『公研』2024年5月号「めいん・すとりいと」
拙著『不機嫌な英語たち』に収めた章の中で「山手線とナマちゅう」が一番印象的だったと言う読者が多い。この章は、大学時代の夏にとある学生会議で知り合った、ベトナム系アメリカ人Louieと私の物語である。小説ではあるのだが、この章を書くにあたっては彼の許可を取り、生い立ちなどについて確認を取った。その時に聞いた、でも本には入れなかった話がある。
1980年代半ばのある日。アメリカのオクラホマ州タルサ市で中学2年生だったLouieの教室に、歴史の先生のミセス・ウォーカーが重そうな台車を押しながら入ってきた。
Louieとその家族は、1975年にベトナムを脱出し、親戚のいるローマで2年間を過ごした後、オクラホマに移住した。Louieは必死で英語を覚え、少しずつ学校生活に溶け込んでいった。勉強も頑張った。徐々に成績を伸ばし、まず数学、次に歴史、そしてついに英語つまり、「国語」でも、成績優秀者向けのHonorsのクラスの仲間入りを果たした。アメリカ社会の一員として階段を上っていく第一歩のような気がして、Louieは自信をつけつつあった。
ミセス・ウォーカーは背後で静かにドアを閉めると、二つの大きな段ボール箱を台車から下ろした。そして箱から1冊ずつ本を取り、席に戻るようにと生徒たちに言った。箱に入っていたのは、硬い表紙に傷や落書きのある、古く分厚い教科書だった。生徒たちが席につくとミセス・ウォーカーは、生徒たちがこれまで見たことのない真剣な表情で言った。
「みなさんが手にしている教科書には、オクラホマで暮らすほとんどの人が知らない事実が書いてあります。それが理由で、今では学校での使用が禁止され、絶版になっています。でも私は、あなたたちが事実にきちんと向き合うのに十分な年齢と頭脳を持っていると思います。今日はみなさん、静かにその教科書を読んでください」
指示されたページを開くと、生徒たちは言われた通りただひたすらその箇所を読んだ。40分後、ミセス・ウォーカーは、教科書を段ボール箱に戻すようにと生徒たちに指示し、その日のことを誰にも言わないようにと言った。
1921年5月31日、黒人青年がエレベーターで白人女性に性的暴行をしたという疑いを契機に、1万人以上の黒人が生活していた地区が白人暴徒たちにより破壊され、約300人が死亡した「タルサ人種虐殺」。その記述を読みながら体中を覆った恐怖感を、Louieは今も克明に覚えている。何百年にもわたってアメリカで生き延び、生活や経済を築いてきた人たちのコミュニティが一晩のうちに抹消されてしまうのであれば、僕たちのようなベトナム難民や他の移民たちがこの国で生きていける見込みはあるのだろうか? こんな衝撃的な事実が政治の力で教科書から消されてしまうのであれば、歴史とはなんだろうか?
その後、Louieが大学やビジネス・スクールに進学してからも、実業界に入ってからも、その歴史を知っている人に出会うことは一度もなかった。あの日の授業が夢ではなかったのを彼が確認したのは、近年になって歴史家やジャーナリストや活動家たちによって、タルサ人種虐殺の歴史が掘り返されるようになってからである。そしてあの日、ミセス・ウォーカーは職を失うリスクを覚悟の上で、中学生の自分たちに歴史を教えてくれたのだと彼が理解するようになったのも、アメリカ生まれの二人の娘たちが学校に通うようになってからのことだった。
「タルサ人種虐殺」の歴史はアメリカで公に語られるようになったが、歴史・記憶・人種をめぐる闘いは、アメリカでも日本でも、今日も続いている。
ハワイ大学教授・東京大学教授