鶴岡市立加茂水族館名誉館長 村上 龍男 『公研』2018年12月号「私の生き方」
家は羽黒山のふもとで代々医者をしていた
──幼少期を思い出した返したときに、思い浮かぶ季節はいつでしょうか?
父は私が2歳になる前に軍医として出征しましたが、レイテ島に向かう輸送船に乗っていたところを爆撃され沈められたと聞いています。父の記憶はまったくありません。おじいさんも医者をしていたんだけど、終戦後に引揚者の治療にいったために腸チフスだかパラチフスだかに感染してあっという間に亡くなってしまいました。私が小学校に入る前のことです。だから我が家は1回断絶したようなものなんです。
──収入源が断たれてしまったのですか。
村上 収入がなくなって困ったわけですよ。小作させていた田んぼも農地解放で取り上げられてしまっていました。母はあちこち回って一町歩だけ返してもらって、にわか百姓をやって私たちきょうだいを育てたんです。だから、貧乏でした。母は千葉の薬剤師の娘でしたから、田んぼ仕事なんて知らなかったから苦労したと思います。あちこち土地を売ったり、蔵からものを出しては売ったりしているのを見ていました。子ども心につらいものがありましたね。
──お母さまの教育方針などは。
村上 医者になるものとして期待されていました。父が戦死したという公報は入っているが、母は信用しないんです。「どこかの無人島に辿り着いていて、必ず生きて帰ってくる」とずっと言っていました。私を立派な医者に育て上げて、父を迎えようという思いでいたわけです。ところが私は勉強がとても苦手でしたから、だんだんそれに反発するようになってますます勉強が嫌いになりました。中学時代は、本当の落ちこぼれでした。クラスでは下から数えて4、5番目です。にも関わらず、医者の家の長男ということもあって地元の有名校を受けざるを得なかった。それで受験したわけだけども、当然落ちた。
──キリスト教独立学園高校に進まれていますね。
村上 母の知人がキリスト教独立学園高等学校という寄宿制の学校があることを紹介してくれて、私もそこに興味を持ったんです。紹介してくれた方と母と3人でその学校を初めて訪ねました。米坂線のちょうど中間あたりにある伊佐領(小国町)という駅から8キロくらい離れたところです。同じ山形県内だったけれどもまったく知らないところで、ものすごい雪が積もる。実はこの学校からも定員が一杯で寮に入れないという理由で、入学を断られていたんですよ。学校はそのことを伝える葉書を出していたようですが、届く前に我々が入学のお願いに行っていたんです。校長は「今さらダメだ」と断ってきましたが、紹介していただいた方が「そこを何とか」と何遍も頼み込んでくれた。屋根裏にもう一人分だけ無理やり布団を敷けるということになって、何とか入学が許可されたんです。
師匠と山で鉄砲を撃つ
──高校で親元を離れ、ホームシックになったりはしませんでしたか。
村上 まったく逆です。母から解放されて、嬉しくて仕方がなかった。私にとっては、そこは天国のような素晴らしいところでした。入学式の挨拶で校長が「勉強はするな! ロクな人間にならない」と言うんですよ。本当は、大学受験のための勉強はするなという意味でした。受験という競争で、人の失敗を喜んだりすることは人間の成長に役立たないと。ところが私は、「勉強はするな」という言葉をそのままに受け取ったんです(笑)。ずっと母からのプレッシャーがあって、なかばノイローゼのようになっていましたから、ここでの生活はトンネルを抜けて明るい陽が燦々と差し込んできたようでした。
それにこの時に私の師とも言える人に出会うことになるんです。学校の先輩を通じて近所の──と言っても3キロも離れているんだけど──農家のオヤジさんと懇意になって、その方から多くのことを私は学びました。よくオヤジさんの家に農作業の手伝いにいっていました。でも、何と言っても面白いのは山で鉄砲を撃って獲物を仕留めることです。
──高校生が猟銃を撃っていいんですか?
村上 いや、ダメだろうな。悪いことをしていると自覚しているから余計におもしろい(笑)。オヤジさんから鉄砲と弾を借りては、山に入っていってヤマドリとかウサギとかタヌキとかいろいろなものに向けて撃っていました。子どもにとってあれほどワクワクすることはない。だけど最初の頃はなかなか当たらない。射程距離を掴めていないし、撃ってもなかなか当たりません。でも、たまに命中すると快感です。
──一番喜ばしい獲物は何ですか?
村上 一番の獲物はクマだけど、さすがに高校生だからクマ追いには行けない。私が仕留めた獲物では、ヤマドリです。キジに似ていますが、キジよりもシッポが長くてずっと綺麗な鳥で、脂も乗っている。キジはあまり美味しくない。この鳥は習性なのか近づいてもなかなか飛び立たないんです。人がすごく近くにきたり、通り過ぎたときに初めて飛び立つ。だから、近くまで寄ることができるんですが、「バタッ! バタッ! バタッ!」とものすごく大きな音を立てて飛ぶので、ビックリしてただ唖然として見送ってしまう。慌てて撃つと遅れてしまって、大抵は当たらない。私は未熟でしたから10発に1発当たればいいほうでした。ウサギだと走っているからまだ楽なんです。10発に6発は当てることができた。
──走っているほうが難しいようにも思えますが。
村上 ヤマドリは動きが速いし、樹々を縫ってジグザクに飛ぶから難しいんです。それから、おもしろいのは冬の夜に狙うムササビです。猟は年中できますが、冬は山が一面深い雪に覆われるから自由に歩き回ることができる。ムササビは、ブナの大木の枝の先っぽに団子状になって取り付いているんです。薄く白い雲が張っている夜じゃないとうまく撃てない。雲がまったくないときはダメです。下からブナを見上げたときに、空が真っ黒だと木の枝先が吸い込まれてしまって見えないんです。白い雲があるとそれがスクリーンとなって、枝の1本1本細かいところまで見える。ムササビはその一番先の新芽を食べているんです。見つけると、雪のうえに腰を下ろしてそこから撃つ。でも暗いし、かなり高いところにいるからなかなか当たらない。
──ムササビって美味しいんですか?
村上 そんなに美味しくない(笑)。でも、いつでも腹が減っていましたからけっこう美味しいと思って食べたけどね。土か木のような味がするんです。
──獲物は自分で捌かれたのですか?
村上 ウサギでもヤギでもブタでもヒツジでも、大きいものでも何でも解体できます。オヤジさんに教わりました。片脚を縛ってぶら下げて、脚から皮を剥いでいく。慣れるとおもしろいもんです。抵抗はまったくありませんでしたね。
「ダイナマイト漁」で度胸がついた
私は、一度撃ち殺されそうになったことがあるんですよ。オヤジさんが撃ち落としたムササビを拾いに行ったんです。そうしたらまだ生きていて、ブナの木に這い上がりだした。それをオヤジさんが鉄砲で叩いた。その拍子に引き金を引いてしまった。その弾の先に私がいました。鉄砲が赤い火を吹くのが見えました。弾は私のすぐ隣のブナの木に「バーン!」と当たった。「大丈夫だかぁ!!」って、オヤジさんは撃ってしまったと思って必死の形相でした。やっぱり鉄砲というのは危ないな。
オヤジさんとはね、ダイナマイトを爆破させたこともある。
──え?
村上 ハヨっていう魚が冬になると田圃の下の深い淵にいっぱい溜まっているところがあって、そこに釣り竿の先にダイナマイトを結びつけて水中で爆破させると魚が気絶してたくさん浮いてくるんです。「発破かけ」と言ってました。導火線に火をつける時に仲間がみな怖くなり逃げてしまった、釣り竿を持とうという者はいなかった。それでそのときは私が導火線にマッチで火をつけて竿を持ったんです。恐怖心で頭がしびれ、そのまま倒れてしまうほどの緊張が襲ってきました。竿を持つ手が自分のものじゃないような感覚です。2、30秒くらい経ったときに「ズシン!」という震動のような音がしたら、水柱が上がりました。この体験は、私にとって大きな意味を持ったと思ってる。その後はどんなに度胸を試される場面でも物怖じしなくなった。
──将来のことを考える時期です。
村上 何も考えなかった。「勉強はするな」と言うから、本当に授業以外には3年間一切勉強したことがなかった。さすがに校長が呆れて、3年生の秋になると「お前どうするんだ?」と聞いてきました。「何も考えてねぇ。就職しても進学してもどっちでもいい」と答えると、「お前は魚を捕まえるのが好きだからこういうのはどうだ」って新聞の切り抜きを見せてくれた。ちょうど鶴岡市の奥にある荒沢ダムという大きなダムが完成したばかりで、そこに棲む淡水魚がどのような変化を見せているのかを調査した山形大学農学部の阿部襄先生による報告でした。「こういう学問ならば、お前も興味を持つんじゃないか」と校長が薦めてくれたんです。
この時に初めて大学に興味を持って、受験したんだけど最初の年は答案用紙に名前しか書けなかった。本当に情けなかった。それで自宅浪人して1年間勉強したら、翌年なんとか引っかかった。迷わずに阿部先生のところへいって、魚の勉強をしました。後に加茂水族館に就職することになるのも、先生の紹介によるものです。ちなみに阿部先生は、『三太郎の日記』で知られる文学者の阿部次郎さんの甥っ子なんです。
大学時代は、重量挙げ部で重量挙げにも一生懸命に取り組みました。私は身体が弱かったから高校を卒業した頃は、半分は寝たり起きたりという感じでした。この時に鍛えられたことが大きかった。国体にも2回出場したし、苦手なことでも一生懸命がんばっていれば、かなりのところまで行けるのだなとわかった。研究室では、カジカという淡水魚を研究テーマに選びましたが、特に大したことはやっていません。
──ご著作を拝読すると海の魚よりも川の魚がお好きなのかなという印象を持ちました。
村上 まったくその通りです。今と違って交通の便が良くないですから、羽黒の家から海まで行くのは夏休みくらいでした。身近だった淡水魚のほうに関心がありましたね。
イワナは日に100匹釣った
──卒業後は東京の商事会社に就職されていますね。
村上 あの当時は地元には大卒者の就職口はほとんどなくて、つてを頼って地元の方が東京で興した佐藤商事に就職しました。ホイスト、クレーン、重電設備などを販売する会社で営業職をしていました。職場は八丁堀でしたが、自然の中でそだった自分とはかけ離れた環境で働くことになってしまった。ビルから外を見渡しても、どこもアスファルトで覆われていて土が見えなかったし、緑はプラタナスだけでした。自分でもよくわからなかったけど、何かを渇望していたのだと思う。あるとき所用で横須賀まで車で行った際に、ちょっとした山で自然に触れる機会がありました。草ぼうぼうで雑木林に蔦の葉が絡まっているのを見たときに、涙が出るほど嬉しくなった。これは家に帰りたいもんだな、地元に帰ったらイワナ釣りをしたいもんだなと思った。今でもよく覚えています。
──『思い出語り イワナ釣り三昧』というご著作もありますし、イワナ釣りの名人でもあるわけですが、その極意やおもしろさをお聞かせいただけますか?
村上 若い頃はそれこそ朝3時に起きて、雪が積もっているところをカンジキ履きで山を越えて、沢でイワナ釣りをしました。10匹くらい釣ると家に帰って、朝ご飯を食べて水族館に出勤しました。仕事を終えて帰宅するとすぐに眠る。それを毎日繰り返していました。それほど夢中になっていましたね。
私は釣りが速いんです。1匹釣って、魚籠に収めて、餌を付けてまた釣る。枝に絡めたり、歩くのに手間取ったりするようなムダなことは一切しません。素早く釣って次々に釣り場を変えていきます。月山の中腹にお気に入りのポイントがあって、昔は1日100匹以上イワナを釣ることがザラにありました。
──100匹はすごい。
村上 昔は槍と刀で斬り合って戦をしていたわけだけど、その時はものすごい興奮状態でやりあったんだと思う。今はそういう時代でもねぇのに、大の大人をこれほど興奮させることがあるのかっていうくらいに夢中になって、のめり込んでいました。今はだいぶ釣れる数は減ってきたけど、それでも日に50匹くらいは釣りますね。
27歳で加茂水族館の館長に
──鶴岡市にある加茂水族館で勤務されることになるきっかけは?
村上 東京で営業の仕事は3年間続けましたが、恩師の阿部先生から「故郷に戻って加茂水族館で働かないか」というお誘いがあったんです。それまでの飼育責任者が仕事をブン投げてふるさとに帰ってしまった。だから、鶴岡市から先生のもとに「地元の者で魚について勉強した者を採用したい」と相談があって、私に声が掛かった。東京での暮らしには馴染めませんでしたから、小さな水族館でしたがすぐに「お願いします」ということで、帰ることになった。本当にありがたかった。
──水族館ではどんなことから仕事を覚えるのですか。
村上 飼育係です。当時の加茂水族館では魚はもちろんですが、アシカ、オットセイ、ペリカン、ペンギンがいましたから、まずは餌作り。それから掃除です。重労働だけど、好きな道だから楽しかった。ところがです。水族館に就職した翌年、わずか27歳で館長をやることになった。
──出世が早い。
村上 館長に就任してから私の苦労が始まったんですよ。27歳での館長就任の背景には、その後長く続く苦難の日々の根本的な原因があったんです。元々、加茂水族館は鶴岡市が経営していました。私が職員になった翌年に、市が資本を募って近くの湯野浜温泉の裏山一帯を開発する第三セクター、庄内観光公社を設立したんです。観光ブームに乗って宴会場やお風呂、プールなんかの施設がある「満光園」をつくり、加茂水族館を公社に金蔓として与えてしまったんです。飼育係以外の関係者は市の職員ですから、そういう人たちとはみんな縁が切れました。それで「お前が一番年上だから館長をやれ」ということになった。
それからは、経営的な役割ばかり任せられることになりました。もちろん、経営の知識なんて何もありませんから未熟もいいところです。観光公社の事業は、はじめこそ人が集まりましたが、うまく行ったのは最初の1年だけで、翌年からすぐに経営危機に陥ることになりました。水族館自体は、利益が出ていたんです。けれども赤字を出し続ける本社の満光園に利益が流れ続ける構図ができあがって、それがずっと続くことになりました。結局、庄内観光公社は設立して4年を経たずして倒産することになって、全職員が解雇されることになりました。1971年12月31日の大晦日のことです。生き物を扱っているわけだから、解雇されたからといって放っておくことはできません。私と飼育係の3人が水族館に泊まり込んで、魚や動物たちの世話を続けたんです。
餌代もなく電気代も払えない状況に困り果てた私は、恩師の阿部先生のところに相談に行きました。先生は、地元紙の庄内日報に水族館の窮状を訴える記事を寄稿してくれました。それに共感してくれた市民たちが寄付を募ってくれて、ひとまず閉館は避けられることになりました。結局、地元出身の佐藤商事の社長が、すべての負債を引きうけて公社を再建することになりました。こうして第三セクターから民間会社として経営していくことになりました。
だから、私はまた東京の社長の掌に戻ったようなものです。こうして閉館には至らなかったが、佐藤商事の一部門のようになって存続することになった。それから約30年ものあいだは、売り上げは今までと同じように本社に流れ続け、何をやってもうまくいかず、設備も古く、見るべきものがない水族館として入館者数も減少の一途を辿るという毎日を過ごすことになります。
何をやってもうまくいかない30年間
──アイデアマンという印象ですから、新しいことを提案したのではないですか。
村上 長い歴史のなかで、ほとんどすべてが封じられて手も脚も出なかったという感じです。いろいろなことを提案しましたが、却下されていたんです。「金がない」という理由で……。
それでも、新しいことをいくつかは試みてはいます。まずはアシカショーです。他の水族館で見ると、素晴らしいですよね。笑いがあるし、アシカを自由自在に動かして、みんながあっと驚くような芸を見せる。あれを自分のところでもやれば、お客さんが増えるだろうと思って始めましたが、さっぱりダメでした。よその真似をして、他よりもヘタクソに、しかも舞台装置も貧弱にこじんまりやるわけだから、お客さんがくるわけがない。自分ではそれがわからなかった。ただ、この時に今の館長である奥泉和也くんを採用したんです。後に彼がまさかクラゲであれほど頑張ってくれるとは思わなかった。だから、結果的にはあの時にタネを蒔いていたことにはなります。
──長く停滞した期間が続きましたが、いつかは何かをきっかけにお客さんが増えるようなイメージはあったのでしょうか。
ラッコ導入で売り上げが増えると見込んでいたから、経営は非常に厳しい状況になりました。例年10月末から3月まではお客が減っていって、お金が出て行く一方なんですよ。だから、この期間を持ち堪えなければならないのだけど、その算段がつかなくなった。それで東京の本社にお金を借りに行って、またひどく怒られました。
この時はもう打つ手がない。ついに弾がつき刀が折れた。あとは座して死を待つだけだ。そういう思いでした。館長がそんな弱気ではダメなのだけど、悔しいからそういう本音がついつい漏れてしまうんです。職員たちもいよいよ厳しいのだなと覚悟したのではないかと思います。
平成9年にはおそらく苦労の経営もここまでだな、今まで無理やり経営してきたが、来年には立ち行かなくなるだろうというところまで追いつめられた。クラゲに出会ったのは、そんなドン底のときでした。
クラゲに姿を変えてやってきた神様
──クラゲとの出会いをお聞かせいただけますか?
村上 小さな水槽で「生きたサンゴと珊瑚礁の魚」展という展示をしたんです。そうしたら、そこから小さな生き物が湧いて出てきた。それが何だかわからなかったんですよ。でも、奥泉君だけが興味をもって餌をやり続けたんです。そうしたら、それがクラゲになった。海底で裏返しになって棲息しているサカサクラゲというクラゲです。それを展示したのがはじまりです。
このクラゲは泳がないのでじっとしているだけですが、お客さんは興味を持つんです。魚の展示にはあまり興味を示さない人もそこに来ると、ピタッと脚が止まって喜んでいる。何だかんだと言って、一緒に来た人を呼んだりして盛り上がっている。その様子を見ていて、これはおもしろいと思って、「そこらへんの海にいって、別のクラゲを捕まえてこい」と命じたんです。すぐに近くの海岸を泳いでいるクラゲを捕まえてきて、当時はクラゲの飼育方法がわからなかったから、空いていた魚用の60センチ水槽に入れて展示しました。そうすると、お客さんがまた大喜びする。わずか3種類の展示でしたが、そこで手応えを感じたんです。
翌年には5種類くらいにクラゲの展示を増やしたら、年間でわずか2000人ですが入館者が増えた。加茂水族館の長い歴史のなかで、自分たちがやったことでお客さんが増えたのは初めてのことでした。それまでは山形県内陸部と加茂水族館のある庄内地方を結ぶ月山道が開通するといったインフラが整うことの恩恵で一時的にお客さんが増えたことはあっても、自分たちの努力では何をやってもうまくいかなかった。それがクラゲを展示するようになってからは、お客さんがくるようになったんです。
サンゴから現れたサカサクラゲは、クラゲではなくて姿を変えて私を助けに来た神様でした。都合の良いときばかり神様を信じるのだけど、あのときは、神様はやっぱりいるのだなと思いました。ただ、もう少し早くクラゲに出会わせてくれたら良かったのにな、とも思いましたね。
顕微鏡を買うお金がない
──クラゲの展示に難しさは?
村上 クラゲの多くは寿命が短くて、展示をしてから平均3、4カ月しか生かすことができません。買おうにもわずかしか売っていない。だから、水族館で常時展示するためには自分たちで繁殖させて飼育しなければなりません。クラゲの飼育には手引書というものはまったくありませんから、人づてに聞いたり、他の水族館に直接教えを請いにいったりすることで覚えていきました。それ以外は、自分たちで切り拓いていくしかない。
クラゲの繁殖は奥泉君に担当させたのですが、すぐに私のところに「卵が小さ過ぎて見えないから、顕微鏡を買って欲しい」と相談にきました。ところが、顕微鏡を買う数十万円の金がないんですよ。追いつめられるとそういうもんです。水族館の設備もあちこち修繕しなければならないのもそのままで、雨漏りも止めないボロボロの状態でした。従業員への給料の支払いもやっとでしたから……。
そうしたら奥泉君は、展示しているクラゲの水槽から水を汲み上げて、ガラスの容器に入れて並べて見ているんです。そこにクラゲの受精卵が入っていれば、容器の内側にくっついて、いずれはポリプと呼ばれる状態になる。ポリプはイソギンチャクのような姿をしているんです。そうしてポリプが付着するのを待っているんだけど、そこには受精卵が入っていないかもしれない。死んでしまったのかもしれないし、何かに喰われたのかもしれない。最初から入っていなかったのかもしれない。顕微鏡がなければ、それすらわからないわけです。結果はことごとく失敗でした。ただ、たった一種類だけ見事にポリプが付きました。いやぁ、嬉しかった。スナイロクラゲというクラゲです。
翌年は、やはり顕微鏡は必要だということになりました。学術振興機構に申請して、審査に通れば補助金が出るという話を山形大学の先生から聞いて、私は一生懸命作文を書きました。そうしたら、本当に30万円がおりた。これも一つの大きな転機でした。
それでもクラゲがすぐに死んでしまうんです。最大の原因は水槽でした。クラゲを飼育するためには、水がうまく回転するような専用の水槽でなければならないことがわかったんです。我々はそれを知らずに魚の水槽で飼っていましたから、どだいそれではダメだったんです。クラゲ専用の水槽は50万から100万円もするもので、とても購入できない。そうしたら奥泉君がA4の紙に手書きで設計図を書いてきました。それをもとに仙台の業者につくらせてみたら、3万円でつくることができる。ちょっと大きな水槽でも5万円でできる。この水槽は、建て替えられた今の「クラゲドリーム館」でも使っています。
「クラゲを食う会」でバカになれた
──奥泉さんは知恵者ですね。
村上 本当に大したもんだと思う。奥泉君の父親は私の友人で、彼から「採用してやって欲しい」と頼まれて採用したんだが、助けられたのは私のほうだったな。こうして、クラゲの飼育が軌道に乗り出して、4年目に入ったところで「日本一の種類のクラゲを展示しようぜ」という目標ができた。
それで日本一を達成することができたのだけど、それでも自分たちはそれだけの実力があるとは思っていない。地方の閑散とした、内容も乏しい古ぼけた水族館であることには変わりないわけです。いくら「日本一の展示をした」と言ってみたところで、入館者は増えませんでした。
それで今度は、「クラゲを食べる会」という催しを開いてみることにしたんです。苦し紛れでした。私が最初にこのアイデアを話したときには、みんなに笑われたんですよ。誰ひとり本気にしなかった。だからこそ、これはおもしろくなると思った。こんなバカバカしいことをやって笑われるとか、そこまでしなくてもいいんじゃないかという思いは内心あるんだけれども、そこを踏み出したことが大きかった。今までは一生懸命勉強して調べて、そして「これが良いだろう」と考えてやってきたことが全部ハズレでした。「クラゲを食う会」のアイデアは人に笑われて誰も信用してくれなかった。ところが、それが大成功した。
──突拍子もないアイデアですね。クラゲは美味しいんですか?
村上 味がない。まずいとも、美味しいとも言えないね。でも、食感は楽しめる。最初は庄内浜で獲れるスナイロクラゲとエチゼンクラゲを使って、しゃぶしゃぶ、刺身、握り寿司なんかにして食べました。これが大いに受けた。大騒ぎになって、いろいろなテレビ局や新聞で取り上げてもらえて、この時に「クラゲ展示数日本一の加茂水族館」と紹介してくれたことがとても有り難かった。その翌年から毎年のようにエチゼンクラゲが大発生したことも、世間の注目を集めることになりました。漁の妨げになって漁師さんが被害を被っていましたから、それを食べようという「クラゲを食べる会」はさらに盛り上がったんです。
本当の力のあるアイデアというのは、バカバカしいと相手にされないようなものだと思うんです。そこに気が付いてからは頭が柔軟になって、自分を変えることができた。背中には私の似顔絵と「釣りバカ クラゲ館長」、正面には「いいかげんに生きる」と言葉を襟に書いた法被を着て、自分の落ちこぼれ人生もボロボロで貧相な水族館のことも平気で語ることができるようになったんです。それ以降は、こういうアイデアをドンドン出していくことが私の館長としての仕事になっていきます。
下村脩先生との思い出
──この10月に90歳で亡くなられた下村脩先生は、加茂水族館とは交流がありましたね。
村上 ベニクラゲという死なないとされているクラゲがいて、下村先生にはそれをデザインしたネクタイをプレゼントしたことがありました。長生きされてほしいという願いを込めたわけです。
下村先生がオワンクラゲから緑色蛍光タンパク質を発見したことでノーベル化学賞を受賞されたときに、ちょうどオワンクラゲの展示をしていましたから、加茂水族館も脚光を浴びることになりました。それでお祝いとお礼の手紙を書いたら、下村先生ご本人から電話があったんです。あの時は本当に驚きましたが、それから我々と先生とのお付き合いが始まりました。どういうわけか下村先生は、この小さな水族館にとても親切に接してくれました。展示していたオワンクラゲは光ることはなかったんだけど、先生から「『セレンテラジン』というタンパク質の基質を餌として与えると光る」と伝授されて、言われた通りに試みたところ本当にボーっと蛍光色に発光しました。あれは感動的でしたね。
ご夫妻で鶴岡までお越しいただいたこともあって、その時に話をしていて印象に残ったことがあるんです。加茂水族館のクラゲの飼育技術や繁殖方法、器材の開発は素晴らしいから、ある大学の先生が「特許をとったほうがいい」と言ったんです。それを聞いていた下村先生はたった一言、「私は今までの研究成果に対して特許をとったことは一度もありません」とおっしゃったんです。すごい方もいるんだなぁと感心しましたね。世界中が緑色蛍光タンパク質の恩恵を受けているわけだから、特許をとっていれば巨万の富を得ただろうにね。それが先生の生き方なのだと思いました。
加茂水族館でもクラゲの飼育や繁殖に関しては、他から教えを請われればすべて教えてあげています。他の水族館から研修生が来たら、クラゲのポリプをお土産に持たせているんです。私はこうして交流を深めるのが楽しいし、すごくおもしろいんです。昔は、国内の水族館ですらまともに交流できませんでした。各地の水族館の関係者が集う会議なんかに出ても、我々のレベルが低過ぎて話が合わない。水族館同士で魚を交換したりすることはよくあるんですが、我々はもらっても飼育できる設備もないし、相手に与えるものも何もない。だから、いつも人の背中に隠れるようにしていました。
──太っ腹ですね。知的財産を守るという時代の流れとは逆を行っている。
村上 気前よく提供していれば、こちらが喉から手が出る欲しいポリプがもらえたりするんですよ。そういうもんです。クラゲの展示をはじめて3年くらい経って7種類くらいまで増やすことができたときに、直接教えを受けたわけではないけど間接的に影響を受けたある水族館の館長にお礼を言ったことがあるんです。そうしたら、その方は「困るのよね、教えるなと言っているのに教えてしまうのよ」と、そういうことを言われました。
その時にね、奥泉君と「オレたちは逆に行こうぜ」と決めました。他の水族館とも仲良くして、請われれば何でも提供する。あるクラゲを世界ではじめて繁殖したときなんかは天狗になって、「このクラゲは他には出すな」なんて言ったけど、奥泉君はそれにも反対でした。最初はもったいない気にもなったけど、彼の言う通りですよ。「やっぱりオレが間違ってた」と後で訂正しました。気前よくしていれば、こちらが「こういうクラゲがいねぇかぁ」なんてリクエストすると、自分のことは置いておいて捕まえて送ってくれたりしたこともありました。そういうふうにして、他の水族館とも良好な関係を築いたほうがずっといい。
今度あいつが来たらぶん殴ってやろう
──水族館経営を通して巨額の負債を背負ったとか?
村上 加茂水族館の収益は、本社でもある観光施設「満光園」に流れ続ける構図になっていましたが、それでもうまくいかなくなって借金が2億円近くまで積み上がっていました。そこがとうとう行き詰まって、佐藤商事の経理担当の副社長が乗り込んで来て、満光園を閉鎖しようとしたんです。けれども、いろいろあって閉鎖できなかったので、そのうちの1億1200万円を加茂水族館の借金として付け替えたんですよ。そしてさらに数年後に「代表権を持て」と言う。ダメになってから代表にするというのもおかしな話だし、かぁちゃんにも「止めておいたほうがいい。そこまでする必要はねぇんでねぇか」と散々言われました。
でも、それが嫌なら辞めるしかない。自分だけが泥舟から逃げて、職員を残して安全圏で見ているわけには行かなかった。何らかの決着をみるまでは、後には退けないなと思っていました。倒産なら倒産、あるいは誰かに助けてもらうとかいろいろな決着の仕方があるだろうが、この泥舟がどこかに辿り着く結末を見ないで辞めることはできなかった。それで、家や土地を担保に入れることになった。だから、私の借金ではないんだけど、当然「お前が金を返せ」ということになりましたから、たいへんな時期もありました。
──2002年に加茂水族館は、鶴岡市に買い戻されることになりますが、この時はすんなり行ったのですか?
村上 すんなり行くわけがない(笑)。鶴岡市は、ずっと買い戻したくなかったんですよ。私はもう数十年も「買い戻してくれ」とお願いしてきたんです。佐藤商事にしても、古くなって利益が上がらないボロボロの水族館になっていましたから、これはもう堪らんという状況です。副社長は、年に何回かは東京からきて「鶴岡市に返したい」と市長と面会しにきていました。それでもウンと言ってくれない。
結局、ドン底から這い上がって、クラゲの展示をはじめて5年くらいが経って、経営が改善しつつあった頃にようやく鶴岡市が買い戻してくれました。市からすれば、倒産した第三セクターを佐藤商事に助けてもらったという経緯もあったから、引き取らざるを得ないところもあったわけです。
佐藤商事からは、いつも副社長が乗り込んで来ましたが、私たちにはとにかくつらくあたってくる。こちらの提案や要求はことごとく却下されていましたから、館長である私とは衝突を繰り返していました。最後には水族館が積んでいた2000万円を私が独断で水族館の改修工事に使ったことで、「あの金はどうした!」とたいへんな騒ぎになったこともありました。この時は退職金をかけて対決することになりました。水族館が鶴岡市に移ってからは、彼とは縁が切れたけど、「今度あいつが来たらぶん殴ってやろう」とずっと思っていました。本気ですよ。借金を背負わされただけではなくて、それほどにいろいろな思いがあったんです。ところが、それきりヤツはやって来ない(笑)。
そうこうして3年、5年と経つうちに考えが変わってきた。もしかしたら恩人じゃないのかと思えるようになりました。自分という人間は世の中を甘く見て、経営的にもロクなもんじゃなかった。しかし、最後クラゲに出会ってここまでやってこられたのは、あいつから「経営というのは命を懸けてやるもんだ」と教えてもらったお陰じゃないかと感謝できるようになりました。今は恨んでいません。有り難い人だったと思う。
同じように50数年前に水族館を売り渡した市長も恩人でした。民間に渡したことで、とことん苦労したけど奇抜なアイデアを駆使して今のような経営ができたとも言える。市が運営していたら、市の他の施設と同じ運命を辿ることになって、今頃は姿も形もなかったかもしれない。だから民間に払い下げたのは、大英断だったのかもしれない。歳を取ったせいか、そんなふうにも思えるようになりましたね。
「勝手なことをしている。辞めさせろ!」
──運営が鶴岡市に変わってからは、「クラゲ水族館」として注目を集めて入館者数もうなぎ上りですから、だいぶ経営は改善されたのではないですか?
村上 市が運営するようになっても、地獄のような日々でした。今度は市の制度が立ちはだかるようになった。本気で一生懸命がんばって成果を上げようとする現場の者にとっては、民間も市もどちらもひどいもんです。経営が市に移ってからも補助金をもらうことはありませんでしたし、逆に利益から年間で1000万円くらいを寄付していました。
当時の市長は、「あんたの思うようにやりなさい。水族館で稼いだお金は誰も使うなと言ってある」と経営を一任してくれた。それをいいことに、私には50万円しか決裁権がなかったのに改装工事を進めたり、クラゲの展示を充実させたりと最初の頃は毎年1000万円くらい使っていました。我々ががんばって出した成果を元手に、職員のアイデアや思いを実現させるのが館長の役割だと私は考えていました。
ところが役所から見たら、50万円しか権限のないやつがそんなことをしていたのだから、とんでもねぇ無法者なわけです。手続きも踏まずに判子ももらっていない。権限をはるかに越えたことをやっていたわけだから。特に「クラゲドリーム館」を建設することが決まってからは、役所とも衝突することになりました。我々がつくろうとした「クラゲドリーム館」はこの世にないものです。すべてが新しい挑戦なんです。ところが、これからどうなるのかわからないような事業をやるということは、役所の連中の頭のなかにはないんです。私としては遠くからもお客さんがいっぱいきて周辺の旅館やホテルも潤うような、その成果を見せなければならないと気負って無理を重ねたところがあった。
それに途中で市長が変わったもんだから、我々に対する見方がガラッと変わった。新しい市長は私に批判的になってきて、「勝手なことをしている。辞めさせろ!」となった。新しい水族館を建てようと現場で必死になっている我々は、脚を引っ張られるようになります。
──「クラゲドリーム館」として生まれ変わろうというときに…。
村上 市は新しい水族館のレストランと売店を市長の取り巻きにやらせるための制度を私の目の前で決めたんです。私は、水族館の将来はレストランでのアイデア料理やアイデア商品こそが重要だと考えていました。そこでいろいろな知恵を絞ることで入館者を増やすことにもつながるし、リピーターを増やすことにもつながる。今まで私がやってきたことです。それを封じられたのだから許せねぇと思った。
決定を覆すには、市民の力を得るしかないと考えました。それで、懇意にしている地方紙や地元のテレビ局に取り上げてもらって、まともに市を批判したんです。ちょうど暮れも押し迫った時でした。次の日にでも市の幹部が押し掛けてくるかと思ったら、しばらくは平穏なまま年を越しました。ところが、翌年の2月4日のことです。市の幹部が乗り込んできて、「来年の3月で辞めてくれ」と退職勧告にきた。1年も先のことですからそんなに早く勧告する必要もないのに、こちらがあまりに攻撃するものだから大人しくなるように手を打ったのだと思う。
それでも私は諦められなかったから、今度は別のテレビ局で「退職を勧告されたんだ」と流してもらいました。そうしたら、市は蜂の巣を突いたような騒ぎになったんです。「今まで加茂水族館のためにずっと働いてきた村上館長を辞めさせろとは何事だ!」と多くの市民が後押ししてくれた。ものすごい数の批判が市に殺到したんです。
それを受けて、鶴岡市は「あなたの思う通りにします」と言ってくれた。私の次の館長も市からの天下りの候補が何人か挙がっていたようですが、一緒にクラゲの展示に尽力してきた奥泉君を後任の館長を任命することができ、売店もレストランも自前の経営をすることができた。あそこで戦ってよかったと思っている。
──行政相手に全面勝利はすごい。
村上 やっぱりね、ダイナマイトを爆破させたときに肝が座ったんじゃないかな(笑)。あれをきっかけに大抵のことには動じなくなった。
この世でクラゲほど綺麗な生き物はいない
──2014年に開館した「クラゲドリーム館」はオール電化施設でもありますね。
村上 東北電力の2人の営業マンが突然やってきたのは、新しい水族館の建設に向けてとても忙しい時期でしたから、最初は話半分に聞いて追い払うように帰ってもらったんですよ(笑)。でも、なかなか粘り強い男で何度もやってくる。最初は頭の片隅にも導入しようという考えはなかったけど、実際に酒田市にあるホテルの電化厨房に案内されて、そこで信じられない光景を目にしました。引き出しがいくつもついた箪笥のようなものやステンレスの本棚のようなものがあって、台所特有のむんむんする熱気やコンロから出る炎とは無縁の静かな場所で、魔法を見ているようでした。古い水族館のレストランの厨房は、夏になると50度を超える過酷な環境になるんです。そこでかぁちゃんたちに働きに来てもらっていましたから、ずっと苦労させていたんです。だから、「新しい水族館では夏でもセーターを着て料理を作らせるぞー」とその時に決心したんです。
それにオール電化は水槽の水温調整も自在にできて、スピードも速い。いざ何かがあったときに対応が遅れるとクラゲはすぐに影響が出るんですが、オール電化で管理されていることは、職員たちに無言の安心感を与えていると思いますね。
──これだけたくさんの種類の、膨大な数のクラゲを展示し続けることは、古い水族館にはなかったご苦労があるのだと思います。
村上 60種を超す多種類のクラゲの展示は、茨の道でもあるんです。展示を絶やさないようにするには、寿命の短いクラゲの繁殖も行なわなければならない。水槽を空にして展示するわけにはいかないから。クラゲのなかにはクラゲを餌にしている奴もいて、餌にもなるミズクラゲは1日で1500匹近くも繁殖させているんです。この繁殖と飼育の技術は、なかなか簡単には真似できないだろうと思います。
クラゲドリーム館では、今では世界一の常に60種類以上のクラゲを展示しています。初年度の2014年には71万人が訪れてくれましたから、底だった1997年の9万2000人から比較すると飛躍的にお客さんが増えました。みすぼらしかったかつての加茂水族館から見れば完成品ですが、後輩たちにはここをスタートにして、自分たちはここから発展していくんだという気持ちでやっていって欲しいですね。
──村上さんのなかには次のアイデアはあるのですか?
村上 この先のことは奥泉館長を筆頭にして、今の職員たちが知恵を絞ることです。ただね、奥泉君にはクラゲを見ながらコーヒーを飲むことができる場所をいつかはつくるようには言ってある。完成したら「最初にコーヒーを飲ませろ」って(笑)。
──なぜクラゲはこんなに多くの人を惹き付けると思いますか?
村上 この世のなかでこれほど綺麗な生き物はいない。そこに尽きると思います。クラゲは水槽内で常に形を変えています。口椀も触手もヒラヒラと動いて形を変え続けている。だから、ずっと眺めていても飽きない。水槽が一つのキャンバスだとしたら、どんどん絵が変わっていくようなおもしろさがある。
──クラゲ自身はどんなことを考えて生きているんでしょうかね。
村上 クラゲは悩むことも考えることもない。自分が生きているのか、死んでいるのかも関係ない。無心で生きている。半分喰われて身体がなくなっても、今までと同じように泳いでいるわけです。本当は死んでいるんじゃないかと思う(笑)。そういう世界で生きているクラゲを見ると、うらやましいなとは思いますね。
──ありがとうございました。