英国と日本の賃金・物価スパイラル【渡辺努】

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『公研』2022年9月号「めいん・すとりいと」

 

 英国ではインフレ率が二桁に達した。ボリス・ジョンソン前首相とベイリー中央銀行総裁は、英国経済が賃金・物価スパイラルに突入する可能性があるとの見方を示している。一方、労組は、賃金の上昇がインフレに追いついていないと訴えており、真っ向から対立している。

 賃金・物価スパイラルはインフレの第二段階だ。パンデミックと戦争をきっかけにインフレが起こった。インフレは生計費を上昇させるので、人々は雇用主に賃上げを要求する。

 労働者は賃金を上げてもらえないなら他の職場に移ると脅したり、ストライキに打って出たりする。そうした交渉を経て、雇用主は、良質な労働力を失いたくないという思いから、賃上げ要求を受け入れる。これで労働者は当面の生活が維持できるようになる。

 次は、雇用主(経営者)がどのようにして経営を維持するかを考える番だ。賃上げで人件費が増えるので、そのままでは収益が悪化してしまう。人件費以外のコストを削るというのは一つの方法だが、それにも限界がある。最終的には自分の作る製品の価格を人件費増の分だけ引き上げる、つまり価格に転嫁することになる。

 かくして、物価がもう一段上がり、それを受けて労働者の生活が再び困窮し、賃上げ要求が再びなされる。それがさらに……というように、値上げと賃上げのスパイラルがいつ終わるともなく続く。

 賃金・物価スパイラルが起こってしまったら、どう対処すればよいか。定石は金融引き締めによる需要冷却だ。しかし、インフレ率が非常に高い水準までいってしまうと、強力な需要冷却が必要となる。その副作用として失業者が街にあふれ、社会がそれに耐えきれない。

 過去に賃金・物価スパイラルを経験したアルゼンチン、ブラジル、イスラエル等では、実際、事態がそこまで深刻化した。需要サイドの対策が手詰まりとなる中、供給サイドに働きかけるということが行われた。具体的には、政府は、労働者に対して「賃金凍結」を命じる一方、企業に対しては、人件費を価格に転嫁することを禁止した。

 こうした施策に対しては、労働者や企業の権利が侵害される、市場メカニズムが阻害されるといった、否定的な見方が少なくない。金融引き締めが正統派の処方箋であるのに対してこちらは異端派の処方箋だ。しかし異端ではあるが効き目があったのも事実だ。そこに目をつけたのか、ジョンソン前首相は「賃金凍結」の可能性を示唆している。

 さて、我が日本だが、実は四半世紀にわたって賃金・物価スパイラルに苦しんできた。ただし、日本版のスパイラルは本家とは趣がだいぶ異なる。四半世紀の間、企業は価格を上げずにやってきたが、これは賃金が動かなかったからだ。労働者は賃上げなしでしのいできたが、これは価格が動かなかったからだ。このように、賃金と物価は、どちらも動かないという絶妙のバランスを維持してきた。

 本家のスパイラルは、賃金と物価が手を取りあって上昇する現象だ。これに対して日本版は、賃金と物価が手を取りあって動かない(凍りつく)という現象だ。「上がる」と「凍りつく」に注目すればずいぶん違う。しかし、「手を取りあう」は同じだ。スパイラルの本質はこちらだ。

 ジョンソン前首相は「賃金凍結」を口にしているが、日本版スパイラルでは、価格と賃金は凍りついたように動かないのだから、日本に必要なのは「凍結」ではなく「解凍」だ。「凍結」にせよ「解凍」にせよ、日英ともに、異端の策に踏み込まざるを得ない厳しい状況が続く。  

東京大学教授

 

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