングコーチとして選手を指導するときも、このときの経験が原点になっていることは間違いないですね。

 

1年間のリハビリ生活

 ところが、年明けに1月10日から始まった自主トレでぎっくり腰になってしまうんです。頭のてっぺんまで衝撃が走るような痛さでした。それでも最初は鍼治療で痛みを緩和させて、高知キャンプには頑張って行ったんです。けれども、キャンプの途中から左足が痺れるようになって、左足を上げることもままならなくなった。

 それで大阪に帰って大学病院の検査で「腰椎の分離症」と診断されて、結局そのまま入院することになりました。あれよ、あれよという間に左足が6センチメートルくらい細くなってしまった。

 病院は、逃げ出すように2週間で退院しますが、それから1年間はリハビリの日々を過ごすことになります。いろいろな人から接骨医、整体師なども紹介してもらってリハビリに励むと、半年くらい経った頃に、左足の痺れが少しずつ取れていきました。

──リハビリ中は、同僚やチームメイトの状況は気になるものですか?

佐藤 ならなかったです。もう全然動けないですから、気にしても仕方がない。先生たちの治療方針に納得できたので、「まだ若いから必ずよくなる」という言葉を信じるしかないと思いましたね。

 よく「この1年間で精神的に強くなったのではないのですか」という聞かれ方もしましたが、そういう実感もないんですよ。学んだことがあるとすれば、身体が発するサインがわかってきたことだね。疲れがたまってくると、坐骨神経痛が出るようになって、それ以上はムリをしないように心掛けるようになった。44歳まで現役で投げ続けられたのも、自分の身体と会話するようになったのは大きかったと思う。

──「ぎっくり腰は猛練習の影響だ」と指摘した方もいたのでは?

佐藤 フォーム改造のためにオフに練習したことは、まったく後悔なんかしていない。むしろ嬉しかったのは、カムバックしたときに練習して獲得した新しいフォームを身体が覚えていてくれたことでした。自分で身に付けた技術は忘れてしまうことがないんです。逆に言えば、そこまでやらなければ、やらなかったのと同じということだと思う。

年間21勝で最多勝をもたらした
「ヨシボール」

──1年間のリハビリ生活を経て、1982年、シーズンに見事復活を遂げます。復帰後の2シーズンはリリーフ登板でしたが、84年からは先発に復帰されます。

佐藤 自分のプロ野球人生を振り返ると、成績的にはこの3年間がピークだったことになる。84年のシーズンは17勝してパリーグ制覇に貢献できた。85年は21勝して最多勝、86年も防御率のタイトルをとることができました。85年に僕が21勝してからパリーグでは、2003年の斉藤和巳まで20勝に到達する人がいなかった。けれども自分としては、この年に23試合で完投していることを誇りに思っている。

──佐藤さんが指導された田中将大投手が2013年に24勝0敗を達成した年でも完投は8ですから、23は凄まじい数字ですね。

 佐藤さんの代名詞でもあったウイニングショットの「ヨシボール」はどのように編み出したのでしょうか?

佐藤 日大4年のときから投げ始めていて、プロに入ってからも試行錯誤を続けていて、84年頃には自由自在に操れるようになっていたと思う。指が長いほうではなかったから、ボールを挟むフォークボールはあまり上手く落ちなかった。ヨシボールは、オーソドックスなカーブの握りのように、人差し指と親指とでボールを挟む。この握りのまま、ストレートと同じように腕を振って抜くと、フォークボールと同じように鋭く落ちるボールになったんです。腕の振りは限りなくストレートと同じだから、腕を振り下ろすスピードにバッターが幻惑されるのだと思う。しかもただ遅れてくるのではなくて、ストンと落ちる。会心のヨシボールはまともにバットに

 当てられた記憶はなかったね。

 ヨシボールは実践で投げては改良を続けた変化球だから、教えようと思っても、なかなか人に伝授することはできなかったね。

──阪急ブレーブスは84年にリーグ優勝しますが、それ以降は西武ライオンズの黄金時代が長く続きます。個人的な話ですが、あの時代の阪急・オリックスのファンでした。ライオンズは強すぎましたね。

佐藤 選手もいい選手がたくさんいたし、本当に強かったね。僕自身はライオンズに相性がよかったから、苦手意識はなかったけどね。投手陣も揃っていたし、清原、秋山、石毛、デストラーデと打線も強力だし、守備も走塁もそつがない。すべての要素が揃わないと、あれだけ連覇を続けることはできないと思う。

──当時のチームメイトたちの印象を伺っていきます。まずはバッテリーを組まれていた中嶋聡捕手。オリックスの監督としてパリーグ連覇を果たしましたから、今や名将ですね。当時から監督向きの資質はありましたか?

佐藤 ないですよ(笑)。現役時代はそのへんでボーッと座っているようなやつでした。人間的にはいいやつだったけど、自分から話をするような指導者タイプの性格でもなかったしね。ただ日本ハムで長く勉強して、アメリカでも修行をしたことで成長していったのだと思う。実際にあれだけ若手の選手を育てて、結果を残しているのだから本当に大したものだと思う。

 実は中嶋が若手の頃に、山田さんと一緒に「あいつを一人前のキャッチャーにしよう」と二人で教え込んだんですよ。とてつもない強肩だったし、身体も丈夫だったからね。そういう意味では、あいつには今でも親しみがあるね。

──プロ野球史上最高のスイッチヒッターとされる松永浩美さんは? 打撃、守備、走塁すべてにおいてセンスの塊という印象がありました。

佐藤 何て言うのかな、いいやつなんだけど我がちょっと強すぎるところがあったね。

 

個性派集団のチームメイトたち

──清原和博さんもYouTubeの番組で「松永さんは怖かった」と語っていたことがありました(笑)。

佐藤 人間的には悪くはないんだけど、誰かと話しても「はい」って言えない性格ではあったね。一言聞いたら、二言、三言返してくるから誤解が生じるタイプではあった。そういうところを何とかしようと思って、飲みに連れ出して、いろいろな話をしたこともありました。

 野球に関しては、何も言うことないよね。阪急は彼の能力を見込んで、高校を卒業する前に中退させて採っているんです。卒業してしまうと、ドラフトで他球団に行かれてしまう可能性があったから。今なら考えられないけど、当時はそんなことも行われていたんです。

 打撃コーチの住友平さんの指導のもと、右打ちだったのをスイッチヒッターに変えるのだけど、ものにできたのはやっぱり器用だったんだろうね。あれだけ打ったのだから、すごい打者であることは間違いないです。

──主砲の石嶺和彦さんは? 勝負強い打撃の職人ですね。

佐藤 石嶺は優しい性格で、松永とは対照的なところがあったね。指名打者として活躍したイメージが強いけど、最初はキャッチャーとして入団してきたんです。膝を怪我してからは、打者一本になったけどね。沖縄出身ということもあって、あいつもとにかくお酒が強かった。よく一緒に飲んで食べました。今は故郷の沖縄の社会人野球のチームで監督していて、今でも電話がかかってきたりして、仲良くしています。

──同郷の星野伸之さんは? 究極の技巧派投手として今でも語り草になっています。

佐藤 彼があそこまで勝てるとは思わなかったね。直球が130キロも出ないのだから、ブルペンで見ている分には1軍で使おうとは思わないよね。それがいざ試合で投げると、三振をどんどん取る。やっぱりあのカーブがあったから、ストレートもフォークも活きてくる。本当にすごいなと思って見ていました。自分で考え抜いてあのフォームや投球術を編み出して、プロの世界でずっと活躍したのだから、見習うべきところは多いよね。

 

イチローは最初は打てなかった

──最後にイチローさんですが、やはり最初から違っていたのですか?

佐藤 そんなことはない。最初は全然打てなかったんですよ。よく、監督だった土井正三さんは「イチローの才能を見抜けなかった」と批判する人がいるけど、それは違う。みんな、その後のものすごいイチローしか見ていないから、そう言うんです。

 イチローは2軍で結果を出したから、1軍に昇格したが、1軍では結果が出なかった。だから、2軍でもっとバッティングを磨く段階だ、と判断されたわけです。

 土井さんは決して機会を与えなかったわけではない。イチローは2軍で努力を続けて打ち方を変えて、監督が仰木さんに代わったときくらいから、1軍の投手にも対応できるようになっていったわけです。誰が監督をしていたとしても、あれだけの才能が起用されずに埋もれてしまうことはあり得ないですよ。そこは知っておいてほしいですね。

──佐藤さんが衰えを感じ始めたなっていうのはいつぐらいですか。

佐藤 38、9歳ぐらいからですね。40歳を超えると、腕を振ったときに血管が戻らなくなるような感覚がありました。それを感じるようになってから、いよいよ厳しいかなと感じるようになりました。投げるだけなら山本昌のように50歳までいけたかもしれないけど、勝ち負けがあることだからね。監督が試合で使ってくれない以上は辞めるしかない。それで500試合登板を区切りとして現役を引退することになりました。44歳まで投げられたのだから、やり切ったと思います。

 

ダルビッシュと田中将大を育てる

──現役引退後はピッチングコーチとして数々の大投手を育成されます。ドラフトされてくる投手は野球エリートばかりですから、そういう才能を指導するのはたいへんなことだと想像します。

佐藤 ドラフト1位の選手でも、それはアマチュアのなかでのことだからね。プロにはもっといい選手がいっぱいいるし、最初から完成しているわけではないんですよ。

 僕が日本ハムのコーチに就任した年にダルビッシュが入団してきました。最初に彼が1軍に上がってきたときに伝えたのは、「オレはプロに入った以上は10年はやりたいと思ってトレーニングして練習してきた。お前も今から10年やるために、まずは故障をしない身体をつくることを考えろ」ということでした。身体が強くなっていかないと、フォームはよくなってもスピードは出ないんです。フォームをよくするのは簡単だけども、そこにきちんと筋肉が付いていないとムリなんです。

 ダルビッシュは入団当初は、真っ直ぐでも150キロに達しなかった。そのことを指摘すると、彼は「僕はスライダーピッチャーですから」と言うんですよ。高校時代はスライダーでいつでもストライクを投げられて、それで抑えられたから、そう考えるようになったのだと思う。同じようなことを田中将大も言っていました。ここは、連戦が求められる高校野球の戦い方の影響かもしれないけど、速球で押すよりも変化球でかわすピッチングが身に付いてしまっていました。けれども、それだけではプロでは通用しないんです。遅いボールはいつか捕まることになります。

 だから、スピードにこだわらないとダメなんです。ダルビッシュにも田中にも「150キロ以上出る能力があるから、まずは真っ直ぐを速くする身体づくりから始めよう」という話を最初にしました。

 

ポイントはステップする足の膝

 球速を上げるためには、強い下半身が必要になるので、そのためにはやはり走り込みで土台をつくらなければならない。それから、投げる筋肉は投げ込みで鍛えるしかない。ブルペンで投げ込むことが速い球を投げるための近道です。ここは「肩は消耗品」と考えるトレーナーとは意見がぶつかるところだけど、ウェイトトレーニングのやりすぎは身体のバランスを損なうことになると思う。

──梶本コーチとの特訓もコントロールを付けることにありましたが、ここを指導することは難しいように感じます。

佐藤 専門的な話になりますが、ポイントになるのはステップする足の膝です。右投手ならば、左膝です。踏み出した左膝が同じ場所に着けば、上体がついてきて腕も同じところを通ります。それができれば、だいたいボールは同じところに行くんです。ダルビッシュも最初は、ステップの位置がバラバラでした。

 田中も最初に見たときから、左膝の位置が気になっていました。そのことを指摘していたのを野村監督が評価してくれたんですね。野村さんが「田中を一人前の投手にしてほしい」ということで、楽天の投手コーチとして呼んでくれた経緯がありました。

 下半身が強くなれば、土台が安定するから膝の位置も決まってくる。下半身の強化は、速い球を投げることとコントロールをよくすることの両方にとって必要です。

──ダルビッシュ投手にしても田中投手にしても自信満々だったと思いますが、佐藤さんのアドバイスにはきちんと耳を傾けるのもすごいですよね。

佐藤 二人とも僕に対しては、とても素直でしたね(笑)。二人に共通しているのは、助言したことをすぐに理解して実行できることでした。そのあたりの飲み込みの早さは本当にすごいものがありましたね。

 結局のところコーチのアドバイスを聞き入れてそれで成績が上がれば、選手も信頼してくれることになる。実績を残せば、給料も上がるわけだしね。逆に打たれることが続けば機会も与えられなくなり、チームから去らなければならない。

 プロは結果がすべての世界だから、コーチのアドバイスを取り入れて実践するもしないも、最後は本人の判断ということにはなるのだけどね。

 

大谷翔平投手はさらによくなる

──野球の歴史に残る偉業を成し遂げつつある大谷翔平選手についての印象は?

佐藤 バッティングに関しては、「すごい」の一言だね。日本人の選手としては、かつて見たことがないレベルです。

 ピッチングについても強い身体をつくって、力でねじ伏せることについては完成していると思う。ストレートもスライダーも来ることがわかっていても、打てないボールを投げている。投手としてもう一段上をめざすのであれば、今は力でねじ伏せることにこだわっているけど、いわゆるピッチングの組み立てを覚えることだろうね。もうちょっと細かい投球ができれば、さらによくなると思う。

──佐藤さんの指導で、メジャーに行った藤浪晋太郎投手を復活させることはできますか?

佐藤 専門的に言うと、バックスイングを変えない限りムリですね。バックスイングがもう入りすぎてしまっているのでね。あれだけの能力があってコントロールが悪いのは、手の振りで投げているからです。今の僕はどこかの球団に所属しているわけではないから、バスタオルとお金さえ持ってきたらいつでも教えてあげるよ。立て直す自信はあるね(笑)。

──ありがとうございました。

聞き手:本誌 橋本淳一
さとう よしのり:1954年北海道奥尻町出身。函館有斗高校、日本大学を経て、76年ドラフト1位で阪急ブレーブスに入団。1年目から先発投手として活躍し、98年に44歳で現役を引退するまで通算165勝。最優秀新人(77年)、最多勝(85年)、最優秀防御率(86年)などのタイトルを獲得。現役引退後はオリックス、阪神、北海道日本ハム、楽天などで投手コーチを務め、数々の名投手を育成している。

 

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