『公研』2024年1月号「めいん・すとりいと」
1月号への執筆は難しい。筆者がこの原稿を書いている時点ではまだ12月なので年の瀬に「ゆく年」を振り返りたいところだが、一方このエッセイが掲載されるときは年が明けて1月も半ばになっているので、やはり「くる年」に思いを馳せる必要もあろう。
高浜虚子は「去年今年貫く棒の如きもの」と詠んだが、今般の世界を棒の如く貫いているのは、政治学者の森聡氏が「ポスト・プライマシー」とよぶ、「主」なき国際秩序ではなかろうか(2023年10月27日付『フォーサイト』)。2022年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻や2023年10月のハマースによる越境攻撃も「ポスト・プライマシー」時代の産物といえる。
軍事戦略が専門の高橋杉雄氏によれば、ロシアは「市民を『巻き添え』ではなく『ターゲット』にした」、19世紀的な「傷つける力」に基づいた戦争をしているという(2022年3月13日付『フォーサイト』)。西側諸国がウクライナ支援を継続できなければプーチン氏を利することになるのは明らかである。ところが、これまで国際政治を主導してきた米国が、荒唐無稽な国内政治に足を引っぱられて、外交政策で場当たり的な対応を余儀なくされている。深刻な党派対立のために、ロシアによる残忍な攻撃にさらされているウクライナへの支援は政争の具に成り果ててしまった。民主党のバイデン政権に対峙する共和党では「敵の敵は味方」とばかりにかつてないほど「プーチン支持」が広がっており、「ウクライナへの支援疲れ」をつくり出すというロシアの思惑どおりの展開になっている。
イスラエル・ハマース戦争についていえば、分断が深刻な米国社会では「イスラエルかパレスチナか」という構図に単純化されてしまい、あたりまえの物言いをするのが難しくなっている。10月7日に起こった、イスラエルに住む一般市民をターゲットにしたハマースによる殺戮を強く非難することのどこが問題なのか。一方で、イスラエルによる報復を「度が過ぎる」として、子供を含む一般市民に多数の死者が出ていることは許容できないと深刻な懸念を表明するのは後ろ指をさされることなのか。いわんや、「反ユダヤ主義」(anti-Semitism)は「悪」であるというのは、戦争に対する見方とは関係なく、至極当然のことではなかろうか。
米国のほかに、国際政治を主導できるのは中国だけということになるが、「親露中立」(pro-Russian neutrality)の立場をとる限り、中国は頼りになりそうにない。中国にとって「親露カード」は米国の覇権をけん制するには都合がよかった。中露両国は、2022年北京オリンピックが開幕した2月4日に「限界がない」協力関係を謳った共同声明を発表。ところが、2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻が当初の目論見どおりに短期で決着とならなかったので、プーチン氏に寄り添うという立場で習近平氏は身動きができなくなってしまった。「反米」の火遊びをしていたら火事になってしまったというところか。
では、不確実性が極めて高くなっている「ポスト・コロナ」の世界で日本に期待される役割とはなんであろうか。一言でいえば、日本が強みをもつ自由貿易のような分野で、法の支配といった「正論」を前面に出して、多国間協力を積み重ねることであろう。幸い、日本では「反グローバル」のポピュリズムが欧米諸国ほどは台頭していない。米国が離脱した後のTPP(環太平洋パートナーシップ協定)をまとめ直した手腕は高く評価されてもいる。日本が、安全保障を踏まえながら、中国との経済関係をどう維持していくのか、固唾を呑んで見守っている国は少なくない。バイデン政権は「民主主義対権威主義」という対立軸に拘泥しているが、米中以外の国、とりわけ「グローバル・サウス」とよばれる発展途上国は、「米国か中国か」ではなく米中両方と緊密な関係を維持したいのが本音である。
こうした国際政治の複雑な「連立方程式」を解ける「人財」の出現が望まれるなか、日本はその役割を果たすことが求められている。時間はかかってもそのために力を尽くすことが、日本の国益に資するのは間違いなかろう。
サザンメソジスト大学(SMU)准教授
武内宏樹