解散をめぐる誤解 【待鳥聡史】

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2023年8月号

 先の通常国会の会期末だった6月に衆議院の解散、7月に総選挙という日程が、一時期かなりの確度の情報として流布された。結局、岸田首相は解散を選択しなかったが、そうなると今度は「解散権をもてあそぶな」という批判が一部から上がった。

 安倍首相が2014年、17年に比較的短い周期での解散を行い、総選挙で勝利を収めたためか、近年では首相による解散権の行使を否定的に捉える見解が登場している。

 日本国憲法の解釈論としては、内閣不信任への応答としての解散(69条解散)だけではなく、首相の任意の判断による解散(7条解散)も認められるという決着は、すでに60年以上前についている。そのため現在では、憲法違反ではないが「大義のない」解散は不適切だ、という批判になることが多い。

 誰が「大義」の有無を決めるのか、重大な決断を考えた末に行うのは当然なのに、解散権を「もてあそぶ」とは何を指すのか、批判の根拠は曖昧である。野党の選挙準備が整っていないタイミングでの解散は不当だという議論、あるいは逆に準備させておきながら肩透かしはおかしいという批判に至っては、野党の都合に応じて解散を決めよという党派的主張に過ぎない。

 首相がそのような批判を配慮する理由がないのはもちろんであり、不当な解散だと判断する有権者が多ければ選挙に敗北するだけのことである。政権をめぐる政党間競争を活発化させて、首相に敗北への恐怖を与えることが、解散を抑止する最大の方策であることは明らかだ。

 解散とは何かについて、批判する側に基本的な誤解があるように思われることも問題である。

 もともと解散は、君主や君主の信任によって在任する首相が、一般有権者から公選された議会(下院)との対立を解消するために、議会の勢力分布や議員構成を変える手段として用いられてきた。

 時代が下り、首相や内閣の存続には君主ではなく議会下院多数派の信任のみが必要になると、そのような解散は不要となった。下院多数派は首相を選任する時点で支持を与えて与党を構成しているのだから、首相と下院多数派の対立は与党内の問題になったためである。それに伴い、下院多数派による不信任も例外的な出来事となった。

 したがって、首相の任意による解散を否定する見解は、実質的に解散権そのものを廃止あるいは制約する考え方に近い。イギリスで2011年から22年まで存在した議会任期固定法は、そのような考えに基づく具体例だが、弊害が大きかったために解散権は復活した。

 弊害とは何だろうか。首相と下院多数派の考えが異なる場合、通常であれば与党内で解決が図られるが、それがうまく行かない場合がある。だが、そのたびごとに首相を交代させていると政治は不安定になり、政策の空白や停滞が深刻化する。そこで、解散を示唆することで首相と対立する与党議員を牽制したり、実際に解散することで対立を解消することも手段として確保しておく必要がある。イギリスではそれができなかったために、とくにEU離脱をめぐる与党内対立が深刻化し、解消が極めて困難となった。

 つまり今日の解散は、与党内対立を収束させる最終手段と考えるべきなのである。そこには、対立が今後深刻化するリスクがあると首相が判断する場合に、政権の存続を賭した選挙に勝利することで与党内における自らの威信を高め、影響力を強めて対立を抑止する効果も含まれる。

 にもかかわらず、首相の解散権行使への批判は、首相あるいは行政部門と議会が担う立法部門の対立の解消であるという、現代では誤りに近い解散の理解に立脚しているように見える。解散権の廃止や制約を考えるとしても、解散の今日的意義を適切に認識することが不可欠であろう。

京都大学教授

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