アートと社会に架けた橋 現代に向き合い創造したオルタナティブな文化【小池一子】

B!

『公研』2025年10月号 第668回 「私の生き方」


クリエイティブ・ディレクター
小池一子


こいけ かずこ:1936年東京都生まれ。早稲田大学文学部卒業。60年代後半からファッション・デザインを中心とする執筆、編集の仕事を展開。70年代より西武セゾングループのコピーライティングを多数手掛け、西武美術館設立後はアソシエイト・キュレーターとして携わる。75年の「現代衣服の源流展」以降、多数の展覧会を企画・ディレクション。80年の「無印良品」創業に携わり以来アドバイザリーボードを務める。83年に佐賀町エキジビット・スペースを創設・主宰し、多くの現代美術家を国内外に紹介(~2000年)。この活動は「佐賀町アーカイブ」に引き継がれている。2022年には初の個展となる「オルタナティブ! 小池一子展 アートとデザインのやわらかな運動」(3331 Arts Chiyoda)を開催。著書に『イッセイさんはどこから来たの? 三宅一生の人と仕事』(HeHe)、『美術/中間子 小池一子の現場』(平凡社)。訳書にジュディ・シカゴ『花持つ女』(パルコ出版局)、ピーター・アダム『アイリーン・グレイ──建築家・デザイナー(新版)』(みすず書房)ほか多数。武蔵野美術大学名誉教授。令和4年文化功労者。令和6年旭日中綬章受章。


 

高度経済成長の経験が生んだ無印良品

──先日、無印良品の広告写真を手がけている写真家・上田義彦さんの展覧会に伺いました。「美しいから撮るのではなく、地球の本当の姿を見たいから」──この欲求が撮影の衝動になるということでした。無印ユーザーとして、その思いが無印良品の姿勢とも重なるように感じました。

小池 それは、無印良品の産みの親の一人としても、上田さんにお礼申し上げねばです。

──「無印良品」は国内だけでなく、海外の方々にも広く支持されています。プロデュースされたお立場として、これは人のどういった欲求にあったのだと思いますか?

小池 そうね。やっぱり、どんな人の心にもある「より良く生きたい」っていう欲望みたいなものが、民族とか国籍とか関係なく存在するのだと思うんですよね。だから、無印で発信してきたのは、地球の環境の中で少しでもより良い生活ができる最低限のものを整える。そういう考えでやってきました。それが1970年代の終わり、79年のことです。

 無印の生まれたきっかけは、それまでに日本が経験したいろんなことが背景にありました。高度経済成長に託けた当時の産業は、豊さを謳いながらも大量生産・大量消費で大切なものを見えづらくしていたような危うい時代だったと思います。経済の上昇ばかりで、本当の豊かさが見えなくなっていた中で、アートディレクターの田中一光さん(グラフィックデザイナー・代表作に東京五輪ピクトグラム、無印良品・ロフトのロゴなど)を中心に、ビジネスの世界から堤清二さん(セゾングループ創業者)が集って「日本のモノの美しさとは何だろう?」って衣食住のライフスタイルの原点に立ち返ることをよく話し合ってたんですよね。それは、私に言わせれば、ビジネスとクリエイティブのメンバーとの、本当に幸せな出会いだったと思います。

 元々、スーパーマーケット西友(セゾングループ)の広告を田中さんと私が組んで制作していたこともありましたが、我々が理想とする衣服のあり方とは違うような思いがありました。堤さんも好調な流通ビジネスの一方で、真の豊さに疑問を持っていた頃でしたから。

 欧米ブランドのカタカナのロゴをつけるだけで価値が上がるような市場への疑問もある中から生まれてきた発想なんですね。だからノーブランド「無印」で良質の良いもの、「良品」になっていきました。

──真の豊かなものとは何かを見つめ直すことが、あのシンプルなデザインに込められていると。

小池 そういう共感を持っていただくっていうことが、無印が生き続けている原因だといいなと思っています。だからどの国の人たちにも、そういう思いがあるっていうことが、普遍的な何かを持っているのかな。そういう「より良く生きたいって思う気持ち」ですよね。

束の間の平和を感じた昭和の幼少期

──消費者がモノの本質を見る時代になりましたが、小池さんはすでに50年前からその視点を提唱されていました。そうした感覚をお持ちの小池さんは、どのような幼少期をすごされたのでしょうか。

小池 両親は、昭和の典型的な若い夫婦でした。五人姉妹で上は全部姉たち、私は4番目の子供なんですよね。

 父の矢川徳光は、大学の教師をしてたんですけど、その頃の大学の先生って結構給与が良かったのかしら。お手伝いさんが二人くらいいて、私たちが育ったのは世田区新町の同潤会の住宅でした。同潤会で有名なのはアパートですが、私たちが住んでいたのは住宅群、父が目をつけたんです。私はとっても、空間とか建築が好きなんだけれど、その同潤会住宅のプランのマニフェストを見ると、百坪以上の敷地に庭にはこれくらい木があったほうがいいとか、住まう環境についてよく考えられていて、素晴らしい理念で建てられたと思いますね。半官半民のディベロッパーだったのかな。

 住宅群だったから周りに同じように若いファミリーの集団がいて、同じ歳のお友達も多くいました。「向こう三軒両隣」と言いますけれど、お互いの家族構成もよくわかっていて、お母さんたちの会話も弾んだと思います。

 私たちは綺麗に整備された住宅と道端で、よくままごとをしていました。ままごとが好きっていうのはリアルな生活の楽しみをちょっと再現することよね。だから、お父さん役の子供とかお母さん役の子供とかいるでしょ。そういうのもみんなロールプレイするんだけど、メンバー全ての家族が自分にとって温かくいてくれる存在だったんじゃないかなと思います。このごろ、おままごととか子供の遊びにあらためて興味が湧いています。

 そういう昭和の束の間の平和よね。ちょうど少しリベラルな時代の動きもあった時でした。

──ご両親はどんな教育をされていたんですか?

小池 女の子ばっかりなんですけど、それを父は楽しんでいたみたいです。女の子だからこういうことしちゃいけない、とかは一切ありませんでしたね。勉強も、やりたいことも、全てニコニコ見守ってくれてました。ただね、私の記憶ではすごく作文をやらせるんですよ。だから、しょっちゅう書かされてましたね。書いたものはちゃんと読んでくれて、「このほうがいいね」とか添削してくれました。

 あとね、文庫本にもすべて漢字にルビ打ってくれるのよ。その頃はもう岩波文庫もあって、すごく細かく書いてありましたね。一冊でも残ってたらいいのにと思うんだけど……。ヨーロッパのものでも、ちょっと難しいかなと思うものも、いろいろ読ませたかったらしくて全てルビ付きでした。父は、大学で英文学を教えたり、ロシア語を独学で学んでソビエト教育の紹介などしてたんですよね。

──どういった作品を読まれていましたか。

小池 例えば、エドモンド・デ・アミーチス作の『母をたずねて三千里』、少年が独りで母を訪ねていく物語ですね。それも強烈に読み込みましたね。あと宮沢賢治の全集はもう全部ありました。だから、父は結構、ウェットな文学愛好家だったのかもしれないわね。

 それからね、その頃の遊びで紙芝居をつくっていたんですが、姉たちは絵を描き、私はお話をつくる役でした。だから言葉の作業が少しできるかなと思ったのもその頃。上の姉二人がとても絵が上手で、私はそれがもう羨ましくて。「上手に描ける人ってすごいな、私はあんな風に描けない」って思うのが一生続いちゃったんで。アーティストじゃなくてキュレーター側になったのはその頃に原点があるかもしれないわね。

──お姉様に、作家の矢川澄子さんがいらっしゃいます。お父様の影響もあったのでしょうか。

小池 そうね、澄子が一番本をよく読んでいましたね。そしてね、とっても体格が小さい姉で、割合身体も弱かったのよね。
それから、うちは親類が数少なかったから、私の実母の姉である小池の名前を私が継ぐことになるんですけど。私が七歳の時に父に書斎に呼ばれて「座んなさい」って言われて。何だろうと思ったら、「実はね、小池のおじちゃんとおばちゃんのところに子供がいないから、誰か一人、小池の名前を継いであげないといけないんだけど。かずちゃんが一番おじさんたちと仲がいいから、行ってくれますか?」って言われてもう驚いちゃってね。

──それは衝撃的ですね。

小池 ずいぶん大胆ですよね、そこまで子供にはっきりとね。だから「はい」って言うしかないじゃない。私は澄子たちに比べると外向性が強かったらしくて、親類や小池のところにも、とってもなついていたということもあると思います。

 私の父親になった小池四郎さんっていう人は政治家だったんですよ。なかなか大ボスで、子分がいたり女中さんがいっぱいいたりして、牛込の大きな家に住んでいてね。

 「名前は変えるけど、どちらの家にいてもいいんだよ」って言われていたので、世田谷の矢川の同潤会住宅から牛込の家にお泊まりに行ったり、二つの世界を楽しんでいました。

 そんな中で、六つの時に戦争が始まるんです。だからリベラルな時代と戦争、両方体験した世代の生き残りよね。

 戦争が始まると、「子供たちはどんどん東京から出るように」っていうことで、私の場合は個人疎開しました。東京の小池の家をたたんで、父が所長を務める青年訓練所のある静岡県函南に疎開したんです。

 私に言わせれば、日本の軍隊が〝侵略〟した場所に、日本は自国の文化や生活を根付かせようとしていました。今でいう宣撫工作ですね。その一環として、侵略地へ行く兵隊を再教育するために、父の提案で国が函南に青年訓練所をつくる。そこでは台湾やアジアの国々の人たちが、日本の文化を知るための訓練をしていました。

 静岡は、いま思えば桃源郷なのよ。果物は育つし、お野菜もよく採れるし、川の水がものすごくきれいで、 まるで山の祠をいただいたような、そんな場所でね。訓練所もそこにつくっていたものですから、戦時中と言っても本当に恵まれた環境にいました。そこで敗戦を迎えることになるんですけど、父は議員だったりしたから、いつも中央の動きが伝えられてきてたのね。今年被曝80年を迎えて思い出していたのですけれど、当時広島に新型爆弾が落とされたときにも、小池の父のところには、すぐに東京から伝令が飛んできていました。

 小池の父がまた不思議な人でしたね。戦前、かなりリベラルな仕事もしてたのですが、日本は軍国主義教育に入っていったでしょ。そして自分もそれに同調していった。だから敗戦は精神的なショックを与えたんだと思います。体を壊してしまい、戦後すぐの昭和21年に亡くなってしまいました。この戦争の、そうね、間接の被害者だと私は思うんですけどね。

──お父様のリベラルな仕事とは?

小池 父はもともと東大の採鉱工学系の研究を出て。鈴木商店(現在の帝人)に勤めてたんです。そこで九州の炭鉱現場の監督を務めたのだけれど、あまりの労働環境の悲惨さに、完全に社会主義に目覚めて、社会民衆党から出馬したのね。彼は女性も仕事をすることを非常に奨励する人だったので。鈴木商店を退職した後は女性が活躍できる場所として『クララ洋裁学院』という洋裁の学校と出版の会社を経営していたんです。『ニジンスキーの芸術』なんて本も出してる。また『洋裁春秋』っていう面白いファッション誌をつくっていて。その雑誌に掲載していたのが、欧米のモードのイラストレーションで。あのようなものをどうやって買ったのかなと思ってました。よくいう「海賊版」じゃないの? って思うほど(笑)。

『洋裁春秋』(クララ洋裁学院)

 

──そこから軍事教育へ…。

小池 そうなのよね。だからそこが本当に長い時間かかって、思想の変遷っていうのかな、怖いものだと思います。私ね、最終的には天皇に対する家父長的な愛情の世界じゃないかと思うのよ。

 昔の日本の男性の精神構造っていうのが。そう思うとちょっと理解できるんですけど。だから三島由紀夫も、その家父長的なことの頂点にある天皇を愛してしまった、そういうことじゃないかなと思うんですけどね。それまでいろんな思想を持っていた人たちが軍国主義に狩り立てられ、そこに原子爆弾投下がきっかけになって敗戦になったわけです。そういった人の精神的ショックは大変なものだったと思います。

──そんな戦前戦後の社会をどのようにご覧になっていましたか。

小池 それは「なぜあの戦争を始めたんだろう」っていうことです。函南の山の中に、ちょっとなだらかな坂道があるんですけど、そこで朝日を浴びながら、そう思ったことをはっきり覚えているのね。だから、敗戦の時から大人への批判みたいなものは、ずっと持ち続けていたと思いますね。終戦じゃなくて〝敗戦〟よね。

 父が亡くなった後、母は父が残した東京の家に戻って、私が大学に行くまでずっと支えてくれました。先ほどのクララ洋裁学校も強制疎開で破壊されましたが、土地は残っていたので、母はそこで洋裁教室を運営し、先生をしていました。

──女性が社会で活躍する環境があったことは当時珍しいことだったのではないでしょうか。

小池 私が大事に思っているのは、元々クリスチャンだった母が勧めてくれて、恵泉女学園に通っていたことです。キリスト教に基づく、とても自由な情操教育で、アメリカの一番基本的なクリスチャン教育でしたね。中学・高校をそこで過ごした時間は、今でも大事だったと思っています。リベラルな教育でそういった考えを持った素晴らしい生徒がたくさんいたと思います。

──恵泉ではどのような授業でしたか。

小池 美術のクラスでは画家の先生がいらっしゃいました。私は子供の時から、描くことが本当に苦手でしたから、先生とおしゃべりばかりしていたんですよ。クラスのスケッチ旅行では、「神宮の菖蒲がこの時期咲くから、みんなでスケッチに行きましょう」とか、いろいろ計画していて。でも、私は全然描かないわけよ(笑)。美しいものは素晴らしいんだけど、自分がどう関わるかとなると、描くほうにはならなかったのよね。それをどういうふうにみんなで楽しむか、どう表現してほしいかとかって思っちゃう。計画したり、企画したり人を巻き込んで実行したり、その頃からそういうのが好きでしたね。

 一方で、中学の頃から演劇が好きで、ずっとサークルをつくってやってきたんですが、6年間女子校だったから、何かちょっと違う環境のところで勉強したいなと思って。大学は早稲田の演劇科に行ったのよ。

演劇が現代に向きあうきっかけをくれた

小池 早稲田の文学部には演劇科と美術科があったんです。美術もものすごく気になってたから、隠れて美術科の美術史の授業に出ていたこともありました。美術評論家の針生一郎さんの授業に、もぐりで出たりね。だから演劇科での伝統的な日本の演劇史には興味はありませんでしたね。今は、演劇史を取らなかったことをすごい後悔してるけれど。

 早稲田では創作劇の学生劇団『自由舞台』に入っていて、そこでは何に驚いたかって、地方の特に東北から来ている男子学生の勉強の深さなのよ。もうそれには本当に身震いするくらい驚いて頭が下がりましたね。例えば1960年代はアイルランドの演劇運動が素晴らしかったけれど、ジェイムズ・ジョイスとかブレンダン・ベーハンとかアイルランドの作家のことは、東北回りで勉強したかもしれないわね。そういう方たちから、深くて面白いんだよって言われて目を開かれたから。

 中でもすごい友人が、石川啄木とか宮沢賢治の出た、岩手県渋民村出身の秋浜悟史(劇作家)です。彼が同級にいたっていうことは、私にとって早稲田に行った最大の宝物みたいでしたね。
劇団はほとんど秋浜さんの創作と演出で、その時日本で一番優れたものをつくっていたと思います。だから、学生生活はほとんど劇団一色でしたね。卒論はシェイクスピアでしたけど、シェイクスピアの権威でいらした河竹繁俊さんからは「お前よく卒業できたなあ」って言われたほど、暴れん坊の学生でしたから。

──演劇を通してどういった刺激を受けましたか。

小池 どこにいても、世界をどう捉えるかっていうのが演劇だから。生命とか生活とか日常生活のディテールに至るまで自分のテーマとして勉強する対象になっていく、っていうのがとても面白かったですね。それから、私が身を置いた自由舞台の仲間がみんな、創作劇で自分が生きている時代の表現をつくり出そうと集っていた。学生運動も盛んで社会主義的な考えが強い時代でしたから、ロシアの作家チェーホフとかゴーリキーを選んで上演しました。

 そういう意味で、現代に向き合うっていうことを一番、身に染みて叩き込まれたのがその頃。だから、その後の美術の仕事に入っていくにつれ、美術史の勉強ではなくて学生演劇をしていたことが、私を現代美術に結びつけたのだと強く感じるようになりましたね。

全ては「アド・センター」から始まった

──大学卒業後には、お姉様の紹介で堀内誠一さん(アートディレクター・絵本作家)の「アド・センター」に入社されます。
小池 姉の澄子が堀内さんの奥様の路子さんという方と親友だったんですよ。路子さんは画家の内田巌さんのお嬢さんで、二人は一緒に旅をしたりしていました。

小池 私はその頃大学を出ていましたが、普通の会社に勤めたりする気がしなくて。その頃の劇団は、文学座・民藝・俳優座っていう三つぐらいしかありませんでしたし、企業のような組織に入りたくないっていうのが本音でしたね。個人的な発想がどこまで活かせるのかわからないし、いろんな縛りがありそうだなと思ってたんですね。だからどうしようかなって悩んでいた時に、「堀内さんのところ、編集とか面白そうな仕事場をつくってらっしゃるそうだから、ちょっと遊びに行ってみたら?」と言われて堀内誠一さんの事務所に行くようになったんですよね。もう、それが全ての始まり(笑)。これが本当にすごいスタジオで。もうほとんど夜も家に帰らないぐらい忙しかったんですね。その時の日本の出版業界は、これから全てが始まっていくという時期でしたから。

 マガジンハウスの前身の平凡出版とは、堀内さんが監修するページを何ページか編集を請け負って毎週出す──「Weekly Fashion」(『週刊平凡』に連載されたファッション雑誌の先駆となったコーナー)のページでしたが。そういった実践が、私にとってはすごく面白い経験で、今の基礎にもなっていると思います。

──戦後の高度経済成長期は、日本のクリエイティブの黎明期であったかと思います。今からすると、すごい空気感の時代だったんじゃないかと。

小池 そうね。まだ出版業界のクリエイティブの土台が何もなかったことと、何か思いつくと、その提案は意外に伸びていく。そういう面白さはきっと、あの時代だからできたのかもしれないですね。それから、クリエイティブを必要とする産業とビジネスがどんどんできてくる時よね。なので、私のコピーライティングの仕事っていうのも、堀内さんの下にいる時に感じたことがきっかけでもあるの。

 うちの家系は、割合に文学系だったり教育系で言葉っていうものを見てきたけど、これからの社会において、言葉の世界はビジュアルランゲージのようなかたちで変わるんじゃないかと思って。まずそれを勉強したいと思って、久保田宣伝研究所(現在の宣伝会議)のコピーライター養成講座っていうのを見つけたのよ。それで勤めながら夜の講座にずっと行ってたの。講師の皆さんはコピーライターの草分けのすごい方たちでした。

──社会にアクセスする言葉が必要であると。小池さんの意識の方向は常に社会を見つめていらしたのですね。

小池 それはね、あると思います。書くときは一対一じゃなくて多数に向けてのコミュニケーションになります。その多数にどう呼びかけられるかを意識していました。

 つまり、自分自身からの発信というものがまず大事で、一般論で呼びかけても対象がぼやけてしまうから、全然伝わらないと思いましたね。だから、まず自分自身がよく考えたり、勉強したり探っている立場でないと人に対する説得力もないし、何かを投げかけることもできないんじゃないかなと思って、その辺のことを結構意識して書いてましたね。自分の興味とか関心を大事にしていることで、コミュニケーションをする時の豊かさとか膨らみとかが出せると思うのよね。私の場合、演劇も美術もよく飲みこんでいて──本当にふとした瞬間としか言えないんだけど、そういう経験やリベラルな学びが、コピーを書くときとかに生きてくるんです。

 あの頃は、ちょうどコピーを表現と捉える社会の転換期の時代だったから、コピーライティングが面白いと思ったのかもしれない。

──その後フリーランスに。まだコピーの仕事だけでは経済的不安はありませんでしたか?

小池 それが、待遇が良かったんでしょうね、経済的な心配はしなかったですね。

 私は初めからフリーランスで、一本何千円でコピーを書いてお届け、っていうことをしていて。印刷会社のトラベルガイドみたいなのをお手伝いすると、それはものすごい数の仕事になりました。単価は安くなっちゃうんだけど、あの時は本当に書き飛ばしましたね。

──時代的にも、女性がフリーランスになったことは珍しかったのでは。

小池 そういう「女性なのに」っていう意識が私にはないのよね。どうしてでしょうね。女性だから、という考えは戦後、徹底した民主主義を教育された時代の子には合わないのだと思いますけれど。でも同世代で会社に就職した女性は、やっぱり「お茶くみから」の雑務からっていうことは当然ありました。

 女性の壁のことはよく聞かれるんだけど、私自身は本当に感じてなかったですね。

世界的デザイナーとの出会い

──小池さんが独立されてからは、無印良品を一緒に立ち上げた田中一光さんや、展覧会の企画・出版物など三宅一生さん(ファッションデザイナー)と活動を共にされます。お二人とはどのような出会いでしたか。

小池 田中一光さんとの出会いは、私にとって初めての非常に大きな仕事でした。大日本インクとか東洋インキとか大手の会社がありますけども、そういった印刷インキ業界の発展を目的とした「印刷インキ工業連合会」っていうのがあるんですね。そのPR誌を一緒につくりましょうって早稲田時代の友人から誘ってもらったのが私の独立後、最初の仕事の場でした。

 1960年代の印刷業界は紙の時代ですから、新しい印刷技術の発達も著しかったですし、メディアで一番のメジャーでした。それを成り立たせている花形の印刷インキ業界のPR誌をつくることになったわけですから、「日本一のグラフィックデザイナーに、アートディレクターをお願いしたい」ってひらめきのように思ったんです。その頃、誌面づくりの主体は編集者だったから、アートディレクターを立てるっていうのもまだあまりなかったんですね。でも海外──特にアメリカの印刷物を見てると、絶対的にアートディレクターの存在が重要でした。

田中一光さんとの仕事の一例 『PRINTING INK』(印刷インキ工業連合会)、『Japanese Coloring』、『Japan Design』

 

 それでちょうどその頃、亀倉雄策さん(グラフィックデザイナー。代表作に東京オリンピックのポスターなど)たちがつくった「日本デザインセンター」で一番の若手のスターだった田中一光さんがフリーになられるっていうのを聞いて、本当にもうドキドキしながらお願いのお電話をしたのよ。

 そのPR誌は、媒体としてはちゃんとしているし面白いものですけれど、今考えると、どんな人間が依頼に来るかも分からなかったのに、よく田中さんは会ってくれたなと思います(笑)。

 お会いしてみると、とても話が弾みましたね。私が早稲田で演劇をやってたことを知って、田中さんがものすごく面白がってね。ご自身も京都市立美術専門学校(現在の京都市立芸術大学)で『アトリエ座』という学生演劇をやっていらしたから演劇が好きなのね。それで一気にお話が煮詰まっていきました。関心の方向も似ていたのかもしれませんし、仕事の話だけっていうことではなくて、生活全体に対する共感みたいなものがありましたね。それはものづくりをする私たちには大きいことでした。

 そんなふうにして印刷インキ工業連合会の広報誌『プリンティングインク』が完成したんです。それが毎号賞をいただいてね、そういうことで私が仕事する足場がつくれたと思います。

──そういった流れの中で、三宅一生さんとも繋がっていかれたのでしょうか?

小池 そうですね。『プリンティングインク』をつくっていく中で、田中さんとこれからの日本を代表していく若手を探そうと野望を立てて調査をしたんですね。

 それで、ファッションモデルの人たちに「あなたたちがいいと思うデザインの若手いないかしら?」と相談をしたら「すごい学生がいるわよ」っていうので話が盛り上がって。「三宅一生」っていう名前を引き出して、探しに行ったんです。

──モデルさんにですか?

小池 そうなの。私が面白いと思うのが、ファッションモデルっていうのは、いい意味での一表現者であるということ。カメラ前やステージの場限りの表現と思うでしょうけど、実際はきちんとデザインの世界のことを理解し勉強している。本当に素晴らしい人たちが多くて、彼女たちが三宅さんみたいな存在を知ってたのね。それは面白いきっかけではあると思いますね。

 それで、三宅さんに会って話を聞いて、本当にこの人はすごいなって共感をして、もうそれ以来ずっとお付き合いが始まるんです。

──その後、田中一光さん、三宅一生さんと共に新しいクリエイティブの世界を切り開かれていきました。御三方で創り出す作業をされるときは、どういう雰囲気ですか。

小池 和気あいあいよ。食べるのが大好きで、三人でその頃青山にできたレストランにはほとんど行ってました。レストランの名前は覚えてないんだけど。昔表参道の交差点辺りにあったレストランとかね。やっぱり一緒にいる時間がすごく多くなってきましたね。それで、お互いに「こういう話があってね、こうやりたいんだけど」みたいなことが多くなっていきました。

まるで亡命者の夜中の長電話

小池 三宅さんとは、普段の会話とか食事の時の他にも、夜中にもよく長電話してたんですけど。そういうところで話していた私たちの会話は、「まるで亡命者が自国の文化を否定しながら、よそ(他国の文化)から学ぶような感じ」って──我々はよくこう言っていたのよ。その背景には当時のパリやロンドン、ニューヨークの文化の変革からの刺激っていうのもありましたね。

──自国の文化を否定するというのは、日本のどういったところに問題意識を感じていたのでしょうか。

小池 社会の話をよくしたわね。ファッションとか素材とかっていうよりも、もう新聞とかニュースとか全部やり玉に挙げて批判していました。すごく社会意識が強かった。同調性の強さとか、保守的な力が強いとか、そういうことは批判の対象にしてきました。

──同調圧力を実際に感じられたことがありましたか。

小池 三宅さんが新しい繊維の可能性にとっても興味を持っていた時のことだけど。第二の皮膚と言えるような、ストレッチ性も高い素晴らしいナイロン製の繊維が開発されたんです。その繊維に日本の入れ墨をプリントして、ボディウェアの美しさを表現しようって、三宅さんが見事な作品をつくったのね。この作品をフィーチャーする時のショーをワコールにスポンサーしてもらって開催したことがあって。そのショーの日の朝、うちの事務所に、繊維を開発した会社から電話があって「入れ墨っていうのは反社会的なものだから、ちょっと題材としてまずい」と言われて──驚きましたね。元々ショーの主題は「皮膚に密着するボディーウェアの美しい色彩デザイン」でしたから、何も問題ないですし、結局開催はしましたが。

 そういう考えが日本の社会に厳然としてあるんだっていうことがもう身に染みてわかって。こういうのはもう一生さんと、夜中の二時間、三時間の電話になっちゃうんですよね。

──ファッションの話をされているのかと思っていました。

小池 いやもう全然。トレンドの話なんて一回もしたことないですよ。

──小池さんと三宅一生さんの社会意識の先に、表現としてファッションになっていった。

小池 そうですね、それが面白いですよね。やっぱりまずは人間の存在があって、つながりがあって、社会があるわけだから。その社会の成り立ちが、日本はここがおかしいよね、とかそういう話になるのは必然。もう政治家の悪口とか多かったです(笑)。

『三宅一生の発想と展開 ISSEY MIYAKE East Meets West』 (平凡社・1978年、著者:三宅一生/構成:田中一光/編集:小池一子 )

 

ロンドンとメトロポリタンの衝撃が
生んだ日本初の展覧会

──1975年には、三宅一生さんと日本で初めてファッションをテーマにした展覧会『現代衣服の源流展』を開催されます。開催に至った背景は?

小池 そうね、一つには、ファッション本来の社会的な位置・役割をきちんと根付かせる。それを認識してもらうのには、優れたデザインを展示することで認められるんじゃないかという思いが背景にありました。

 もう一つにはやっぱり、三宅さんと私が60年代に原体験した時代環境が大きく影響していると思うのね。1970年代の前半は日本が高度成長期に向かっていく時期ですよね。世界では60年代から変化していって、特に文化・ファッションの分野で言うと、ロンドンがすごい発信を始めていました。

 その頃、私の演劇好きはロンドンの新しい劇作家たちの演劇運動に浸るため、現地へ向かわせていましたから。私は、ビートルズとか、マリー・クワントとか、いわゆるスウィンギング・ロンドン(60年代イギリスの若者文化)のファッションを、自らが現場を目撃して原体験するわけね。その刺激は私を駆り立てていましたね。

 三宅さんは三宅さんで、パリにオートクチュールの勉強に行くんだけれど、そこではもっとその先の世界に目を開いてましたね。つまりアフリカの衣服とか、多文化の力をよく見つめていらした。ですから、その後日本に帰ってきた時には、日本の文化的底力みたいなものに気づき、軸足をしっかり日本に置くことになるわけですが。

現代衣服の源流展 (京都国立近代美術館、1975年)

 

 そんな頃に、三宅さんとニューヨーク・メトロポリタン美術館で20世紀前半の革新的なモードコレクションの展覧会「Inventive Clothes 1909-1939」展(1909~1939年の欧米ファッションの変遷を展示)を目撃したんですね。これこそがファッションを認識してもらうのに素晴らしい展示だと感じて、もうそれを日本に持っていくって決めた段階で「やっぱりこれは一番いい会場でやりたい。国立の会場で展覧会にしましょう」って三宅さんと話していました。

 三宅さんがすぐにワコールの塚本幸一さんに電話をして、私も美術館の仕事で敬愛していた、京都国立近代美術館の館長、河北倫明さんならわかってくれるはずだと、ニューヨークから京都に飛んで行ったんですね。そうしたら、すぐに「いいでしょう」と快諾いただいたんです。当時の日本だったら「ファッションの展覧会はちょっとうちでは…」とかって断られるかと思ったんだけど、全然そんなことなくて。河北さんの、その判断もすごいと思いましたね。

 その頃日本では、ファッションは文化の一つの表現領域であるとは認められてなくて。女性の着るものっていうところに押し込められていたと思うんですね。だけど、テキスタイルにしても、着物にしても、日本の衣服文化の歴史にはすごいものがあるわけだし、人間が生活する中で考えたって、衣服なしにあり得ませんよね。だから重要なデザイン領域であること、展示の内容も最高のものであることを河北さんはパッと理解くださって即答いただいたんです。

 展示には膨大な予算がかかるので、塚本さんが京都の商工会議所で全面的に応援しようって言ってくださいました。これは京都の産業界としても、とても良かったと思うんです。バブル期に向かっていくときの既製服産業の小さな会社も含めて、皆さん一緒になってファッション産業特別委員会を商工会議所につくって進めてくださいました。

──京都は伝統的な職人さんが多くて新しいことの受け入れに寛容なイメージはないですが。

小池 そうね。だから、すごかったのが、京都はやっぱり布地の都市ですから、京都室町の旦那衆とか、帯地などの西陣織で有名な上七軒の辺りのいわゆる着物産業の方たちが「ファッション産業のほうでそういう展覧会をするんだったら、着物のほうも頑張る。日本の衣服史も研究しよう」って言って。京都国立博物館では日本の衣装史も開催してくれたの。それには感動しちゃったのよね。その展示も本当に見事で。やっぱり京都ってすごいなあと思いました。どうしてあんな元気が違うんでしょう。

 だからね、京都の仕事が終わってちょっと東京でホッとしたら、大ボスの亀倉雄策さんが「お前よくやったなぁ。今まで東京の人間がやろうと思ってもダメだったんだよ。女のくせによくやったね」って。その時初めて女のくせにって言われましたけど(笑)。

 時代が何か新しいものを受け入れる姿勢があったのと、ニューヨークのコレクション内容がしっかりしていて。それが日本にとって、どんな影響を与えられるかっていうことまで示唆できたのでよかったのかと思います。やっぱり、日本っていうとコピーキャットとか言われてきた文化ですから。そうじゃなくて、「本物を見て、日本の本物をつくろう。いいものをきちんと見て自分たちの創作をしよう」っていう呼びかけをしたかったんです。

小池一子さん、三宅一生さん (メトロポリタン美術館 正面階段にて。1974年)

 

──60年代のロンドンから刺激を受けて日本に新しいクリエイティブを生み出されていったわけですが。 91年に無印良品の海外第1号店をロンドンに出されたのは、リバティ社から小池さんへの「現代の東洋を無印良品から学びたい」とのお便りがきっかけだったそうですね。ロンドンから刺激を受けていた小池さんが、今度はロンドンへ文化的影響を与えた。この相互的な学びの関係に、どのような意味を感じられますか?

小池 東西の交流は時代によって変化し、常に新しい何かが相互の交流によって生まれるということでしょうか。無印良品という思想のようなものがあって、それを西側の人々が受け止め、共感、伝播するということが素晴らしいですね。日本という背景には、ミニマリズムとか、簡素、自然重視といった感覚があり、それを生活用品で取り入れるのが無印良品と思われたのだと見ることができます。ロンドン開店後まもなくしてパリにも開店するという「受け方」からそれが伺われます。

いま生まれている創作表現を
いま楽しまないでどうするの?

──1983年、江東区の食糧ビルに美術館でもギャラリーでもない『佐賀町エキジビット・スペース』(森村泰昌、内藤礼、大竹伸朗など世界的な現代美術家を輩出したアートスペース)をつくられます。なぜ現代美術の展示だったのでしょうか。

小池 これも、その時の社会的・時代的な環境にあります。日本の美術市場ってエスタブリッシュされた人たちの作品は購入されているけれど、現代の新しいものが生まれていることに対する対応って全然できてなかったと思うんです。

 過去の名作とか古典とか印象派とか、もちろん素晴らしいんだけれど。いま、私たちが生きている時間の中で生まれている美術、生まれている創作表現をいま楽しまないでどうするの? っていう思いですよね。それが一番の動機なんですよね。でも、日本の美術館で新しいアーティストの展覧会をするようなところはなかった。その頃私がデザインに関連する仕事で海外出張をよくしていましたが、そこで感じた状況とは違ったわけです。だから、余計に「なぜ日本では現代美術が見られないんだろう」と疑問が湧いてきたんですよね。

 一方で、私はセゾン美術館の仕事をしてましたから、表現の場所には関わっていました。でも、構造的にも経済的にもいろいろな制約から自由になって、表現者が主体の表現の場ができないかなって思って。「どうしても自由に新しい表現を見せるオルタナティブな場がつくりたい、もう自分たちが持つしかない」と思ったんですね。それで頑張って場所探しから始めました。

佐賀町エキジビット・スペース内観 (撮影:三好耕三)

 

──運営をする中、時代的にはバブルの崩壊を経験されていると思います。経済が変わっていく中で、アートの価値を再定義しなければいけないような場面はありましたか。

小池 確かに経済的には大変なんです。無名で新しい作家の作品をわざわざ見に来てくれる人なんてそんなにいないし。しかも、作家はつくるための経費がかかるわけだから。

 でもここは貸し(商業)ギャラリーではない、というプライドがありましたので、スペースを貸すのではなくギャラリーがこのアーティストを押し出すんだ、という姿勢を持っていました。だから作家を選び企画展示をするのはあくまでギャラリーが主体なんですね。ですから、ギャラリーの運営元である私たちの小さなデザイン事務所で負担するには、とても経済的に難しいこともありました。本当に予算が厳しい中でやってきたから、「この壁一枚建てたいので、寄付お願いします」みたいなことで走り回ったり、時にはスポンサーと相談して協力いただくこともありましたね。でも基本的には我々の細腕で働いて得た事務所の収入が元になっていたものですからね。アーティストも現場も大変でした。
それでも、なるべくオルタナティブな立場で、アーティストを前面に推し出すために、努力をしました。新しいアーティストをまず見てもらいたいので、入場料も無料で公開していたことが多かったですね。

受け継いでもらうためのアーカイブを

──そういった小池さんの思いが、多くのアーティストを世界に輩出したのですね。小池さんは、コピーライター、キュレーター、クリエイティブデイレクター、エディター、翻訳者、など目が回りそうなほど多岐にご活躍をされてきているわけですが、職業の名称は何とお呼びすれば?

小池 取り組む内容によって、共働する人、チーム、ビジネス形態も変わります。いずれにしてもある種のディレクションを含むので、クリエイティブディレクターという呼称が適切と思っています。

──今、取り組まれたいことは何ですか?

小池 長年仕事をしてきたのでそれらのアーカイブをしっかりして、これからの方々に受け継いでいただく。アーカイブの仕事が最重要と思っています。アーカイブといっても資料の温存ではなく、現役の働き手の役に立つものでなければならないでしょう。それらの見え方、アクセスのしやすさみたいなことも大切なのです。

──小池さんがクリエイティブな世界に出会われて以来、時代がまた大きく変化しています。その中でいま、アートの役割は変わっているものなのでしょうか?

小池 そうね。全然変わらないはずだし、無ければ無いものだと思うんですよ。つまり、「これがアートだ」とか、際立っていなくても存在するアートも多いし。言葉じゃなくて、あり方とか存在そのものを考えると、なくてはならないもの。例えば、日の出とか日没とかを見て、美しいって思う感覚っていうのは誰の中にもあるわけで。それを再現したり、表現したりする仕事っていうのは、人間が人間の感覚を持っている限りずっと続いていくものだと思います。そういう意味では何か特別なことをしているわけじゃないって思っているので、それがなくなることはないし、人間がいる限りアートも生活に必要なデザインもあり続けるっていうふうに思います。

──ありがとうございました。

 

聞き手 本誌:並木 悠

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