『公研』2023年9月号
最近、海外出張を復活させたが、そこで直面したのが、各国でのランチや宿泊費の価格の高さだ。ソウルでランチに選んだ石焼ビビンバ定食は2300円ぐらい、いくら金融街とはいえ高い。逆に、日本の物価の安さは、英国の『エコノミスト』誌の発表するビッグマックインデックスでも際立っている。7月時点で日本では450円のビッグマックが米国では5・58ドルなので市場レート142円で計算すると790円、円は対ドルで43%割安だということになる。
日本の円は、各国との物価上昇の差を調整して貿易ウェイトを用いて計算した実質実効為替レートを見ても、1ドル360円だった1970年から90年代には約3倍の円高になり、現在はほぼ50年前の水準に戻っている。ほかの国に比べて物価上昇が小さく(ほとんど上昇せず)購買力平価を満たすためには為替が強くならなければいけないのに、ここ30年ぐらいそうなっていない。過去の日本は物価が高い国として知られていたが、今は東南アジアや中国から来日する人も食事や宿泊のコストが低いことに驚く。
日本はモノやサービスだけではなく、賃金、不動産、会社などすべてが安い国になってしまった。今の為替レートなら一人当たりのGDPも韓国や台湾のほうが高くなる。自国の通貨が安くなって自分たちのつくるものや国内の資産が安く買われ、国力が低く見られることは、本来悲しむべきことだ。しかし、日本では、いまだに円安は経済にとっていいことだという認識の人が多い。株価は円安だと上昇しがちだが、輸出や海外で保有する資産の円建て評価が上がって得をする大企業が日経平均に多く入っていることを反映している。
円安でエネルギーや食糧、日用品の輸入価格は上がり、それに関わる業者も大変だし、何と言っても消費者は全体として円安で損をする。つまり、円安は、分配問題でもある。一方、円安によって輸出の数量が増えて雇用やGDPによい影響があるかと言えば、生産拠点が外国に移っていることによりかつてほどの効果はない。
なぜこのような円安になってしまったのか。第1に、日本では金融政策の超緩和が世界中で唯一続いており、各国との間に金利の差が広がっている。2%の物価上昇という目標にこだわってさまざまな緩和策を続けてきたことが、過度の円安、財政規律の喪失、債券市場の歪み、利鞘の縮小による金融仲介機能の低下という副作用を生んでいる。インフレ目標はデフレ対策として果たして有効で適切な政策なのかという疑問も出てくる。
第2に、日本の経常収支はかつてほど万全ではない。貿易収支は赤字に傾くことがあり、韓国のサムスンや台湾のTSMCのように、圧倒的に競争力が強く、外貨を稼いでくる企業を見つけにくい。利子や配当などの所得収支は大きな黒字だがそのまま海外に再投資されてしまって、円への実需につながらない。インバウンドは期待できるが、サービス収支全体としてはまだ赤字だ。
第3に、まだ大きな波にはなっていないが、日本の将来に対する不安からの日本売りの要素もあり得る。異次元の金融緩和、すなわち日銀の資産の膨張と、増え続ける国債のGDP比を見れば、いずれ何らかのショックが来ると考える富裕層が日本から資金を海外に移してもおかしくはない。
日本で働き、日本で消費しているだけなら、日本が貧しくなったということは感じにくい。バブル崩壊後もインフラや住宅は整備が進み、多様な食や製品をリーズナブルな価格で楽しむことができる素晴らしい国だ。しかし、海外旅行は躊躇するし、世界的な存在感は下がり、将来もこれまでの生活水準を維持できる保証はない。
何が必要か。自国の生産するモノやサービスを高く売ること、高く売れるものをつくることにもっとこだわらなければならない。ブランドや知的所有権を大事にし、人がまねをできない価値創造、円安に頼らない真の競争力を追求しなければならない。財政と金融の規律を取り戻して、日本経済とその通貨への信頼を高めることも必要だろう。外国人が安くて質のよい日本を満喫しているのを見て、おもてなしなどと言って喜んでいる場合ではないはずだ。みずほリサーチ&テクノロジーズ理事長