失礼なイワナ釣り【村上龍男】

B!

『公研』2023年10月号

 いつもならもう4~5回はイワナ釣りに行っているはずだが、今年はまだ一度も行っていない、また一つ年を取って83歳になったせいもあるが、6月ごろから続く今年の暑さにほとほと参っているせいもある。

 イワナ釣りというと山奥の秘境に分け入るというイメージがあるが、此の辺りは山が近いせいで楽してイワナが釣れる、きれいに舗装された道端に車を止めて、人家の側で竿を出せば結構なイワナが釣れるのだから、隠居親父の気まぐれには良い環境にある。

 昨年の9月、山奥ではないが少し山に入った小さな沢に行ってみた。この沢は25センチメートルが良いところで飛び切り大きな奴は釣れないが、落差もなく滝もないし危険なところもない。まあ初心者向きの釣り場と言える、人が入っていなければイワナは育つし数も増える、ホームセンターで買ってきた「ブドウ虫」を餌に振り込めば向こうが勝手に食いついてきた。

 細い「ハエ竿」を8寸のイワナが暴れて引き回すと、何を勘違いしたのか別のイワナが出てきて追い回した、居ながらにして2匹3匹と釣れる。こうなると初めは良いが10匹も釣ると感動がなくなる。

 釣っては放流、また釣れては放流で40匹以上は釣った気がするが、途中で釣りをやめて戻ってきた、今年も9月になったら行ってみるかと思わぬでもないが、これからどれだけ涼しくなるか次第で、果たしてどうなるものか。

 この沢には忘れられない思い出がある。この話には相手が有るので勝手に公表するのはどうかと思うのだが、かれこれもう25~6年は経っている。あの人は私よりも4~5歳は上と見えたのでソロソロ時効にしてもいいだろう。

 東京の知人から「大事な女性をイワナ釣りに案内してくれ」という依頼が来た。まあ嫌いなことを頼まれたわけではないので引き受けたが、人様をイワナ釣りに案内するのは中々難しい、特に初心者となると1匹釣らせるのも苦労する。

 沢に入れば平らなところは一つもないわけだし、石には苔が生えていて滑る。いくらイワナが多いとは言っても滝が有ったり落差が大きくて危険な沢には連れて行けない。

 「あそこは良いポイントだ。必ずいるぞ」と教えても、クモや毛虫に大騒ぎをされても困るし、すぐに仕掛けを木の枝に絡ませる、「そこまで近づけばイワナが逃げる……」と思う間もなく、一番釣れそうなポイントを見逃してじゃぶじゃぶ歩かれてはイワナを追い払ってから竿を出しているようなものだ。

 考えた末に選んだのがこの沢だった、少々藪はあるが落差がない分安心だし、いくら初めてイワナを釣るという女性でも、数は居るから10匹ぐらいは釣らせられそうだ。

 東京から来た女性はすらりとした細身の、50歳を少し出たと思える垢ぬけた方で、赤い口紅にきちんと化粧をした美人だった、沢に降りて釣り始め、「あそこだこっちだ、あの木の陰から竿を出せ」と、大騒ぎをしながら3匹も釣らせ、少し上流に来て深瀬に出た、「さてこの流れをどうして渡るか……」まあ仕方がない、私が背中におんぶして渡ることにした。

 しゃがんで背中を向けて背負った女性のお尻を支えるべく両手を後ろに回した。その指先に思いがけない柔らかいものが触れた、「アッ」と思ったがあまりのことに声が出なかった。

 垢ぬけた美人さんは思ったよりももっと細身で余った指先が奥まで届いたようだった、美人さんは私の背中で身をよじって逃れようとしたが声は出さなかった、二人は気まずい思いをぐっと飲み込んでイワナ釣りを続けた。鶴岡市立加茂水族館名誉館長

最新の記事はこちらから