盤駒からスマートフォンへ【糸谷哲郎】

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2023年8月号

 将棋を指すと言えば盤駒の用意が必要だった時代も、今は昔。今やスマートフォンのアプリを持ち出せば、それだけで持ち時間つきの対局が楽しめる時代となった。

 思えば、ネット将棋の黎明期は1990年代後半、丁度私が日本将棋連盟の下部組織である奨励会に入り、プロ棋士への修行を始めた頃だった。『NSN(日本将棋ネットワーク)』と『将棋倶楽部24』といったネットでの対局を可能とするネット道場ができ、当時広島に住んでいた私は、東京や大阪に通わずとも強豪との対局を可能にするこれらにはまることとなった。やはり対局は楽しいもので、勉強もせず休日ごとにパソコンにかじりつき、寝る間も惜しんで指していたことを覚えている。

 現代でもネット道場は健在で、また『81Dojo』や『lishogi』のように多言語化、多機能化したものもあり、根強い愛好者がいる。しかし現代の主流となったのは、スマートフォンのアプリによる対局だ。2010年後半から一気に増えたスマートフォンは、パソコンを持たない人間でも簡単にネット対局を行えるようにしてくれた。今は将棋を指す人であれば、『将棋ウォーズ』や『将棋クエスト』などなにかしらの対局アプリを入れていることだろう。家で行うものだったネット将棋から、何処でも楽しめるスマホのアプリでの将棋へ。スマートフォンとともに、「将棋を指す」ことも持ち歩けるようになったのである。通勤の途中や、ちょっとした休憩時間などに将棋を指せるようになったのは、こうしたアプリの功績であることは言うまでもない。

 革新されたのは対局ばかりではない。私の修行時代には当日に情報を得ようと思えば、将棋連盟に行って見学しなければ手に入らなかったプロの公式戦の棋譜も、今や『日本将棋連盟ライブ中継アプリ』で何処にいても観ることができる。『囲碁・将棋チャンネル』やAbemaTV『将棋チャンネル』などによる注目対局の動画の中継も行われており、昔は将棋愛好家の皆様の手元には新聞や雑誌という媒体でゆっくりと届いていた棋譜や対局の様子が、今やライブでお届けできるようになった。解説もその場で付くようになり、流し見するだけでも楽しいものだ。

 こういった技術革新は楽しいものだが、同時に変化ももたらす。現在、将棋の公式戦自体もスピードアップを余儀なくされている。かつて終電を過ぎることが当たり前であった順位戦も、今では日付が変わる前の丁度寝る頃に見切れるような時間に終わるようになった。修行時代、日付が変わってもまだ対局し続ける棋士とその気迫、それを見守る控室の熱気を知る者としては多少寂しくはあるが、コスパやタイパといった言葉が流行っている現代においては仕方のないことなのだろう。

 もっとも私の修行時代より前には数日かけた公式戦もあったそうなので、全体的にスピードアップし、その時代その時代の速度感覚に合わせて調整されるのが、娯楽の宿命なのかもしれない。伝統文化と言われる世界でも、現代の風潮に合わせて変化できないのならば、おそらく現代に生きる娯楽ではなく、ただただ昔の文化を現代に伝えるだけのものとなってしまうのだろう。

将棋棋士

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