何がキトラ古墳の壁画を今に伝えたのか?【猪熊兼勝】

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『公研』2022年9月号「私の生き方」

京都橘大学名誉教授、考古学者 猪熊兼勝

 

応仁の乱で焼け出される

──猪熊家は由緒ある家系だそうですね。

猪熊 平野神社(京都市北区)の神職をつとめる卜部氏が先祖になります。そして卜部氏は中臣姓に変わります。桜の名所でも知られる平野神社は、今木皇大神(いまきすめおおかみ)や久度大神(くどのおおかみ)などいろいろなカミさんを祀っていますが、桓武天皇の生母で百済系の人である高野新笠も祀っています。卜部神道は、後に大きく二つに分かれますが、分かれた吉田家には『徒然草』を書いた吉田兼好がいます。

 今も猪熊通りがありますが、先祖は代々、猪熊通一条に住んでいました。ところが、応仁の乱で焼け出されるんです。その後は、玉藻城(高松城の別名、現・玉藻公園)を居城とする松平家の庇護を受けて、讃岐へ渡ります。大川郡にある白鳥神社の宮司をつとめ、神社の隣に住んでいました。その猪熊邸は、明治時代に解放されたときには100ほど部屋があったそうで、今は小さくなっていますが、重要文化財に指定されています。ちなみに祖母の実家は河内の吉村邸で国宝、母の実家も登録文化財で、現在、我が家はおんぼろ家屋です。

 幕末にまた京都に帰ってきて京都御苑の一角に住みますが、明治になって御苑から公家が追い出されて河原町丸太町に住みます。曽祖父の夏樹の代のことです。私も場所は違いますが、その近くで育ちました。

 猪熊家は公家や武家の儀式や典礼、衣服などを研究する有職故実を家学としてきました。曽祖父は白峰神宮、護王神社の神職をつとめた後に、京都師範学校や京都府立第一高等女学校の先生になります。明治天皇に『日本書紀』や『古事記』を御進講させていただきました。

 父の兼繁も学者で、京都大学で法制史を専門にしていました。有職故実として古代の服飾についても研究しておりました。ところが、昭和8年の滝川事件に抗議するかたちで京都大学を辞職しています。法学部の瀧川幸辰先生は、姦通罪で女性を有罪にすることは女性差別だと『刑法読本』に書かれました。それに対して当時の文部大臣、鳩山一郎は瀧川先生をクビにしたんですね。その対処に抗議して法学部の先生が全員辞職しました。

 去った先生たちは戦後にまた京大に復帰しますが、それまでは民間企業に就職したり、他の大学の先生になったりしています。この時、父は奈良県と近畿日本鉄道の嘱託になるんです。おじいさんの仕事の手伝いもしていましたから、勤務時間に融通の効く嘱託を選んだと聞いています。戦後に京都大学に戻りますが、私は「おとうちゃんは電車の車掌や」と聞いて育ちました。

──お父様は戦争についてはどのように受け止めていましたか?

猪熊 戦争中は晩になっても電気を消さへんし、家からB29が飛んでいるのを見上げていましたから、国防の人から「非国民」と呼ばれていました。戦後には、米軍の憲兵が乗ったGHQのジープが家の前に着きまして、親父が連れて行かれました。私はてっきり捕まえられたのだと思いましたが、実際は日本の家族法について説明を求められたそうです。いま盛んに議論されていますが、「結婚したら妻は夫の姓を名乗ってきた」とか「1300年前から戸籍がある」など「粗野なアメリカと違う」と話したと聞いています。

 戦後のどさくさで、ゼミの学生さんも生活に窮しておられましたから、一緒に夕飯を食べたり、連れ添って銭湯に行き、私とも一緒にゴロ寝でした。家族ぐるみで学生さんと付き合いました。親父は学生を私たち家族に任せといて、祇園町へ毎日通っていました(笑)。

 

京都の伝統芸能を復興させた父

──羽振りがいいですね。

猪熊 いえいえ、祇園町に通えるほど給料をもらっていませんから、家族はたいへん惨めなものでした。親父は、戦時中に衰退した京都の伝統芸能の復活に取り組んでいました。六斎念仏や花街の島原で行われていた太夫道中の復元にも尽力しています。島原は昭和33年の赤線禁止法で廃止されますが、「太夫道中の文化は残すべきだ」と運動してたんです。私もよく角屋(すみ や)という有名なお茶屋へ連れていってもらいました。

 それから壬生狂言は、たくさんの大きな素焼きの皿(焙烙(ほうろく))を豪快に落とすところが見所になっているけど、当時は小さな皿をポションと落としていました。それを親父は、豪快にドサッと落とす元のやり方に戻したんですね。そんなことをして、伝統文化を京都に再び根づかせました。京都の文化を残すことを楽しんでいたのでしょう。

──法制史というお堅い学問が専門でありながら、華やかなことが好きなのですね。

猪熊 表向きにはそうでしたね。実は、曽祖父の代から「都をどり」の作詞をしてました。「法学部の先生やのに」とよく言われますけど、三代続けて関わりました。親父の葬儀の時、祇園町の芸妓・舞妓さんが、全員、貸し切りバスでお悔やみに来られ、並ばれました。弔問客が喜ばれました。祇園町の方がこられて「引き継ぐか?」と誘われたんですが、私にはそういう素養はありませんのでお断りしたことがあります。かつて祇園町の関係者で猪熊を知らないとモグリでしたが、今、私のほうがモグリで、誰も知りません。

 

ヤクザ屋さんの息子を殴って泣かす

──1937年のお生まれですね。どんな少年時代を過ごされましたか?

猪熊 3歳のときに母親を亡くしていますが、その時の記憶はありません。小学生の時は、御所の石垣を登り、蝉の幼虫、鴨川のドジョウ採りに夢中でした。中学になると学区内の先斗町や木屋町界隈と遊び場が広がりました。先斗町の歌舞練場で「鴨川踊」の木戸をすり抜ける遊びをしたりしました。とにかく元気ないたずら坊主でした(笑)。中学の同級生に繁華街を仕切っているヤクザ屋さんの親分の息子がいて、殴って泣かしましたこともあります。彼が親分を継いでから、会いますと「わしが泣かされたのは、お前だけや」と言うてました。その後、彼を見かけませんが、どうしているのでしょう……

──高校は、名門の京都府立鴨沂(おう き)高校に進まれていますね。

猪熊 楽しい高校生活でした。鴨沂高校は150年前の明治5年、日本最初の女学校として開学します。府一と呼ばれた名門でした。曽祖父同様、祖父もそこの先生でした。森光子さんが在籍していました。戦後、一中と一緒になり、二つのエリート校が一緒になりましたが、教室不足のため、午前は一中の男子、午後は府一の女子となりました。在校生の山本富士子さんにラブレターを出した強者もいたそうです。他に芸能人は田宮二郎、団令子、加茂さくら、沢田研二さんなどが同窓です。

 戦前の府一は皇室を崇拝する女学校でしたが、戦後は反対に自由で民主的な校風に変わります。私が入学する23年前、社会情勢が不安定になり、火炎瓶闘争が起きました。10人程の生徒が逮捕され、数人が懲役となりました。20歳を過ぎていたようです。名前を出したらたいへんなお家の子女ばかりで、そのうちの一人が文化勲章の日本画家、秋野不矩さんの息子さんです。もうお二人とも故人ですのでお名前を言わせていただきます。

 また、刑務所に入った人のなかにはコンサイス英和辞典をもっていった生徒もいました。後に京都の全学連委員長や、べ平連代表、『思想の科学』の編集に携わるなどして、最後に自死した伝説の人です。

 優秀な先生もたくさんおられました。日本史は上田正昭先生に教わりました。習った23年後京大の先生になられました。当時は民主的な先生の代表でしたよ。晩年は微妙なお立場でしたね。朝鮮半島から日本に渡ってきた帰化人を、渡来人という名前に変えたり、被差別問題についてはたいへん前進的な立場をとられました。古代の日韓交流を再現する四天王寺ワッソには、上田先生と韓国の先生の推薦で加わったんですよ。

 高校3年生の3学期はもう授業はしはらへんで、その代わり岩波新書の『昭和史』を教科書にしはりました。「こういうことは学校で習わないだろうけれど、私はあえて教えておきたい」と言われていたことをよく覚えています。

 

高校で上田正昭、予備校で門脇禎治に学ぶ

──高校で上田先生の講義を受けられるのはとても贅沢ですね。

猪熊 鴨沂は大学と一緒で単位制ですから自分で時間割をつくって、その時間に講義をやる教室へ行けばいい。先生も出席なんかとらはらへんし、先生が20分来はらへんかったらブランクと呼ばれる休講になりました。そうなるとみんな御所へ遊びに行っていました。よその高校の人が聞いたらびっくりするような、とても自由な校風でした。

 生徒たちも高校生活は楽しく学ぶことと思っていました。受験なんて気にしんと遊んでばかりいたので、卒業直前になると「大学行かなあかん」と慌てることになる。予備校に行ったら鴨沂の同級生がいっぱいいました(笑)。

 予備校では大化改新否定説を出された門脇禎治先生(歴史家、京都府立大学名誉教授)から講義を受けています。上田先生、門脇先生は「君は私の弟子や」と言うてはりました(笑)。

 当時、予備校で講師をされていた門脇先生は、後に京都橘大学の学長になられます。私が奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)を定年になる2年ほど前に、先生から「文化財学科をつくるんやけど、来ないか」と声を掛けていただきました。すると、近鉄電車に「京都橘大学文化財学学科新設」という車内広告がぶら下がり、着任予定教授として私の名前が載りました。「定年前の公務員が次の仕事が決まっている」なんてからかわれました。

 予備校では受験勉強しましたが、それでもなかなか追い付かへんし京大を受けても落ちるしで、関西大学に進むことになりました。

 

「ちょっと発掘の手伝いしてくれへんか」

──この頃には考古学や歴史を学びたいという方向性は定まっていたのですか?

猪熊 ええ、関西大学には、考古学では初めとなる文化勲章を受章された末永雅雄先生、それから横田健一先生、薗田香融先生という古代史の大先生がおられました。そうした先生たちに習い、自然に古代史や考古学に夢中になりました。ただ時代の成り行きでしょうが、いろいろな発掘調査に参加しましたから講義を受けた記憶はほとんどないんです(笑)。末永先生から「ちょっと発掘の手伝いしてくれへんか」と申されて、発掘の毎日でした。

 大坂城も発掘しました。この調査では大坂城の地下10メートル下まで降りました。作業は大林組が請け負っていましたが、若かった私は新入りの人夫さんに間違えられたこともありました(笑)。掘り進めたら、大坂城がもう一つ埋まっていたんです。これをつくったのは秀吉なのか、家康なのか、あるいは石山本願寺なのかが議論になりました。結局この時に見つかったのは秀吉の大坂城で、現在残る石垣が家康の大阪城ということがわかりました。けれど建物は、昭和2年に大林組が建てたのです。

 大学院生の頃で、私は一人であちこちの発掘をさせられました。奈良でも興福寺門跡の一条院跡の一部ですが、十人ほどの作業員を使い調査をしました。作業員はヤクザ屋さんが手配してくれたのですが、「おっちゃん何処から来たの」と聞いたら、「広島の刑務所や」と言われました。「なんで刑務所にいたの」とさらに聞くと、「ひと殺したのや」と。ビックリしましたが、そんな人とも仲良くなりました。

 1960年代は、遺跡の発掘が段々と大がかりになっていった時代でもありました。ちょうど日本列島改造の真っ最中で、全国に高速道路やニュータウンができる時代でした。遺跡の発掘調査は、開発の尖兵隊として行われていたわけです。それ以前の調査は夏休みに大学の先生が学生を連れて発掘するのが主でしたから、微々たる調査しかできなかったのです。けれども、道路公団などが主体となった大規模発掘では、この頃から日当が出るようになったんですね。ただ、私の習った先生は、「お金稼ぎに発掘に行ったらあかん」という考え方をされていましたから、日当の出る発掘に行ったことはありませんでした。それでも、初めて発掘でお金をもらったのは、大阪府千里ニュータウンの調査で日当100円をもらったことがあります。他所では400円や600円という調査もあって、日当を目当てに行く学生も多かったんです。

 ところが、奈良県の発掘調査は日当がなく、行く人がありませんでした。それで、私ともう一人の友だちの二人だけが、奈良県での発掘に携わりました。遺跡は一級でした。今となってはとても貴重な体験だったと思っています。

 

年間300日発掘作業に従事する

──日当はなくとも多くの経験を積むことができた。 

猪熊 そうですね。法隆寺北の中宮寺の発掘にも行きました。あそこは尼寺でして、男の人は入ることができません。かって、寺の男衆(おとこ し)が使っていた建物に寝泊まりしました。裏口から焼魚と牛乳を入れてくれて、特別扱いでした。中宮寺は、格式高い門跡寺院です。門跡というのは、皇室一門や公家が出家して住職を務める寺院を言います。表にも「中宮寺門跡」と書いてあります。見学のため若いカップルがやってきても「あれ、ここは門の跡や、見てもしゃあない」と帰る人もいた時代でしたね。

 本当に年中発掘に明け暮れていました。雨が降ったら建造物に覆われている壷阪寺などの修理現場の地下調査をして、1年間で300日近く発掘したこともあります。どうやって学校に行ったんかなと今でも不思議に思いますが、それでも卒業しました。

 関大へ行った目的は末永先生に武家故実を習うためでした。けれど、発掘で明け暮れた学生の頃は教えてもらえませんでした。晩年、先生のお家で一日いろいろな話を伺う機会があって、鎧など武家故実についても教えていただきました。先生は、「君には武家故実を教えることができなかったが、今日ですべて教えたことにしてくれ」と言わはりました(笑)。

 

関西考古学にあった二つの派閥

──大学院を修了されますが、就職先はすぐに見つかったのでしょうか?

猪熊 その頃、大野伴睦さん(衆議院議長、自民党幹事長などを歴任)や薬師寺の管長をされていた橋本凝胤さんなどが一緒になって平城宮跡地を国が買い上げる運動が推進されていました。買い上げが決まると、「早く発掘しなければ、あかんやないか」という話になったんですね。それで全国の大学に声を掛けて、考古学や古代史の院生にひと夏のあいだ、発掘実習をすることになりました。後から思うと、試験のようでした。その翌年、岸内閣は平城宮の本格的に発掘することを決定して、それまで数人体制だったものを一気に20人程採用することになりました。私は言わば、どさくさに紛れて奈良国立文化財研究所の研究員に採用されたんです。

 当時、関西の考古学には二つの派閥がありました。一つは梅原末治先生、小林行雄先生中心の京都大学。対して関西大学の末永先生でした。そうした経緯もあって、当時は奈良県立橿原考古学研究所は関大派の人しか入れない。奈良国立文化財研究所は、京大系の人しか入らないといった厳しい縄張りがありました。ですから私は、兄弟子にあたる森浩一(歴史家、同志社大学名誉教授)さんなどの橿原考古学研究所側から見たら、敵陣営に行ったことになります。両方から嫌味を言われました。

 のちに私は3人の先生から可愛がられました。そんな研究者はいないと自慢しています。もちろん、そうした縄張りはだんだん消えていきました。両方の所員もかつての時代のことを知っている人はほとんどいないのが現状です。考古学も時代が変わりました。

「うわーゲンブ、玄武がある!」

──猪熊さんは、高松塚古墳、キトラ古墳という石室内に壁画が描かれた古墳の発掘に携わっていますね。発掘調査の経緯をお聞かせください。

猪熊 キトラ古墳はNHKから「発掘をせずに、古墳の内部を撮影する番組に協力してくれないか」というお話があったことが最初でした。おもしろそうだし、私は関わることになりました。今までは、考古学の発掘の第一歩はスコップで掘ることからでしたが、盗掘された際にできた孔からファイバースコープの機械を石室内に入れることで、内部を撮影しようという考古学の発掘調査の方法としては、革命的な試みでした。胃カメラの理屈です。

 実際にファイバースコープを入れますと、北側の壁に極彩色壁画が描かれていることがわかり、そこに古代の北を示す蛇と亀の絡まった映像を捉えました。数年前の高松塚の経験から「うわーゲンブ、玄武がある!」と驚きました。けれどもその時は、ファイバースコープのレンズが外れてしまったために調査はそれで終わったんです。1983年に行われた第1次調査のことです。

 最初に見た時は、古墳かどうかもまだわからなかったんです。キトラ古墳という名前もまだ付いてへんところで、無名の丘でした。地元に人に聞いたら「キトラっちゅうんや。カタカナで書くんや」と言っていました。それで私は論文を書くときに「キトラ古墳」という名前を付けたんですよ。キトラ古墳のゴッドファーザーです。

 後になってから、「四神のうち北を司る亀(玄武)と西を司る虎(白虎)にキトラは由来している。壁画が描かれていたことは最初からわかっていた」なんてアホなことを言う人もいましたが、最初は何もわからなかったんです。

 

世界最古の天文図

──2次調査は1998年でしたから、ずいぶん時間があきました。15年も経っている。

猪熊 キトラ古墳は、住民の方々が使っている道路際にあったんです。「調査されると、道路が通れなくなるから協力できない」と言われたんですね。それで新しく迂回道路が完成するまではできなかった。道路ができて、NHKにもう一回調査を頼みに行ったのですが、「他社のニュースになることをなぜ自分たちがつくらなければならないのだ」と言って、断られてしまいます。1次調査の時は、NHKの独占番組でしたが、2次調査はすでに世間の関心を集めていましたからね。他社にもあたってみましたが、どこへ行っても断られました。文化庁も冷ややかでした。

 そうこうしているうちに阪神・淡路大震災が起きるなどいろいろなことが起きたために、キトラの発掘調査はどこからも敬遠されていたのですが、15年目にNHKに頼み込んでやっとOKをとることができました。すでに超小型カメラの時代になっていました。NHKでは1次調査のメンバーはすで退職者もいて、新しいチームを組まれました。調査を始めると、最初は全然見つからへんかった。ところが、終わり間近にレンズを入れ替えたら、突然、白虎が出てきて、それから青龍が見えた。天井には、金箔の星が輝き、朱線の輪が3本ありました。中央には北斗七星も輝いていました。

 私は中国の古い天文図をメモした資料を持っていたのですが、それとほとんど同じ星座が映ったんです。報道陣からは「朝刊に間に合うためには夕方4時までに調査結果の発表をしてほしい」と言われていました。すぐに職場に電話して、中国の天文図を取り寄せました。3時過ぎに持ってきてもらって、私はいかにも昔から知っていたようなフリをして、「今回見つかったものは東アジアで最古級の天文図」であると発表しました(笑)。その後、この天文図は東アジアだけではなくて、世界でも最古の天文図であることがわかったんです。

 

盗掘者のおかげで壁画が残った?

──キトラ古墳の天文図は古代のロマンを掻き立てるものがありました。

猪熊 3次調査以降は文化庁がやることになりましたが、そんな機材はあらへんのです。それで、奈良文化財研究所の藤原宮調査部の井上直夫さんと相談しました。彼は大変器用な人で、ご自分でデジカメを組み合わせ、試行錯誤しながら調査を続けました。ちょうどデジカメの精度が日毎に改良される頃でした。おかげで石室内部を覗く毎に新しい発見がありました。結果として十二支が見つかり、最後には扉の裏側にあの朱雀が見つかりました。手塚治虫の火の鳥でした。井上さんの功績大です。

 私は、高松塚もキトラも時を選んで見つかったのやないかなと思っています。高松塚古墳の発掘調査は1972年ですが、ちょうどこの頃にカラーテレビが普及して、新聞もカラー印刷ができるようになったんです。「飛鳥美人」としても有名な女子群像の艶やかな色彩を国民に広く知ってもらうことができるタイミングでした。キトラ古墳の場合は、デジカメの発達と調査が一致したのが幸いだったと思う。村の反対があったために15年間調査に入れなかったけど、結果的にはそれが良かった。

 皮肉な表現ですが、高松塚やキトラの壁画を提供してくれた最大の功労者は、室町時代の盗掘者だと思いますよ。盗掘穴があったことで、石室内に壁画があることを事前にキャッチできました。もし盗掘されていなかったら、それまでの発掘と同じように私たちは石室の天井を持ち上げたのだと思います。そうしたら、壁画も天井に描かれた天文図も無茶苦茶になっていたでしょう。

 それに石室内に副葬品をあまり埋葬しない時代の古墳ですから、石室を開けた盗掘者は「なんやこれは。空っぽやった」とすぐに断念してその場から離れた。これがもしも遺物がたくさん入っていたら、石室内をぐちゃくちゃにしたでしょう。

 私の小学校の同級生に祇園町で小ますさんと云う芸妓さんがいるんです。私と同い年ですから、最高齢の芸妓です。法隆寺近くの藤ノ木古墳の発掘調査では、毎日テレビが耳飾りやバンドそれから太刀を映しました。彼女から「あれは現場でオークションしてはるんですか? 売れたら次を掘らはるのですか?」なんて電話してきたことがありました(笑)。一般の人からすれば、埋葬品がたくさん出てくると喜ぶわけですが、キトラではむしろ遺物がなかったことが幸いしました。多くのラッキーが重なったことで壁画が残ったのだと思います。

──そう考えると発掘調査は、その時々の最先端の技術を駆使すべきですね。

猪熊 日本の考古学は、時によりますが最先端の機器を使います。考古学はその恩恵を受けています。一方、発掘を「遺跡破壊だ」と言う人もいます。せやけれど、発掘しなければ何もわからない(笑)。だから、後世の研究者のために半分だけ掘るという人もいます。全部掘ってしまったら、何も残らないです。遺跡の断面調査は、羊羹やカステラを切るような慎重さで挑みます。

 

纏向(まき むく)遺跡は卑弥呼の宮殿?

──桜井市の纏向遺跡などは、邪馬台国を特定するためにも大規模な発掘調査がなされても良いのではないかと思っています。

猪熊 私もそう思います。邪馬台国は、古代史の最大のロマンですからね。邪馬台国論争は弥生時代の遺跡ナンバーワン探しになっています。私は、纏向遺跡は邪馬台国の卑弥呼の宮殿に近いと思います。それは、連続する大和朝廷の古墳群と一体の地にあるからです。佐賀県の吉野ケ里遺跡は纏向遺跡を超える遺跡かもしれません。なぜならば、考古学で探す邪馬台国と文献に記載された邪馬台国とは違うからでしょう。二つの邪馬台国説です。

 同時に大規模な発掘調査は、やはり膨大な費用、日にち、スタッフが必要です。そして何よりも地元の協力が必要です。例に挙げられた桜井市は、纏向だけではなくて重要な遺跡が他にも埋まっているので、どこに優先順位を付けることも難しいところです。

 先ほども言いましたが、考古学は開発側の尖兵隊でもあったわけです。昭和40年代に各地で発掘調査が進んだのは、開発のために発掘していたところがありました。今は経済も悪くなってきているので、どんどん開発しようという状況ではありません。それに合わせて、発掘も今はゆっくりになってしまった。自治体で雇っている職員の給料を払うのも大変だろうと思います。ですから、発掘調査は日本の経済状況を反映しているのです。

──遺跡が発見されると、開発が滞ることになりますよね。

猪熊 開発業者の方には、考古学調査を敵対視する人もいます。遺跡が見つかると、その着工が遅れ、発掘費用を負担しなければならないですからね。私もロータリークラブなどでお話をする機会がありますが、そうすると必ず建設会社の方がおられ、「ワシはお前らにはえらい目に遭っているんじゃ」と一言言わなければ気が済まない人がおられます。最近ではあまりそういうことはなくなりましたが、私のほうも丁寧に説明して、「交通事故に遭ったと思ってください」と言うんです。

 本来ならば、国がそういう費用を出せばいいんですが、莫大なお金ですからなかなか出せません。ただ、重要な遺跡が出たら国が買い上げるという頻度が増えていますから、かつてよりも文化財も保存されるようになってきました。

 いま飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群をユネスコの世界遺産に登録しようと推進していますが、桜井の大和朝廷の古墳群も将来はそうした対象になるものだろうと思います。

 

高松塚とキトラの被葬者は誰なのか

──今回のインタビューは読者から「ぜひ猪熊先生に話を聞いてきてほしい」とリクエストがありました。その方から質問を二つ預かってきています。一つは、「高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者が誰なのか?」という質問です。

猪熊 年代順に追っていくと、まず672年に起きた古代史上最大の内乱「壬申の乱」が起きます。この時に大海人皇子──後の天武天皇です──は、「私の周りにはリーダーシップをとる人がいない」と嘆くんです。長男であった高市皇子は「私がいるじゃありませんか」と総司令官になって、大友皇子に打ち勝ち壬申の乱の勝利を導きます。

 即位した天武天皇は、藤原宮を造営します。この時に、京の中心である朱雀大路を南にずっと伸ばした地点に自分の陵墓をつくります。ですから、藤原宮と天武天皇陵は線で結ばれるわけです。そして、その線の延長線上には、中尾山古墳、天武・持統陵、高松塚古墳ときて、一番南のところにキトラ古墳があります。私はこの「聖なるライン」に注目していて、この線上には天武天皇と縁のある重要人物が埋葬されていると考えているんです。

 天武天皇が亡くなった後には、次の天皇を誰にするのかということが大きな問題になりました。皇后の持統天皇は当然、自分の子どもの草壁皇子を即位させようとしていましたが、天皇の喪中に草壁皇子は亡くなります。次の天皇となる皇太子がいなりました。高市皇子は、そうした状況のなかで、持統天皇を支える役割を果たします。また天武天皇を天皇にした功労者ですから、高市皇子は聖なるライン上にあるキトラ古墳に埋葬されるにふさわしい人物です。キトラ古墳は明らかに高市皇子の墓です。

 

高松塚は飛鳥の古墳の最高傑作

──高松塚古墳の埋葬者はどのように考えますか? 

猪熊 キトラ古墳の後につくられた高松塚は、文武天皇の時代の古墳です。701年に日本で最初の法律である大宝律令がつくられますが、その責任者は忍壁皇子でした。その部下に粟田真人という人物がいて、彼が大宝律令を編纂した中心的な人物です。唐の資料を参考にしながら一生懸命につくりました。

 大宝律令が完成すると、粟田真人は遣唐使に選ばれて唐に渡り、あの則天武后にも招かれて饗応を受けます。彼の「知識や仕草、所作振る舞いが素晴らしい」と則天武后からもとても褒められたそうです。あのおっかないおばさんから褒められたのは、彼ぐらいしかいないんちゃうかなと思えます。この時に、どうやら鏡をもらいました。その鏡は円盤投げのような銅製で裏面に葡萄と禽獣を浮彫した海獣葡萄鏡です。同じ鋳型の鏡が唐の高級官僚の墓に埋葬されています。

 粟田直人によって持ち帰られた海獣葡萄鏡は、自分の上司である忍壁皇子のお墓に葬られたのではないか、このことに気付いたのが中国社会科学院の王仲殊先生でした。この説は大切だと思います。私はその王説を膨らませました。高松塚には、海獣葡萄鏡以外にも唐の太刀や宝相華文という金銅のメタルが発掘されました。そうした中国の最新文化を日本に持ち帰られました。そう考えると高松塚古墳の埋葬者は、彼の上司である忍壁皇子と考えます。高松塚の壁には、大宝律令の儀式に関連するシーンが描かれています。

 高松塚古墳の石室は百済の王室を真似ていますが、中に入っているものは唐の文化です。日本、韓国、中国の文化が一体となった高松塚古墳は、飛鳥でも最高の古墳だと思っています。二皇子は皇太子にはなれなかったけれど、皇太子に代わる位をもらった二人だけがキトラと高松塚の壁画古墳に埋葬されたと考えています。飛鳥の京では、この二人以外にはその立場になる人がいなかった。ちなみに、私は高松塚の壁画発見後10年間、保存施設ができるまで高松塚のすべてを担当しました。

──高松塚は、東アジアの文化の集積を象徴する古墳なのですね。

猪熊 今は韓国との関係が悪化しているし、中国はあたかも唐代のように、東アジアを君臨する君子になろうとしているようにも見えるわけです。周辺国に対して「中国の旗の下に従え」といった態度でいますが、それは行き過ぎです。かって唐は、東アジアを制覇したのと同時に日本にも多くの大文化を伝えました。その中国文化圏に韓国も日本も入っていて、三国はよい結び付きの関係にありました。

 特に百済とは運命共同体でした。百済の王家が滅びた後は、日本に王族などの亡命者が渡って、日本文化にも貢献しました。百済王家は大阪の枚方を中心に居留しています。「百済王家」という新しい苗字をもらって、その王族は数百年の間、活躍をして天皇家とたいへん懇意な関係を結びました。桓武天皇は、「朕の祖先は、百済なり」と言っています。上皇様も百済との関係にご関心がおありと伺っています。

 

藤ノ木古墳から出土した鞍のハンドル

──もう一つの質問です。家形石棺に二人が合葬されていたことで注目を浴びた斑鳩の藤ノ木古墳の埋葬者はどうお考えでしょうか?

猪熊 人類学の片山一道さん(京都大学名誉教授)は、棺に入っていたのは二人とも男性であるという説を主張されています。藤ノ木古墳の発掘の4年後に、靴の中から出てきた骨の太さからそう判断されたわけです。男・男説が出るとすぐにマスコミから「同性愛はいつから始まるのですか?」と電話がありました。けれどもそういうものは、人類の発生と共にあるんでしょうから、私は何ともお答えしようがなかったんです。

藤ノ木古墳から出土した金銅製鞍(共同提供)。

 それよりも、片山さんが4年も掛かって考えられた説がちょっと「おかしいんちゃうか」とご本人に申したことがあります。現在でも小柄な男性もいるし、男性のように逞しい女性もいますから、骨の大きさだけでは決められへんのじゃないかと思います。

 私は、女性と男性が埋葬されているのではないかと考えています。あまり注目されていませんが、藤ノ木古墳では立派な鞍が出ていて、そこには立派なガラスの細工がしてあるハンドルが付いているんです。鞍の後ろに、持ち手があるわけです。これと同じものが、韓国の慶州の皇南大塚という王陵クラスの古墳から出土しています。同じように取手が付いていて、そこに「婦人帯」と書いた木札が付いています。明らかに女性の持ち物です。私はラテンアメリカによく行っていましたが、女性が横乗りで馬に乗っているのを見てびっくりしました。馬を横乗りで乗ると、手で持つところが必要になります。考古学の立場から申しますと、一人は女性です。人骨がなければ女性で決まりでした。

 『日本書紀』の天武天皇条に「40歳以上の女性が馬に乗るときは、横乗りでも構わない」という天皇の詔があります。この時に馬には跨ってのらなければならないことが決まるわけです。ただし、40歳の以上の女性は言うことを聞かんからほっとけ、と(笑)。

 私は藤ノ木古墳がつくられた時代は、女性は横乗りで馬に乗っていたと考えています。そうすると、一つの鞍は、女性用の鞍になる。棺に女性が一緒に入るのは、母親の系統を強調するためです。当時の実力者は蘇我氏ですから、皇子と一緒に母が入ることで蘇我氏の系統であることを強調する狙いがあるわけです。欽明天皇には6人の女性がいて、そのうち2人が蘇我氏の系統です。蘇我馬子のお父さんである蘇我稲目の娘である堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)です。用明天皇と推古天皇を産んだ堅塩媛は、見瀬丸山古墳に埋葬されていることが明らかになっています。そうなると小姉君が浮上してくる。ですから鞍の持ち主は小姉君で、もう一人は彼女が産んだ男の子の誰かが入っているのではないかと考えています。

 小姉君は、茨城皇子、葛城皇子、穴穂部皇子(あな ほ べの み こ)、そして暗殺された崇峻天皇の4人の皇子を産んでいます。藤ノ木古墳は、崇峻天皇が暗殺された592年よりも年代が古いと見られるので、残りの3人が候補になりますが、穴穂部皇子は587年に皇位継承に敗れて殺害されています。古墳は、埋葬された人も重要ですが、つくった人も重要です。現在でも葬式では、誰が喪主を務めるのかが大事ですよね。そう考えると、敗者と合葬する可能性は少ないのではないかと思うんです。

──被葬者を考察する話を聞く度に、なぜお墓に名前を銘記しておかなかったのだろうかと疑問に感じます。

猪熊 群馬県に被葬者を示唆する石碑が立つ古墳があります。奈良時代になると銅板に被葬者銘を納める火葬墓もありますが、それまでは名前を言わんかて誰もがわかっていたのでしょう。1400年経って、あれこれ噂され本人も驚いているのでしょう。

 私は『日本書紀』に書かれている地域、大和の南部と河内の一部については、古墳が集中していますが、その被葬者は具体的な名前を挙げてもいいと思っています。今までの考古学の常識では、その地域の首長や有力者の墓であるとしか言えなくて、具体的な名前を挙げることはタブーだったんです。

 私は昭和40年ぐらいから、「古墳には表札を上げよう」というスローガンを掲げてきました。新しいデータが出ることで被葬者が覆ることがあれば、また変えたらいいんです。表札があれば、歴史と古墳が具体化して理解し易くなると思うんです。

 それから勤務していた奈良文化財研究所の飛鳥資料館では、人物が登場するポスターをつくりました。興福寺の仏頭を金箔貼に復元した際には、その年のミスユニバース代表に高松塚の服装を着てもらいました。それまでの博物館のポスターは、文化財が主役で人物は論外でしたが、私はそれにも挑戦しました。どういう人が、この文物を使っていたか、文献やデータを積み上げることで考察していたわけですが、高松塚古墳の人物群の壁画は、服装や髪形まで鮮明に描かれていましたから、それを一気に解消したところがありましたね。

──確かにビジュアルで見られるとイメージしやすいですね。

猪熊 もちろん、考古学の本来の仕事はもっと地道なものです。研究者が、破片の土器を復元し、データを一つひとつ積み重ねていくものです。研究者をシャーロック・ホームズのような探偵に例える人もいますが、そうした飛び抜けた探偵である必要はないはずなんです。

 その一方で、やはり考古学をより多く人に身近に感じてもらいとも考えています。そもそも発掘の原点は「花咲かじいさん」に出てくる老夫婦が「ここ掘れワンワン」と掘っているようなものでして、一般の方にとっても実感できるところにあるんだろうと思います。

 考古学の学び始めは一歩でも学問的な領域に踏み込みます。悪くはないんですが、人が堀った穴を「土壙」と呼んだり、掘出すことを「検出した」と言ったりする。簡単に「穴を掘った」と置き換えたら、味もそっけもないようになりますけれども、本来そういうものだろうと思うんです。私は一般の人と話をするときには、できるだけ専門用語を使わないようにしています。少々安っぽく聞こえるかもしれません。

 

埋葬の仕方から国家の姿を考察する

──「死生観」をお聞かせいただけますか? 古墳はお墓でもあります。 

猪熊 「古墳が専門だ」と言いますと、一般の人々かあら「お墓を掘ったら、気持ち悪いでっしゃろ」とよく言われます(笑)。湿度の高い日本では、人骨は滅多に出てきませんが、人骨が出てきたら、より慎重になりますね。柩がある古墳はどちら向きに葬られていたかチェックします。豪華なアクセサリーで着飾った被葬者の場合、首のところには首飾り、頭には冠、両耳のところには耳飾りがあって、それでそこに顔があったことがわかるわけです。透明人間のようになっていて、遺体は出てきません。私たちは、そこから出土した遺物から古墳時代の文化を復元して、埋葬品を持っていた人の政治的立場などを復元しながら、最終的には国家のあり方について考えています。ですから、魂の世界にはあまり立ち入りません。

 飛鳥時代の古墳研究者としては、死んだ直後の儀式に注目します。これが一番重要なんです。現在も一緒ですが、死んだ人よりも喪主、墓をつくる人の立場は大きな意味があるわけです。それから埋葬するための儀式の痕跡を探っているわけです。古墳の遺物を中心に見ていますが、そのため、古墳築造時の痕跡を重視して考えています。そこで参考になるのが『日本書紀』『古事記』などの記録です。

 『日本書紀』には天武天皇の殯(もがり)(通夜)に際して、皇族・高級官人層による度重なる誄(しのびごと)(弔辞)が読み上げられる様子が記載されています。誄は故人の業績を賛美し偲ぶ言葉です。これは喪主本人がやるわけではなくて、生前の功績を読み上げる役割の人もいました。

 なんだか社長や会長の社葬を連想します。埋葬される人物の立場を引き継いだ人、肉親、政治的立場の高い人、最後には韓国や中国の異国弔問使の順番に誄を読み上げます。天皇の場合には、それが延々と読み上げられ、日を変え、新しい天皇に引き継がれてもずっと続いた例もあります。この間に古墳をつくるのです。

 斉明天皇は九州で亡くなりますが、葬儀をしている最中に山の上から、鬼が大きな笠を被ってじっと葬儀の状況を熟視していた、という記載があります。これは斉明天皇が道教を信じていたことを示しています。天皇は、自ら自分が鬼になって、自分の葬儀をずっと注視したわけです。

──ありがとうございました。

聞き手:本誌 橋本淳一

 

 

 

ご経歴
いのくま かねかつ:1937年京都市生まれ。64年関西大学大学院修士課程修了後、奈良国立文化財研究所に勤務。同所埋蔵文化財センター研究指導部長、同所飛鳥藤原宮跡発掘調査部部長などを歴任。高松塚古墳、キトラ古墳などを始めとして、数多くの遺跡の発掘調査に従事。キトラ古墳の名付け親でもある。98年京都橘大学文学部教授、のちに同名誉教授。著書に『飛鳥の古墳を語る』、共著に『大王陵と古代豪族の謎』など。

 

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