『公研』2020年8月号「対話」
兼原 信克・同志社大学特別客員教授×白鳥 潤一郎・放送大学准教授
終戦から75年経ち、日本は経済大国として世界に確固たる地位を占めた。しかし、世界の平和・安定に対して十分な役割を果たしてきたと言えるのだろうか。また、現実的で具体的な安全保障を行ってきたのだろうか? 戦後の日本外交を振り返り、この先の戦略を構想する。
コロナ危機が世界の潮流を大きく変えることはない
白鳥 「終戦」から75年が経ちました。今日は戦後の日本外交のいくつかの場面を振り返って考えてみますが、その前に未だ収束に至っていないコロナ危機が今後の世界に与える影響について、意見を交換できればと思います。
コロナ後の世界については、すでにいろいろな事態が想定されています。ただし予測することはできないし難しいのではないか、というのが私自身の率直な印象です。「ウィズコロナ」という考え方も打ち出されていますが、結局は試行錯誤を繰り返しながら向き合っていくしかない。情勢は日々変わっていますが、今起きていることがこれからの国際社会を根本的に変えるとは思えないところがあります。本当に情勢が一夜にして激変することもあり得るのでしょうが、少なくともコロナ危機はそうした変化をもたらすとは見ていません。国際情勢の大きな変化の芽はもう少し前から生まれていて、コロナ危機はその変化をより強く印象づけたり、押し留められているものを噴出させたりする可能性はあるかもしれないとは考えています。
兼原 私も同じ見方ですね。コロナ危機が世界の潮流を大きく変えることにはおそらくならない。感染症が世界的に広がった現象ですから、各国は主権を前面に出して防疫対策をとることになります。世界経済に悪影響が出ることは避けられないでしょう。まだ株価は下がっていませんが、景気の悪化は、1929年に始まった世界大恐慌よりは軽いが、2008年のリーマン・ショックより大きいという見通しがあります。リーマンでは金融中枢がやられたので、ブラックホールに吸い込まれるように経済全体に被害が出ましたが、コロナの被害は人の移動の制限が特徴で、小売業、飲食業、宿泊、観光、交通機関あたりが集中的に痛んでいる。ただ、日本でも経済活動再開に合わせて感染者数が再び増加しています。根本的な解決はワクチンの開発でしょうが、それまでは第二波が来ることもあり得ますから、今年の世界経済はマイナス成長にしかならないでしょう。来年からは成長に転じるでしょうが、その回復の仕方はV字回復ではないでしょう。それがL字なのか、ゆっくりとしたU字なのかはわかりません。
白鳥 まったく同感です。人、物、金、情報が自由に行き来するグローバリゼーションという大きな趨勢の方向性は変わらないのだと思います。ただし、5年10年ぐらいの中期的なスパンにおいては、その勢いが弱まるだろうし、人の移動について影響が深刻なことは間違いありません。経済面ではその反作用が大きく出るので、その対応は必要ですが、今までの課題は同じように存在しているし、その構造が大きく変わったわけではない。
兼原 私はコロナ後の世界について、二度の石油危機後に省エネが進んだことを思い出しています。コロナ危機によってデジタル化が進み、テレワークが定着して日本人の働き方が変わることは十分にあり得る。日本はデジタル化が遅れている国ですから。けれども例えば人類が火や鉄を使うようになったことや、200年前のイギリスの産業革命に匹敵するような激変にはつながらないと思いますね。
白鳥 兼原さんらしい壮大な視点ですね(笑)。
兼原 注目すべきは、危機後の世界経済をどこが牽引することになるかです。日本と西ドイツは70年代にG7首脳会合に招かれて、低迷する世界経済を牽引するために内需拡大に努めました。当時、言われた「機関車論」ですね。あのときは西ドイツと日本で世界の経済を引っ張った。そのおかげで敗戦国だった日独は、国際社会に復権しました。リーマン・ショック後は中国が公共投資で世界経済を支えた。もちろん中国共産党は、それ以前から外資を大量に呼び込んで、農村の労働力を都市部で安く過酷に使うことで大きく成長していましたが。
コロナのせいではありませんが、外国資本の投資先はこれから「中国+α」になると思います。投資はまずベトナムなどに戻り、それからバングラデシュ、インドなどの西アジアに向かうでしょう。インドは、もうすぐ人口でも13億人の中国を抜こうとしている。それにインド国民は若い。中国の平均年齢39歳に対して、インドは29歳ですから、明らかに未来の主役はインドです。日本なんて平均年齢が49歳ですからね。インドの次はアフリカです。アフリカ大陸の平均年齢は19歳ですよ。今世紀の後半には、アフリカにも資本が流れ始めて、工業化が始まるでしょう。あと100年はかかると思うんですが、200年前に英国で始まった産業革命が、地球的規模に広がって世界中の国が工業化を達成する時代がやってくる。大きく見れば、今の世界はその途中にいるだけだと思う。
白鳥 コロナ危機に米大統領選も相まって、今は中国脅威論が過剰に喧伝されている側面もあるかもしれませんね。軍事面では確かに警戒が必要ですが、経済面では少子高齢化の影響がすでに出始めつつあります。
敗戦国の外交
白鳥 それでは戦後の日本外交の話題に入っていきたいと思います。兼原さんは昨年10月に国家安全保障局次長を退任されて、今年5月には『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』を出版されました。ご著作では明治維新以降の日本の歴史──特に戦前期の日本を中心に描かれていました。ただ、私自身が戦後の日本外交を専門に研究していることもありますので、今日は『歴史の教訓』ではあまり触れられていない戦後にテーマを絞ってお話をお伺いできればと思います。まずは敗戦後から冷戦期の日本外交について兼原さんはどのようにお考えでしょうか。
兼原 冷戦期の日本外交はとても単純です。安全保障に関する限り、政府がやっていたことは、西側に立ち位置をしっかりとって、東側陣営の影響力を自由主義圏から排除することです。日米同盟強化、防衛力増強路線です。特に、いわゆる55年体制が立ち上がってから、政府と自民党の方針は一貫しています。逆に、東側陣営に軸足を取った人たちは、真逆の発想になりました。日米同盟廃棄、再軍備反対です。一見非現実的な日本社会党の「非武装中立」も、イデオロギー対立の文脈で見れば論理的です。社会党が米国の初期占領政策である日本の非武装を担ぐところが歴史の皮肉です。中立志向はソ連の対日世論工作の結果でしょうが。いかにも冷戦時代ですね。国際冷戦と国内冷戦は連動していました。
太平洋戦争に負けた日本は、GHQに占領されることになりました。日本は元寇も押し返しているので、外国人に首都を占領されるのは歴史上初めてのことです。しかも東京大空襲、原爆投下、沖縄戦等の結果、100万人もの民間人が亡くなりました。東日本大震災の被害者は約2万人ですから、とてつもない数です。初めての亡国の経験です。戦時の国家指導は派手な宣伝ばかりで、真摯な国民説得の努力に欠け、敗戦後、国民は「こんな話は聞いていない!」と憤ったわけです。当然ですよね。
戦後には戦前、危険思想とされていた共産主義などの左翼思想も解禁されます。GHQも「新しい日本には、そうした主張もあってよい」と容認したところがある。戦後の日本は、当然アメリカの影響力も強いけど、東側陣営の雄であるソ連も一生懸命に影響力を行使しようと入ってきた。高度成長時代の前の日本は、まだまだ貧しかったし、50年代には、未だ共産主義思想が世界を席巻していました。サンフランシスコ講和会議と日米安保条約署名の際にも、共産圏を抜いた片面講和だと、国内の左派勢力からはずいぶん批判されたものです。国際冷戦を反映して、イデオロギーの力で国内政治が分断されていたんです。
1955年に日本社会党が立ち上がったときには、保守のほうも大慌てで結集します。自由民主党の旗揚げです。社会党統一のショックで保守合同が実現したわけです。戦後の外交方針は、自民党が長期にわたり政権を握ったこともあり、51年のサンフランシスコ講和会議と55年の保守合同から基本的には動いていません。当時の東アジア情勢を見ていくと、米国が影響下に残った旧日本領の韓国及び台湾、それから旧米国領だったフィリピンといった北西太平洋の海浜部の国々を同盟網に組み込んでいきました。50年に朝鮮戦争が勃発して、冷戦が熱戦になると、米国が猛反撃に移ります。当時、アジアで力の実体と言えるのは日本だけでした。朝鮮戦争も、日本が未だ武装解除している最中だから、日本の残存装備を利用して米国が勝てたのです。あまり知られていませんが、朝鮮半島の地理に詳しい旧軍人も協力しました。米国は、日本を早く再軍備して冷戦に協力させなくてはいけないと決心したわけです。
アメリカ外交には、自由主義が色濃く出ます。戦後、基本的には東南アジアの植民地の独立を支援する側に立っていました。インドネシアがオランダから独立する際にも、インドネシア側に立って介入しています。しかし、米国は、冷戦の文脈になると、宗主国側に立って積極介入してしまいます。ベトナムでは、第二次世界大戦後にホーチミンが独立を宣言しましたが、フランスがそれを認めなかった。米国は、冷戦の文脈でベトナムに介入して、大火傷することになりました。日本は、朝鮮戦争でもベトナム戦争でも、直接の被害を受けていません。アメリカは極東の軍事力を日本中心に前方展開したので、その抑止力で、私たちは平和にやってこられたんです。
実は、ベトナム戦争にはアメリカのアジアの同盟国は、日本を除いて全て参戦しています。
白鳥 韓国も軍を出していますからね。
恵まれていた冷戦期の日本
兼原 韓国に台湾、フィリピン、マレーシアも軍隊を出していたんです。けれども日本は行かなかった。ただし、朝鮮戦争のとき、まだ占領期で海上自衛隊がなかったので、海上保安庁所属の旧海軍人がたくさん機雷掃海に行って、一人殉職しています。
朝鮮半島は南北の分断が続きますが、韓国は漢江の奇跡と言われた経済成長を果たし、今では大国になりました。朝鮮半島が安定することは、明治以降、我々の悲願でもありました。このあたりは『歴史の教訓』で述べていますが、朝鮮半島を通じてロシアが南下してくることを日本はずっと脅威に感じていたんです。朝鮮戦争後、アメリカが韓国を強く繁栄する国として立ち上げたことで、日本の安全保障環境は大きく改善されました。
戦後の日本外交は、とても恵まれていたんですよ。安全保障政策として日本が何をやっていたのかと言えば、ソ連の軍事力を抑えるような力は自衛隊にはありませんから、軍事の大きいところは米国に任せて、むしろ国会論戦などで東側の宣伝に世論が引きずられないようにすることでした。要するに、ソ連が得意とする国内浸透工作が奏功して、日米同盟が内側から崩されていくことを止めるということです。国際冷戦への対応と言うよりは、国内冷戦対策ですね。外交と国内政治が結び付いて、国際政治がそのまま国内政治に持ち込まれていました。
戦争に負けた後であり、自衛隊はまだまだ弱く、日本経済は高度成長の前です。日本には、国際政治を動かす軍事力も経済力もありませんでした。敗戦国として、仕方がなかったと思います。ですから、戦後に米国がつくり上げた極東の安全保障の仕組みを守り、米国がつくり上げた自由貿易体制の果実を得ることが戦後の日本外交の目的となりました。端的に言えば、敗戦国日本は復興、復権に必死であり、外交的な能動性はゼロだったんです。
もちろん、極東ソ連軍の圧力はありました。面白いことに、冷戦中の日本人は、今の日本人が中国や北朝鮮に関して抱くような脅威を、ソ連(ロシア)に対して感じていなかった。それはおそらく、ソ連がヨーロッパの国であり、人口の内、ほぼ1億人は欧露部のほうにいて、極東部には冷戦時でさえ800万人くらいしかいなかった。今ではそれが600万人に減少している。極東ソ連軍は40万人いましたから、大きな脅威ではありましたが、実は、欧露部でNATO(北大西洋条約機構)がソ連軍の頭をしっかりと抑えている。北極海越しには、米国の核ミサイルがずらりとソ連を向いて並んでいる。ソ連が極東だけで戦端を開くとは考えにくい。冷戦中は、全体として見ると、実は対ソ軍事関係も安定していたと言えるでしょう。
戦後の日本外交を通史的にまとめていくと、私は20年ぐらいごとに重点が変化している側面があると思っています。1951年のサンフランシスコ講和、56年日ソ共同宣言、65年日韓基本条約、72年の沖縄返還と日中国交正常化くらいまではいわゆる戦後処理に関わる事案が外交の主要課題でした。講和で積み残された課題を一つひとつクリアしていった時期だったと見ています。御厨貴先生は、「一内閣一課題」と言っていましたが、こうした外交課題や国際機関への加盟などを並べていくと、外交史がほぼ語れてしまう時代が佐藤政権までは続いたと言えるのかなと。
兼原 その通りだと思いますね。当時、外務省では条約局がとても強かったんです。なぜかと言えば、主要国との国交正常化交渉を全て横並びで見ているからなんですよね。どの国とどんな問題があるのか、国交正常化の過程がすべて頭に入っているし、戦後日本外交全体の体系も見えている。国際関係は刻々と変わるから、状況が変わる度に外務省に新しい課題が降りてくるわけです。けれども、それは常に受動的なもので、日本外務省が冷戦下の世界を動かしているわけではない。1952年の独立から20年間の一連の外交トピックをざっと辿って見ると、それがよく理解できると思います。
サンフランシスコ講和は、冷戦の始まりの時期です。未だ朝鮮戦争中です。旧軍に警戒心の強かった外交官出身の吉田茂総理は、独立後も米軍の駐留を求める旧安保条約を作りましたが、これが日米同盟の原型ですからね。
白鳥 旧条約ですね。
兼原 ところが、ソ連にフルシチョフが登場して突然に「雪解け」が始まります。日本と西ドイツの国連加盟の話が出る。そうすると、日本国内では10年間も極寒のシベリアで強制労働させられていた60万人の抑留者を一刻も早く返せとなる。当時、すでに5、6万人が亡くなっていましたからね。こうして日ソ国交正常化への動きが始まる。このタイミングで親米路線の吉田政権が倒れたから、公職追放でアメリカ嫌いになった鳩山一郎総理が日ソ国交正常化を一気に推し進めた。
岸内閣は、少しでも日米関係を対等にしようと、日米安保条約の改定を実現しました。これは日本側の発意です。
60年代半ばになると、ベトナム戦争を戦っていたアメリカから、日韓関係を早く正常化して朝鮮戦争で疲弊した韓国の面倒をみるべしという話になる。日本は戦後復興を遂げて高度経済成長期に入っていました。朴正煕大統領と佐藤総理の間で日韓関係が正常化する。
ベトナム戦争で疲弊した米国はニクソン政権になると、中国との関係改善を模索します。キッシンジャー博士の暗躍が有名になりました。毛沢東のほうもフルシチョフと対立し、中国軍がダマンスキー島(珍宝島)でソ連軍に突っかかり、その後ソ連の軍事侵攻を恐れた中国は、ソ連の威圧に耐え切れなくなっていました。この機を利用してアメリカはソ連から中国を引き剥がしにかかり、米中が接近していきます。この時、田中角栄総理が一気呵成に日中国交正常化を果たします。これは田中総理のイニシアチブです。アメリカには「前に出過ぎだ」とかなり怒られました。
このように周辺大国の戦略的力関係の変化に合わせて、日本の外交方針は受動的に決まっていたんです。日本のほうからだけ見ると、日本が周辺国と順番に国交正常化を果たしていった感じがするけど、実際はそんなことはない。
経済大国化と外交の新展開
白鳥 まさにその通りだと思います。国際的な構図やパワーバランスの変化があって、その前提を踏まえて外交政策があったわけですね。それが1970年前後くらいからは外交課題が徐々に変わっていって、次の主要な外交課題になったのが国際経済秩序の形成への参画ではないかと考えています。もちろん全面的に能動的な外交が展開されたわけではありませんが、領域を限定するかたちで日本が一定程度の役割を果たし始めたのではないでしょうか。
国際社会を捉える体系として、「力・利益・価値」という見方があります。これは高坂正堯先生の言葉ですが、70年代の日本はこの中の利益に関しては世界の中で責任を果たそうとしていました。日本は「rising economic power(台頭する経済大国)」として、その役割をさまざまに模索し、検討していた時期なのではないかと思います。ドルショックへの対応では躓きましたが、石油危機後には74年の国際エネルギー機関(IEA)の設立やG7サミットへの参加などは、日本は大きな役割を果たしたのだと思います。
ところがそれが落ち着いてくると、今度は貿易摩擦や経済摩擦の解消にばかりに追われるようになっていきました。このことには、80年代の国際主義的な研究者や実務家たちもいろいろな不満を漏らしています。とは言え、当時のアメリカやイギリスの外交文書を読むと、日本に対してかなりの警戒が向けられていたことが窺えるんです。これはちょっと前の中国に対する警戒と同じようなものですね。日本が経済的な覇権を握るのではないかという脅威論が出てきている。それに対して日本は、自分たちはあくまで現状維持国であって、現状を打破しようという野望を持っているわけではないという説得を試みることで安心してもらおうとしていた印象があります。
兼原 日本は、60年代の段階で、英仏独の経済規模を抜いてしまっています。もともと日本は彼らの2倍の人口があるから、国民の所得水準が上がっていけば、英仏独を抜いていくのは当たり前です。ところが、日本人自身が、自分たちの大きさ、重さに気が付いていなかったんです。国力が急激に大きくなるときは、全体のバランスの中での自国の戦略的な大きさや、立ち位置がわからないものです。それが70年代の日本でした。今の韓国がそうですね。
この辺りは、自由貿易という競争をオリンピックに喩えるとわかりやすいかもしれません。日本が経済成長を遂げて、英仏独を抜いて銀メダルを獲り、無邪気に「次は金メダルだ!」なんて言っていても、トップを走っている米国からは覇権を求める野心に見え、権力闘争の開始だと取られるのです。そして、いつの間にかにルール自体が変えられてしまう。短距離走だと思っていたのが、「これはプロレスだ!」なんてことになる(笑)。
今アメリカが中国に対してやっていることもそういう面があります。80年代、日本は自分で気付かないうちに国際社会全体の勢力均衡を変えてしまうほどの大きさになっていました。だから貿易摩擦が起きる。あの頃アメリカの貿易赤字の約6割が日本でした。今、中国が米国の貿易赤字の約5割を占めるようになってトランプ大統領があれだけ中国に怒っているわけだから、アメリカが当時の日本を許してくれるはずがないんです。アメリカは「何かがおかしい。競争が公正ではない。日本市場は閉じられている」と言い出して、猛烈な日本バッシングが始まりました。
ただ、この時期から日本人の考え方が少しずつ変わっていったのだと思います。私は81年に外務省に入省しましたが、日本はまだ国際社会の中では「大人しくしていればよい」という感じでした。未だに敗戦国としての執行猶予期間が続いていたみたいなね。若い外交官でしたから、そういう空気に対しては「何だ、これは?」と感じるわけです。けれども日本が次第に自信を深めてくると、省内にも日本は主体的に世界の舞台で何かできるはずだという意識が出てくるんですよ。
このときに出てきた言葉が「普遍性」と「能動性」でした。小和田恆条約局長を中心に条約系の人たちが言い始めたんです。そろそろ冷戦も終わるから、いつまでも執行猶予の身分でいるのではなくて、我々の旗印である「自由と平等」を掲げて世界のなかで存在感を示そうじゃないかと。それで「国際貢献」という言葉が盛んに使われるようになりました。最近では手垢が付いてあまり使われないけど、当時は日本が国際社会に貢献するという考え方自体がすごく新鮮だったんです。日本も何かやれる。世界に貢献できるんだって。力が湧いてくる感じがありましたね。
白鳥 70年前後に外務大臣を務めた愛知揆一、福田赳夫、大平正芳などの発言を丹念に見ていくと、好むと好まざるを問わずに日本が何かをすると国際的に影響を持つ時代になったことを強調している場面が多くなりますね。そうした環境変化の中で何を打ち出すべきなのかが議論されるようになった時代でもある。それこそ能動的な姿勢を示すかたちになったのが1977年にマニラで表明された福田ドクトリンですね。ここでは東南アジア和平への関与が謳われました。ただ70年代、80年代には飛び石的に能動的なアプローチがありましたが、それがもう少し体系的になっていくのは冷戦終結期以降からというイメージです。
兼原 そうですね。70年代は政治主導がまだなかった時代でした。はっきり言えば、優秀な大蔵省主計局などの主要官庁出身の政治家が、官僚の延長で総理をやっていたような時代でしたね。吉田学校卒業生時代ですかね。あの頃の官僚はみんな頭がいいし、よく考えていましたよ。大平総理は、あの時代にすでに環太平洋連帯構想を打ち出していて、それが今日のTPPにつながっていくわけだから壮大な構想力なんだけど、それは大平さんが大蔵省出身の官僚だからできたのだと思う。まだ官僚の力がとても強かったですね。
この時代の国会は、イデオロギー色が強く、東西激突劇場みたいなことばかりやっていました。メディアも80年代に読売新聞と日本テレビが中道に舵を切るまでは、産経新聞以外はすべてが朝日新聞と同じような論調でした。産経VSオール朝日みたいな感じでね。ニュースはメディアから一方的に供給されるもので、国民から求められるものを流すという感じではなかった。そういう意味では、冷戦時代、日本の政治は、国民不在だったんです。
新冷戦から冷戦の終結へ
白鳥 冷戦終結期を振り返って不幸だったと思うのは、世界の紛争解決にも積極的に人的な貢献をすることを打ち出した1988年の竹下内閣の国際協力構想ですね。かなり入念に準備しましたが、竹下内閣自体が潰れてしまった。その後の宇野宗佑さんや海部俊樹さんも国際協力構想を口にはしましたが、自分の政権の目玉として自らが打ち出した政策ではありませんから尻すぼみになってしまった。やはり継続的にやっていかないと、熱を帯びてくるモメンタムは生まれない。そういう意味でも長期政権は重要だなと思います。
兼原 日本政権の平均寿命は1年10カ月でしたからね。ないものねだりでしたね。
白鳥 この冷戦終結の足音が近づいてきた時期を今振り返って、思うことをお聞かせいだけますか。
兼原 私が外務省に入省した頃総理をしておられた中曽根康弘総理の登場が新鮮でしたね。中曽根総理は「日本は西側陣営の一員である」と公言しました。今から思えば、それは当たり前なのだけど、ちょっと前の時代までは「同盟」や「戦略」という言葉を使うこと自体が「軍国主義だ」と批判されたんです。
白鳥 鈴木善幸政権のときには、たいへん批判を浴びることになりましたね。
兼原 外務大臣だった伊東正義氏が、「日米同盟には軍事的な側面もある」と鈴木総理に反論して辞任したこともあったし、外務次官の高島益郎氏が辞表を出したこともありました。片言隻句の揚げ足取りで、直ちに政局になっていたイデオロギー論争の時代です。ただし実際に外務省でやっていたことは、ロン・ヤス関係を利用した同盟強化というより、貿易摩擦への対応でした。軍事、安全保障については、国会等の公の場ではほとんど実質的な議論がなされていません。自衛隊はソ連軍の重圧を前にたいへんな苦労をしていましたが、国会や新聞の議論はイデオロギー対決一色で、安保の中身の話はしないというのが時代の雰囲気でした。
外交には三つの道具があって、早い話が私の表現で言えば、「力と金と言葉」なんですが、先ほどの高坂先生と意味合いは一緒です。国家はこの三拍子が揃わないと、国際社会ではレギュラーにはなれないんです。けれども、ソ連のアフガン侵攻後の新冷戦期に入ってからでさえも、日本外交は経済摩擦対応に追われていました。状況が変わったのは、やはりソ連が倒れて唐突に冷戦が終結することになった以降のことですね。それまで安全保障の実質的な話は、公に議論できるような雰囲気ではありませんでした。安保を議論すること自体が悪という雰囲気でしたからね。実際、朝鮮有事を研究したというだけで、統幕長がクビになったりしたこともありました。
当時の我々が一番心配したのは、ソ連という共通の敵がいなくなったことで、アメリカの日米同盟への関心が薄くなっていくことでした。冷戦後、米国は何十万も軍人の数を減らしています。国防費も大幅にカットして、米国防衛産業も強力に再編が行われました。そこで、外務省に「経済大国になって、このまま日米安保にタダ乗りしていると、きっと米国に捨てられる」という危機意識が出てきて、同盟国としての責任をもっと担おうという意識が出てきたんです。海上自衛隊も同じ雰囲気でしたね。
80年代後半、90年代前半は、バブル経済のおかげで予算は潤沢にありましたから、東南アジアへの経済支援、東欧への民主化支援をはじめとして、お金を使った外交は派手にやりました。冷戦後の東欧諸国の発展と民主化を支えるというのは、外交政策としては新しい動きでしたね。
湾岸戦争の衝撃
白鳥 冷戦終結後、東欧には積極的に関与していますね。
兼原 冷戦中、東欧は先進国扱いとされていたから、ODA(政府開発援助)対象国のなかに入れる発想はなかったんですが、日本は東欧の民主化が始まると間髪入れずに支援を決めました。実は、西欧諸国は、いつソ連の赤軍やロシア軍が東欧の民主化潰しに出てくるかわからないと恐れていましたから、あまり動かなかったけれど、日本は突出して東欧諸国を支援したんです。東欧諸国は、日本は自分たちが一番辛いときに助けてくれたと、ずっと感謝していました。その後、EU(欧州連合)に加盟して成長したから、最近は少し忘れているみたいだけど(笑)。
冷戦終結期を振り返ったときに、一番のショックはやはり1991年の湾岸戦争です。アメリカは一国だけでは戦争しない国でしてね。どんなに小さな国に対しても友好国に呼びかけて連合軍をつくるんです。「旗を持ってこい」と号令を掛けて、連合国の旗をずらりと揃える。米軍は圧倒的に強いので、他国の軍事的な貢献よりも、世界の国々を糾合しているという「強い絵」が大事なんです。けれども、日本は参戦しなかった。当然、アメリカからすれば「どこの誰が一番湾岸の石油を買っているんだ」という話になります。米軍は、石油危機の後、中東全域を担当する中央軍を創設しましたが、中央軍の目的は、米国及び同盟国に対するエネルギーの安定供給確保です。だから、湾岸戦争では、米国は、日本のために戦ったとも言えます。
湾岸戦争の際に、外務省は自衛隊に後方支援をやってもらおうと考えて、特別措置法を国会に出しました。けれども突然の議論ですから、公明党はもとより、自民党のなかも全然収まらない。自衛隊を出そうものなら「直ちに、アメリカの戦争に巻き込まれる」という反対意見が根強くありました。野党は一気に政局に持ち込もうとして攻めてくる。55年体制下のイデオロギー激突劇場が久々に復活しました。結局、この湾岸戦争のときに十分な国際貢献ができなかったことは、外務省内では大きな反省課題となったんです。
白鳥 外務省内も一枚岩ではなく、国民もまだ現実的な議論をするまで成熟していなかった印象です。次のトピックが、PKO協力法ですね。これもずいぶん揉めました。
兼原 湾岸では存在感を示すことができなかったから、せめてPKOには協力したかったんです。元々PKOはカナダ、スウェーデンなどが提案した停戦監視が主な役割でしたから、我々からすれば「それすらできないのか」という気持ちでいたんです。
白鳥 PKOはミドルパワーによる国際貢献のあり方ですからね。
兼原 公明党の協力を得て、PKO協力法は何とか通りましたが、やはり国民の意識が変わってきたことが背景にありました。絶対的な平和主義に対する批判が始まって、現実的な平和主義でなければならないという話になってきました。この頃から「一国平和主義」という批判が聞こえてきました。平和を維持するためにも、日米同盟の強化が必要であるという現実的な考え方が出てくる。湾岸戦争のときには、ここまで議論が成熟していなかった。
白鳥 世論調査を丹念に見ていると面白いのがPKO協力法案の段階では反対の声が非常に強かったのが、半年後の掃海艇を派遣する段階になると賛成のほうが増えていることです。
兼原 やはり1年くらいは喧々諤々と議論をやり続けないと国民の理解は広まりません。安全保障の世界は、政治家が議論を起こさない限り大きなことは動きません。「やはりこれはやらなきゃ」という議論を繰り返している内に、世論の上で味方が集まってくる。冷戦期間中は、そうした実りのある議論はできなかった。けれども冷戦が終結すると、成熟した国民の声が前に出てくる。国民からも「そのくらいの国際貢献をするべきだ」という声が出始めたのが90年代でした。ようやく世論の波が高くなってきた。政治家はこの波に乗らないと力が出せません。政治家が波に乗るのを待たず、官僚が先走ってもうまくいくことはないんです。
白鳥 90年代には、小沢一郎さんの憲法を改正して「普通の国」をめざすべきであるという主張が注目を集めました。小沢さんの『日本改造計画』にはいろいろな研究者が執筆に協力していますが、外務官僚にも関わった方がいるとされています。小沢さんの主張は、外務省内でもインパクトがあったのでしょうか?
兼原 私の印象では小沢さんは政局の人です。彼が日本の政治を大きく変えた人であることはまちがいない。ただ、安全保障政策よりも二大政党制を本気で考えた人なのだと思います。自民党を割ってでも、それを実現すべきだと。冷戦の終結と共に自民党を飛び出した改革派と社会党から飛び出した人たちをムリやり合同させた。本来は絶対に結び付かない人たちのはずなんだけど。民主党政権誕生も同じ力学です。でもその民主党も壊れた。
小沢氏は自分の剛腕で政局をやれた最後の人ですね。おそらく本当に政局が好きだったのだと思います。だから政策は道具なんです。安全保障に関して言えば、どこに政策の線を引けば誰が付いてくるのかと考える。集団的自衛権を自民党に担がせて、そこで保守が終結してはどうかとか。あるいは逆に、左にウィングを伸ばすときには国連中心主義だと言い出しました。政局次第で政策の軸が変わった印象です。
朝鮮半島危機の影響
白鳥 90年代には朝鮮半島危機もありました。国内では主要テーマになりませんでしたが、緊迫が走った。
兼原 90年代の最大の事件は、北朝鮮の核危機でした。ところが、日本の新聞は宮澤政権崩壊にしか関心が向かず、あまり報道されませんでした。日本の新聞の政治部は政局一筋だったから(笑)。外務省内では、「これは本当に戦争が始まるんじゃないか」と緊張が走っていました。北朝鮮は核兵器を作っているのではないかという疑惑が出始めたんです。北東アジアでは、中国が核を持った後、朝鮮半島で南北双方が核兵器の開発に乗り出そうとした。けれども韓国はアメリカに見つかって止めさせられます。
白鳥 韓国と台湾がセットで止められた。
兼原 それでも、韓国は10年くらいは頑張っていたみたいです。最後は締め上げられて、諦めることになりました。だけど、中国は北朝鮮の核兵器開発を続けさせてしまった。もちろんアメリカは中国に止めさせるよう要求したはずですが止めなかった。中国からすれば、「北朝鮮が止めなかった」と言うんでしょうが、本気になったらやめられたはずです。結局、中国は、北朝鮮が核を放棄して西側から巨額の援助を受け入れるよりは、北朝鮮に核兵器でアメリカを挑発させ、中国の衛星国家に留めておく方が戦略的に得策だと判断したのではないか。中国は、北朝鮮は余り怖くないから。
この時はクリントン政権でしたが、国防長官のウィリアム・J・ペリー氏は北朝鮮を爆撃すべきだと本気で考えていたようです。『ウォール・ストリートジャーナル』には実名を出して、「日本にアメリカの核を共同使用させるべし」という趣旨の記事まで出した。当時の緊張感は相当なもので、それが下地になって周辺事態法につながっていくわけです。
白鳥 96年の日米安全保障共同宣言を経て、議論が本格化していくわけですね。
兼原 朝鮮半島はすぐ横ですからね。朝鮮戦争以降、日本はずっと朝鮮半島の安全保障を米軍に頼り切っていましたが、いざ隣の朝鮮半島で危機が起きようかという段階になると、流石の米国も「何もしてくれないのか」と怒るわけです。戦後の日本の安全保障の生命線は日米同盟ですから、ここが揺らぐわけにはいかない。そこで日米の役割分担を見直すことになりました。小渕恵三総理には相当な無理をお願いして、周辺事態法を成立させてもらいました。周辺事態における自衛隊の対米軍後方支援が可能になりました。小渕総理の残された大きな業績です。
「自由と繁栄の弧」と「自由で開かれたインド太平洋」
白鳥 少し時代が空きますが、第一次安倍政権で兼原さんが総合外交政策局総務課長の時に「自由と繁栄の弧」という外交構想を打ち出されます。「価値観外交」という言葉もこの時期から盛んに使われるようになりました。この構想は第二次安倍政権でも、核となる部分は引き継がれていたと思います。どういった経緯で打ち出された考え方だったのでしょうか?
兼原 「自由と繁栄の弧」構想は、実はとても大雑把な議論から出てきたんです。発端は、麻生太郎外務大臣のためのスピーチを考案していた場面でした。谷内正太郎次官から、ユーラシア大陸を指でグルッと囲んで、「何かできないか」と言われました。それがこの構想の始まりなんです(笑)。
白鳥 ずいぶんシンプルなんですね。
兼原 大戦略はシンプルです。21世紀に入ると、日本の国力が上がり、国民も安全保障に関心を持つようになりました。高坂さんの「力・利益・価値」で言えば、価値の部分を掲げようという発想にも理解を示すようになってきた。ODAはもう十分に出していたから、我々も少しは前を向いて胸を張ろうじゃないかと。それで日本も自由と平等、法の支配といった普遍的な価値観を正面から掲げようという話になった。
戦後しばらくの間、アジアは独裁国家ばかりだったんですよね。日本からすれば友達がいなかった。だからアジアの自由主義圏を支援するような外交をやりました。成功体験になったのは東欧への支援でした。東欧諸国には、日本は冷戦後、大規模な支援をしますが、その後、民主化が進んで、皆、NATOやEUに加盟していきました。同じように80年代後半から開発独裁を脱して次々と民主化した韓国、台湾、ASEAN(東南アジア諸国連合)の国々と一緒に、自由と民主主義のアジアをつくるべきだと考えたんです。中東はちょっと特殊ですが、東欧、インド、ASEAN、台湾、韓国を含めたユーラシア大陸の外縁の海浜部に沿った一帯に巨大な自由圏をつくりあげようという構想でした。
日本外交は、敗戦国外交ですから、価値観の部分がずっと抜け落ちてきたんです。しかも冷戦中は国内が分断された。しかし、自分自身の旗をきちんと上げないと、国際的には政治力を発揮できません。軍事と経済は所詮外交の道具ですが、政治は意思と信念だから、寄って立つ価値がはっきりしなければ相手にされません。自由や民主主義といった価値観は、信じるに足る価値がある。そのメッセージ力は、パワフルです。
白鳥 第二次安倍政権では「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」構想が打ち出されています。これは「自由と繁栄の弧」の延長にあたるものと見ていいのですか?
兼原 やっていることは同じですからね。自由と繁栄の弧よりも広く、地球儀全体を俯瞰する感じになりました。
安倍総理はポスト冷戦時代の総理ですから、今までの総理とは意識が違います。私たちの世代の総理なんです。堂々と新しい日本の価値観を国民の前に出すことができる。靖国参拝にしても「国のために死んだ英霊に罪があるのか」と言えるし、同時に、「女性が輝く社会」を掲げることもできる。安倍総理は、新しい時代の大戦略を唱えるに相応しい新しいタイプの指導者です。
FOIPの焦点の一つは当然インドですが、今から立ち上がるところです。未だに3分の1の家庭に電気が通っていません。80年代の中国みたいなものです。でも工業化が軌道に乗ると早いですよ。インドも超大国化すると傲慢になると思う。それでも、これからインドとしっかりとした協調関係を構築することが大事です。21世紀の超大国は、米印中でしょう。民主主義国家である日印米の枠組みは重要で、豪州も重要になる。できれば、イギリスやフランスにも付き合ってもらうのが望ましい。
それに加えて、ASEAN諸国との結び付きを深めることです。今のASEANはバラバラです。フィリピン、ベトナムは中国にいじめられていますから、中国が嫌いです。だけど、タイやインドネシアは中国と物理的に距離があるから「中国と事を構えたくない」という感じになる。特にインドネシアは南半球で、あまり危機感はないと思う。ユドヨノ大統領はASEANのリーダーでしたが、ジョコ・ウィドド大統領は自国の経済発展を優先しています。ただ、どこも中国を怖がっていることは間違いないんです。ASEAN諸国はメンタリティが60年代の日本と一緒で、自分に重さがあるとは思っていないから「大国間の闘争に巻き込まないで」という気持ちが先立ってしまう。けれども、彼らも、もう十分大きな存在になっています。日本は、彼らに自分たちの重みと責任を自覚して、自由主義的な国際秩序を選ぶことを説得していく必要がある。
それから、文在寅大統領の韓国がイデオロギー的に非常に左に寄ってしまっていることも気になります。この国は、国内冷戦が続いており、左右の分裂が激しいけれど、これ以上左に行ったら危険です。昔の日本社会党のように、北朝鮮との融和を無批判に肯定してしまう。
白鳥 韓国の場合、日本社会党と違うのはそれでいて軍拡は進めていく特徴がありますよね。
兼原 臨戦態勢の分断国家だからです。韓国は60万人規模の軍隊がありますから。アジア随一の武器輸出国です。ペンタゴンから見てもすでに大きな駒になっています。
白鳥 軍事費も増え続けていて、日本の軍事予算に迫ろうかという勢いですね。今では1兆円くらいの差になっています。
兼原 韓国の軍事予算のGDP比は高い。ただコロナ危機の影響も出てくるから、この先は増やしていくことは難しいでしょう。日本も財政が逼迫しているから、今は5兆数千億円だけどなかなか6兆円には到達しないでしょうね。GNP2%だと10兆円なんですが…。
国家安全保障会議設置の意義
白鳥 第二次安倍政権が発足して誕生した国家安全保障会議(NSC)とその事務局となる国家安全保障局(NSS)の設置には、兼原さんは中心人物として関わっています。その経緯について、お話できる範囲でお聞かせいただけますか。
兼原 官邸強化は中曽根総理から始まって、橋本龍太郎総理が真剣に構想していました。その意志を継いだのが、石原信雄氏(自治省)、古川貞二郎氏(厚生省)、杉田和博氏(警視庁)などの内務省系の歴代内閣官房副長官で、彼らが内閣を制度的に強化していきました。冷戦後の政治主導強化の流れと歩調を合わせて内閣制度が強化されています。一つの契機になったのが1995年の阪神・淡路大震災でした。このときに初動が遅れたことで、村山政権が厳しく批判されました。それで、危機系が重視されるようになった。特に内閣官房の危機管理監以下のチームが、防災を中心にどんどん強化されていきました。地震・洪水防災対策では、世界最強でしょう。けれども安全保障をやるのであれば、外交と軍事を総合する部署が別途要るのです。それがNSCです。
NSCは、第一次安倍政権の時に総理から突然に打ち出されたんです。各省庁はと言えば、消極的でした。私は総務課長で法案を書く準備を進めていましたが、安倍総理が病気で倒れて退かれたため、実現にいたらなかった。
NSCが実現するのは、第二次安倍政権のときです。この時、私はたまたま内閣官房副長官補でしたから、再びNSC設立に関わることになりました。危機管理と政策立案はまったく違います。最大の危機管理は戦争です。政策はplanning(立案)とimplementation(履行)の組合せですが、危機管理はexecution of plan(計画の執行)だけです。考えている時間などありません。どんどん犠牲者が出ます。危機管理では、何十万人という規模で色々な組織を使うことになります。自衛隊は25万人、警官30万人、消防は民間も合わせると100万人、海上保安官が1万3000人です。全体を指揮する人がいなければ、バラバラに勝手に動くことになってしまう。危機の際には、分単位の判断が求められるから、日頃の練習と計画がすべてなんですよ。
有事の際に軍隊を動かすことになれば、その指揮権は明確に決まっています。総理、防衛大臣、統合幕僚長のラインです。しかし、軍事と外交との調整が必要ですし、また、予算の手当てや、エネルギー、交通機関、電波などの面で自衛隊の後方支援が必要です。政府内の調整は官房長官の仕事です。
私が一番心配だったのは、戦前で言うところの統帥権と国務、今の自衛隊の指揮権と政府全般業務の調整が有事の本番でできるのかということでした。自衛隊の最高指揮官と内閣の主催者の両方を総理が兼ねるわけですが、総理一人にすべての細かな調整を委ねるわけにはいきません。常日頃、少なくとも、総理、官房長官、外務大臣、防衛大臣の4大臣はしょっちゅう顔を合わせて、意見を擦り合わせなければならない。NSCの司令塔になっているのが、この4大臣会合です。有事の際にもここで大きな判断を下すことになります。防衛出動が下令されれば、自衛隊は猛烈なスピードで一気呵成に動きます。政府がオタオタしていれば、戦時中の最高戦争指導会議や大本営政府連絡会議と同じになってしまう。戦時中は、重臣が集まって小田原評定をしている間に、陸海軍がバラバラに勝手に動いていた。こんな最悪の失敗を繰り返してはならないというのが私の問題意識でした。
この国はね、とにかく現場が強い。現場の責任感が強い。能力も高い。貰っている給料の5倍も働いて、徹夜して頑張る。だから、上の人は「任せるぞ」と言ってしまうことが多い。でもね、有事の際にはそういうわけにはいきません。最高指導者の総理が、すべてを総覧して、大局的、戦略的判断を求められる。私は、第一次安倍政権の時から、NSCは不可欠の組織だとずっと思っていました。
政治主導の行方
白鳥 官邸という場ではありますが、NSCとNSSができて自衛隊の制服組と外務官僚との接点は増えたのでしょうか?
兼原 増えましたね。風通しが本当に良くなった。判断も速くなりました。NSSには自衛隊から13名がきました。自衛官のトップは上から3番目のポストの内閣官房審議官です。防衛省や外務省からも多くの人間がきています。そうするとね、もう縦割りや秘密がなくなるんですよ。NSSでは隠し事がない。外務省と防衛省の関係も急激によくなったと思う。
白鳥 政治主導との関連では、小泉内閣のときには経済諮問会議が改革の司令塔になって動いていました。ただし、小泉政権時代も担当大臣が与謝野馨さんに代わったあたりから動きも変わっていった。それ以降の政権は経済財政諮問会議をうまく使えていない印象があります。
兼原 官僚化してしまったんだよね。
白鳥 機構や組織をつくっても、その後にそれがどう動いて行くのかは見通せないところがありますね。ポスト安倍政権もNSCをうまく使っていくための課題はどのあたりにあるとお考えでしょうか。
兼原 一連の政治主導、官邸強化の結果、喩えて言えば、各省主権国家体制から内閣ホールディングス体制に変わってきています。次官会議も子会社の社長会議のようになった感がある。それから民主党解党後、野党が弱くなり、安倍政権が長期政権化したことも大きい。今後もNSCが機能するかどうかは、やはり政権が長期に安定するかどうかに掛かってくる。総理は3、4年やらなければ、役人は言うことを聞きませんよ。だって就任した瞬間は前政権の予算をやっているんだし、自分が編成した予算が執行されるのは3年目ですからね。
今の政権は、安倍総理も麻生副総理も総理経験者が多いから、首相官邸の使い方を熟知しておられます。菅官房長官も梶山、野中官房長官以上に強力です。秘書官も総理官邸が2回目の人が多かった。だから、いきなりギアをトップに入れることができた。あのスピード感があったから、官邸の立ち上がりが早かった。
今、NSCの組織は整ったし、誰が後を継いでも大丈夫でしょう。ただし、結局は車と一緒ですよ。よく整備されたポルシェだったとしてもね…。
白鳥 結局はドライバー次第ということですね。
兼原 そう。走り方も違うしね。
「世代交代」と世論
白鳥 敗戦から現在に至るまで日本外交を見てきましたが、自分が外交を勉強し始めた頃から比較すると、国民の間では現実主義的な議論が根付きつつある感覚を持っています。けれども、いわゆる論壇では今の世界の大きな変化が吹っ飛んでしまっていて、冷戦期と同じ構図の議論のままという印象があります。
兼原 21世紀に入ってからは、議論の自由度が増していると思います。冷戦終了以前からも共産主義社会のひどい実態が明るみになっていました。ところが、日本では、国会でも論壇でも、未だに冷戦期を引きずった化石のような議論に出くわすことがある。結局これはアイデンティティー論争なんでしょうね。世代によって、考え方が固定化されてしまっている。
私はよく日本を4世代の一族に喩えるんです。1代目のひいお爺ちゃんは、帝国軍人だった。2代目のお爺ちゃんは、弁護士になって労働組合に入り左翼の活動家になった。ひいお爺ちゃんとお爺ちゃんは、ものすごく仲が悪い。互いの人生を否定している。
3代目は我々ポスト冷戦組です。もの心が付くころには高度経済成長中で、社会に出てしばらくして冷戦が終わりました。ベタのアメリカン・リベラルで、個人主義がとても強く、全体主義的なイデオロギーには拒否感がある。4代目はミレニアル世代です。彼らはオープンだし、現実主義ですよね。
白鳥 もの心ついたときからPKOを海外に出していましたからね。
兼原 彼らの方向性がこの国のアイデンティティを決めることになるのだと思います。日本という国は未だに戦後の分裂を引きずっていて、アイデンティティが固まっていない。ミレニアルの4代目は、「この家を継ぐのは大変だ」と感じているでしょうね(笑)。
白鳥 確かに、世代的な問題として見ると若くなるにつれてしっかりとした政策論争が次第にできるようになっていく気はしますね。
兼原 2代目の左翼の人たちの問題は、日本しか批判しないことです。世界史の中で日本が客観的にどう評価されるべきかという視点がない。戦後の戦勝国の考え方がベースですから、非武装の理想に忠実で、また、植民地主義も人種差別も批判できなかった。また、東側陣営に軸足を置いた人は、共産党独裁や弾圧も批判できなかった。先行する世代の日本人だけを一方的に批判していました。冷戦が終わるころから、「余りに自虐的だ」と批判され始めましたが、最近は、「反日的だ」とさえ言われるようになりました。
日本のメディアも、購読者を囲い込んでその傾向に合わせて記事を書くから、世論も分極化する。しかも、新しい世代の読者を取り込めていないと、生き残るために古い世代に合わせるしかないから、余計に論調が固くなる。
白鳥 なんとかそういう状況を少しずつ変えられないかと思いますよね。
兼原 心配しなくても自然に世代は代わっていきます。10年も経てば、日本は確実にガラリと変わりますよ。
国際秩序を構想する
白鳥 最後にこれからの日本が歩むべき道、めざすべき国際秩序構想についてお伺いします。
兼原 星座と同じで、国と国との関係は不変に見えますが、日々刻々と変化しています。10年も経てば、力関係もガラリと変わります。残念ながら、日本はかつてのイギリスやフランスと同じようにピーク・アウトすることになる。いま勢いのある中国もどこかの地点でインドに追い越されるかたちでピーク・アウトすると思います。それまでは、中国はアジアで覇権国家のように振る舞うでしょうから、周辺国にとっては厄介な存在であり続けます。この間をどうやって安定的に過ごすのか。それが日本の大戦略になる。先ほどのFOIPはまさにここを念頭に置いた構想になります。
最大のポイントは、中国の経済規模は日米欧の西側全体には追いつけないということです。日米同盟の規模にも追いつかないでしょう。アメリカは簡単にピーク・アウトしません。今でも年間100万人の移民が入っていて、未開発の広大な国土がある。伝統がないから、科学技術によって社会が激変することがあってもそれを受け入れます。
中国問題はアジアの覇権問題であって、地球的規模の覇権問題にはなりません。私は日米同盟の軍事力をベースに、アジアの安定はマネージできると思っています。中国は孫子の国ですから、虚を突くのが得意です。しかし、日本やロシアのような武門の国ではありませんから、きちんと構えている相手に無謀に斬りかかることはやらないでしょう。
空しい願いかもしれませんが、コロナ危機で、世界経済が一時的であれ下降局面に入ることで、中国が今の強硬路線を見直すきっかけになって欲しいと期待しています。中国経済は新常態に入ってから6・5%成長と言っていますが嘘でしょう。実質的には4%あるかどうか。それでもまだ毎年1千万人の子どもが産まれています──ちなみに日本は95万人──からその子どもたちに仕事を与えるためにも、経済を重視しなくてはならない。経済の調子が悪いときのほうが、国際派が発言できる。調子がいいと、逆に左派の愛国主義が強く出て、習近平のように対外的に強硬な姿勢を打ち出そうとしますよね。
いくら中国にお金があっても、あの独裁的なやり方を押し付けようとしたら、どこの国でも拒否しますよ。アジアには80年代後半になるまで、本当の意味での自由圏はありませんでしたが、その後、民主化を達成した国々は自分たちの民主主義をとても誇りに思っています。中国の指導下で独裁に戻ろうなんて考えるはずがない。
中国は今、香港で「自由の圧殺」と批判を浴びているけれど、習近平からすれば何で反発するんだと怪訝に思っているでしょう。彼からすれば、アヘン戦争で奪われた島を取り返して何が悪いんだ、と本気で考えているに違いありません。中国は、鄧小平の時代に、改革開放で共産主義思想が立ち枯れるのを覚悟して、愛国主義と経済成長を共産党の正統性の根拠に据えました。盧溝橋記念館とか南京記念館が建つのは、鄧小平以降です。アヘン戦争の記念館や、アロー号事件の記念館もちゃんとありますよ。しかし、歴史教育や愛国教育も、やりすぎると毒になります。習近平は、欧米に留学していないせいもあると思うけど、ちょっとゴリゴリやりすぎですね。残念ながら、しばらく中国は悪いほうに進むだろうと見ています。
いまトランプ大統領は、激しく中国を叩いています。米中のデカップリングが叫ばれて、最先端技術から中国を引き剥がすというようなことをやっている。やっていること自体は間違っていないと思うけれど、やり方がとても乱暴ですよね。同盟国との調整がなければ、上手くいきません。逆に、中国の対外強硬派が益々猛り狂って団結してしまいます。今の西側には、国際協調派のリーダーが求められている。11月の米国大統領選挙の帰趨がとても気になりますね(笑)。 (終)