『公研』2021年3月号「めいん・すとりいと」
白戸圭一
いまから30年前、筆者が西アフリカのニジェールの村で出会った人々は、地球が丸いという事実を知らず、世界は一枚の板のような形をしていると子供たちに教えていた。彼らは自分たちの世界観を語り継いでいたのであり、嘘をついていたのではない。他人を騙すために事実ではないことを言うのが「嘘をつく」ことであり、騙す意図がなければ嘘をついたことにはならない。私たちが子供に「嘘をつくな」と教育するのは、嘘には他人を騙す意図が込められているからである。
だが、人生には嘘が必要な局面が多々あり、子供に「嘘をつくな」と教えること自体が、実はある種の嘘である。筆者は、職場の会議でくだらない意見ばかり言う人に「いつも貴重なご意見ありがとうございます」と心にもない言葉をかけることがある。下手なフラワーアレンジメントの作者に「素敵ですね」とお世辞を使うこともある。そういう嘘を一度もついたことのない大人は、この世にいないだろう。嘘は思いやりや礼節と混然一体である。
社会の指導的立場にある人物は、嘘をついたほうがよいこともある。例えば、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会のトップには「内閣も組織委も企業の役員も半数は女性であるべきだ」という考えの持ち主が就任して欲しいと、筆者は願う。
だが、仮にトップが「女は黙ってろ」というホンネの持ち主だったとしても、公の場では「もっと女性が意見を言える環境が必要だ」と心にもない嘘をつくべきだと思う。社会の指導的立場にある者の発言は、日本社会に男女同権の意識と規範を定着させ、日本に対する諸外国のイメージを向上させるだろう。この場合の嘘には、「男女共同参画社会」の実現や国益の増進という目的合理性がある。
もちろん、嘘には限界がある。言葉だけで行動が伴わない状態が続けば、人々は嘘に気付き、誰も発言者を信用しなくなる。民主主義国家で政治指導者が嘘を繰り返せば、国民の政府への信頼は低下する。信頼関係の破綻は政府に跳ね返り、嘘の効力を失わせるだけでなく、政府が「本当のこと」を言って国民を説得したい場合でも、説得は困難になるだろう。
しかし、政府の嘘が引き金となり、国民の政府への信頼が低下するのは、民主主義が機能していることの証左でもある。本当に恐れるべき危険な状況は、政府に対する国民の信頼が低下することではなく、少なからぬ国民が政府の嘘を見抜けず、あるいは嘘を気にせず、場合によっては嘘を歓迎し、嘘の構図に加担する状況である。
選挙に敗れた大統領が、いくら探しても証拠が見つからないのに「選挙で不正があった」と言い、少なからぬ人々がその主張を嘘と思わず、「不正」を信じて疑わない。根拠を問うと、「不正を明らかにすべき捜査機関やメディアが不正をもみ消している。完璧に隠蔽していること自体が不正の証拠だ」と言い張る。「あれは××による陰謀だが、証拠は存在しない。なぜなら××の陰謀だからだ」という同義反復の中で自己完結している人に、科学的思考に基づく反論は無力である。米国の民主主義は今、数千万人が嘘を嘘と思わない危機の中にある。
では、嘘を巡る日本の現状はどうだろう。政府・与党の指導者たちやその周辺は、何らかの嘘をついているか、いないか。仮に嘘をついていた場合、思いやりや礼節、あるいは目的合理性を備えた嘘か。そして国民は、政府による嘘の有無をどう考え、次の選挙に臨むつもりなのだろうか。 立命館大学教授