『公研』2020年9月号「interview」
鈴木 優人・バッハ・コレギウム・ジャパン首席指揮者オルガニスト、チェンバリスト
コロナ渦は、音楽家にとっても大きな打撃となった。バッハはペストが蔓延した時代に生きた作曲家でもある。日本から世界へバッハの音楽を発信し続けているバッハ・コレギウム・ジャパンの鈴木優人氏に話を聞いた。
中止になったコンサートホールで『ヨハネ受難曲』を録音
──コロナ・ショックは音楽家の活動にも大きな影響が出たのだと思います。
鈴木 ちょうど3月の頭からバッハ・コレギウム・ジャパンのヨーロッパツアーを開始したところでした。私どものオーケストラと合唱団は年に1回以上の頻度でツアーに出ていますが、今回のヨーロッパツアーは11都市13公演のコンサートが予定されていました。バッハの『ヨハネ受難曲』の全編を演奏するプログラムで、長年にわたって計画していたものでした。
コロナウイルスは2月の段階では主にアジアで席巻していましたから、行くべきか行かざるべきか議論があったんです。ただ当時はヨーロッパではそんなに被害が出ていなかったので、出発することになりました。ポーランドのカトヴィツェが最初の公演でしたが、当時ポーランドでは感染者が出ていませんでした。ただ現地では「アジアからわざわざ来られるのか」という心配もされました。不安と共にヨーロッパツアーはスタートすることになりましたが、公演自体は最初からものすごく熱狂的に迎えられました。10分以上スタンディングオベーションが止まらないという今までにない拍手を受けて、我々も手応えを感じることになりました。
その後のダブリン、ロンドンまでの公演は順調に進みましたが、残念ながらリヨンでついに中止になりました。それで、その次に予定されていたドイツに行くことになりました。ドイツではケルンとデュッセルドルフでの公演が予定されていましたが、いずれも中止になりました。結局そのままツアーは中断を余儀なくされました。
──長い時間をかけて準備していたとなると無念ですね。
鈴木 中断は残念でしたが、ケルンではすばらしい機会を掴むことができたんです。ケルンの地に着いた瞬間に公演の中止が決まりましたが、ホールは空いていましたから「無観客のライブ配信をしないか」というお誘いを受けたんです。そこで僕たちは、「ライブ配信も引き受けるけど、ホールが空いているのなら『ヨハネ受難曲』の録音をさせてくれないか」と打診しました。イベントが何もかも中止になっていましたから、ケルン・フィルハーモニーホールという素晴らしいホールを5日間独占してレコーディングができました。3月の半ば頃です。
我々は50人弱のグループですが、みんなそのアイデアに賛成でした。いま何がどうなっているのかまったくわからないが、とにかく何かを創ることはいいことだろうと信じてやっていました。コロナウイルスの感染拡大が進行して世間はどんどんカオスのようになっていきましたが、それとは裏腹に我々はホールに篭って誰にも会わずに音楽に集中していました。ホールで録音している間に、ドイツでもソーシャル・ディスタンスを確保する生活様式が始まって、昨日まで並んで食べていたレストランのテーブルにも「この座席は使いません」という張り紙がされたりします。ヨーロッパの各国も国境を閉鎖するなど、ますます緊張していく社会の変化を目の当たりにしていました。
ソーシャル・ディスタンスの徹底は、ホールで録音をしていた我々のところまで及んできました。「10人以上が集うことは自粛すべき」というルールができて、最後は警官まで確認にきたんです。
けれども、ちょうど大人数が必要になる曲から順番に録音して、小さな人数のものを後に録っていて、警官がきたときは、指揮者、私、オルガニスト、エヴァンゲリストと呼ばれる福音史家の歌手、チェリストの5人による収録でした。だからギリギリセーフでしたが、警官からは直ちに立ち退いて建物を閉鎖するように求められたんです。
──ホールに人が集っているだけで警戒されてしまった。
鈴木 この時にマネージャーが機転を利かせてうまく時間稼ぎをしてくれたんです。「何をしているんだ」と聞いてきた時に、「バッハ・コレギウム・ジャパンという日本から来たグループが、バッハの録音をしている。それを証明する書類を探してくる」とか言って、警官たちを待機させて時間稼ぎをしたんですね。
それから、とても幸いなことに警官のなかに我々のことを知っている人がいて、「バッハ・コレギウム・ジャパンが演奏した昨日の公開放送を聞いたよ」と言うんです。その方が私たちの活動に理解を示していただき、最後まで録音できるよう猶予が与えられることになりました。
そんなやり取りが行われていたとは、私たちはまったく知らずに演奏に集中していました。こうして理想的な環境のなかで、3月18日に『ヨハネの受難曲』のレコーディングを終えることができました。CDは9月上旬にリリースされました。
──理解のある警官で助かりましたね。コンサートが予定通りに開催できないとなると、運営面ではやはり厳しくなったのではないですか。
鈴木 難しいのは、感染者が一人でも出ると大騒ぎになって、責められてしまう風潮になっていることですね。感染者の有無に一喜一憂している状況は、ある意味ではペストの時代よりもたちが悪いところがある。それでも、ようやくお客様を入れた演奏会を再開できるようになりました。ただ現状では50%しか入れられなかったりしますから、厳しい運営状況は続いています。もちろんチケットを通常の2倍にするかたちで転嫁できるのであれば、運営していく上ではそれはそれで健全な行動と言えるのでしょうが、やはり恒例となっている価格帯がありますから、そこから離れるわけにもいきません。今までお客様に支えられてきたわけだし、皆さんもまたそれぞれに苦しい思いを強いられていることもあると思いますから。
バッハ・コレギウム・ジャパンにはいくつかの団体や企業からご支援をいただきましたし、中止になった演奏会のチケット代を「寄付します」と申し出てくださった方がたくさんいました。とても有り難いことだと感謝しています。一方で、アメリカなどは寄付文化が進んでいて、個人による寄付が相当な割合になっています。日本では個人レベルで寄付をする文化は定着していないところがありますが、今回のコロナ・ショックによって寄付によって自分の好きな楽団や劇団などを支えようとする人が増えています。この機会だからこそ起きた変化で、それが今後も根付くことを期待しています。
バッハが生きていた時代にあった生命の儚さを実感
──バッハ(1685年─1750年)はペストが流行した時代に生きています。彼の音楽から疫病の蔓延を連想されることはあるのでしょうか。
鈴木 バッハは疫病が蔓延した時代に生きていて、彼自身も20人いたとされる子どもの多くを幼少期に亡くしています。今より人の死がずっと身近に、隣り合わせにあったのだと思います。当時の音楽は、基本的には宗教行事をはじめとした公的な機会のためにつくられたものです。即興演奏と違って、それが楽譜として残ってきたわけです。今のように印刷が簡単ではないので、楽譜の出版は繰り返し演奏されることが想定される音楽に限られていました。繰り返し起こることと言えば、冠婚葬祭ですよね。特に葬儀の場で演奏される楽曲は、そうした機会音楽(チャンス・ミュージック)の代表例です。
音楽に今のようなエンターテイメントの側面は少なかったと思いますね。もちろん礼拝の中で行われた結婚式で華やかな音楽が演奏されて、それを聴く人たちの耳を楽しませたことは確実にあります。ただ、そうした機会だけが音楽がエンターテイメントとして機能することが許された限られた時間で、音楽を楽しみに行こうという選択の余地が普段はそんなにあったわけではないのだと思います。もちろん、劇場もありましたから、そこでオペラや当時の流行り物の音楽が演奏されていました。教会や宮廷の音楽がそれに影響を受けるといった相関関係にあって、バッハも教会から「劇場的すぎる」という批判を受けたこともありました。
先ほどもお話ししましたが、今回のツアーでは『ヨハネ受難曲』をたまたま演奏していました。イエスが十字架に貼り付けにされる受難の物語(新約聖書「ヨハネによる福音書」)を楽曲にしたものです。バッハが作曲した受難曲で現存しているものには、他に『マタイ受難曲』がありますが、『ヨハネ受難曲』はよりロジカルな構成であると言われています。旧約聖書の創世記が「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』」から始まるのに対して、ヨハネの福音書が「初めにがあった」からスタートするように、ロゴス=言がテーマになっています。バッハの『ヨハネ受難曲』は、まさにユダヤの群衆とイエスの裁判の場面がものすごい言葉の応酬として描かれるシンメトリーの構造になっていて、バッハの音楽として昇華されている。この緊迫感のある音楽はどんなに練習しても、なかなか確信には辿り着けません。
しかし、今回このコロナ渦の最中に明日どうなるかわからないという緊張感と変化を味わっている中で、『ヨハネ受難曲』を演奏する機会を得ることができました。後から聴き返しても、本来持っている緊迫感に少しは迫ることができたように思います。バッハが生きていた時代にあった生命の儚さを実感することができたとも感じられました。コロナ・ショックのおかげで一時的であれ、バッハの時代に戻ったような感覚になれたのかもしれません。
バッハはいつでも私の中では中心にある
──バッハはヨーロッパでは日常的に聴かれているのでしょうが、今は彼の音楽に向き合うのにふさわしいとも言えるかもしれないですね。
鈴木 5月にNHK教育テレビの『ららら♪クラシック』という番組で、コロナ危機を受けた「音楽とともに」というテーマの特番がつくられました。音楽家たちが演奏とメッセージを番組に寄せたのですが、僕は過去にスタジオで収録したバッハの演奏と新たにメッセージを添えました。多くのアーティストが参加していましたが、その半分くらいの人がバッハを選んで演奏していたんです。
バッハの教会音楽の歌詞は、人の死をどう受け止めるかという根源的な問いに直接答えるものもありますので、コロナウイルスの流行を受けて多くのアーティストがバッハを選んだという側面もあると思います。ただそれ以上に、こうした歴史的なタイミングでどういう音楽に立ち戻るのか、それを考えた時に多くの音楽家にとってバッハが大きな存在として浮かび上がったのではないでしょうか。今までバッハを弾いていた人はやはりバッハに立ち戻りたいと考えるし、バッハを弾いていなかった人もバッハを手にしようと思った。
それから、もしかしたらコロナによって音楽家に時間の余裕が増えた影響もあるかもしれないですね。と言うのは、バッハの作品はあまりにも膨大だし、演奏すること自体も難しいところがあります。「難しい」というのは、技術面よりも譜面を読み解くことにとても時間が掛かるんです。演奏会も中止になり、十分な時間があったために、多くの音楽家がバッハに向き合おうと考えたのは自然なことのようにも感じます。
──お父様(鈴木雅明氏・バッハ・コレギウム・ジャパン音楽監督)よりも、バッハ以外の作曲家の演奏に取り組まれている印象があります。ご自身のなかでバッハを演奏することと、それ以外を演奏することではどのような違いがあるのでしょうか。
鈴木 バッハ・コレギウム・ジャパンの定期演奏会では父がメインになっていますから、父と分け合うようなかたちでバッハに取り組むかたちになっています。今は割合としては確かに私のほうがバッハ以外をやっているように見えるかもしれませんが、だからと言って私が父に反抗してバッハ以外の作品をやろうとしているわけではないんです(笑)。それに父も作曲科の出身だし、コンテンポラリー作品にも結構興味を持っている人なんですよね。
それでもやはり、バッハはいつでも私の中では中心にあります。バッハの音楽のロジックを勉強していると、その後の時代の楽譜を読む時にバッハの大きな影響を感じます。特に直のロマン派は、バロック時代からの反動もありますが、作曲の技法の基礎にはやはりバッハが存在していて、ベートーヴェンもブラームスもバッハに作曲技法の範を置いていました。彼らも規範を求めてバッハの平均律などを勉強していたわけです。結局バッハ以降の音楽は、バッハを出発点にして紐解くことができます。バッハを演奏しているとそれを実感できる。
実際にやってみると、バッハは一種類じゃないですよね。例えば声楽曲にしても鍵盤曲にしても、本当にいろいろなスタイルがある。だから、後世の時代の曲をやっていると「ここはバッハのあの要素から来ているのだな」ということがわかったりします。それを思わぬところから見つけることで、一層バッハの幅の広さに驚かされることがあります。
本当の音の出し方はスチール弦では学べない
──古楽器を使用することにも強いこだわりを見せていますね。
鈴木 僕はいつもそれぞれの作曲家が曲を書いたときの思いに迫りたいと考えていて、オリジナル楽器を使う理由もそこにあります。例えば、ある曲でホルン奏者が4人にいる編成になっていて、1、2番がF管のホルンで3、4番がB♭管だとします。2種類のホルンがそれぞれ2名ずつで重ねられている理由は単純です。2種類の菅を組み合わせることで、より多くの音を出したいわけです。ところが今は、両方の音域を1本で吹くことのできるダブルホルンがあるので、それを使えば2人でも足りることになります。
けれども、違うツールで吹いたり弾いてしまったりすると、作曲家が本来意図していた音の鳴り方とは全然違ってしまうんです。こればかりは、当時のオリジナルの楽器や形態にこだわらなければ絶対に見えてこないことがある。バッハをやるときでも、それ以外の作曲家であってもそこは大事にしたいんです。モダン楽器で弾くときも、その印象を翻訳しながら伝えていくことを常に重視しています。
──オリジナル楽器は、簡単に入手できるのでしょうか? ものすごく高価だったり、きちんと音が鳴らなかったりするのではとも想像します。
鈴木 昔よりは手軽に入りますよ。ほとんどの人はレプリカを弾いていますが、研究が進んでいて情報もたくさんありますから、当時に近い音を出すことができます。骨董的な価値のある楽器は劣化してしまうので、なかなか日常的に使うことは難しいんです。特に管楽器は傷み易いところがあります。
弦楽器に関しては、ストラディヴァリウスなどは正に当時のオリジナルの楽器ですが、実はセッティングがモダンになっています。ヴィオリンはボディと糸巻きのところだけがオリジナルで、指を押さえる場所や弦は消耗品というとても複雑な構造になっています。ストラディヴァリウスがつくられた時代のスタイルに戻そうとすれば、指板を短くしようとかネックを太くしようとか角度を変えようといったアレンジが必要になります。けれども、そうしたことはなかなかできません。なぜなら、ストラディヴァリウスを商品化している人たち──彼らによっての値段が高騰しているわけです──がそれを許さない。だから、ストラディヴァリウスを当時のスタイルで演奏することは実際には難しくなっています。
バロック時代の楽器をレプリカしたものでも、いいものがたくさんあります。今の若い世代はそうした情報にアクセスすることも容易になったし、学校でもバロック時代の楽器を勉強できるようにもなってきました。
──古楽器も選択肢に入ってくるとなるとヴァリエーションが無数に広がりますね。その中でご自身のイメージを演奏者に伝えることは難しくなるのではないですか。
鈴木 演奏は感覚ですから言葉にして伝えることは難しいんですが、弦楽器で言えば、主に羊の腸を素材にしているガット弦とスチール弦の違いは本当に露骨なものです。やはり本当の音の出し方は、スチール弦では学べない。どんなに真似をしても無理ですよね。ですから、こればかりはやってみるしかない。
そもそも20世紀に入ってからもスチール弦はなかったんです。特にオーケストラは変化が遅くて、ショスタコーヴィチ(1906年─1975年)のようなモダンに感じている作曲家でも、当初はガット弦しかない時代だったんですよね。それが次第にスチール弦で弾く人が増えていって、時代は変化していきました。当時から「スチール弦は良くない」と言う人もいれば、「スチール弦のほうがダイナミックだ」と言う人もいて、様々な意見が当時もありました。僕は演奏の都度、何を使って弾くべきかを考えていけばいいと思っていますが、ガット弦のヴァイオリンがどういう弾き心地なのかを知っておくことはとても大事だろうと思っています。
客演の指揮者として他のオーケストラと共演するときなどは、楽器を換えさせたり、楽器について十分なレクチャーをしたりする時間がない中で進んでいくことのほうが多いんです。長いツアーやオペラであればそうした時間を確保できるでしょうが、普段はなかなか難しい。本来はモダンのシンフォニーオーケストラであっても、作曲家が生きていた時代の楽器についてきちんと学ぶべきなんです。オリジナルの楽器の経験や知識があれば、音楽言語として共有したいニュアンスを伝えることもずっとやりやすくなりますからね。
世界中で演奏されてきたモーツァルトは重すぎる?
──鈴木優人さんがエグゼクティブ・プロデューサーをされている調布国際音楽祭で、バッハ・コレギウム・ジャパンがモーツァルトの交響曲第41番『ジュピター』を演奏するのを聴きました。あの時に「モーツァルトはこういうふうに鳴っていたのかな」と思える新鮮な驚きを覚えました。『ジュピター』は好んで取り上げている印象がありますが、理想に近づけているとお考えですか?
鈴木 モーツァルトは、モダン楽器での演奏が一番難しい作曲家だとさえ思っています。バッハの場合は、それこそシンセサイザーでやってもアコーディオンでやっても対位法のエッセンスが活きるところがあります。けれども、モーツァルトの場合はもっと音色の軽さを大事にしていて、まさに彼の時代の楽器を活かそうとして曲を書いていたところがあります。けれども、今まで演奏されてきたモーツァルトは、オペラもシンフォニーもとても重たいと感じています。それは日本も世界も一緒で、その概念が変わっていかなければならないと思っています。書簡集『モーツァルトの手紙』に垣間見えるように、モーツァルトのキャラクターは重厚さとは程遠い軽やかさがあると僕は感じています。
今後モーツァルトのオペラにチャレンジしたいと考えています。求めているのは、演奏の上手い下手じゃないんですよね。それよりもむしろ、スタイルにはまるかどうかという感じなんです。ロックにしてもポップスにしても、きちんと弾くことよりも、そのスタイルに入ることが良い演奏なのだと思います。僕はまったく詳しくありませんが、レゲエは、譜面通りに演奏してもそのスピリットを伝えることには絶対にならないでしょう。クラシックでもそれは同じだと考えていますが、なんかクラシック音楽の世界は上手い下手で考えてしまうところがありますよね。
「スタイルに入った」音をどうやって出すのかと言えば、そこはもう本当に言語化できない領域になりますが、やはりオリジナル楽器を一回でも弾いたことがあると大きく変わります。もし全員が一回でも弾いた経験があれば、本当に大きな力になると思います。
20世紀後半は変革がテーマだったのだと思いますが、コロナ後のクラシックは、原点回帰がテーマになるのではないかと期待しています。
──バッハと言えば、カール・リヒターが指揮をして録音された『マタイ受難曲』が20世紀の名盤と紹介されることがありますが、どのような印象を受けますか?
鈴木 そんなにたくさん聞いたわけではありませんが、僕が聴いた印象としては峻厳で虚飾や媚びのない演奏だと感じました。当時はバロック楽器が手に入りにくかったこともありますが、リヒターは手に入った楽器と交流のあった演奏家たちとあの演奏を創り上げたのだと思います。リヒターは、バッハの演奏をロマン派からバロック時代のスタイルに引き戻そうとした一人であることは間違いありません。
ただし、スタイルに関しては端的に言えば必要以上に重い感じがします。うまく言えませんが、語るように歌われるレツィタティーヴォにしてもドラマチックですが、その一方で全体的に均等な印象もあります。コントラストがはっきりしていて強烈ですが、オーガニック(有機的)な感じがしない。リヒターの『マタイ受難曲』の重さは、バロック時代のオルガンの音色をどう捉えていたのかにもつながってくると考えています。バッハの時代にはネオ・バロックスタイルと呼ばれるオルガンが出てきましたが、これは音圧がとても高くてもうほとんど割れんばかりに「ピシ!!」という音がします。それから始まりに雑音が入るんですが、その力強さがバロック時代のオルガンの特徴だと言われていました。
おそらくリヒターは、ネオ・バロックスタイルの持つ重厚な様式美を重視していたのだと思います。ところがその後の研究では、バッハが拠点としていた中部ドイツはもっとまろやかで暖かい音色のオルガンだったことがわかってきました。僕はバッハもモーツァルトと同じように、必要以上に重厚に演奏されてきたと感じています。
オランダのオルガンの「格調」
──オルガン自体の違いがスタイルを既定しているのですね。お父様にインタビューした際に、かつてはパイプオルガンの音色を聴く機会も限られていたと仰っていました。オルガンに接する機会は、幼い頃からあったのですか?
鈴木 父が教えていた神戸松蔭女子学院大学のチャペルのオルガンの音色が僕の幼児時代の記憶になっています。10歳になる前からそのオルガンをずっと聴いていましたから、あの音色は僕の身体のなかにあります。その後は教会やホールなどオルガンのあるところを訪ねていって、お願いをして練習させてもらっていました。それだけでは足りませんから、定期的にオルガンを弾ける環境を手にしようと大学院では古楽器科のオルガン専攻に進みましたが、それでも物足りなさを覚えるようになりました。やはり日本には歴史的な楽器はまったくありませんからね。それでオランダに留学することにしました。
もともと生まれたのはオランダですから、母国に戻ったとも言えます。オランダにはいろいろな歴史のあるオルガンがあります。昔のままのものもあれば、ずいぶんと変化したタイプもあります。しかし、オランダのオルガンは全体的に大きくてどっしりとしています。現地の音楽家の演奏スタイルもズンとした緩やかな足取りなんです。決して焦らない。オランダ人はトリル(主要音とその上の隣接音を交互に弾くこと)なんかもとってもゆっくりなんです。これはオーケストラをやる時も凄い参考になるイメージです。教会のなかは残響が多いですが、それでもきちんと音楽が動いていくんです。オランダのオルガンの「格調」というものを学べたことは大きかったですね。
オランダには今でもスタジオのように使える自宅があって、ヨーロッパでの仕事はそこが拠点になっています。オランダは地の利が良いから、本拠地として使いやすい場所ですね。それに、外の者に対してとても開かれている国です。僕のように、オランダにルーツがあるのかないのかよくわからないような人にも寛容だし、芸術面でもコンテポラリーアートやコンテポラリー音楽のような評価が一定していないものに興味を持つ人がかなり多い。
今の世の中は、「食べログ(インターネット上のレストラン評価サイト)」のように五つ星評価でものを考えることが広く社会に根付いていますよね。僕も知らない土地に行くと、便利だから食べログに頼ってしまうところがある。「このお店は3・5ポイント以上の高評価だからここにしよう」とかね。でも、そればかりに踊らされてしまうと、結局は自分の味覚を信じられないことにもなりかねない。そういう画一化しかねないリスクは音楽にもありますが、その点オランダ人は自分自身の感覚を大事にしている人が多いように思います。
──YouTubeでチェンバロを演奏されている動画を観ました。蒔絵風の模様が施されていますが、あのチェンバロは古いものなのですか?
鈴木 あのチェンバロは歴史的な楽器のコピーなんです。オランダの自宅に置いていますが、演奏会で使用することもあります。ウィレム・クレスベルヘンというオランダの製作家によるものです。とても個性的な人で今はもう引退して南アフリカで第二の人生を送っていますが、チェンバロの作り方に関しては本当に確信を持っていた方で、釘なんか一本も使わないんですよ。彼は、製作方法も歴史的なスタイルを研究していて、木の響板にしても極限まで薄い板を使っています。強度面ではかなりリスキーな構造をとっているのですが、そのおかげでとてもしなやかな良い音が鳴ります。
チェンバロづくり一つをとっても製作者の哲学が込められていますから、当然どこにでもある楽器でもいいというわけにはいきません。楽器を持っていくとなると、お金も掛かるし主催者にとっても面倒ですが、そこは換えが効きません。幸いにして、最近はそのことがだいぶ理解されるようになりました。
演奏の際は何かがスパークするべき
──音楽家にはエモーショナルなイメージがありますが、楽器の構造を理解されるなど理知的な印象を強く持ちました。
鈴木 その通りです。楽器について学ぶ時や譜面を読む時は、可能な限り理知的にやろうとします。コードはどうなっているのか、誰と誰が一緒に弾いているのか、どういうハーモニーなのか構造はどうなっているのか、まずはそれを考える。ただし、アウトプットする時にそれをなぞるだけではつまらない。何かがスパークするべきだといつも思っているんです。演奏家にとってリスクがあったとしてもチャレンジしていくべきだし、僕がリーダーの現場であれば、それを恐れないように演奏者に伝えます。それを怖いと思う人もいます。どうなるかわからないから恐れるわけですが、お客さんもどうなるのかわからない部分も期待して演奏会にきているのだと思います。安心ばかりでは、メリーゴーランドしかない遊園地になってしまう。ジェットコースターも必要でしょう。
作曲家はいろいろな体験や感情を譜面に書いているわけですから、本来そこを汲み取らなければならないんです。今年はベートーヴェン生誕250周年ですが、ベートーヴェンの譜面なんかもう本当にぐちゃぐちゃですよね。自分でも整理しきれないぐらいの感情がぶつけられていて、力技で何とかまとめられている曲がほとんどだと思うんです。彼の曲でも、例えばピアノの曲なんかは綺麗に伝えようとまとまっているものもありますが、『運命』や『田園』以降の交響曲の楽譜を見ると譜面からはみ出そうになっているし、縦も揃っていません。あれを見て演奏できる人がいるとは思えないほど乱れていますが、だからこそ凄まじいスピリットを感じるわけですよね。それをメトロノームのようにカチカチとした演奏にするわけにはいきませんよね。
最終的に求めているものは親子で一緒?
──バッハ・コレギウム・ジャパンでお父様と一緒にお仕事をされています。年代によって変化するのでしょうが、親子で音楽をされることを今はどう感じていますか?
鈴木 客観的に見られないので自分ではよくわからないんですが、すごく幸せなことだと思っています。父と親子喧嘩をするにしても音楽のことでするのでね。逆に言えば、プライベートな親子の時間が少ないと感じたことはありますが、二人とも音楽が好きですからね。それも悪くないと思っています。バッハ・コレギウム・ジャパンでは常に新しいチャレンジをしていて一緒に知恵を出し合っていますが、会議などでアイディアを話すと入り口は、だいたい真逆の方向になるんですよね。
私のほうがちょっとプラグマティックな時があったり、あるいは父のほうが逆にスピードが速かったりとかね。我々二人の間には最終的に求めているものは一緒じゃないかという理解があると思っていますが、最初のアプローチが違っているために周りは混乱することがあります(笑)。
一緒に仕事をしていると、親子でもお互いの違いが見えてきて、そこが課題にもなれば面白さでもあると感じています。
聞き手:本誌 橋本淳一