『公研』2024年10月号 第 656 回「私の生き方」
翻訳家 元神戸市外国語大学学長
木村榮一
きむら えいいち:1943年生まれ。神戸市外国語大学卒業。同大助手、助教授、教授を経て2005年8月から2011年3月まで神戸市外国語大学学長を務める。同大名誉教授。スペイン語圏文学の翻訳家として多数の翻訳書がある。著書に『翻訳に遊ぶ』『ラテンアメリカ十大小説』『謎ときガルシア=マルケス』など。翻訳した主な作品としてホルヘ・ルイス・ボルヘス『エル・アレフ』、フリオ・コルタサル『遊戯の終り』、ガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』『コレラの時代の愛』、マリオ・バルガス・リョサ『緑の家』、フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』など。
大地主の御曹司から裸同然になった父
──1943年大阪のお生まれです。ご実家はどんなお仕事をされていたのですか?
木村 幼いころの父は、何万坪もの土地を持つ大地主で、米問屋の御曹司だったんです。小学生時代は「夏休みになると先生がたを人力車にのせて、浜寺という保養地にある別荘まで行って勉強したもんだ」と言っていました。その甲斐あって、大阪の名門校・明星中学に進んだんですが、祖父がいろいろな事業に手を出しては失敗したり、人にだまされたりして結局財産をすべて失い、裸同然で家を追い出されたそうです。そのせいで中学生だった父は学校を中退して家族を養う羽目になり、「どんな仕事でもこなしたが、中にはとんでもなくつらい仕事もあった」とよく言っていました。
──ボンボンからいきなり過酷な労働をすることになったわけですね。
木村 父の逞しさ、強さはたぶん子どもの頃に「明治7人斬り」事件で名を馳せ、逮捕後は瀬戸内海の離島に島流しされた人に剣術の指導を受けたからだと思います。その剣術家が刑を終えた後、大阪にきて実家の近くにあった理髪学校で剣術を教えていたんです。その方の凄まじいまでの剣術の指導と考え方の影響を受けて、体力はもちろん胆力も鍛えられたんでしょう。
父の話では、一杯飲んでご機嫌になると、師範は「ぼうず、そばへ来い。見とれよ」と言うと、一方の手に竹の箸を持ち、もう一方の手に紙縒りを持って、その紙縒りで箸をぴしりと打つと真二つに折れたそうで、「あれはすごいものだった」と晩年になってよくその話をしてくれました。学校のほうは結局中学を中退し、以後さまざまな仕事に就いて懸命になって一家を支えたそうです。
ぼくは戦時中の昭和18年に生まれました。近くに爆弾が落ち、母親がそれに驚いてぼくを産み落としたと聞いています。体重2キロ弱の未熟児で、お祝いに訪れた父の友人たちは、口をそろえて「こんなに小さいと、とても育たんやろう!」と言ったそうです。
──お母様はどんな方でしたか?
木村 母は引っ込み思案で、おとなしい人でした。ですが、一方で負けず嫌いで気の強いところがありましたね。ぼくは末っ子ということもあって、母には本当にかわいがってもらいました。大和三山に囲まれた橿原神宮に近い村の生まれで、母の父親は宮大工をしていました。子どもの頃は村でも評判の秀才で知られ、担任の先生は上の学校に進学させるよう説得したんですが、両親は経済的な理由から進学させなかった。それで祖父は拗ねてしまったんですね。
宮大工としての腕は確かだったんですが、とにかく仕事に身が入らない、一日中タバコをふかしている祖父の姿が、今も記憶に焼き付いています。ぼくはそんな祖父に可愛がってもらいました。夏休みになるとよく、自分の娘(ぼくの母親ですが)のところにやってきては無心していましたね。ある時、そんな祖父が小学生のぼくにジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』を買ってくれたんですが、あれがぼくの文学的な本との最初の出会いでした。ぼくの前に、豊穣きわまりない本(文学)の世界に通じる扉を開いてくれたのは、大和に住む祖父だったんです。
その頃、ぼくの住む大阪の下町にもあちこちに貸本屋ができはじめたので、足繁く通うようになりました。当時は、岡本綺堂、直木三十五、吉川英治、野村胡堂、柴田錬三郎などの大衆文学の作家をはじめ、シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパンが活躍する翻訳ものの推理小説もあり、宝の山に入り込んだような気持でしたね。
──ごきょうだいは?
木村 兄が2人に、姉が1人いました。ぼくは末っ子で、しかもかなり歳が離れていました。一番上の兄は勉強がよくできて、ある大学の経済学部を卒業すると、商社に就職して、香港、オーストラリアをはじめあちこちの海外支店を転々としていて、めったに顔を合せることはありませんでした。2番目の兄は気のやさしい人だったのですが、少しおとなしすぎるようでした。父に言われて家具の製造、販売をはじめたんですが、人と接するのが苦手で、セールスがうまくできなくて経営が苦しくなったんです。
その窮状を救ったのが姉でした。姉は18歳で大きな材木商に嫁いだんですが、旦那というのが甘やかされて育ったのが災いしたのか、どうしようもない道楽者で、結婚して子どもも生まれたというのに家によりつかず、結局姉は子どもを連れて実家に戻る羽目になりました。
『罪と罰』に衝撃を受ける
──何ともひどい話ですね。
木村 姉と生まれた子どもはこうして実家に戻ってきたんですが、人生というのはわからないもので、その姉がやがてわが家の救世主になるんです。先にも触れたように、次兄の家具の卸売りはうまくゆかず、借金が重なる一方で父も頭を抱えていました。姉は商売が肌に合ったんでしょうね。「そんなに売れないのなら、私が売ってあげるわ」と言って家を一部改装して家具店を開いたのですが、これが大当たりでした。姉が店をはじめてからは、それまで売れ残っていた家具はもちろん、兄の工場で新しく作った家具や新たに仕入れた家具もどんどん売れていくんですね。まるで魔法みたいでした。
──お姉さんは商才があった。
木村 ただ実家に帰ったばかりの頃はさすがにひどく落ち込んでいて、毎晩泣いていました。心配した父がぼくに、「しばらくのあいだ隣で寝てやれ」と言ったくらいです。姉の部屋で寝るようになってしばらくして、長兄の残していった本棚にドストエフスキーの『罪と罰』というタイトルの本があるのを見つけ、それを読み始めたんです。あれは中学生の頃でしたが、衝撃的な出会いでしたね。まるで熱に浮かされたように読み耽りました。
──『罪と罰』ではどの登場人物に惹かれますか?
木村 ソーニャですかね。ラストシーンに向かうところで彼女の存在感が俄然増していく。そして罪を犯した主人公ラスコーリニコフの考え方を変えさせる。あれは本当に凄い展開ですね。
ぼくは大学に入ってからも家具店を見事よみがえらせた姉に小遣いをもらって、本を買っていましたし、大学で教鞭をとるようになってからも経済的に世話になりっぱなしでした。
「これで刺して来い!」
──少年の頃はどんな子でしたか?
木村 生まれたときは未熟児だったけれども、小学生の4年生くらいから身体が大きくなりはじめたんです。しかし、中学に入ると、相撲が結構強かったのが災いして、番長グループに目を付けられて虐められるようになりましてね。学校に行くのも怖くなったんです。
ある日、その中のひとりに追い掛けられて、家に逃げ帰ったんです。怖くて台所の隅にうずくまっていたら、父が来て「どうした?」と訊かれたので、「虐められた」と答えたら、台所にあった包丁をつかんでぼくの手に握らせると、「これで刺して来い!」って言うんです。「そんなことをしたら、警察に捕まるよ」と言うと、「そのときは身請けにいってやる」って。
──強烈ですね。
木村 あれが人生で一番怖かった(笑)。「男は一生に一度や二度はどうにも逃げようのない時がある。どうにもならなくなったら、その時は前を向いて死ね。人間はどうせいつか死ぬんやからな」と言われたのを今でも覚えていますね。
あれから、いざという時はどうしたらいいのかを真剣に考えるようになりました。ああでもない、こうでもないと考えているうちに、人を刺し殺すなんてことはできるわけがない、だったら自分が死ねばいい、自分が死んだつもりになればいいんだと覚悟が決まったんです。すると、不思議と気持ちが楽になって、学校へも行けるようになりましたし、番長グループから逃げ回ることもなくなりました。
「何ヘラヘラ笑ってんの!」
──やはり勉強はできたのですか?
木村 まったくできなくて、落ちこぼれの生徒が集まる高校に進学しました。もともと情報を集めるのが苦手で、あまり出来のよくない同級生に進学について相談し、それを鵜呑みにしてしまうので、入学してからが大変だったですね。
中学の英語の先生は、自分が答えられない質問をされると、ぶちぎれて「キエーッ」と叫びながらチョークを投げるという困った癖があり、ぼくたちはひたすらうつむいて授業が終わるのを待っていたんです。考えてみれば、その先生もほんの少し前まで英語は敵国語だと教えられていたんですから、まともに勉強しているはずがないんで、叫びたくなる気持ちも今ならわかりますね。
それはともかく、高校に入って英語を勉強することになったのですが、何しろぼくは英語と言えばあの先生の「キエーッ」しか覚えていないんです。そんなぼくに質問する先生も先生です。中年女性の先生だったんですが、津田塾出身の才媛でした。ただ、こちらは何もわからないので、神秘の笑みを浮かべてやり過ごそうとしたんですが、これが裏目に出て徹底的にやられましたね。まず、大阪のスラム街で育ったぼくに歯切れのいい東京弁で、「何ヘラヘラ笑ってんの。あんた、バカじゃないの! そんな態度でこの先どうやって生きていくつもり? 人をバカにしたような薄笑い浮かべて人生の荒波を越えていけるとでも思っているの。ほんとにどうかしているとしか思えないわね」と延々三十分ばかり油を搾られました(笑)。
普通ならその事件で英語嫌いになってもおかしくないんですが、あの時言われた堀端先生の言葉が心にささり、以後懸命に英語の授業の予習、復習をしました。先生の教え方も実にわかりやすくて、おかげで英語の成績がぐんと上がりました。実は、大学でスペイン語を学びはじめた時も、堀端先生の方式を用いて授業に臨んだんですが、英語を身に付けたときの基礎が活きたということでしょう。
番長グループのナンバー2と一対一で喧嘩
──やはり語学の習得にセンスがある。
木村 語学を学ぶのは大好きでした。ただ高校時代は、柔道ばかりやっていましたし、後輩たちはやんちゃな連中でしたから、揉め事が多くてなかなか勉強に集中できないんです(笑)。中学校では虐められたから、高校ではあの屈辱を二度と味わいたくないと思って、柔道部に入部したんですが、そうしたら今度は上級生の番長グループに目を付けられた。
──またですか(笑)。
木村 貧しい家庭の子たちが多く集まる大阪の下町の落ちこぼれ高校ですから、そんなもんですよ。休み時間になると番長グループが1年生の教室に脅しをかけに来るんです。先ほども言ったように、当時のぼくはもう逃げないぞと心に誓っていましたから、よし、その時が来たなと思いました。
5、6人に囲まれたので、「どうしたんです? ひょっとして寄ってたかって1年生のぼくを袋叩きにするつもりですか。まあ、好きにやったらよろしいがな」と言ったんです。そうしたら向こうもちょっと怯みましてね。後で聞いたところでは、2年生の番長グループでナンバー2と言われていた生徒らしいんですが、その生徒が「よし、一対一でやったろやないか」と言ったので、「それなら筋が通りますね」と返すと。「放課後、校門のところで待っとれよ」と捨て台詞を残して向こうに行きました。
──絵に描いたような修羅場ですね。
木村 腹をくくってしまうと、こういう場面では妙に落ち着くんですよ。授業が終わったら教室の外で先ほどのグループが待っていて、学校の裏へ連れていかれました。先生たちもうすうす気付いていたようですが、見て見ぬフリです。自分が大人になって同じような立場に置かれてもそうするでしょうね。
学校の裏手に着くと、なぜか近くに小学生が立っていてこちらを見ていたものですから、「危ないぞ」と声をかけた瞬間に殴られたんですが、その後のことはよく覚えてないんです。とにかく、われに返ったら相手が目の前でひっくり返っていた(笑)。
喧嘩した上級生とはその後に仲良くなりました。卒業してからその先輩に高校で偶然会ったら、「おれは今、日本拳法をやっているんや」と言ったので、「どうしてそんなのをやっておられるんです?」と尋ねると、「お前を倒すためや、決まっとるやろ」といったので、二人で大笑いしました。
番長連中に懐かれる
──外国文学の翻訳家とは思えない青春時代ですね(笑)。
木村 それからも柔道の練習は熱心に続けました。師範がいなかったので、岩波書店から出ていた『柔道講座』という、たしか8巻ものの本を図書館から借りだして技の掛け方、体さばきなんかを覚え込んでいったんです。ぼくの師範はあの本でしたね。
2年生になると入部してきた後輩連中に懐かれましてね。気がついたらキャプテンになっていました。ところがガラの悪い地域の落ちこぼれ高だから、入ってくるのは中学の番長みたいなのばかりなんです。練習にあまり来ないんですが、そんな彼らをなだめすかして続けていたら、いつの間にか大阪府でベスト8に入りましてね。後輩もいかつい連中ばかりだったんですが、彼らに慕われるようになってわが家は梁山泊状態になりました(笑)。
大学に入ってからも高校の後輩連中との付き合いが続きました。その頃にもいろいろな事件があったんですが、語り出すときりがないので、今回は端折ります(笑)。
大学受験の3日前に警察に捕まる
──木村さんの高校時代に戻りますが、神戸市外国語大学のイスパニア学科を受験されたのは、スペイン語にご関心があったからですか?
木村 いやいや、募集要項には「イスパニア学科新設」と書いてあったんですが、イスパニア語というのがスペイン語だということさえ知らなかったんですから、能天気なものです。同級生がたまたま大学の募集要項を見ていて、欄外に小さな活字で「イスパニア学科新設」と印刷されていたのを見つけて、ここはみんな見過ごすはずだから「絶対に穴場だ!」と言ったので、藁にでもすがる思いで受験することにしたんです。イスパニアというのはスペインの古名で、新設学科をつくる際に、主任教授の高橋正武先生が学科の名称はスペインの古名イスパニアがいいだろうという鶴の一声で決まったそうです。
ぼくは神戸外大にイスパニア学科が新設されたことも知らず、同級生が「穴場を見つけた」といった言葉にしがみついたんです。募集要項の枠の中には英米学科、ロシア学科、中国学科と並んでいて、その欄外に小さな活字で身をひそめるように「イスパニア学科新設」と書いてありました。これならあまり目につかないから、受験生も少なくてひょっとすると潜り込めるかもしれないと、せこいことを考えたんです。ところが、受験の手続きに行ったら長蛇の列ができていて、実質倍率は約7倍を超え、改めて人生は甘くないと思い知らされました。それに追い打ちをかけるように受験の3日前に警察に捕まったんです。
──何があったのですか?
木村 試験も終わったので、高校の柔道部に足を向けたんです。練習を終えて、帰ろうとしたら、横を歩いていた後輩が向こうから来た男と「肩が当たった、当たらない」で揉めましてね。その後輩は大阪府でもベスト10に入るような猛者でしたから勝てるわけがないのに、向こうが闇雲にとびかかってきた。後輩はそいつをぶん投げたんです。ぼくも止めに入ったんですが、気がつくと場所が何と警察署の真ん前で、すぐに連行されました。ぼく自身、そばにいた小柄な男と揉み合いになったんですが、それはなかったことで済ましてもらいました。
つかみ合いをした二人が署内で調書をとられているときに、目の前を通りかかった警官に「3日後に受験なんですが、今回の件で受験はダメでしょうね?」と尋ねたら、「お前も喧嘩したんか?」と訊かれたので、「いいえ、やってません」と答えると、「そしたら関係ないやろ」って(笑)。
──助かりましたね。見逃してもらえた(笑)。
木村 だけどその日の夕食の時に、父に「これまで受けた大学はすべて不合格だったし、残っている一校も受かりそうにないので、受験を辞めようかと思っている」と言ったら、「あほやな、お前。受験って勉強やと思っとるんか。あんなもんミズモノやないか。科目は何が苦手や?」って訊かれて、「数学」と答えると「3日間、数学だけやったらええ!」。言われた通り3日間、数学の問題集とにらめっこをしたんですが、試験場で問題用紙を開くと、何と前日に参考書で見たのとほぼ同じ問題が出ていたので、わが目を疑いましたね。
ビリから2番目で合格
──勝負強い。
木村 人生ってやっぱり、運と縁だなとしみじみ思いますね。高校へ報告に行っても、教師はもちろん同級生や後輩も、ぼくが合格したとは信じてもらえなかったんです。中でも、受験指導の先生に報告に行った時がいちばん愉快でしたね。教員室に行って、「神戸外大に受かりました」と報告すると、先生は急にがっくりうなだれると、長い間一言も口を利かずその姿勢のまま固まってしまったんです。
こちらが不安になって、「先生、大丈夫ですか?」と尋ねたら、しばらくしてようやく顔を上げると、「うーん、ついていけるかなあ。ここがどんな高校かお前もわかってるやろう」という返事がかえってきて、えっと思いました。同級生や後輩からも、陰でいろいろ言われていたようですが、どうやら試験に合格したところで、どうせ授業にはついていけないと思われていたんでしょうね。
大学入学後に同級生から聞いたのですが、ぼくの成績は入学した40人中の尻から2番目だったそうです。愉快だったのは、尋ねたクラスメートに、「ぼくはビリのはずなんだけどな」とつぶやいたら、彼が「いや、お前はうしろから二番目や。最下位はオレなんだ。ちゃんと事務局で確かめてきたからな」という後日譚もありましたね。紙一重で入学しても気にしなくていいんで、高校の英語で経験したように入学してから頑張ればいいんだと前向きに考えたんです。
大学ではスペイン語と英語は一生懸命勉強しましたね。その一方で、小説本が好きだったので、日本人が書いたものはもちろん、翻訳ものの小説もよく読みました。中学時代以来ずっと卒業したら、商社に就職して、スペイン語圏の国であれ、東南アジアであれ、どこへ行ってもやっていけるように心の準備をしておこうと考えていました。
「木村くん、大学に残らないかね」
──学部の4年間を終えると大学に残られていますね。商社ではなく学者の道を選ばれた。
木村 いや、今申し上げたように卒業したら兄のように商社に行こうと決めていたので、大学の先生になることは考えたこともなかったですね。ただ3年生の終わりくらいに、周囲で「われわれ一期生の中から1名が助手として大学に残ることになるらしい」という噂が耳に入ってきました。4年生になってそろそろ就職試験の時期だなと思っていたら、突然イスパニア学科の高橋正武教授から「木村くん、大学に残らないかね。学科の先生がたとも話し合った結果、君にお願いしようということになったんだ」と言われて、びっくりしました。
当時はスペイン語関係の大学院がどこにもなかったので、一期生の場合、学部を卒業したら中の誰かが教員として残るというのが慣例になっていたようで、東京外大や大阪外大も同じだったそうです。古武士然としたところのある高橋先生は少々おっかない感じがするんですが、人柄がよく、信頼の置ける方だったので、その話を受けることにしました。
父はぼくに大学の先生の仕事が務まるとはとても思えず、心配だったようですが、もしその仕事をするのなら、「本が財産だからお金の勘定をせずに本を買え。本屋の借金が払えなくなったら何とかしてやるから、怖がらずに買え」と言ってくれました。
「ラ・マーガに出会えるだろうか?」
──最初はスペイン文学をご専門にされていたとか。
木村 二十世紀初頭に活躍したスペインのある作家の作品研究から第一歩を踏み出したのですが、徐々にその作家の書くものにうんざりし始めましてね。自分の生まれ故郷であるスペイン北部のバスク地方に題材をとった作品は、抒情的でよかったんですが、作者が首都マドリッドに移ってから書いた作品はかつての生気というか、輝きが失われておもしろくなくなったんです。その作家と同世代の小説家たちの作品にも目を通してみたんですが、やはり肌にあいませんでした。おもしろいと思えない小説と格闘して、うんざりしながら論文を書いて業績稼ぎなどしても意味がない、それならやめたほうがいいや、とまで考えましたね。
ラテンアメリカ文学に興味を持つようになったのは、まったくの偶然の産物なんです。「禅を学びたいと思って日本にやって来た」一人のメキシコ人が、「神戸市外国語大学にスペイン語を教えている学科がある」という話を聞き込んでやってきたんです。そこで1年生だったか2年生の学生をつかまえて、事情を話して助けてもらおうとしたんですが、思惑通りにいかず、学生のほうも持て余して、ぼくに泣きついてきた。
それで、いろいろ相談に乗ったんですが、それがうれしかったんでしょうね。ある日ぼくに、「キムラ、お前はスペイン文学の研究をしているが、ちっともおもしろくないとこぼしていたな。だったら、どうしても読んでほしいすごい本があるんだ」と言って、見るからに前衛的な感じのする真っ黒な装丁の分厚い一冊の本をぼくの手の上にのせたんです。それが、アルゼンチンの作家フリオ・コルタサルの書いた実験的な小説『石蹴り遊び』だったんです。
「ラ・マーガに出会えるだろうか?」という冒頭の一行を見たとたんに、こんな書き出しの小説があるんだ、と衝撃を受けましてね。当時は自分が向かうべき方向が定まらず揺れていたので、「出会う」という言葉に衝撃を受けたにちがいありません。その単語が啓示のように閃いたんです。それから「コルタサルの書いたものをすべて取り寄せてくれ」と洋書の代理店に頼みました。やがて、コルタサルの作品、それも上質な幻想的短篇集が次々自宅に届き、至福の時を持つことができ、本当に幸せでしたね。
それを起点にして、以後ホルヘ・ルイス・ボルヘス(アルゼンチン)、アレホ・カルペンティエル(キューバ)、ガブリエル・ガルシア=マルケス(コロンビア)、マリオ・バルガス=リョサ(ペルー)、ホセ・ドノソ(チリ)など枚挙にいとまがないほど多くの作家の創造した世界にもぐりこみ、その世界を生き、かつ何冊かは翻訳までさせていただいたというのは、この上ない幸運としか言いようがないですね。
鼓直先生の謦咳に接する
──いまガルシア=マルケスの『百年の孤独』の文庫版が新たに発売されて外国文学としては異例のベストセラーになっています。翻訳された鼓直さんは、神戸市外国語大学で助教授をされていました。木村さんとは師弟関係にあったわけですが、鼓さんはどんな方でしたか?
木村 たしか、ぼくらが2年生の時に神戸外大に赴任してこられたんです。4、5年で関東の大学に戻られるとのことだったんですが、授業は本当に素晴らしくて、講読のときは、生徒はみんな先生の名訳に聞きほれていました。授業が終わると、どうしたらあんなすばらしい訳ができるんだろうと、クラスメートとよく話し合ったものです。
ぼくはその後助手として大学に残って、2年ばかり鼓先生の謦咳に接することができたのは幸運としか言いようがありません。先生はやがて関東の大学に移られるんですが、関東に出張するたびによくお邪魔させていただきましたし、本についての話を通してラテンアメリカ文学の現状を教えていただいたりと得難い知識を身につけることができました。
その頃にガルシア=マルケスの『百年の孤独』の翻訳が出版されたのですが、これが名訳だというので大評判になり、スペイン語文学の訳書の信頼度、評価もこの一冊の翻訳で高まったと言っても過言ではありません。
マルケスの物語作りの秘密
──今回久しぶりに鼓さんが訳した『百年の孤独』を読みましたが、やはりおもしろいですね。幻惑的で荒唐無稽な話なのに、妙にリアリティがあって、読み進めてクラクラするのが心地良い。
木村 本当に物語の作りが上手いですね。『百年の孤独』は、マルケスが小さい頃におばあさんが語ってくれたように物語を書くことがきっかけになっています。「マジックリアリズム」と言わたりする奇想天外なエピソードは、ケルト系の血を引いているおばあさんによる影響が強いとされています。ケルト系の伝統は、ヨーロッパ文学、あるいはその亜流と言えるような地域の文学に本当に強い影響を与えていますね。
──日本で言えば縄文的と言うか、ヒトが動物に近い頃の感覚が散りばめられている印象を受けます。
木村 わかりますね。そういう非常に「生のもの」がね、洗練されたり構築されたり工作されたりしないで、そのままドンと出てくるような圧迫感がある。マルケスはそのパワーが凄まじいものがあります。
物語はリョサのほうが話をつくるのはうまいのだけど、残るものがないんですよ。ぼくはリョサの大作『緑の家』を翻訳したけど、仕事を終えても何かが残った気がしないんですよ。
──出汁が効いていない感じですか?
木村 そうそう。物足りなさを感じるんですね。マルケスの短編のほうが遥かに残るものがあります。短編集『エレンディラ』はあんな無茶苦茶な話ばかりなのに、独特な読後感がある。
──『エレンディラ』は良いですよね。大好きな短編集です。
木村 奇想天外で荒唐無稽な話ばかりだけど、コロンビアでは現実に似たようなことがあったんでしょうね。マルケスの良さやパワーの源は、ヘンに紳士ぶったり大作家のように振る舞わないところですよね。「こんな少女に売春させて許されるのか」といった倫理的で、説教染みたことは言わない。
──翻訳者によって作品の印象がずいぶん変わるものだと思います。木村さん版の『百年の孤独』を読んでみたい気もしますが…。
木村 いや、いや、鼓先生の翻訳の向こうを張るなんて、「おい、百年早いぞ」と叱られそうで、できませんね。
『百年の孤独』は人類史の縮図
──これから『百年の孤独』を読まれる読者に脱落しないための助言をいただけますか。
木村 律儀に一言半句を逃すまいとせずに、飛ばし読みすればいいんですよ。少しスピード感を持ってお読みになったら、意外にはかどると思いますよ。そしてまた前に戻って再読したらいい。
話の内容について触れれば、『百年の孤独』はマコンドという架空の街の誕生から、消滅までの過程を描いていますが、これは人類史の縮図であると見ることができるということです。ブエンディア一族の人たちに目を向けると、同じ名前が繰り返し出てきますが、それ自体が反復であり、円環になっています。ホセ・アルカディオ・セグンドとアウレリャノ・セグンドをのぞいて、一族の内でアウレリャノを名乗る者は内向的だけど頭がいいのに対して、ホセ・アルカディオの名前が付いた者は衝動的で度胸はいいが、悲劇の影がつきまとっています。名前とともにその性格と運命も反復される構造になっています。
女性たちは嫁いできた者たちを含めると複雑になりますが、ウルスラの名前が付いた者は近親相姦の呪縛にかかっている。このあたりを意識しながら読み進めると、だいぶすっきりされるのではないかと思いますね。
マルケスの途上国の作家としての視点
──今「グローバルサウス」という言葉が流行っていますが、マルケスはまさにそうした地域を代表する作家とも言えますね。
木村 今、昔出版したガルシア=マルケスの『物語の作り方:ガルシア=マルケスのシナリオ教室』という本の改訳をしていて、来年には出ると思います。この本などはガルシア=マルケスの途上国の作家としての視点がうかがえておもしろいかもしれませんね。
彼は小説家として一本立ちできるようになるまでは、新聞記者をやったり、雑誌に記事を書いたりして何とか生計を立てていました。それが『百年の孤独』で大ブレークして世界的な作家になり、その後も『族長の秋』、『コレラの時代の愛』といった傑作を書き続けたんですね。
そうした小説家としての活動とは別に、キューバのハバナとメキシコを拠点にして映画産業で食っていける人材を養成するための教育機関「国際映画・テレビ学校(EICTV)」の設立にも関わっています。マルケスはカストロと親しかったですからね。この本で彼は、若者たちと一緒に30分のテレビドラマを制作するために、シナリオを書くにはどうすればいいかについて徹底的に討論しているんですね。この議論からはマルケスがどういうふうに発想して、あの奇想天外な物語を紡いでいったのかが見えてきます。かなりいい加減なシナリオの作り方をしているのだけど、それがまたすごくおもしろい。
それから、将来的には若者たちが映画やテレビ産業でお金を稼げばいいと本気で考えているところも興味深いんです。現在、中南米諸国は第一次産業に乗り出していける状態にはありませんからね。中南米は、結局は先進国の下請けみたいな役割を強いられている。そこをどういうかたちで突破するかが、発展途上国のこれからの責務でしょうし、ガルシア=マルケスはその一助になればと考えて、シナリオ教室や映画学校をつくり、自らも援助を惜しまなかったんです。
『物語の作り方:ガルシア=マルケスのシナリオ教室』は20年ぐらい前にもぼくが訳して出したんですが、今回改めて翻訳してみてマルケスがさらに好きになりました。我々がイメージとして持っている大作家の雰囲気とはずいぶん違うマルケス像が見えてくるに違いありません。
訳語が向こうからやってきて、登場人物が動き始める。
──翻訳家としての日常やルーティーンをお聞かせください。
木村 朝ご飯を食べると、車でカミさんを買い物に連れていきます。お昼を食べると、そのまま喫茶店に向かって1、2時間翻訳をするのが日課です。このときは下訳をつけることが多いです。その後にパチンコに行っていましたが、これはもうやめました。負けてばかりですからね。帰宅後、夕飯を食べてから、さらに1、2時間仕事をすることもあります。お昼に下訳を付けたものに直しを入れることが多いですね。ただ、最近はとみに体力が落ちて仕事がちっともはかどらないので、そろそろ引退する潮時かなと考えていますね。
ぼくにとって翻訳の一番むずかしいところは、テキストを訳していくときに、原書から伝わってくる雰囲気をどう日本語にするかということなんです。気分が乗らないときは仕事がちっとも進まないので、無理をせずにテキストに心身ともに馴染んでゆくのを待ちます。乗ってくると、それがどこから来るのかわからないけれど、訳語が向こうからやってくる。そうなると、登場人物が動き始めるんです。そこまで来たら、あとはもう大丈夫です。
──今日も翻訳作業をされたのですか?
木村 さっき喫茶店に行って原稿を睨んでみたんですが、疲れているのか気分が乗らなかったですね。先ほどお話ししたマルケスの『物語の作り方:ガルシア=マルケスのシナリオ教室』の翻訳が終わったので、次はリャマ・サーレスの短編集に取り掛かろうと思っているのですが、作品を切り替えるときはきついんです。特に作家が変わると意識をそちらにスライドさせるのがむずかしいんです。
──マルケスの後期の傑作『コレラの時代の愛』は500ページにもなる大作ですから、長い期間、作品の世界のなかにいることになりますね。
木村 『コレラの時代の愛』は新潮社の塙陽子さんという名編集者からの依頼でした。ぼくも若かったから100ページくらい翻訳した段階で焦って原稿を送ったんですよ。そうしたら、すぐに電話が来て、「木村さん、まさかあれをあのまま出すつもりじゃないでしょうね」と言われて、縮み上がりました。「いや、実は100ページばかり進んだってことをお伝えしたかっただけです」としどろもどろになって返事をしたんですが、半泣きになっていました(笑)。塙さんは「それならいいんです」と言われましたが、あれは怖かった。
完成した原稿を送ったら「これで結構です。いい訳ですよ」と褒めてもらいました。『コレラの時代の愛』の翻訳は、ぼくにとって思い入れの深い大事な仕事ですね。
──木村さんの翻訳は読んでいてリズムが良くて読みやすいと感じます。
木村 そう言ってくださる方がおられるというのは、翻訳者冥利に尽きますね。ただ若い頃は翻訳しようとすると、妙に肩に力がはいってテキストをひねくり回したおかしな訳になってしまうんです。本当にひどい出来でした。袋小路に入り込んで抜け出せなくなり、困り果ててカミさんに自分の訳を読んで聞かせるようにしたんです。「どう思う?」と訊くと、最初は「私にわかるわけがないでしょう」と取り合ってくれませんでしたが、次第に批評家に変身して、「聞きづらい」「読みにくい」「その列挙した形容詞の並びがおかしい」と指摘するようになったんです。カミさんの指摘を取り入れながら自分の訳を手直ししてゆくうちに、日本語に翻訳するコツのようなものをつかんだんでしょうね。
それからは、翻訳に関してあれこれ言われなくなりましたね。やはり、言葉はリズムなんです。それも自分の内部にひっそり身をひそめているリズムなんでしょうね。目がかすみ、足、腰が弱っているので、この先あと何年翻訳ができるかわからないんですが、もう少し続けられたらなあ、と思っています。
神戸市外大の博士課程創設に尽力
──神戸市外大の博士課程の創設にも尽力されていますね。
木村 お世話になった先輩の庄垣内しょうがいと正弘先生が、ぼくを博士課程設置委員会の委員に推してくれて関わるようになったんです。庄垣内先生は、ウイグル語を中心に西域の言語を研究しておられました。頭の回転が速く、それでいて細かな気配りのできる人でした。ちょっと怖かったんですが、ぼくとはウマが合って可愛がってもらいましたね。
博士課程設置委員会は中でゴタゴタが続いていたんですが、庄垣内先生が前任者を追い出すかたちで、ぼくを委員長に祭り上げたんです。ぼくは4年制の神戸市外国語大学の卒業ですから、博士号など持っていません。だから、いくらなんでも委員長はだめだろうと言ったんですが、「切った張ったができるのは、お前しかおらん」と押し切られて仕方なく引き受けたんです。
それからがたいへんでした。神戸市とわたりあい、文科省には頭を下げて何度も足を運ぶ。それ以上にたいへんだったのが、マル号教授──大学院で論文指導のできる教員──を3名集めることでした。この難題を解決してくれたのが事務局長なんです。彼に「日本のあちこちの国公立大学と事務局長レベルの会合に出ているんやから、人脈はあるやろう。あんたは押しが強いから、何とか博士課程で教鞭をとれるレベルの先生を、3人探してきてくれ」と言ったんです。
──無理難題に近いようにも思えます(笑)。
木村 そうしたらその事務局長も只者ではなくて、アメリカまで手を伸ばして本当に3人を引っ張ってきた。あれには感心しました。
ところが、これで何とかうまく行きそうだというときに、予想もしなかった阪神・淡路大震災が起こったんです。神戸市役所は避難民で溢れていましたから、大学の事務局は、「博士課程なんかつくれませんよ」と言って来る。ぼくは「無理やろな。しかし、ここで博士課程設置の旗を降ろしたら、今でもかなり気分的に落ち込んでいる先生方がもっと意気阻喪するかもしれんやろ」って。
──ここまでの努力が水の泡になってしまう。
木村 事務の担当者には、「神戸市の置かれている状況はよくわかった。しかし、せめて大学の中だけでも、だめもと覚悟で、しばらくのあいだつくるフリをさせてもらえませんか」と言って、しばらく時間稼ぎをして震災の混乱が収まるのを待ったわけです。震災の混乱もいくらか収まってきたタイミングで、先ほどの事務局長に博士課程設置を諦めていないことを伝えて、彼に神戸市のお偉いさんにつなぎをつけてもらいました。
当時の神戸市には「影の市長」と呼ばれるような助役がいました。恐ろしく怖い人でね。その人と面談して直接、博士課程の設置をお願いすることになったんです。このときは殺し文句を一晩考えました。「神戸は復興するまでに、長い年月がかかりますよね。その時に市が博士課程のある大学を持っているというのは、復興なった神戸市に一段と大きな花を添えることになりませんか?」と言ったんです。
その思いが伝わったのか、前向きに話を進めることになったんです。この時に、われわれのまったくあずかり知らないところで、国会議員の後藤田正晴さんが動いてくれたんですね。後藤田さんが各省庁に乗り込んで、「神戸市、兵庫県のために尽力してやってくれ」と頼んでくださったんです。こうして、神戸市外国語大学に博士課程が設置されることが決まったんです。
──阪神・淡路大震災がプラスに作用した面もありましたね。
木村 文科省へ御礼に行ったら課長代理が出てきて、「お礼を言うなら、うちの若い子に言ってやって下さい。審議会と身体を張って渡り合って通してくれたんですよ」って。それを聞いて「ああ、やっぱり、後藤田さんが効いたのだな」と思いました。
大学の独立を守るためには
──その後、神戸市外国語大学の学長も務められます。少子化が著しい時代ですから、国公立の大学も統廃合が進むのではという見方もあります。
木村 外国語大学は時代遅れという扱いを受けがちですから、今後どこかと合併させられる圧力が掛かる可能性は大いにあり得ると思っています。現に神戸市外大も神戸高専と兄弟校というかたちで統合されています。伝統のあった大阪外国語大学も大阪大学と合併しましたが、吸収されたようなものですよね。
子どもの数は確実に減っていますから、大学の予算を圧縮するために統廃合が進むのは仕方がないところもあります。けれども、各大学にはそれぞれ特徴や固有の伝統があります。大学の独立を守りたいのであれば、合併話が出てきたときには学長のところで切らなければいかんのです。この手の話は、行政側は、最初、事務局サイドからアプローチしてくるものです。それが学長のところに話が上がってきたときに、隙を見せたらあっという間に飲み込まれてしまいます。
そうは言っても、学長も任期はあるし、研究者でもあるわけです。もっとも、学長になると、いろいろな意味で研究者ではなくなりますね。研究者である自分を捨てて、官僚やお役人を相手にさまざまな要請にこたえてゆく必要がある。これはなかなかつらくてしんどい仕事です。神戸市という国際的な港町が外国語大学を持ち続けることは、イメージとしてもすごくいいことは言うまでもありません。
最後の仕事は『ドン・キホーテ』?
──以前にいつかはスペイン文学の金字塔とも言えるミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』を翻訳したいとおっしゃっていましたが…。
木村 最後の仕事として『ドン・キホーテ』を考えていたころもありましたが、まだ手を付けていません。と言うのも、自分がこんなに長生きするとは思わなかったんですよ。『ドン・キホーテ』に取り掛かる前に、まだ仕事ができそうだなと思って、今はスペインのリャマ・サーレスという作家の短編集に取り組んでいます。
これを終えてまだ命とスタミナが続いていれば、あとは一切仕事を引き受けずに『ドン・キホーテ』に取り組んでもいいでしょうね。ただし、頭で考えるほどたやすい仕事ではありませんね。気力、体力、知力、この三つがそろっていれば、ひょっとしてできるかもしれませんが……。
──ありがとうございます。
聞き手 本誌:橋本淳一