『公研』2021年4月号「対話」
大庭三枝・神奈川大学法学部教授×吉原真里・ハワイ大学アメリカ研究学部教授×川上桃子・アジア経済研究所地域研究センター長
森発言を契機にしてジェンダーをめぐる議論が盛り上がりを見せている。
第一線で活躍する女性研究者にそれぞれの歩みを振り返っていただき、
現代日本のジェンダー力学のあり方を考える。
森発言をどのように受け止めたのか
大庭 今日は「1968年生まれ女性研究者が語るジェンダー──フェアで自由な社会の実現にむけて」というテーマで議論していきます。きっかけになったのは、やはり東京五輪・パラリンピック組織委員会前会長の森喜朗さんの「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」発言なんですね。あの発言にどうして自分はこんなにイライラするのかと考えてみたんです。まず思ったのが「男性も会議での発言が長いときも、結構あるのに」と。しかしそれ以上に深刻だな、と思ったのが、森さんの発言に対して誰も彼の発言を咎めようとしなかったことなんですね。つまりこれは森さん個人の問題ではなく、日本社会が持つ構造的な問題だろうと。
私自身は長い間、性別に関わりなく実力本位であるべきだとずっと考えてきました。よってフェミニズムやパリテ(男女均等、同数を推進する方策)にはかつては批判的でした。でも最近、重要な意思決定をする場において女性の割合をとにかくもっと増やすべきだと考えるようになりました。SNSでそうした発言をしたところ大きな反応があったのにもちょっと驚いたんですよね。もちろん批判的な人もいるけれど、同じことを考えている人が多いのだなあと。それで、今回このタイミングで私たちの歩みを振り返りつつ、現代日本の女性とジェンダーを考えて何らかのかたちで残しておくことも意義があるかなと思いました。
最初に私たちの関係について説明すると、私たち三人はみな1968年生まれで、私と(吉原)真里は中学、高校時代の同級生、しかも同じ文芸部に所属していました。(川上)桃子さんとはアジア研究者つながりで、以前からお互いのことは知ってはいましたが、親しくおつきあいするようになったのは最近のことです。真里と桃子さんは、大学の同学年ですよね?
吉原・川上 はい。
大庭 まずは森発言から始めたいと思います。お二人はどう受け止めました?
吉原 最初に頭に浮かんだのは、私の実体験に反しているということです。私はずっとアメリカで仕事をしてきているので、私の体験がそのまま日本に当てはまるとは思わないけれど、少なくとも私の職場では、女性が多くなればなるほど会議は効率的になっているのは確かです。かつては、アジェンダに無関係なことを延々としゃべるオジサマたちがたくさんいたけれども、女性が増えるにつれてそういうことはなくなりました。
こういう発言が立場ある人からなされると本当にうんざりします。ただ今回は、発言を受けて特に若い女性たちから抗議の声がたくさん上がり、いろいろなかたちでの発言やアクションの連携が見られたのは不幸中の幸いで、勇気を得られた気がしました。多くの男性も憤りを表明していたことからも、時代が変わってきているのを感じています。
川上 森発言を受けてハッとしたのは、実は自分もこうした視線を内面化していたな、ということです。私は、女性が少ない会議や研究会で同性が長く話す場面にでくわすと、ひやひやしてしまうし、自分が長く話したあとは、大丈夫だったかな、と心配になります。自分はこういう場面でのふるまい方のルールをよく知っている、ここにいる資格がある、と認めてほしい。そんな感情が抜き去りがたくあるんですね。いわゆる、わきまえグセです。だから森発言を聞いたときに、自分自身もそうした視線を女性に向けてきたことを強く反省させられました。男女が同数の場面ではそういう心理的圧力は感じないんですけれどね。
大庭 女性が少ない場だと自分をその場でメンバーだと認めてもらいたいというプレッシャーを感じるんですよね。私のようなかなり図々しい人間でも「わきまえ」ようとしてしまうことは結構あります。それがちゃんとできているかどうかは別問題ですが(苦笑)。
ただ、今回の騒動では、男性も含めて若い世代が敏感に反応したことに私も希望を持ちました。ここには世代間格差もありますよね。古い世代はある種の偏見があっても今までそれでやってきたわけだから、変えるのもなかなか難しい。けれども、若い人たちはそれを必ずしも共有するわけでもない。もちろん再生産されている構造もあるけれども、日本社会は確実に変わっていることも実感しました。
「女の子らしく」という足枷
大庭 それではちょっと私たちの個人的な歩みを振り返ってみます。私は東京出身で、昭和一桁の生まれで会社経営者の父とお嬢さん育ちで少々個性的な母のもとで育ちました。父は私によく、「いつも堂々としていなさい」「言いたいことははっきり言いなさい」と言って教育していました。昭和16年生まれの母もいわゆる「女の子の生きる道」を教育することはなくて、「好きに生きるのが一番いい」というスタンスでした。私が自分のやりたいようにやることを喜んでくれているようなところがあって、それを押し止めたりすることはほとんどなかった。二人とも年代からするともう少し保守的なのが普通かなと思うのですが全然そうではなく、かなり自由な環境で育ったと思います。
川上 私は仙台出身で、小中高と地元の公立学校で学びました。通っていた県立の女子校から東大に合格したのは私が二人目です。仙台は大きな都市ですが、「女子が東大に行くの?」という雰囲気は強かったので、心理的には高いハードルを越えて進学することになりました。東大に進んだのは、父が大学勤務の科学者だったことも含めて家庭環境の影響が強かったと思います。
とは言え、「女の子らしく」という足枷はそれなりにはありましたし、両親は、女性が長く続けられるような職業として、医者や研究者といった専門職に就くことを娘に期待していました。両親は「資格や専門性がなければ女性がこの社会で長く働いていくことはとても難しい」ということを教育投資の機会を通じて娘に教えたわけです。
吉原 私はごく一般的な東京のサラリーマン家庭で育ちました。両親とも昭和9年の生まれで、とりわけ保守的でも進歩的でもなく、特に女の子らしく育てようとされたこともなければ、「女性でも自立できるように」と言われたこともない。父は仕事その他で基本的に家庭不在、母は、女の子にはピアノやバレエをやらせるのが当たり前という感じの、当時のミドルクラスのごく普通のジェンダー観でした。
私の場合は、家庭の事情があって、高校生の時に「自分の人生は自分で切り拓いていかなければ」と意識的に覚悟を決めたところがありました。東大に進学しようと考えたのもそれが大きかった。
大庭 私も小さい頃から自立して生きて行くことを意識していました。普通にお嫁さんになるのはイヤ、仕事もガンガンやり、かつ結婚も当然するのだろうと考えていました。そしておそらく自分の未来の可能性をなるべく広くオープンにしておくためには学歴が絶対に必要だから受験に強い中高に行こうと決めてました。両親も大学まで行くのが当たり前という感じでしたし。
中学受験では紆余曲折経て、神奈川の桐蔭学園に行きました。もともとこの学校は男子校でしたが、当時は受験校として上り坂の時期で、私が受験する年に女子部を創設したんですよ。私は女子部中学一期生として入学し、そこで真里と出会いました。
吉原 私は父の仕事で小学5年生の途中からカリフォルニアで過ごし、中学1年生の終わりに日本に帰ってきて、帰国子女を途中で受け入れてくれる桐蔭に編入したんです。入ってみたら、桐蔭はかなり特殊な学校で、教育方針も文化も納得いかないことだらけだった。でも、今振り返ってみて一つありがたかったのは、元々男子校だったこともあって、良くも悪くも、女子教育に関する思想や理念みたいなものがなかった……と思う。
大庭 なかった。まったくその通り(笑)。
吉原 ミッション系の伝統ある女子校だったら、女子の理想像のようなものがあったのかもしれないけど、その類の価値観を桐蔭で押し付けられた記憶はまったくない。それに受験校だったから、勉強ができればそれで評価してもらえる空気があった。
私は当時からわきまえない女で(笑)、よく新聞に文章を投稿したり、弁論大会に出たりしていた。高1のときの弁論大会のトピックは「男らしさ、女らしさ」だったのを覚えている(笑)。そういうことをよくしていたけど、学校で周りから「お前はうるさい」とか「黙っていろ」と言われたことはないし、先生たちはむしろおもしろがって、応援してくれたり機会を与えたりしてくれた。
大庭 男子校の教員がそのまま女子部を育てることになったから、先生方は大変だったよね。男子生徒だけを相手にしていた先生方は女子の扱い方はまったくわからなかったらしくて、他方で我々の側は元気いっぱい(笑)。そういうなかですくすく育ったからなのか、女の子たちのさばけた加減がすごい。
真里も私もかなりいろいろ自由にやったけど、ちょっと目立ったことをやっても孤立したり、いじめられたりすることはなかったなあ。少なくとも個人的には。そういう意味では自由でいいところだった。
吉原 それから、桐蔭時代のことで大きかったのは、通学電車内での読書。
大庭 私と真里はちょうど通学路が重なっていて、都内から大井町線と田園都市線を乗り継いで通っていたんです。私もこの通学路で本はかなり読んだな。
吉原 私は片道1時間半ぐらいかかる通学路で、大井町線は始点から終点まで乗っていたから、座って本を読むことができた。5年間毎日電車で本を読んで過ごした読書経験が、自分の人格形成にかなり大きな意味を持ったと思う。当時つけていた読書日記を、この鼎談のためにちょっと取り出してきた(笑)。これを見ると、三島由紀夫、森鴎外、夏目漱石といった、中高生がみんな読むようなものも読んでいるけど、全体を通して見ると女性作家の本の割合がかなり高いことに驚いている。犬養道子、桐島洋子、田辺聖子、それから有吉佐和子や永井路子あたり。
大庭 私は歴史ものやSFやら。小松左京とか星新一などなど。あの頃はSFブームだった。一緒に読書日記をつけておけば良かったな。
吉原 そして私は1984年8月、だから高1の夏に、ボーヴォワールの『第二の性』を読んでいる。冒頭の「人は女に生まれない。女になるのだ」という一文に出会った時には、「わかった! こういうことなんだ!」と衝撃が走ったことをよく覚えている。私にとってすごくインパクトがあって、当時は「ジェンダー」なんて単語はまだ知らなかったけど、女性の問題に積極的な興味を持つようになったのはその頃からだった。
80年代の「東大女子」
大庭 次に大学時代を振り返ってみます。私は国際基督教大学(ICU)に進みました。真里と桃子さんは東大に合格しますから、いわゆる「東大女子」ですね。80年代の東大女子はどんな感じでした?
川上 法学部や経済学部に進むコースの文科I類、Ⅱ類では女子の比率が本当に低くて、1987年入学の私のクラスでは、約50数名のうち女子が6人しかいませんでした。ちなみに2020年度になっても、東大経済学部の女子比率はわずか18%です。これを台湾大学の経済学部の先生に話したら「ありえない!」と仰天されました。台湾大学では、政治学系の5割、経済学系の4割強が女子だそうです。
それはともかく、大学に入ってみたら、そこには紛れもなく日本社会の秩序がありました。最初のコンパですでに、女子の役割というものがはっきりあって、それをやることになったんですよ。お酒を継ぐとかお皿を回すとか。私は大庭さんや真里さんのようにハートが強くないので(笑)、内心では「何なのこれは?」と思いながら、せっせと取り皿を回したりしていました。
吉原 私は取り皿を回した記憶がないから、やっぱりやっていなかったんだと思う(笑)。当時の東大女子は、大きく分けて三つのタイプがあった。第一は、綺麗だったり可愛かったりして、多くの男子に憧れられるタイプの女性。第二は、女性性なんか別に問題としないで、勉強だったりスポーツだったり部活だったり、自分の好きなことに打ち込んでいる人たち。第三は、男子たちと一緒になってワーワーやっているタイプ。「one of the guys」みたいな感じで。
川上 わかる、わかる。
吉原 私は第三のタイプだった。男の友達と朝まで遊んだり雑魚寝したりしていた。過剰な女性性を求められたり恋愛の対象としてしか見られなかったりということはなかったから、人間として対等に付き合って良い関係を築けたのは恵まれていたと思うし、大学時代の男友達の多くは今でも親友。当時も、第三のタイプであることを自分の拠り所と言うかアイデンティティにしていた部分が少なからずあったと思う。でも今振り返ると、それは自分が「オトコ化」して、名誉男性みたいな立場で男社会や文化の中でやっていけるという自己満足だったかも知れない。そういう反省もある。あのまま行っていたら、それこそ飲み会は絶対断らないことを自負するような女性になっていたかも。
大庭 私は大学時代の特に前半が一番迷走していて、毎晩友人の下宿でのんだ暮れている「不良」でしたよ。まあその理由はさておき、ジェンダーという観点から一つあの時代に強烈に感じたのは、ICUでは中高時代よりもずっと男女の役割分担を意識させられることが多かったということ。例えば運動部のマネージャーは必ず女性で、かつ2年生で引退という規則があって、もちろん私はやらないというか誘われもしなかったけどなんかおかしいなあと。男女比も、若干女性が数的には多かったような気がするのだけど教室や部やサークルといった様々な場で、男性の発言権のほうが大きかった気がする。卒業後、ポンと海外に飛んで国際機関に勤めたり、移住しちゃうような人も多く、ユニークな大学なのだとは思う。だけど、ジェンダーに関してはけっこう保守的だったな、というのが私の個人的な印象。ただもしかしたら、今の桃子さんや真里の話を聞いていて、他の大学の状況はもっと保守的だったのかもしれないなと思った。ICUの自由さが忘れられないというOB、OGは多いし。
ちなみに、フェミニズムについて、大学時代にはどんなふうに感じていました?
吉原 私にとっては、フェミニズムへの興味が東大受験を決意したことに直接に結びついていたのだけど、いったん入ってしまったら、なんだかその方向性を見失ってしまったような気がする。ボーヴォワールを読んで意識覚醒したくらいだから、知的な意味ではフェミニズムに興味はあったんだけど、体系立って勉強することはなかった。フェミニズムに限らず、勉強する意欲があって大学に入ったのに、何をどう勉強したらいいのかわからなかった。そして、アクションとしても、中高生の時みたいにどこかに文章を書いたり個人として発言したりすることはあっても、人と一緒に何かをしようとか、社会を変えるために運動しようとかいう発想はなかった。周りのせいにするのも良くないけど、そういう文化もなかった。クラスに学生運動をしている人はいたけど、そうした人たちや活動に否定的なステレオタイプを持っていたから、運動に加わろうという考えも浮かばなかったし。
川上 私もフェミニズムについては否定的でした。と言うより、大学でもジェンダー論やフェミニズムについて体系的に学ぶ機会がなかったんですよね。学んでいたら全く違ったのでしょうが、知らないがゆえに、なんだか感情的で怖いというイメージを持っていました。フェミニズムを自分に引き付けたり、ジェンダー問題の広がりを真剣に考えたりするようになったのは、社会に出てから、それもこの10年くらいのことです。大学生の頃は、10年後、20年後の日本は全く違う社会になっているはずだ。自分は、親世代が生きたのとは違う、自由で実力本位の時代を生きていくんだ、と思っていました。
大庭 うん、その感覚はよくわかります。私も大学時代も含めて若い頃は、自分が努力して社会のなかで道を切り拓くことと、フェミニズムを支持することがまったく結びついていなかったんです。フェミニズムに対しては、なんであんなに高く拳を振り上げて男性に対して戦わなきゃいけないんだと感じていました。
吉原 私たちみんながそうやってフェミニズムに否定的だったのはなぜだろうと考えるのは大事だと思うのよね。女性も含めて、世の中の多くの人が、同じような感覚を持っていると思うから。私の場合は、フェミニズムへの興味も一因で東大に入ったのに、皮肉なことに、東大に入ったことでフェミニズムへの興味が後退した部分があったと、今になって思う。と言うのは、東大を受験するためには、やはりそれなりの努力をしなければいけなかった。一生懸命たくさんの科目を勉強して、難しい入試に受かって合格した。つまり、男子と同じ土俵で勝負して、次の土俵に上がることができた、そういう自負が意識的にも無意識的にも生まれて、メリトクラシー(実力主義神話)を信じてしまった部分があった。その神話を受け入れると、女性であることを云々するのはかえって女性のためにならない、女性は与えられた土俵に入り込めるように能力を高めればよいのだ、という考えにつながっていく。当時も今も、東大の女子学生や、いわゆるエリート的な位置にいる女性は、そういうふうに思っている人が多いのではないかと思う。
それから、二人が言うように、フェミニズムとは「高拳振り上げて戦う」もので、「感情的で怖い」というイメージがあって、それがよくないことだと思っていたんだよね。女性が公の場で怒りを顕わにすること、声を上げること、特にそれを集団でやることに対して、ものすごく否定的な目が社会にあって、それを女性である自分も内在化していたのだと思う。そんなふうに戦わなくても、きちんと仕事をして成果を上げれば、それによって世の中が変わっていくはずだと思っていた。
川上 私もそう。今から思えば、フェミニズムに対して「なんだかな」と思っていたのは、日本社会のなかにジェンダー差別やミソジニー(女性嫌悪)がどれほど強く根を張っているかを知らなかったからでもあるし、自分は女性らしいタイプでもないから、黙々と仕事をしていれば「女であることに気づかれない」んじゃないか、という奇妙な期待を持っていたこともあるし。あと、日本は性別規範と年齢規範がともに強い社会なので、若い時には男も女も同じように社会的には弱い立場の「ぺえぺえ」で、年上世代の無神経な発言や理不尽なふるまいに対して、怒りや悩みを共有していたんですよね。でも、年齢があがるにしたがって、ジェンダーという変数が顕在化してくる。
大庭 私も若い頃は実績を上げることで道を切り拓く、ということばかり考えていた気がする。そして、この社会は所与のものであって、それを自分が変えるとか、変えようとか思っていなかった。むしろ今ある社会という前提のなかで自分がやりたいことをやって生き残るにはどうすべきなのか。そればかりを考えてきた気がする。旧態依然としたオジサンたちの発言も「人ごと」として特に批判することもしない。でも、こうした発想が行き過ぎると結局、日本社会は保守的なオジサンが現実には力を持っているので、彼らに好かれて出世しようという戦略につながり得るなと思う。今の日本の女性の政治家の一部に厳しい目を向ける人たちがいるのも、彼女たちがそういう戦略でのし上がってきたと見なされているところがあるからかもしれない。でも仮にそうだったとして、日本社会の中でも保守的な場で女性が生き延びていくのにはそうした戦略しかなかったのかもしれない、とも思う。
私自身はそこまで極端な戦略をとらざるを得ないような環境ではなく、むしろ主観的には自分の自由にやれている、と思うことが多かった。しかしそうした「幸運」のせいで、ジェンダー差別やミソジニーが強いという日本社会の現実を、「ゆがみ」として捉えることがかえって凄く遅れた気がする。かつ社会は所与のものという無意識の思い込みもあって、フェミニズムのように今の社会の構造そのものを戦って壊そうという話には乗れなかった。男性が影響力を持っているという現実があり、その中でやっていこうとしている時に、わざわざ男性を敵に回している場合じゃないだろうという考え方が、私の潜在意識の中にはびこっていた気がする。
「お茶くみ」に象徴される微妙な役割分担
大庭 ここまでくるのにだいぶ長くなっているので、大学卒業以降の話に移りましょう(笑)。桃子さんは就職を選び、真里はアメリカの大学院に、私は東大大学院に進みました。さっきも話したように、私は大学に入ってからは何をどう勉強していいのかもよくわからない迷走する「不良」の日々がしばらく続きましたが、迷走も不良も飽きたのか、大学3年ぐらいになってからは少々正気に返って勉強するようになった。で、ちょうどその年の秋にベルリンの壁が崩れて、冷戦が終結したんですよね。予想外の世界の構造変化に直面して、国際政治を本格的に勉強しようと思うようになって。でも大学前半は蕩尽しちゃったから、大学卒業の残りの時間だけだと時間が足りないなと思い、大学院進学を決め、外部進学の試験を経て、東京大学駒場キャンパスにある国際関係論専攻の大学院に行きました。ただ、そのときには自分が研究者になって大学で教える立場になるなんて全く予想していませんでした。
川上 私は大学院への進学も本気で考えましたが、最終的にはアジア経済研究所(アジ研)に就職を決めました。早く就職して経済的に自立したいという思いもありましたが、後から振り返ると女性の働きやすさを考えたうえでの計算もありました。というのも、私が学部を卒業した1990年代初頭、東大の経済学部の教員は、全員が男性で女性が一人もいなかったんですよ。大学院に進む女性も、とても少なかった。なので、自分がそこでやっていくイメージを持ちづらかった。後から思うとロールモデルの重要性の典型的な事例ですね。
アジ研を志望したのは、アジアや発展途上国に関心があったことも大きいのですけれど、海外関係の仕事は女性が差別されにくい傾向がある、というざっくりしたイメージも大きかったです。これは我々の世代の女性に共通する認識ですよね。アジ研は私の入所前後から急速に女性研究者の数が増え、同期採用も半分が女性でした。これがどれほどありがたい環境であったかということには、後になって気づくわけですけれど。ちなみに、現在のアジ研では116人の研究者のうち、女性が43名です。地域研究だけで見るとこの比率はさらに高いです。うちは、育児支援制度の整備や利用といった点で先進的で、これが女性研究者の定着と活躍につながってきました。人数が増えること自体が女性をエンパワーするということを、身をもって強く感じています。
そうそう、私が駆け出しの研究者だった1990年代には、職場や研究会の会議などではまだお茶くみの習慣があったんですよね。別に女性がやると決まっていたわけでもなくて、一番の下っ端がやればよかったのですけれど、私は「わきまえ癖」のせいで、ついつい空の急須やポットのお湯の量が気になってしまう。自分がお湯を汲みに行っている間に質疑応答の流れがわからなくなったり、終了後に茶器を片付けている間に、他の参加者が講師と話しこんでいたりすることがあって、大いに焦りを覚えました。私の場合、このお茶くみ問題は、ペットボトルの登場によって一気に解決したんですけれど。
でも、今から数年前、とある名門大学の教員・院生の研究会に講師として呼ばれたときのことなんですけれど、質疑応答の時間になったら、女子が一斉に立ち上がって、用意してあったコーヒーとケーキの配膳を始めたんですよ。まさしく質疑応答が始まったその瞬間に。そんなタイミングで配膳をしたら、質疑応答の流れについていけなくなるでしょう? 私はその時に「待ってください」「みんなで配膳してから質疑応答をしましょう」と言うべきでした。けれども、お客さんの身で差し出がましいかな、と躊躇してしまいました。今でもこの時のことをしょっちゅう思いだしては後悔しています。それ以降は同じような場面に出くわすと必ず問題提起をするようにしています。
大庭 集中して質問した内容を聞けていなければ、応答できないですよ。こうした微妙な役割分担は、21世紀に入ってからも相変わらず日本社会には残っているんですよね。
吉原 私はもとは学者になるつもりは全然なくて、普通に就職活動をして内定をもらっていたんです。けれども、このまま日本の企業社会にすんなり入っていいのだろうかという疑問も抱くようになっていて、そんなときに、ほとんど思いつきで院試を受けたら合格したので、内定した企業は辞退して大学院に進みました。そして、東大の大学院には半年もいないで、さっさとアメリカに行きました。
ブラウン大学の大学院に行ったのだけど、最初はあらゆる意味でカルチャーショックの連続だった。まず、私のやっているアメリカ研究という分野は、アメリカでは政治的思想的にものすごく左に位置しているんです。公民権運動やブラック・パワー運動、それからフェミニズムなどにもものすごく大きな影響を受けている。そうした運動に自ら携わってきた人たちが学者になって教鞭を取っているから、そうした運動の思想や理論、実践が学問や教育と深く結びついている。私が入ったブラウン大学でもそうでした。そういう環境で、人種・ジェンダー・階層、移民の歴史などを勉強して、構造的差別とか、歴史的・社会的に構築されるアイデンティティとかを理解する枠組と言語を手に入れた実感があったし、社会運動についての認識もイメージも大きく変わりました。
周りの大学院生たちにも本当にいろいろなタイプの人がいました。特に女性。アメリカでは他の仕事をしてから大学院に入学する人が多いので、年齢もだいぶ上だったりするし、3種類どころか、300種類ぐらいのタイプの女性がいるように思えた。もちろん、アメリカ社会にも人のタイポロジーがないわけではないけど、とにかく生き方やライフスタイルの選択肢が多いことを肌身に感じた。
大庭 ジェンダー論やフェミニズムのいきなり最前線に行った感じね。私が行った東大駒場の国際関係論専攻は、当時女性の院生が多かったのよね。それとたまたま私が関わった先生方からもジェンダー差別は全然なくて、今考えると先生方は意識的に多様性を尊重することに努めていたのかもしれない。修士論文を書く頃になってやっと将来研究者としてやっていこうという腹が決まって、その方向に本腰入れるようになるんだけど、女性だからそれをためらう、というような環境的な制約は全く感じなかったですね。博士課程に入って、いろいろな奨学プログラムに応募して研究費を獲得し、前に進むことに一生懸命でしたけど、そこで女性だからという壁を感じることはほとんどなかった。幸運だったなと思います。
ただ、駒場の院生時代に同世代のメンバーと一緒に「駒場少子化を考える会」というのをつくったんですよ。この会は結婚、出産、博士号、常勤職の四つをすべて得るためにはどうすればいいかを考えるのがテーマだったの。とは言っても、結局はまあ楽しく皆でわいわい食事しておしゃべりする会だったんだけど。考えてみれば、女性の院生だけがこれら四つをどうやれば獲得できるのか戦略を立てないとダメだと考えて集っていたということは、やっぱり当時私にも女性としての壁はあったんだなと今更ながら気がついた…。まあそれはさておき、あれからもう20年以上経つけど、今の時点で当時のメンバーで四つすべてを達成したのは一人だけ。あとは結婚、常勤職、博士号はあるが子どもはいないとか、結婚、常勤職、子どもありだけど博士号はとってないとか。当時はまだ大学に就職するときに博士号があるのがほぼマストであるという時代ではなかったのもあると思うけど。
他方、次の世代つまり今の40代ぐらいの女性研究者は、上記の四つは全て達成している例は増えていると思う。ただ、我々より少し下のこの世代の女性たち全般としては、特に出産後の制度が十分に整っていないのに、「キャリアも子育てもすべてやりなさい」と言われても、「今の制度の中でどうしたらいいの?」という怒りもありますね。そうした点は改善していくべきだと思います。他方、上記の四つをどうしたら両立できるのか、を話し合っていた我々の時代と比較すると、社会は変化したのかなと思います。
21世紀に入っても日本ではジェンダーバランスが改善されていなかった
大庭 さて、それでは大学院に進んだ真里と私が大学に就職してからの話に移りましょう。真里は働き始めてから変化はあった?
吉原 1997年にハワイ大学に就職して驚いたのは、それまで私が大学院で置かれていた環境に比べるとずっと保守的だったこと。今の学科に入った当時は、私の他は私よりだいぶ年配の女性の先生が一人いただけで後はほとんど全員白人男性でした。かつ、私一人だけ他の人たちの半分くらいの年齢だった。授業ではそれまでに大学院で学んできたことを普通に教えるのだけれども、学生にも他の先生にも急進的だと感じられたみたいで、ラディカル・フェミニストみたいに位置づけられてびっくりしました(笑)。
大庭 意外、ハワイ大学が一般に抱かれているイメージと違う。
吉原 でも、ハラスメントのような経験もなく、「わきまえろ」という類のことを言われたこともなく、むしろ堂々と意見を言うことで同僚からも学生からも尊敬される環境であったのは幸運だった。それで、今考えれば自分でもよくやったなと思うぐらい、好き放題に言いまくっていました。ただ、意思決定事項にしても研究に関する認識や関心にしても、孤立していたところはあった。
それが、この20年間くらいで私が所属している学科はみるみる顔ぶれが変わって、ジェンダー比も人種比も様変わりして、数の上では女性および非白人が多数派になっている。人の構成が変わると、研究や教育の内容だけでなく、職場の文化も確実に変わると、日々実感しています。
大庭 私は2001年から昨年4月に神奈川大学に移るまで東京理科大学に19年間勤務しました。理系の大学なので、教養科目として国際政治等を教えていました。理科大は教員も学生も男性が多かったですし、あの当時に比べると女性の比率は増えたけど、今でも全体的には男性が多いですね。あと、事務職員には女性が多いです。理科大は学部ごとに教養部があって、私は工学部教養というところに所属していたんですが、同期でもう一人女性の英語教員が赴任したんです。それだけで学部全体の中で女性がとても増えた、という感じだった。あの当時おそらく工学部全体で講師以上は70人以上は在籍していたと思うのだけど、そのうち新任である我々二人に加えて、他の学科に女性教員が三人しかいなかった。それに後から聞いたら、どうして工学部教養に二人も同時に女性が入ったんだろう、と訝る他学科の先生方もいたそうです。
しかしながら、私は職場のジェンダーバランスをあまりマイナスとは捉えず、ただ単に「あーやっぱり理系だから男性が多いわー」なんていう感じで受け止めていたところがありました。理科大の同僚たちは私が大学の外で仕事をすることに異議を唱えたりすることもあまりなかったし、むしろ私は大学内での人間関係のネットワークにも参加して仲のいい同僚も結構いて、楽しく過ごしてきたんですよね。私は自分の思い通りに研究活動ができればそれで良し、とかなり長い間考えていたので、職場のジェンダー環境のあり方とかにあまり関心がなかった。
また私が専門としている国際関係論・国際政治学の分野では、女性研究者の数がけっこう多いんですね。また私自身、2000年代末以降から、学会の仕事もちょくちょくするようになりますが、少なくとも私が運営に関わる機会を得たいくつかの学会では、理事会や委員会を立ち上げる時はジェンダーバランスを考慮することが前提になっていました。 よって、自分が声高に何か言わなくても、日本社会全体がそういう方向に進んでいる、と思い込んでいたところが私にはありました。そういう中で自分は実力勝負でやっている、ジェンダー云々は関係ない、という思い上がりと無知もあったと思います。理科大に限らず日本の大学は2000年代からセクハラやアカハラについての対応に特に力を入れるようになっていきましたが、自分がそうした潮流に強い関心を払い、特にマイノリティになりがちな女性の立場とかに気を配っていただろうか…と言われるとかつての私は明らかにそうではなかった。その点今は大いに反省しています。
しかし、この7、8年ほどは、あまり詳細は語れないけれども、女性であることを理由に被る不都合なこと、パワハラやセクハラの事例を具体的に見聞きする機会を得るようになりました。相談に乗ることも出てきました。また、女性ばかりが被害者というわけではない、ということを認識することも多くなった。さらによく言及される世界経済フォーラム(WEF)が毎年発表している世界の男女格差指数の日本のランキングの低さ(※2020年に153カ国中121位)に象徴されるように、日本の社会全体においてジェンダーバランスが一向に改善していないことやその弊害を感じるようになってきました。また立場上、いろいろな人事に主体的に関わるようになって、いっそうジェンダーバランスの重要性を痛感するようになり、それを考慮して物事を進めるように心がけるようになったこともあります。
川上 私の場合、台湾やアメリカでの在外研究の経験が、いいきっかけになりました。台北の中央研究院でもUCバークレーでも、研究イベントやプロジェクトなどを組むときにジェンダーバランスを自然と考えているんです。日本に比べてずっとバランスがとれている状況があってもなお、常にジェンダー比について目を配っている。驚きましたね。そして、海外で暮らしながら振り返ってみて、自分が、「他の領域に比べれば自分の研究分野は平等度が高い」「昔に比べれば今のほうがずっとまし」ということを意識するあまり、自分が直面してきた問題から目を背けてきたのではないかと思うようになりました。
とある会議の場で、私の発言に対して、ある高名な先生が色をなして反論したことがあったんです。その場が終わってから、ある女性研究者に「〇〇先生、川上さんが女だから露骨にむっとしていたね」と言われて、私は即座に「それは違うよ、私の発言が的外れだったからだよ」と強く反論したんです。けれども彼女は、男性の発言者も私とまったく同じ趣旨の指摘をしていた、それなのに大先生の態度は明らかに違った、と言うのです。このとき私は、自分が女性であるがゆえに直面する差別を認めることがいかに難しいかを思い知らされました。「女である」という自分では変えられない属性によって、人から違う扱いを受けるという現実と向き合うことが、まず辛い。尊敬する高名な学者が、ミソジニー的な一面を持っているという事実も認めたくない。自分に実力がないからなんだと思うほうがずっと楽、という意識が防御本能として働く。これはちょっとした発見でした。
そして、こういう自分のありようは、結果的に身近な環境から始まって社会のいたるところに埋め込まれている女性差別や無意識の偏見を見過ごす態度につながってきたのではないか、同性の友人の訴えを軽視する態度につながっていたのではないか、とも思うようになりました。こういうできごとって、一つひとつは何とかやり過ごせる。でもその積み重ねが、気持ちを折るんですよね。そうやって人の意識や社会の構造が再生産されていってしまう。
大庭 今までいろいろなワークショップやセミナー、会議や委員会などで紅一点だったことが多くて、これは「女性枠」のような配慮が働いているのかな、という疑問を密かに抱くことも結構ありました。他方、女性枠だからではなくて、実力で自分は選ばれたのだと思いたい自分もいました。しかし仮に女性枠だったとしても、本当のところは私は関知し得ないし、様々な機会が与えられたことは感謝すべきことだな、と今は割と素直に思っています。こういうことは、場数を踏むことが大事。いろいろな国内外の会議や研究会に出た経験が自分の糧になっていることを考えると、たとえ女性枠のような配慮がある程度あったとしても貴重な機会だったと思うし幸運だったなと。ただ「女性の視点」を求められることもままあるんですが、あれはちょっと困る。私が女性代表かしらと。
川上 代表なんかできないですよね。でも、女性というカテゴリーに属していること、男性ではない人生を生きていることで見えてくる社会の風景というのも確かにある。
大企業の管理職で女性が増えなければダメ
大庭 今回の「対話」にあたって、様々な分野の女性の割合を調べてみたのだけど、びっくりするくらい少ないことを認識しました。例えばWEFが発表している政治活動に関する男女格差指数、日本は152カ国中141位。まあ女性の政治家が少ないことはわかりきっていたけど、世界労働機関(ILO)が発表している世界の女性管理職比率国別ランキングによると日本は189カ国中165位。企業においても管理職は男性が圧倒的です。個人的には研究者の世界で女性が増えているという認識があったけれども、実はOECD諸国内での日本の大学における女性研究者比率は最下位。まあ仮に以前よりも大学で女性の数が増えても、そもそも大学が社会における少数派だから全体に与えるインパクトは小さいですよね。
日本の根幹を変えるには、政治家に女性が増えることと、やはり多くの人が働く企業、特に社会に大きな影響を与える大企業で女性が増えないとダメだな、と思います。しかも管理職に女性の比率がもっと増える必要がある。その際は一人、二人ではダメで、もっと多くいなければ、その人が孤立してしまうと思うんです。今の女性登用についての批判を見ていると、「結局女性はうまくできていない」とか「責任を果たせない」という話になるんだけど、ただ単に地位を引き上げて「後はお手並み拝見」だと潰れますよね。だって男性中心の企業社会から排除されていた人がポンと役職についても、少なくとも今の企業社会の中では女性が生き残るのはすごく難しい。
吉原 今は、管理職や役職に女性が少ないことが注目されてきていて、それはもちろん重要な問題だと思うけど、女性も男性も働きやすい職場、生きやすい社会にしていくためには、女性の管理職を増やすだけではダメだと思う。事務やコールセンターや受付の女性がハラスメントを受けたりすることなく、やりがいを持って仕事を続けられるようにすること。食堂や清掃のおばさんたちが安定した生活を送るに十分な待遇を保証すること。男性もみな育休を取得すること。介護や保育に携わる人たちが正当な待遇を受けるようにすること。そうやって社会全体が変わらないと、目につきやすいところに女性を何人か入れただけでは根本的なことはあまり変わらないと思う。
それから、社会一般でジェンダーについての理解はまだまだとても少ないし、私たちがかつてそうだったように、フェミニズムというものについての歪んだイメージや間違った認識を持っている人たちはとても多いから、それを変えていくためには、社会や組織の論理に染まって固定的なジェンダー観が深く内在化されてしまう前の教育が重要だと思う。そのためにはまず、大学はジェンダーの専門家をもっと雇って、1、2年生向けのジェンダー入門のような授業を必修化するとよいと思う。トークン的に一人雇うのではなく、最低三人はまとめて採ったほうがいい。一人だけだと、その人がどんなに立派でも一人の肩に乗るものが重すぎるし、その人が「ジェンダー」を象徴することになってしまう。二人だと、この人対この人、みたいな二項対立ができてしまう傾向があるから、最低三人。ジェンダーは、問題の所在もそれに取り組む手法も多岐にわたっているし、ジェンダー・アイデンティティのありかたも多様だから、いろいろな視点があること自体が重要です。女子だけでなく、いろんなジェンダー・アイデンティティをもつ学生にロールモデルを提供することも大事だし。
私自身のことを振り返ると、私が非白人の女性であることが、私の採用にあたって大きな要素であったことは確かです。アメリカの組織では、他条件において資格が同等であればなるべく女性やマイノリティを採用するアファーマティヴ・アクションの仕組みが、少なくとも建前的には整備されているし、白人男性ばかりの学科でも、それではいけないということをその白人男性たちはよく理解していたんですね。そうやって意識的に女性やマイノリティを増やすことは大事なことだと断言できます。数が変われば文化が変わる。研究においての問題意識や教育活動への姿勢、手法もそう。やっぱり数を増やすことは大事なことです。
女性がいないことに気付き、ギョッとすることから始める
大庭 東大法学部の前田健太郎先生が、『女性のいない民主主義』というとても興味深い本を最近出版なさったけど、そのなかで彼は「ジェンダー規範」という言葉を使って、その場を支配する規範の変化の仕方について話をしているんです。男性優位のジェンダー規範も、一定の割合以上の女性がいることでそれが大きく分岐する地点があると指摘していて、それを「クリティカルマス」と呼んでいるんですね。
一方で前田先生は、クリティカルマスだけでは変わらないという別の研究結果も紹介しています。女性を3割増やしてもジェンダー規範が変わるとは限らないケースがあって、そういうときはクリティカルリーダーが存在していないんですね。つまり自分の役割をある程度意識して、もっと他にも女性を引き入れるとかジェンダー規範を変えるような方向で行動するリーダーが女性のなかに必要であると。なので、クリティカルマスとクリティカルリーダーの両方が必要ではないかと言うわけです。
「女性の敵は女性」という言われ方をされることが多いんだけど、私の個人的な体験からすればまったく意味がわからないんです。女性が敵だったこともあれば、男が敵だったこともある。性別は関係ないですよ。女同士ばかりがいがみ合っていると言われるけど男同士の権力闘争をどう説明するんだろうと思う。それに女性が権力闘争に参加すれば、女も男も入り乱れて血で血を洗う権力闘争になるのではないかな。社会の中の意思決定という意味では最も重要な政治を見ていても、やっぱり女性の政治家に対してはこうあるべきだという規範で縛ろうとする傾向がすごく強くて、そこから外れる女性には集中砲火を浴びせる。決して男性だけではなくて、女性の視点も非常に厳しいなという気がしています。
川上 私も前田さんの『女性のいない民主主義』には非常に強く啓発されました。「その場に誰がいないのか」というのは、あらゆる場面で問われるべき問題ですよね。「いない」のは女性だけではないですけれども、日本では実に多くの場面で「女性のいない」意思決定が行われている。なかでも会社組織のなかでは、年次やポジションが上がっていく過程で女性が排除されていってしまう。その淘汰の過程を生き延びた一握りのスーパーウーマンを見て「ほら、実力がある人、努力した人はちゃんと評価されているじゃないか」と思う人がいるとしたら、それは全く違いますよね。男性なら70点で受かる試験に、女性は80点以上とらないと合格できない。そんな試験に繰り返し挑まされているのが今の日本の企業社会の現状でしょう。
そういう状況を変えるために必要なこととして、第一に挙げられるのは、さきほどから話に出ている「女性の数を増やすこと」ですよね。個人的には、数が増えて、女性にも失敗が許されるようになることが重要だと思います。人は失敗や挫折を繰り返すなかから、リーダーシップや判断の基準、人を説得したり巻き込んだりしたりしていくコツを身に付けていくわけですが、数が少ないと、本人も周りも失敗を怖がっちゃいますよね。
あと、一人ひとりが、無意識のジェンダーバイアスを内面化していることを意識する機会を体系的につくることも重要だと思います。これについてはシェリル・サンドバーグが『リーン・イン』のなかで、豊富なデータや研究をあげながら、様々なステレオタイプを指摘しています。たとえば女性は「献身的で人助けが好き」というステレオタイプのせいで、仕事仲間に手を貸さないと非難され、貸しても感謝されない傾向がある。また、男女とも女性のリーダーには無意識のうちに優しさを求めがちです。私自身、女性のリーダーや先輩に対して、反対を押し切れる「男性的」な胆力や決断力と、「女性的」な包容力の両方を求めてしまうのですが、これは女性のダブルバインド状態を生みますよね。こういった、私たちの認知に刻まれた男女への非対称な期待や二重基準を知ることが、大切だと思います。組織のなかでこういう研修をすれば、ジェンダー問題だけではなく、様々な無意識の偏見を取り除くことにつながると思います。
大庭 誰がクリティカルリーダーになるかはわからないから、あの人はクリティカルリーダーになれる人、なれない人と最初から決めつけないほうがいいのかなと思うんです。最初はそうしたリーダーになれそうにない人でも、その世界でもまれているうちにリーダーとなる素質を備えるかもしれないしね。とにかく数を増やして、女性と一口で言っても様々なバラエティがあるということが社会の一般の認識として定着してほしい。
吉原 日本の社会では、女性がいないことに男性が気付いていない場面がものすごく多いなと思う。例えば雑誌の特集で、執筆陣の9割、ときには全員が男性だったりする。編集部も全員男性であることが多い。シンポジウムやパネルの登壇者が全員男性のことも多い。「女性の活躍を推進するナントカ」という委員会メンバーが全員男性なんてこともある。多分、男性が圧倒的多数である状態がずっと普通だったから、誰もおかしいとは感じなくなってしまっている。でもこれって、すごく基本的な次元で、女性が発言権を持っていない、桃子さんも言及した『リーン・イン』の表現を借りるなら、「女性がテーブルに着いていない」ということよね。まずは女性がいないことに気付き、ギョッとすることから始めないと、何も変わらないでしょうね。
大庭 この議論をすると、企業からは「女性を登用しても結婚やら出産やらで辞めてしまいがちで、生産性が落ちてしまう、そうなると元も子もない」と意見が出てくることが多いですよね。ただ、女性をきちんと登用する多様性のある組織のほうが経済的にも成果が上がるという研究もあるので判断は難しいところがある。
吉原 多様性の実現は経済的にもメリットがあるという主張は、企業の人たちを説得する戦略としては理に適っていると思う。ただし、経済的メリットを第一目的にすることには疑問を呈したい。経済的合理性が達成されない場合は真っ先にそこが切り捨てられることになるし、多様な人たちのあいだで民主的なプロセスを経て物事を進めるには、実際にはコストがかかることもあるから。経済的メリットはあくまで副産物であって、まず公平さ・公正さを追求することを目的にするべきだと思う。
選択的夫婦別姓をめぐる議論についても、私は前々から感じていたのだけど、姓を変えることで様々な不都合があるから、それを強いられないように制度を変えるのは、もちろん理に適っている。でも、より根本的な問題は、夫婦のうち一人だけが意思に反して姓を変えなければいけないのは夫婦間の平等に反する、ということだと思う。職場で旧姓の使用を許可するとか、書類に新旧両姓の記入を許可するとか、手続き上の改正で不都合は減少させられるかもしれないけど、片方だけがそれを強いられる不平等は変わらない。だから、女性の登用にしても夫婦別姓にしても、生産性や効率性ももちろん大事だけれど、公平・平等という原理のほうをより重視したい。
川上 同感です。私も、企業の方と職場のジェンダー平等の話になると、「海外から日本がどう見られるか」といった材料をあげることが多いんです。でも、こういう説得の仕方は、わかりやすくて手っ取り早くはあるけれど、本当に重要なのは、教育の場であれ働く場であれ、性差別やミソジニーといったものが、人の尊厳を傷つけ、不平等を再生産し、社会を蝕むものなんだ、という原点なんでしょうね。
◆鼎談を終えて
川上 私は今回の鼎談ではじめて、活字になるかたちでジェンダー問題について語りました。私にとって、ジェンダー問題は長いこと、とても語りにくいものでした。男性たちから「我々が差別していると言うのか」「あなたは自分が過小評価されていると言うのか」と言われるのではないか、という不安があるのです。また、研究や教育、出版といった世界での女性の不在について問題提起をしようとすると、「もっとずっと深刻な差別に直面している女性たちがいる」という声が自分の内側から聞こえてきます。でも、日本のジェンダー不平等は、政治、会社組織、教育機会、家庭のなかでの力関係まで、ありとあらゆる場面での不平等が網の目のようにつながって再生産されてきた結果なんですよね。学界、メディア、出版といった場で女性が少数であることは、社会のいろんな場面での女性の排除と表裏一体の現象である。だから、まずは自分が属する身近な場でのジェンダー問題について語ること、人といっしょに考えることを大切にしていきたいと思います。
吉原 アメリカの歴史・社会・文化を専門にする者として、そして人生の半分をアメリカで過ごした者として、私が強く感じるのは、社会の変化は、理不尽なことに対して勇気を出して声を上げてきた人たちがいて、その声を具体的なアクションにしてきた運動の積み重ねから生まれる、ということです。声を上げるのは疲れるし、一部の人にその負担がかかるのは不公平でもある。でも声を上げなければ、やはり何も変わらない。声を上げることで何かが変わる、という経験を少しずつ積み重ねることで、人は次の行動への勇気を手に入れる。ジェンダーの問題については、今の日本でその流れが起こりつつあるのではないかと感じています。「うるさいヤツ」と思われても気にならないのは、私たちの年齢や立場になった者の特権でもあるので、その特権を行使して、面倒でもいちいち声を上げていかなければ、と改めて思っています。
大庭 今回、私も初めて本格的にジェンダー問題について自分の考えを明確に示す機会を得たのですが、これを表に出すことについて、正直に言うと、とても怖いですね。桃子さんがおっしゃるような批判や非難が自分に向けられるかもしれないということが、私が想像していたよりも私にとって大きな恐れになっていることに今回の企画をまとめる段階ではじめて気がつきました。そしてその恐れの大きさから、自分自身が従来の日本社会におけるジェンダー差別を暗に支えている当事者の一人だったということを改めて自覚しています……。ただ、この鼎談のきっかけになった森元首相の発言の後、歴史学者の呉座勇一さんのツイッター投稿での発言が問題になったりと、日本社会の中でジェンダーについての考え方や認識に変化が生じているということを感じる機会も多くなっています。この変化が全ての人にとってよりよい方向に向かうよう、「怖さ」を乗り越えて発言していこうと思います。
(終)