2025年3月号「対話」
京都が生んだ伝説のフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」のきたやまおさむさんと
昨年2月に京都市長に就任された松井孝治さんに京都の町とその記憶について語っていただいた。
京都を訪れる人たちにとってこの町はどのような意味を持つのだろうか?
京都市長 精神科医、ミュージシャン、白鷗大学学長
松井孝治 きたやまおさむ
精神科医、ミュージシャン、白鷗大学学長
きたやまおさむ 本名(北山修):1946年淡路島生まれ京都市育ち。72年京都府立医科大学卒業後、ロンドン大学精神医学研究所などを経て、北山医院(現・南青山心理相談室)を開設。91年~2010年まで九州大学大学院人間環境学研究院・医学研究院教授。同大名誉教授、2021年4月より白鷗大学学長に就任。他方、ミュージシャンとして65年ザ・フォーク・クルセダーズを結成。解散後は作詞家としても活躍。代表曲に『帰って来たヨッパライ』『戦争を知らない子供たち』『あの素晴らしい愛をもう一度』など。著書に『最後の授業』『帰れないヨッパライたちへ』『日本人の〈原罪〉』など多数。
京都市長
松井孝治
まついこうじ:1960年京都市生まれ。東京大学教養学部卒業後、通商産業省入省。内閣官房内閣副参事官、行政改革会議事務局への出向などを経て2000年退官。
01年参議院選挙にて京都選挙区より出馬し初当選。内閣官房副長官(鳩山由紀夫内閣)等を歴任。参議院議員を2期務める。13年~24年まで慶應義塾大学総合政策学部教授。24年2月京都市長選挙に出馬し、当選。
京都駅の火事とだし巻き卵入りのお弁当
松井 今日は京都について語っていきます。今回編集部から「京都をテーマに対談してほしい」というご依頼をいただいた際に真っ先に思い浮かんだのが、私の洛星中学、洛星高校の先輩でもある、きたやま先生でした。京都についてはこれまでも繰り返し論じられてきましたが、先生であれば一般的な京都論とは違った角度から京都の本質に迫ることができるのではないかと思ったんです。
きたやま それは光栄です(笑)。京都という町は地域や時代によって全然違いますから、まずは育った環境から話し始めるのが一番いいと思います。
僕は1946年に、疎開先の母の実家があった淡路島で生まれました。生まれてすぐに、京都に戻ったんですね。いま京都タワーがあるあたりに当時「丸物」という百貨店があって、その裏に父が開業した医院がありました。僕はそこで育ちました。
父は満州で結核に罹って送還され、療養してから開業しています。満州に残った人の多くが亡くなったらしいです。だから父は、一生懸命に働くことが亡くなった方々に対する償いだと考えるところがあって、あまり遊べない人でした。お見合いで結婚した若い母と二人で暮らし始めて、ほとんどお金のない状態からクリニックを開業しています。
僕が五つ、六つのときに西洞院七条のもうちょっと広いところに移ります。いずれにせよ京都駅前ですから、駅前病院という特色を兼ね備えていました。なので、患者さんは旅行者が多いんですよ。駅前には被差別部落もあったので、そこに住む人たちも診ていました。いま関西電力京都支社がある場所は進駐軍のホテルだったので、外国人もたくさん行き来していました。最初に僕が覚えた英語は「ギブミーチョコレート」だったんです。進駐軍のジープを追い掛けるときにそれを叫んでいました。父はすごく嫌がっていましたけどね。京都駅や丸物が僕の遊び場であって遊園地でした。
松井 駅前には本当にいろいろな人たちがいますよね。
きたやま 人種のるつぼみたいなところで、階層のるつぼでもある。今で言うダイバーシティーですよね。身近に米軍の施設があったから、ジャズだとかアメリカ文化に親しみを感じたのだと思う。
当時の記憶で、僕のトラウマになっていることが二つあります。一つは父がMP(ミリタリーポリス)に捕まって、一晩か二晩拘束されたことです。あるとき目が覚めて顔を見上げたら外国人兵士が側に立っていて、父が連れていかれました。僕たちはすごく怖かったです。理由ははっきりしないのだけど、どうも米軍兵士が日本人女性を妊娠させたときに、父が堕胎に協力したことが問題になったようです。
もう一つは京都駅が燃えたことです。昭和25年のことだから、僕が五つくらいだったと思う。すぐそばにいたわけだから、父と一緒に火事を見に行って、自転車の荷台の上に立って、駅がくずれ落ちていくところを見ていたんですよね。このときに「しまった!」と思ったことをよく覚えているんです。
松井 どういうことですか?
きたやま 子どもが泣いたら、汽車を見せると泣き止む時代だから、僕も小さい頃から京都駅には何度も連れて行かれました。駅は出発する場所だから、お姉さんやお兄さんがそこから旅立っていく場面を見ていました。だから僕もやがてここからどこかに向かって出発するというイメージが京都駅と結び付いていたのでしょう。けれども駅は燃えてしまったから出発できなくなったと感じたのだと思います。
新しい京都駅ができることを知らなかったから、幼少期の僕は「もうちょっと早く出ておけばよかった」という意識を持ち続けることになりました。駅舎が燃え落ちる光景を鮮明に記憶していて、そのときに感じた意識をそのあと何度も思い起こすことになりました。
松井 その後の京都駅は私にとっても馴染み深いのですが、生まれる前ですからその時代の京都駅は知りません。
きたやま 僕の記憶では瀟洒な木造建築でした。駅で働くメイドさんのアイロンの不始末で火事になったことも覚えているくらいショッキングな出来事でした。
松井さんが育った京都はどんな環境だったのかお聞かせいただけますか?
松井 私は1960年生まれなので、団塊世代のトップランナーの方々がちょうど中学校を出るぐらいの時期に生まれています。実家は旅館をやっていました。錦市場や六角堂(池坊さんの総本山)の近くにあって、今もあります。住所は中京区になりますが、昔は上京区と下京区しかなくて三条通りがだいたい境目だったので、かつての区分けで言えば下京区にあたります。祖父母の代までは個人旅館だったのを、両親は団体旅館に業態を変えたんですね。
きたやま 修学旅行生をお客さんにされていた?
松井 そうです。私は高校1年生までずっと旅館の一室で寝泊まりして育ちました。親父は旅館の亭主で、母親は旅館の女将ですからとにかく忙しい。ご飯は、板場さんがつくってくれた賄いにせいぜい色を付けるぐらいのものを親父も食べていました。母はご飯を食べる時間の余裕もなくて、冷めたご飯を掻き込むような感じでした。
母は我々に愛情を注いでくれましたが、愛情弁当をつくってくれたことは人生で一度もないんです。遠足のときも板場さんがつくってくれはった弁当で、僕はそれを引け目に感じていましたね。
きたやま 愛情弁当ではないから?
松井 そうです。他の子たちは焦げ目の付いた卵焼きやタコのウィンナーが入っていたりしますが、うちの弁当は下手すると木の折り詰めなんです。ご飯には胡麻が振ってあって、だし巻き卵に鮭の切り身が入っていたりする。
きたやま なるほど(笑)。
松井 私はみんなのお弁当が羨ましくて仕方なかったんです。実は京都市では中学校でも全員制給食に踏み切ることを決めました。少し前まで京都市役所では一大争点でした。小学校はすでに実現していますが、中学校では保守的な人たちのなかには、「親御さんのお弁当がいいのだ」とおっしゃる方もいて、お弁当と給食を選択制だったのが、前市長の最後で全員制給食へと方針転換された。
きたやま 小学生の頃の経験が、今でも影響しているわけだ。
松井 そうですね。私はやっぱり給食はみんな同じものを食べさせてあげたいと思うんです。こうして振り返ると、高校の途中まで旅館の一室で過ごしたことは自分にとってすごく大きな経験で、考え方にも影響を与えていますね。
中京区はダウンタウン
松井 それから私は地域社会に育てられたという思いが強くあって、それが自分の原点になっています。私が育った地域は京都の真ん中のエリアで、近所の六角堂には京都の中心を示す「へそ石」がありました。ここは町衆が多く住むエリアなんです。当時すでに一学年一学級40名くらいで、同級生には他にも旅館の子がもう一人いたし、商売をしてはる家や職人さんの家が多かった。だから、あのあたりはいわゆる旧市街でダウンタウンなんですよ。
この言葉はあまり使われないんですよね。「中京区は下町なんですよ」と言うと、「え?」という顔をされることが多い。けれども暮らしている人々が繋がっているコミュニティがあったという意味でも、ダウンタウンだと思っています。
きたやま 同じ感覚ですね。僕が住んでいたエリアもダウンタウン。
松井 きたやま先生の後輩で私の敬愛する先輩である井上章一先生(国際日本文化研究センター所長)が書いてベストセラーになった本に『京都ぎらい』があります。この本では、洛中に住む人たちのことを「いけず(意地悪)」だと散々に貶しておられます。だからあれは京都ぎらいじゃなくて、洛中ぎらいなんですよ。
井上先生は嵯峨のご出身ですから、上流階級の別荘があったところです。貴族はむしろ、町から離れた郊外で遊ばはるわけです。旧市街は和歌に出てきたりはしませんが、嵯峨野や宇治は和歌の舞台になっていますよね。井上先生には「洛中で暮らす人たちのことをいけずだと貶さはりますけど、貴族の別荘があった嵯峨の人がなんでダウンタウンを貶しているんですか」と苦情を伝えたことがありました(笑)。
きたやま 京都と言っても、やっぱり地域によって感じ方は全然違いますね。
松井 私は三条より南はダウンタウンやと思っているんです。
子どもの頃の遊び場は、晴れていたら校庭で下校時間まで遊んで、その後は裏手にあった御射山公園で日が暮れるまで遊んでいました。雨が降ると、友だちの家を順繰りに回るんですね。「今日は◯◯さんとこに行っておやつをもらおう」という感じで、地域がなんやかんや言いながらも子どもの遊び場を提供していました。
喧嘩になって誰かが泣いたとかいう話になると、すぐに親が知っていました。忙しい親でしたが、「あんた今日なんかあったやろ」「なんでわかんの?」「顔見たらわかるがな」という感じで、すでに伝わっていたりする。
きたやま 親同士のネットワークがあるわけだ。
松井 「自助・共助・公助」と言いますが、自助と言っても家族は様々ですから専心的に子育てに愛情を注げる時間的な余裕がある親もあれば、忙しい親もいる。なので、地域社会で子育てを助け合うような共助を大事にしたいとは思っているんです。
「ディープ・サウス」視点で京都を語る
きたやま このところ僕は、自分が育った京都駅周辺を「ディープ・サウス」と呼んでいるんですよ。ある学会で、外国人の先生の発表に対する討論を依頼されたことがありました。その先生は京都学派の西田幾多郎について研究されていて、西田の純粋経験を切り取って「心の底には無がある」といった話をされていました。
それに対して僕は「あなたは京都の北にいて、その環境を見て勉強しているからそう語るのかもしれないけど、南に住んでいた僕たちは京都の不純さや穢れみたいなものを
引き受けていて、それをどうこなしていくのかが課題だった。そんな人生があり得るのだ」といったことを伝えました。
彼に僕が感じている京都のイメージを伝えるためにつくったのが、航空写真を使ったこの地図なんです(写真)。僕に関わりのある場所と京都の重要なスポットとの位置関係を記した「心の地図」になっています。
さっき話したように実家があった京都駅周辺には被差別部落の崇仁もあったし、京都で一番古い遊郭があった島原もあって、少し北のほうに行くとこれまた遊郭の五条楽園がありました。島原や五条楽園は、今はもうありませんからイメージしにくいかもしれませんが、ディープ・サウスのそうした地域は京都の人々の裏側の感情を預かってきたところです。
京都では北を「上(かみ)」、南を「下(しも)」と言いますが、この写真で彼に伝えたかったのは、僕たちはずっと下から京都を見上げていたということなんです。祇園祭、送り火焼きの大文字、上賀茂神社や京都大学など彼が象徴的に捉えている京都はすべて上にあります。上から下を見下ろしているという言い方はあまり適切ではないけど、そういう方々の京都論と僕が経験してきた京都は全然違うかもしれないわけです。
松井 この地図には、伏見あたりにきたやま先生が結成されていたThe Folk Crusadersとありますね。
きたやま 一緒にザ・フォーク・クルセダーズをやっていた友人のはしだのりひこと、加藤和彦は伏見区に住んでいて、そこで出来たのが「おらは死んじまっただ」と歌った『帰って来たヨッパライ』なんですよ。
京都駅前の七条通りを左へ行って壬生ぐらいに行くとね、そこに杉田二郎がいました。金光教島原教会の息子で、彼と『戦争を知らない子供たち』をつくるんですよね。だから、僕にとっては南から北へ向けて歌っていたという気持ちがありました。小さい頃に過ごしたロケーションが深層心理みたいなものを決定していると改めて思うんですよね。
松井 加藤和彦さんは京都の人じゃないですよね。はしださんのところに転がり込んでおられたのですか?
きたやま 加藤和彦は龍谷大学に行くために、東京から京都に引っ越してきた。はしだのりひこがほとんど登校拒否状態だった加藤和彦の面倒を見ていましたね。
松井 京都は北と南とでは印象がだいぶ違いますね。
きたやま ディープ・サウスは不純で空気も澱んでいますよね。父が、昔は鴨川が氾濫して、泥沼になったところを鯉が泳いでいたと語っていたことがありました。宮本輝に『泥の川』という小説があって、あれは大阪の話だけど、鴨川についても似たイメージがありましたね。
松井 私も下(しも)のほうは、上(かみ)よりも土の感じが濃厚で埃っぽいと感じていました。
タブーを受け入れられるように表現するのがアーティストの仕事
松井 今のディープ・サウスが京都の穢れの部分を引き受けてきたという先生の表現にはハッとさせられました。我々は街中の子なので「あそこには行くな」というエリアがあちこちありました。
きたやま ありましたね。「いっちゃいけない」「見ちゃいけない」「語ってはいけない」タブーみたいな地域が、そこら中にある。でも、その地域の子とも友だちにはなるんですよ。例えば、崇仁出身で洛星に行っていた子がいて、近所だったから僕とは大親友でした。ところが、中学2年生ぐらいで突然いなくなることになった。何で学校に行けなくなったのかずっと気になっていました。どうも親の職業が問題になって経済的に立ち行かなくなったという事情があって、彼は中卒で就職しましたね。親からは「行くな」と止められたけど、彼のところを訪ねて行ったこともあるぐらいです。
それがきっかけになって、僕のなかに多くの問題意識が芽生えるんですよ。差別、精神障害者、あるいは虐待されている子も含めて、世の中にはいろいろおかしなことがあることが目に付くようになりました。「なんでだろう」と疑問を抱くようになって、それに答えてくれる学問を探していたら精神分析学に出会ったわけです。
松井 京都府立医科大学の医学部に入られたときも、精神分析学を学ぼうという思いだったのですか?
きたやま 大学に入ってからですね。人間には心に抑圧してしまうものがあって、心の中ではそれが自分を決定しているのだけれど、意識したくないものがある。それを日本語では「穢れ」と言うのだろうと思ったのが最初の発想で、そこから今日に至るわけです。穢れは結局のところ「死」というものに繋がってタブーになる。『帰って来たヨッパライ』がなぜ売れたのかと言えば、タブーを破ったからなんですよね。歌詞に「おらは死んじまっただ」なんて出てくる歌なんて今でもない。
松井 ないですね。
きたやま でも、人々にタブーを受け入れられるように紹介したり、表現したりしていくのがアーティストや精神科医の仕事なんですよ。そういったことを考えるきっかけが、崇仁地区出身の友人の存在でした。だから2023年に京都市立芸術大学が西京区から崇仁地区に移転したことは、僕にとって画期的なことなんですよね。
松井 ぜひ先生には京都市立芸大でお話ししてほしいですね。崇仁や東九条などのエリアで新しい文化が芽吹いていくのはとても素敵なことだと思います。
鴨川の印象は上(かみ)と下(しも)で違っている
松井 崇仁地区出身の友人の存在が世の中を考えるきっかけになったというお話でしたが、私は小学校5年生から塾に行くようになって、世界が広がった気がしたことをよく覚えているんです。先生の時代にはなかったかもしれませんが、植物園前に成基学園という塾があって洛星をめざすような子はここに通って勉強するんですね。北大路通の北側でしたから、それまで洛中の学区の狭さに慣れていた子どもにとっては、遠くです。そのときに京都の町がこんなに広いということを知ったんです。
きたやま その感覚はよくわかりますね。
松井 鴨川も上(かみ)のほうは下(しも)とは違って澄んでいる印象がありました。山の景色も普段見ている山とは違います。塾に通うようになって、京都にはこういう景色があるんやなと歩いていて実感しました。
きたやま 京都は南から北にいって、上から下へ降ってくる往復運動がおもしろいんですよね。上に行くと澄んでいて、下に行くと澱んでいる。僕が小さいときにはすぐ近くに島原があったから、あのあたりは本当に抑圧されている雰囲気がありました。
松井 子どもから見てもそう感じたのですね。
きたやま それが三条くらいまで上がると確かに空気感も変わりますね。下京区から上にいったらまったく景色が違うことに驚いたことがありました。この往復運動は世界というものがこんなにも違うのだと実感できるし、人間の心はこういうものなんだなぁと納得するところがある。今でもその名残を垣間見ることができますから、京都を訪れる方はぜひ歩かれるといい。
こうして話をして思ったのだけど、ダウンタウン側から京都を語ることって滅多にないと思うんですよね。
松井 確かにそうですね。京都というと観光地、あるいは上(かみ)から見た京都を語ることが多くて、下(しも)から見た京都を語ったものにあまり出会ったことがない。
きたやま 北の文化に対する南の意義という意識はずっとあって、それが自分も動かしたところがありますよね。それが歌を作らしめて、レコードを作らしめた。それで人前で歌うことが楽しくなって、祇園祭に対抗するような格好で若者による若者のためのもう一つの祭りを作りたかったんです。
松井 1973年に円山公園音楽堂で始まった宵々山コンサートですね。
きたやま そういうことです。あれが関西フォークの一つの原点になったのは、裏を返せば、昔ながらの古典的な京都の北にある観光地に対抗する意識があったことはもっと語られてもいいかなと思っています。
心のありようと似た構造が京都の町にも溢れている
松井 龍谷大学など例外も少なくはありませんが、大学も北に集中していますよね。京都大学、同志社、立命館、産大、府立・府立医大、工繊大、佛大、大谷大もみな北にあります。私からすると、上の人たちはものすごくプライドがあるなと感じるところがあります。
きたやま だから先ほどの「心の地図」のように、心のありようと似た構造が京都の町にも溢れているのだろうと思う。
松井 京都人の上(かみ)下(しも)意識は根強いけれど、今は、京都の町が東西に拓けて、山科区があったり従来の右京区から西京区が分区されたりしましたから、意識はだいぶ変わっているのかもしれません。
人口集積地であり、かつ独自の歴史のある町として、伏見もあります。ここはディープ・サウスとはまた別の地域ですね。3年間ぐらいですが、伏見市だった時代がありましたから伏見、桃山地区は別のプライドがあるような気がします。
きたやま そうすると七条、八条、九条のあたりのディープ・サウスはやっぱり独特ですね。あそこに京都駅ができたのは、未開発で土地が残っていたのが理由でしょうね。鴨川の氾濫で、あの辺りの開発が遅れたのだと思います。職業的に水を必要とする人たちがあそこに集まったという理由があるので、やはり土地の形状によって地域の役割が決まってくるところがある。
松井 鴨川はまさにそういうエリアなんですね。美しい町の美しい川ですが、その水を使っていろいろな穢れを水に流す仕事をされていた人たちがお住まいにもなっていました。あるいは傾奇者と言われるような方々がそこに流れて、ある種の文化を生んだのが鴨川でもある。歌舞伎は日本の古典芸能ですが、それは傾奇者がなした芸です。高貴な人間国宝に溢れた古典芸能の歴史は奥深いものがあります。それも含めて新しい芸能が生まれて、磨かれているということなのだと思うんです。だから、鴨川はとても一つのイメージだけで語れるような存在ではないですよね。
きたやま ザ・フォーク・クルセダーズのライブで南座に出たことがありました。あの時のことはよく覚えています。檜舞台でしたね。僕らのなかでは歌を歌って演奏するのは河原者という感覚があって、南座はそのシンボルでした。
松井 今では南座のロケーションの意味を知っていらっしゃる方もだいぶ少なくなったかもしれませんね。
オーバーツーリズムの問題をどう考えるか?
きたやま 繰り返しになるけど、僕はディープ・サウスには人々が抑圧している要素が集中していることをずっと肌で感じていました。うちのお墓は東山の大谷さん(大谷本廟)にあって、家からすぐのところにお西さん(西本願寺)がありました。要するにお寺に囲まれていて、あの辺り一帯が墓場ばかりということも若い頃の僕を悶々とさせていたのだと思う。
松井 先生でも悶々とされていた時期があったのですね。
きたやま ありましたよ。その感情をどうこなしたらいいのだろうと思ったときに、最初に思い付いたのは京都を出ることでした。でも冒頭でお話ししたように、小さい頃に燃えてしまった影響なのか「ここから出発することはできない」という意識に縛られていたところがあった。
僕は1952年に完成した京都駅(3代目、今の京都駅の前の駅舎)にはすごく愛着があったの。駅にできた京都駅観光デパートにはレコード売り場もあったし、丸物百貨店のなかには映画館もある。京都駅周辺が僕の青春時代を育んでくれたわけだからね。そういう意味では、あの一帯は海外の文化が混在する国際性のある地域でした。
いま現在の京都は、観光客が押し寄せすぎるオーバーツーリズムが問題にされているけど、僕自身は観光客がいっぱいやってくる様子を見るのがすごく好きなんですよ。
松井 私も繁華街で育ちましたから、未だに閑静な住宅街に住むよりは街中のほうが安らぎます。あまり静かだと逆に落ち着かへんのです。
オーバーツーリズムは世界的な潮流で、バルセロナなんかでは住民たちが「No more tourist!」と訴えるデモが起きています。京都にも私が子どもだった頃とは比較にならないくらい多くの外国人がやって来ていますから、迷惑だと感じている住民がいらっしゃることはよく理解できます。
ただ先生がおっしゃるように、僕も多くの外国人がやってくる京都の町の多様性がとても好きですね。だから、差別的な制限をして町を守るという気持ちにはあまりなれないところがあります。やはり生まれ育った環境が繁華街で、しかも家はいろいろなところから来はるお客さんを受け入れる商売をしてきましたからね。
きたやま それはそうだ。
世界が京都を発見した
松井 私は京都という町は閉じたらいかんと考えています。勘違いかもしれませんが、外国の人をシャットアウトしたら京都の町ではなくなると理念的には思っています。実家の旅館に住んでいた頃は、まだそんなにたくさん外国人の観光客は来ていませんでした。けれども北海道から沖縄まで全国のお客さんを受け入れていましたから、その経験がやはり自分の考え方の根っ子にはなっているのかもしれません。
きたやま 僕は「ギブミーチョコレート」と言ってチョコレートをねだっていましたからね(笑)。振り返ったアメリカ人の顔を今でも覚えていて、小さいときから親近感がありました。
眼科医だったおばさんは、米軍兵士を本気で警戒していたみたい。終戦直後はポケットに毒物を忍ばせていて、レイプされるようなことがあれば「自分で飲んで死んでやると思っていた」と僕に言っていました。おばさんは考え過ぎだったかもしれないけど、当時の教育の影響もあって海外の人たちを極端に恐れていました。
けれども僕にとっては、欧米の文化こそがディープ・サウスの抑圧を解き放つものでした。占領政策の一環だったのだと思うけど、FEN(Far East Network:極東放送網)が始まって、ラジオからアメリカの音楽が流れるじゃないですか。そこから英語の歌詞に目覚めていって、日本でもフォークソングというものが生まれたわけです。昨年8月に高石ともやが亡くなったけど、ああいった人たちの心を煽っていたのが、アメリカ音楽ですよ。
ボブ・ディランと同じように自分たちで音楽を作り出して歌を歌い始めたのは、外国人との出会いが影響していますよね。それまでの日本の音楽は、年寄りの大先生が作って若い人たちに歌わせていました。その構造を維持していたのが芸能界だった。それを「お前たちも作ってもいいんだよ」と言ってくれたのがアメリカの音楽であり、イギリスのビートルズですよね。当時、京都の保守的な空気のなかで悶々としていた僕は、外国人や西洋文化との出会いによって救われていたなぁと思うんですよ。
松井 都倉俊一文化庁長官は「京都は世界に売り込んだわけじゃないけど、世界が京都を発見してしまったんだよ」とおっしゃっていましたが、この魅力ある町が発見された以上はこれからも外国の方々がたくさん来られるんですよね。それに京都は大学の町ですから、日本が少子高齢化していくなかで、外国人留学生を受け入れなければ存続し得ないですよ。
大学が優秀な人材を集めようとするならば、国際都市にならざるを得ません。
やっぱり僕は旅館でお客さんのなかで育っているので、海外の方でも迎え入れてなんぼのものだという意識がすごく強いですね。
きたやま 給食の話にしても外国人観光客の受け入れにしても、旅館で育ったことが今の松井市長の考え方に影響していますね。それが幼いときの経験によって決定されているなんて、誰も知らないですよね。
松井 私自身もあまり意識したことはなかったですね。
きたやま 最近になって本当にそうなんだと思うようになったのだけど、人生は幼いときに多くのことが決定されていますよね。僕は京都によって決定されました。良い意味でも悪い意味でもね。それが僕の結論。
人と人との関わり方の塩梅がいい
きたやま これまでディープ・サウスやダウンタウンをキーワードに京都を見てきましたが、それを前提にして京都市長であられる松井さんと京都をどのような町にしたいのか考えてみたいと思います。
松井 やはり私はディープ・サウスがある町であることをすごく大事にしたいですね。帝の在わすところでしたが、高貴なものばかりで構成された均質な町ではないわけです。受験勉強をしている頃ですが、私も先生と同じようにこの町を出たいと考えるようになりました。この町のちょっと滞留した空気から離れて、東京の空気感はどんなものなのか知りたいと思ったんです。大学進学で東京に出てからは、東京と京都を行ったり来たりするようになりました。それでわかりましたが、東京は京都より空気が軽いですよね。
きたやま そうですね。わかります。
松井 なぜなら、知り合いが圧倒的に少ないからです。店で食事していても電車に乗っていても、隣に知り合いがいることなんてないわけです。誰にも見られていない気楽さは素晴らしいのだけど、同時に歳を取るにつれて、その自由さがちょっと違うなと感じるようになりました。砂粒がサラサラとしていて、砂粒同士がくっつかない感じがするわけです。
ただもっと田舎出身の人と話をすると、「田舎に帰りたくない」と言われる方が多いですよね。「どこの店に行っても、知り合いばかりでリラックスできない」と。京都はそんな感じがしないんです。知り合いはいるけど、隣の席が常に知り合いと言うわけでもない。市長だから私のことを知っている人はそれなりに多いですが、市長だからと言ってあまり粘られない。そこは京都の良さだと思っています。みんなどこかで知っているけど関わり方が過剰ではなくて、その塩梅がとてもいい。東京で暮らしてみて感じたのは、人間関係はもうちょっとスティッキー(粘り気)で、知り合いがいたり、誰かと繋がっていることが実感できたほうが私にとっては安心ということでした。
「earth」という言葉があります。放電した電気を地面に流す避雷針のこともearthと言いますが、土地に繋がっているといった意味があります。地面に繋がっているから、仮に何かあっても地面に流れていくわけです。その感じが京都にはありますよね。地面や人と繋がっている感じがあって、なおかつそれが雁字搦めにはなっていない。いわゆる常連文化ですね。
きたやま そのキーワードは大好きですね。偶然だけど、僕も「earthy」という形容に注目しているんです。earthyは土臭いとか泥臭いといった意味ですが、同時に発言や考え方が下品、卑猥、俗っぽいといったニュアンスも孕んでいます。逆に「unearthly」と言うと高貴な、俗っぽくない、得も言われぬ、この世のものとは思えないといった意味になる。京都の町はearthyなところ、つまり人間臭さ、土臭さ、泥臭さを残しているところがありますよね。それを象徴しているのが下京あたりだろうと思います。
松井 私にとっては町中、下町はそのバランスが良いのかもしれませんね。上(かみ)のほうに行くと明らかにunearthlyな、我々の日常や下町の大衆文化みたいなものとは違う要素がある。下(しも)のほうに行くとおっしゃるようなearthlyな感覚が色濃くなる。京都の町中は、本当に自然豊かな地方のように土に直接触れているわけではないけど、やっぱり人間も含めて土俗的なその人々のコミュニティに繋がっていますよね。
きたやま 穢れは汚れ(けがれ)とも書きますから、泥にまみれている、つまりearthlyという言葉を当て嵌められる。僕が住んでいた辺りがどういうところだったのかと言えば、earthlyな場所でした。「穢れている」とか「汚れている」と言うと、卑下しているように聞こえるけど、根をちゃんと土に根付いているという紹介もできますよね。だから松井さんのearthという言葉とearthlyという言葉はすごく符合する。
なぜ清水寺の「清い水」が必要だったのか
松井 私はこういうことをあまり言ってこなかったのですけど、先生と話しをするうちに自分のなかの理解がしっくり来るところがあります(笑)。
きたやま どの町にだって歴史はあって土地の記憶があるのだろうけど、みんな舗装してしまうから忘れてしまうじゃない。でも京都に来ると土地の記憶が感じられるし、それが見える。僕が生まれ育った場所のことを語るときには、非常にearthyな場所であったと、そこの部分を忘れないで京都を語り継ぎたいなと思う。
松井 「京都をどんな町にしたいのか」と聞かれたときに私がいつも言っているのは、「ぬか床のような町」と答えているんです。様々な具材をそこで混ぜて育むのが京都の町です。だから「これはいらん。あれはいらん」ではなくて、いろいろなものを混ぜ合わせてみる。そして、その化学反応を見ながら、新しい味わいを創り出すような町にしなければならないと思っています。
きたやま 泥臭さや人間臭いところも、ぬか床には入るわけですね?
松井 もちろんそうです。きれいなものだけでは発酵しないですからね。
京都にはunearthlyな、つまり高貴な場所がありますが、そこだけを守るという考え方には違和感があるんです。もちろん貴重な文化財や歴史的な町並みは守らなければなりません。けれどもこのまちの生活文化を、純粋に日本の文化として屹立するようなかたちで守っていくという発想には私はやや馴染めないところがあります。
きたやま 排除されやすいものや周辺に置かれるものがあってこその中心ですからね。
松井 周辺や辺境というものを受け入れてきたからこそ、京都の文化があるのだと私は思っています。
きたやま なぜ清水寺の「清い水」が必要だったのか、なぜ清水の舞台から飛び降りる必要があったのか。その背景を考えると、京都の文化の成り立ちがわかって、京都が本当に生き生きとしてくるんですよね。あそこは屍が累々と並んでいるところであって、その穢れを清めるために水が必要だったわけです。
松井 京都の人は、焼き場のことを「お山」と言うんですね。「お山に行かないかんし」は、東山・花山や北山の蓮華谷の火葬場に行くことを意味してきました。清らかな京都の水を生んでいるのは、周辺部にあたる三山(東山、北山、西山)ですが、同時にそこにお清めを必要とするものを置いた歴史があるわけです。
京都の文化は低徊するのにふさわしい
きたやま 土地の記憶や思いと共に京都を味わうことですよね。それが楽しい。
僕は日本人論が好きなんだけど、今までは外国の人たちは日本のことなど理解できないという諦めがあった気がしています。確かに外国人に日本のことをわかってもらうのは、本当にたいへんですよ。けれども清水寺や大文字の送り火、祇園祭、そして下京のことを話すだけで、日本人のメンタリティの大半がわかると思う。
これからはもっと、海外の人たちに日本人の心をこれまで以上に理解してもらう必要がありますよね。その際には京都のことを語るのが一番わかりやすいと僕は思っています。
今日僕がぜひ話したかったのは、京都の町はものすごく高いところに上がれないということなんです。高いところと言えば、せいぜい比叡山や大文字山、東山トレイルくらいですよね。
「低徊」という言葉があります。低いところをゆっくり舐めるようにして歩くといった意味ですが、京都の文化は低徊するのにふさわしいと思っています。土の匂いや地面の感触、正直に言えば、道の一つひとつに血が染み込んでいるような町なのだから、目線を低くして歩くととても味わい深い町だね。遠く離れて鳥瞰しないほうがいいかなと思っています。俯瞰すると、抽象化されてしまうからね。
松井 そうかもしれません。最近「五山送り火」のときにヘリコプターが飛んでいるんです。これに対する市民感情は非常に厳しいんですよ。
きたやま あれは観光用ですか?
松井 そうです。昨年久しぶりに五山送り火を見て、ものすごく気になりました。市民の方々からも問い合わせがすごく多いんです。送り火のときは、静謐な気持ちで御霊を送るためにできるだけ明かりを消すことを呼びかけています。けれども、そのときに上空でヘリコプターがバタバタうるさい音をさせている。山際から送り火を見上げている人たちからすれば、ご先祖に対して失礼じゃないかという反発もあります。いま先生がおっしゃった低徊する感覚や低い目線とも違いますよね。
きたやま 鳥瞰の視点ですよね。
松井 そうなんです。京都の町は上から見下ろすような町ではないのかもしれません。
きたやま 下から見上げる町ですよね。
松井 京都タワーができたときもずいぶん論争になりましたよね。市民もいまや親しみを持つ方々が圧倒的に多いとは思いますが。
きたやま 人間の目の高さで味わっていないわけですよね。つい最近、同世代の友人と一緒に清水から大文字までずっと歩いたことがあるんです。老人だから遭難しそうになりながらも歩きましたが、東山トレイルはなかなかいいルートだと思う。トレッキングだけど、高過ぎるところから京都の町を見下ろすという感じではなくて、なかなかの低徊ですよね。
松井 最近好む方が多いですよね。特に西洋系の人たちは、山際を歩いて山に囲まれている盆地を楽しまれるのが好きですね。
日本人の「心の楽屋」
松井 今日は思いつくままにあれこれお話ししてきましたが、最後に先生がご著作で紹介されていた「心の楽屋論」についてお伺いできればと思います。
楽屋というのは、舞台に立つ前に準備するところですよね。先生のようなミュージシャンであれば、舞台に上がってパフォーマンスする前や終えた後に過ごす場所です。私の場合は、市役所や議会などの職場は舞台みたいなものです。
舞台以外に当然、家・家庭もあります。舞台があって私生活がある。先生のおっしゃる楽屋というのは、家でも舞台でもないところなのですかね?
きたやま ものすごく大事なポイントだと思います。今や家にいても格好つけなければならなかったり、家に帰っても娘や息子も冷たかったりして自分の居場所がない人が増えていますよね。昔は家ではシミーズやステテコでウロウロできたのに、それもできずにお父さんもお母さんもそれぞれの役割を果たさなければならない。
そうすると心を開ける、魂が何かに触れることのできるもう一つの居場所が必要になります。今の人たちはそういう場所を探していて、僕はそれを「心の楽屋」と呼んでいるんです。
日本人というのは、やはり表と裏がありますよね。私は精神科医だから心の裏を扱っているわけですよね。人前で恥をかいてボロクソに言われたり、仕事がうまくいかなったりして、行き詰まってしまうと表舞台から姿を消してしまったりする。最悪の場合は、自死を選ぶ人もいます。
そういう時に、痛みを感じたりのたうちまわったりしている自分の心の裏を預かってくれる「心の楽屋」があれば、状況はだいぶ緩和されると思うんです。
精神科は「心の楽屋」なのだと思うし、もっと具体的に言えば祇園や先斗町は人々の裏も預かっていたところですからね。それでビジネスや政治が成り立っていたわけでしょ? けれども、この頃はそういう「心の楽屋」を持てない人が増えているから、皆さんどこに行ったらいいのかわからない。
松井 京都はひょっとしたら日本人の「心の楽屋」のような町になれるのかもしれませんね。
きたやま そういうことです。京都へ来たら心が裸になれる。そして穢れを流していく。
松井 そういう穢れを引き取ってきたのが、京都の歴史かもしれませんね。魂の穢れや魂の迷いを引き取ってきたこの地のエネルギーは、それに耐えるものだし、それが京都の存在価値の大切なひとつだと思いますね。
きたやま いま京都はそこら中が、レンタル着物屋さんになってしまっていますよね。せっかくいいお店だったのがレンタル着物屋さんになってしまって残念に感じたこともありました。でもね、外国人が皆さんあのなかで着替えているわけです。それがどんな着替えなのか、想像してみたらメチャクチャおもろいと思うけどね。町中にステージがあって、あちこちに楽屋が散在する。京都はそういう町になるよ。(終)