「トランプ的」なるものの底流にある思想たち【宇野重規】【加藤喜之】

B!

2026年8月号「対話」

世界の民主主義を牽引してきたアメリカで、

いま一見突飛とも見える思想の数々が一定の支持を集めている。

増していく宗教の存在感、CEO的君主制への期待

その背後で何が起きているのか。

 

東京大学社会科学研究所所長 宇野重規(画像右)

立教大学文学部教授 加藤喜之(画像左)

 


うのしげき:1967年島根県生まれ。91年東京大学法学部卒業後、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了、博士(法学)。千葉大学法経学部助教授、東京大学社会科学研究所准教授、同研究所教授などを経て、2024年より現職。専門は政治思想史、政治哲学。著書に『トクヴィル 平等と不平等の理論家』『民主主義とは何か』『実験の民主主義──トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』『政治とは何か』など。


かとうよしゆき:1979年愛知県生まれ。プリンストン神学大学院博士課程修了、Ph.D.。東京基督教大学准教授、ケンブリッジ大学クレア・ホールおよびロンドン・スクール・オブ・エコノミクス客員フェローなどを経て、24年より現職。専門は宗教学・思想史・政治神学。著書に『福音派──終末論に引き裂かれるアメリカ社会』、共著に『キリスト教から読み解くヨーロッパ史』『日本史を宗教で読みなおす』など。


 

民主主義には宗教が必要?

 宇野 今、アメリカの民主主義のあり方そのものが問われています。CEO的な君主制を唱える人が出てくるかと思えば、既存のリベラリズムそのものを見限る人もいる。時に突飛とも思える様々な思想が乱立しています。まるで、行き詰まった今のアメリカをどう立て直すか、あらゆる立場の人が思い思いの処方箋を試している、そんな状態です。今日はこれらの思想を単に奇妙なものとしてとらえるのではなく、その背後でアメリカ社会に何が起きているのかを、考えていければと思っています。

 早速ですが、こうしたアメリカの動きを読み解く大きな鍵の一つが、宗教というテーマです。加藤さんは昨年9月に、『福音派──終末論に引き裂かれるアメリカ社会』を出され、大きな話題を呼んでいます。福音派は、回心体験や聖書の権威を重んじるプロテスタントの一大勢力です。共和党の最大の支持基盤の一つで、今のアメリカ政治を理解する上で避けては通れない存在です。加藤さんのご著書は、それまで日本ではあまり知られていなかった福音派という存在が知られるきっかけになったのではないでしょうか。そもそもですが、どういった経緯でこのテーマに関心を持たれたのですか?

 加藤 もともと私は17、18世紀の西洋における宗教と政治を専門にしています。博士論文は、オランダの哲学者スピノザや、当時の思想家たちがラディカルな啓蒙思想とどう向き合ったか、というテーマで執筆しました。今も研究の本業はそちらですが、学部時代から現代社会における信仰と理性、政治と宗教の関係にも関心を持ってきました。

 同時に、ポストリベラルの問題にも関心を持ち続けてきました。近年は、その関心をより実践的なテーマへ広げようと考え、2023年からNewsPicksで「宗教とグローバル社会」を連載し、各国でなぜ極右政党が台頭し、同時に宗教的な言説やシンボルが用いられるのかを比較してきました。その中の福音派の話を一冊にまとめたのが今回の『福音派』です。

 宇野 スピノザからポストリベラル、そして福音派へと、一貫して宗教と政治の関係を追いかけてこられたのですね。

 私の話と関連付けさせてもらうと、私はもともと19世紀フランスの思想家、アレクシ・ド・トクヴィルの研究から出発しました。トクヴィル個人にとっても、彼の思想においても、宗教はずっと離れられないテーマでした。代表作『アメリカのデモクラシー』で彼が一貫して説いたのが、デモクラシー社会には宗教が必要だ、ということです。政教分離が当然という日本人の感覚からすると不思議に響くかもしれません。

 彼がそう考えるに至った背景には、故国フランスの事情があります。フランス革命において革命勢力とカトリック教会が対立し、多くの人が自由か宗教かの二者択一を迫られました。トクヴィルは自由主義者でしたが、宗教も社会にとって大切だと考えていたので、どちらかを選ばなくてはいけないことが苦痛だったのでしょう。そんな彼が1830年代にアメリカへ渡ってみると、宗教と自由は両立し得るということを目の当たりにして、非常に勇気づけられます。そして、彼が見出したアメリカの政教分離の本質は、宗教を公的な場から排除することではありませんでした。

 加藤 国が特定の宗教を国教と定めないということですね。

 宇野 そうです。複数の宗教が並び立ち、個人がどこに属するかを自由に選べる。国教がないからこそ、宗教が社会で生きてくる。これが自由と宗教が両立するアメリカ型の政教分離の姿だ、と論じたわけです。

 では、なぜデモクラシーに宗教が必要なのか。トクヴィルによれば、デモクラシー社会では人々が他者との関係を失い、関心が「今この瞬間」の目先の利益へと狭まっていきます。宗教には、その視野を広げ、自分が死んだ後の社会や未来の世代にまで思いを馳せさせる働きがある。彼自身は宗教的懐疑に悩まされていたので、本当に信じていたかどうかは別として、みんなが一つの宗教を信じていること自体が社会の安定につながる、とまで言っています。今日お話ししたい福音派の台頭もカトリックの復権も、突き詰めればこの「デモクラシーにとって宗教とは何か」というトクヴィルの問いの、現代における再燃なのかもしれません。ただ、トクヴィルが当時の第二次大覚醒など、アメリカの宗教の実態をどこまで正確に見ていたかは、少し怪しいところもあります。

 加藤 宗教を重んじたのはトクヴィルだけではありません。啓蒙思想家たちも、宗教の社会的な役割を明確に否定する人はほとんどいませんでした。無神論者とまで言われたスピノザですら、国が一種の公共宗教のようなものを重んじるべきだと論じているほどです。少なくとも20世紀までの民主主義や自由主義の思想では、宗教がなければ人々は各々の情念のまま勝手気ままに動いてしまい、それを規制するものがなくなってしまうと考えられていたからです。

 宇野 宗教は、いわば情念の歯止めとして期待されてきたわけですね。

 加藤 しかし、その歯止めであるはずの宗教には、二面性が存在します。宗教には人々の視野を広げる側面がある一方で、神と出会いそれによって世界が一変するような回心体験は、自分が経験した真実こそが絶対だ、という強い独善性を生むのです。そうなると、自分と同じ確信を共有できる仲間だけを大切にし、異なる価値観を持つ他者を遠ざける孤立主義的な傾向も強まっていく。様々な立場が対等に並び立つべきだという多元性の精神とは、相性が良くない側面もあるわけです。

 宗教には、いわば起爆剤のような危うさが確かに宿っています。しかし皮肉なことに、その爆発力がなければ、そもそも人々の心に広がっていくこともない。民主主義にとって宗教は不可欠でありながら、同時にその危険性も無視できない。この矛盾こそが、宗教と民主主義の相性の良さであり悪さでもあるのだと思います。

 宇野 まさにそこが、今日お聞きしたいところです。いまの独善性を生むとされる回心体験の話は、まさに福音派の信仰の核心ですよね。その福音派が、現在のアメリカで非常に強い政治的な影響力を持つようになっている。加藤さんのご専門でもありますが、なぜこのタイプの宗教がこれほどの力を持つに至ったのでしょうか。

 

世俗化するアメリカ、それでも残る福音派

 加藤 一つ大前提として考えたいのは、福音派は確かに強いプレゼンスを持っていますが、アメリカ社会では世俗化が着実に進んでいるということです。今年のイースターには、カトリック教会で成人の洗礼・入信者が大幅に増加したことが話題になりました。しかし、それをもってしてでもアメリカ全体で宗教復興が起きているとまでは言えず、世俗化が止まった兆しも見られません。むしろ、特定の宗教に所属していない人々を指す「Nones」(非宗教者)は、冷戦直後で7%ほどでしたが、2023年には28%まで増えています。約3人に1人がNonesになっているわけです。

 宇野 かなり多いですね。

 加藤 さらに興味深いのは、教会に入る人よりも離れる人のほうが多いことです。2023年に出版された『The Great Dechurching』(Jim Davis, Michael, Graham、Ryan P. Burge著)によると、過去約25年間のアメリカでは約4000万人の成人が教会を離れたとされています。

 宇野 ヨーロッパでも世俗化が進んでいます。特にフランスは早くから進んでいて、パリなど都市部にいると教会に通う人が極端に少ないことを実感します。ただ、それと比べると、アメリカはまだ宗教人口は多いでしょう。実態はどうなのでしょうか。

 加藤 福音派に限ると、全米では約23%、およそ4人に1人だと言われていますが、地域差が非常に大きく、この数字だけでは実態は見えてきません。例えば、近年経済発展や人口流入が進む「深南部」のテネシー州やルイジアナ州では、約50%、つまり2人に1人が福音派の教会に通っています。一方、北東部のニューイングランドや北カリフォルニアなど世俗化が進んだ地域では4~5%にとどまります。

 このように地域差は非常に大きいものの、全体として見ればアメリカは依然としてヨーロッパより宗教人口が多い国です。ただ、そのアメリカでも現状を見ると、既存の教会や宗教団体はかなりの勢いで影響力を失っているというわけです。

 もう一つ興味深い調査結果があります。白人福音派を自認する人の三割弱が、「教会にはほとんど、あるいは全く通っていない」と回答していることです。

 宇野 そうなると、その人たちは何をもって自分を福音派だと考えているのでしょうか。

 加藤 彼らの多くはテレビやYouTube、SNSといったメディアを通じて、宗教的なコンテンツに日常的に触れています。そうしたメディア経由で「自分は福音派だ」というアイデンティティを持つようになる。ここでの問題は教会という緩衝材がないことです。通常なら他の信徒や牧師との対話が行き過ぎた考えへの歯止めになりますが、メディアと信仰が直接つながると、それが働かず過激な思想に傾倒しやすくなる側面があるのです。

 

福音派はいかにして一大政治勢力になったのか

 宇野 なるほど。ただ、社会全体としては世俗化が着実に進んでいて、Nonesもこの数十年で大きく増えている。それなのに、なぜ福音派だけは他の宗派ほど衰退していないのでしょうか。

 加藤 一つに、福音派には信仰を次の世代へ受け継ぎ、さらに信者ではない人々を自らの信仰へ導くことを重視する伝統があることが挙げられます。子どもたちへの信仰継承という点では、リベラルなキリスト教徒は宗教教育をあまり明確には行いません。一方、福音派では、子ども向けの宗教教育の場である教会学校(サンデースクール)を設けるなど、比較的しっかりと信仰継承が行われています。

 二つに、福音派は、信者ではない人々に積極的に福音を伝える伝道・布教活動も特徴です。こうした姿勢は大覚醒運動以来の伝統ですが、1920年代の原理主義運動で強くなり、現在の福音派にも受け継がれています。一方、リベラルな人たちは布教活動をあまり積極的には行いません。「あなたが仏教徒なら仏教徒でいい」というように、それぞれの立場を尊重するスタンスが比較的多い。

 宇野 信仰継承と伝道・布教活動の両方の強みがあることで、世俗化が進む中でも比較的その勢力を維持しているということですね。

 ただ、数を維持しているというだけでは、これほど強い政治的影響力を持つ理由としては、まだ説明が足りない気がします。何が背景にあるのでしょうか。

 加藤 一つに、投票率に占める福音派の割合が高まっていったことが考えられます。もちろん、福音派のような保守系プロテスタントは南部を中心に昔から存在していましたが、当時は必ずしも選挙への関心が高くなく、選挙登録をしている人も多くありませんでした。

 そんな中、福音派が存在感を強める大きなきっかけとなったのが、1976年の大統領選挙です。民主党候補のジミー・カーターが、自らを「ボーン・アゲイン(Born Again)」と公言しました。

 ボーン・アゲイン(Born Again)とは、新しく生まれ変わるという意味で、イエスを救い主として受け入れ、個人的な回心を経験したことを指す、福音派を象徴する言葉です。カーター以前もキリスト教徒の大統領はいましたが、自身の信仰体験をボーン・アゲインという福音派の言葉で公に語る政治家は彼が初めてでした。

 宇野 この発言をきっかけに、福音派という存在が全米で広く注目されるようになったのですね。

 加藤 また、1970年代にはカウンターカルチャーの影響などによって世俗化が進むアメリカ社会へ危機感を抱いた福音派の指導者たちが、伝統的な家族やキリスト教的価値観を守るため、積極的に政治への関与を強めていきます。

 その流れの中で、1979年には福音派の牧師であるジェリー・ファルウェルが、保守系政治団体のモラル・マジョリティを設立します。こうした団体が、「選挙に行くことはキリスト教的価値観を守るために重要だ」と訴え、選挙登録を促したり、政治参加の重要性を説いたりすることで、福音派は次第に大きな政治勢力になっていったというわけです。

 現在のアメリカでは、福音派は人口全体の約23%ですが、共和党内部では35%を占め、最大の支持基盤の一つとなっているのです。

 宇野 福音派を無視しては選挙に勝てない、という構造になった。

 加藤 さらに言うと、福音派の人たちはとても熱心なので、選挙で即戦力として重宝されます。必ずしも多額の献金をするわけではありませんが、ボランティアとしてビラを撒いてくれたり、熱心な「歩兵」として活動してくれるのです。またロビー団体も強いので、福音派なしでは選挙で戦えないほどになっている。

 宇野 そうですね。特にレーガン以降、保守派はかなり意識的に組織化を進めていきました。ただ、1980年代の保守への大転換となったレーガン革命が突然起きたわけではありません。それ以前から福音派は組織として世代を超えて政治家を育成し送り出すところまで、非常に意図的にやってきた。そして重要なのは、今のアメリカ社会に一からそこまでできる組織がもうほとんど残っていないことです。だからこそ、福音派の持つ社会的な機能、さらに言えば政治的な機能が相対的に目立つようになった。社会全体は世俗化に向かっているのに、単独の団体として見ると福音派の影響力はむしろ拡大するというわけです。

 

エリートたちのカトリック復権

 宇野 また一つ興味深いのが、今のアメリカ社会でカトリックが復権してきているように見えることです。J・D・ヴァンス副大統領は2019年にカトリックへ入信しましたし、マルコ・ルビオ国務長官は生まれながらのカトリックです。トランプ政権の首脳部や連邦最高裁判事では、カトリック信者がアメリカ全体の人口比率を大きく上回る割合を占めている。このエリート層でのカトリックの復権、一体何が起きているのでしょうか。

 加藤 まず司法に関して言うと、連邦最高裁をはじめ連邦判事にカトリックが多い背景には、フェデラリスト・ソサエティという団体の存在が大きいです。レオナルド・レオが共同議長を務めるこの団体は、カトリック信仰や反リベラルな立場を打ち立てるために多額の献金を集め、それを使って連邦判事を推挙してきました。

 また、カトリックには長年にわたって培われてきた知的な蓄積があります。1960年代には、福音派が歩兵として一般信徒レベルで勢力を拡大していく中で、カトリックの知識人たちは、福音派以前から同性婚や中絶といった重要な倫理的問題を議論し続けてきました。そのため、神学的な伝統から社会思想に至るまで、知的な枠組みをきちんと積み上げていたのです。

 例えば中絶の議論でも、福音派はどちらかというと聖書を直接引用するのに対し、カトリックは聖書だけでなくカトリック社会思想も用いながら、生命の尊厳を重層的に組み立てることができます。ある種、カトリックの知識人層と福音派とは、そうやって長らく役割分担をしてきたのだと思います。

 つまり、司法レベルでの人材登用、大学レベルの知的貢献と、この両輪を長い時間をかけて培ってきた結果が今のカトリック復権の表れなのだと思います。

 宇野 一方で、こうした変化も不思議に思います。過去、アメリカで初めてカトリックの大統領になったケネディの時代には、カトリック=アイルランド系という、ある種の差別意識が根強く残っていました。白人アングロサクソン系プロテスタントの主流派というWASP文化の中で、彼がカトリックとどう関係を持つかが重要な論点となっていました。ケネディは最終的に、自らの信仰を政策には持ち込まず切り離すという立場を取りました。

 しかし時代が変わり、同じカトリックのバイデン大統領の時には、昔ほどの反カトリック意識は見られませんでした。そして今では、高学歴エリートがあえてカトリックを選ぶことも珍しくない。場合によっては無神論者や福音派であるよりも、カトリックであるほうが社会的に承認を得やすいことさえあります。

 加藤 それはすごくあると思います。先ほどの知識の蓄積もそうですが、やはり近年の福音派はカトリックより浅いと感じる人たちが多いのも事実です。福音派の信仰は、回心体験──ある瞬間に神の存在を強く実感して人生観が一変する、という感情的な経験に拠っているので、哲学的な裏付けが弱い。だから迷った時に無神論や世俗にも簡単に流れてしまう。

 その点カトリックには、トマス・アクィナス由来の神学体系(トミズム)や、理性で見出せる普遍的な道徳法則とされる自然法の伝統があります。聖書も一言一句を文字通り読むだけでなく、寓意的(アレゴリカル)に読み解く懐の深さがある。こうした知的な厚みは、福音派の神学にはなかなか出せないものなんですね。知的エリートはこうした点に惹かれるのだと思います。

 宇野 福音派はボーン・アゲインという瞬間的な覚醒感はあるにしても、それが長く続くかというと難しい。教会や教義、制度や歴史、伝統といった蓄積で見れば、カトリックのほうが知的にも納得感を与えてくれる部分が大きいのかもしれません。まさにヴァンスの心の動きは、その典型ですよね。若い頃は福音派に惹かれ、一度は無宗教になり、最終的にカトリックへとたどり着く。

 加藤 そうですね。ヴァンスが綴った信仰体験のブログ記事などを読むと、政治的なポジショニングだけが改宗の理由とは到底思えません。彼は誠実に何かを探し求めていた気がするのです。生い立ちに根ざした、知的にも政治的にも経済的にも「ここではない何か」を常に探し続けてきた。能力はあるが居場所が見つからなかったのが、最後にカトリックに行き着いた、という感じがします。

 宇野 彼がもし最初からリベラルなエリート文化に染まっていたら、こんなことを考える必要はなかったはずです。そうではなく、その外側にいた人間だからこそ、あえてエリート文化に入り込み、そこに強い違和感を覚え、自分探しをした。そういうタイプの人にとって、カトリックはある種の救いになる。苦労した「すごろくの上がり」がカトリックだったのかもしれません。ヴァンスに限らず、同じように感じている人が一定数いるからこそ、カトリックが復権しているように見えるのでしょう。

 

ポストリベラリズムの論客 パトリック・デニーン

 宇野 そのヴァンスに影響を与えたとされる人物の一人が、政治思想家のパトリック・J・デニーンです。ノートルダム大学の政治学者で、2018年の著書『リベラリズムはなぜ失敗したのか』で注目を集めた人物です。彼の主張は、個人の自由を最大限重視するリベラリズムそのものが行き過ぎた結果として、人々を支えていたはずの家族や地域、宗教といった共同体を壊してしまったというものです。保守・リベラルの垣根を越えて大きな議論を呼び、今ではポストリベラリズムと呼ばれる思想潮流を代表する論客の一人となりました。保守派を超えた影響力を持っています。

 実は先日、私が国際交流基金に企画を持ちかけて、初来日されたデニーンさんを招き、直接お話しする機会がありました。その際、世間では「ヴァンスの思想的支柱」とも評されるデニーンに、ヴァンスへの影響について直接聞いてみたのですが、「それほどでもない」と否定していました。政策について具体的に話し合ったことはないけれど、ヴァンスが進路に迷っていた時期には、さまざまな対話を重ねていたと話していました。

 デニーンのような人を、今の日本に呼んでよかったと感じています。日本では、トランプ政権の周りには悪質なイデオローグしかいないと思われがちですが、デニーンは彼なりに独自の理論を歴史的な視座において組み立てている人物でした。だからこそ、彼の思想がなぜアメリカでこれほど支持を集めているのか、私たちも理解しておく必要があると思ったのです。加藤先生は彼をどんな人物だと捉えていますか?

 加藤 印象としては、人間的にすごく魅力のある人だと感じました。テキストを読んでいるだけでは伝わらない部分がありました。京都の専門家会議の後に食事をご一緒したのですが、異なるものを拒絶せず、一度きちんと向き合ってみようという懐の深さを感じました。もちろん彼にも立場がありますから、冗談っぽく文化的リベラリズムを揶揄することもありましたが、それでも目の前の相手ときちんと膝を突き合わせて議論したいという知的好奇心を感じました。

 宇野 デニーンからは、本当にそう信じて語っている、ということが感じられますよね。

 加藤 やはり彼自身が西洋思想史をよく学ばれていたからだと思います。

 また、私自身、彼の考えすべてに同意できるわけではありませんが、共感できる部分もあります。個人の自由の追求が家族や地域を壊してきたという指摘や、他者を排除してしまう左派のキャンセルカルチャー的なリベラリズムへの批判には共感できます。

 

閉塞感を打破する「劇薬」の危うさ

 加藤 ただ、彼の主張には相当な危うさも感じることも事実です。著書『レジーム・チェンジ』で彼は、個人の自由よりも社会全体の共通善を重視する「共通善保守主義」へ移行するために、貴族制と民主制を組み合わせるというアリストテレス由来の理想を掲げています。

 危ういのは、その理想を実現する手段です。彼は、既存のシステムを一度破壊する「蜂起」が必要だと述べていますが、私はここにハイデガー的な危うさを感じました。
ハイデガーもかつて近代を憂い、既存の秩序を壊すことで、その先により本来的な何かが立ち現れると考え、それがナチズムへの加担という破滅的な政治判断につながっていきました。デニーンさんの蜂起の議論にも、破壊した先に何が来るかを十分に見通さないまま、危機そのものを刷新の契機として求めてしまう、同じ構造の危うさを感じるのです。

 というのも、たとえシステムを破壊したとしても、人間社会はそう簡単には変わりません。人間は一度手にした権力や暴力性に、たやすく飲み込まれてしまうものだということは、西洋哲学史を振り返れば明らかです。それなのに、西洋哲学史を学んだデニーンさんがなぜそこまで楽観的でいられるのか、疑問に思います。

 宇野 その危うさは、私も感じました。

 彼の理論の核心はこうです。リベラリズムが成立するには、他者への信頼や、時に自己犠牲を払ってでも社会に尽くす姿勢といった、それを支える文化的な基盤が必要だと。ところがリベラリズムは、自己利益の最大化を追求する個人主義を徹底することに「成功」した結果、皮肉にもその成功ゆえに、自らを支えていたはずの文化的基盤を壊してしまった。失敗して個人主義に陥ったのではなく、むしろ成功したからこそ失敗した、という逆説的な問題提起です。

 これはいかにもトクヴィル的です。トクヴィルも、民主主義が進めば進むほど、それを支えていた人と人との結びつきが失われていくのではないかと危惧していました。これは東大で議論した際に、デニーン自身が語っていたことなのですが、彼にとってトクヴィルの魅力はこうです。リベラリズムは基本的に発展志向・進歩志向に立つ思想ですが、トクヴィルはそうではなく、どこかで衰退もあり得るという視点を持っていた。そこにこそ惹かれる、ということでした。だからこそ彼は、エリート主導ではなく、人々の常識的な感覚に立ち返るコモンセンス保守主義を掲げ、コミュニティを地道に立て直していくべきだと主張します。それ自体には、私も共感しました。

 一方で、二つ疑問が残ります。一つは、社会の解体や人々の絆の希薄化は、本当にリベラリズムだけが原因なのか。近代化や経済発展そのものがもたらした側面もあるのではないかという点。もう一つは、コモンセンス保守主義によって文化を立て直すという方向性は理解できても、急速に崩れつつあるアメリカ社会に、その処方箋は間に合うのかということです。この二点をかなりしつこくデニーンにも尋ねたのですが、明確な答えは返ってきませんでした。

 また、目的のために破壊的な手段を選ぶ姿勢は、悪しき意味でのマキャベリズムと紙一重です。デニーン自身も、トランプ政権が全面的に正しいとは考えていないと言っていました。それでも、アメリカの現状を変えるには、トランプという劇薬を用いてでもレジームチェンジを起こす必要がある、というのが彼の考えなのでしょう。おそらく政権に参加している他の知識人たちも、程度の差こそあれ同じ発想なのだと思います。

 デニーンは強い信念を持つ思想家でありながら、現実政治では極めて機会主義的な判断を下しているようにも見え、この点に私は危うさを感じました。裏を返せば、それだけ現在の体制への絶望が深いということなのでしょう。

 加藤 この絶望や閉塞感がカギとなりますね。

 宇野 それで言うと、一つ面白いと思ったのが、国際交流基金のイベントには多くの人が集まっていて、独特の熱を感じたことです。デニーン的なものを求めている人は、日本にも一定数いるのかもしれません。

 加藤 それは確かにあると思います。デニーンだけでなく、トランプ政権の周辺で存在感を放つ起業家のピーター・ティールや、思想家のカーティス・ヤーヴィンといった極端な保守派思想家への日本人の関心の高さは、メディアの露出などを見ていても実感できます。

 ただ正直なところ、彼らは本来なら批判されてしかるべきかなり特異な考えの人々です。それでも日本で関心が高いのは、アメリカ同様に、今の日本に漂う知的閉塞感の表れなのだと思います。既存の政党は自分たちの声を代弁してくれない、資本主義や既存のリベラルな考え方ではもう立ち行かないのではないか、という思いが日本にも薄々あり、「ここではない何か」を求める気持ちがふつふつと湧き上がっているような空気があります。

 宇野 程度や種類は違えど閉塞感は日本にもある。だからデニーンの語りに惹かれる人がいるのも頷けます。

 

政権の「ゴッドファーザー」ピーター・ティール

 宇野 先ほども出てきましたが、そのトランプ政権周辺の知識人の中でも、現在の政権を理解するうえで欠かせないのがピーター・ティールです。彼は、PayPalの共同創業者として知られ、現在はAI技術を軍事・安全保障分野に提供するパランティアを率いる大起業家、大投資家です。トランプにヴァンスを紹介するなど、今や政権の「ゴッドファーザー」的な存在でもあり、ある意味では恐ろしい人物とも言えます。

 さらによくわからないことに、ティールはシリコンバレーのテック業界人にキリスト教信仰を広める活動にも深く関わっています。しかもそれは何か思惑があってのことではなく、本気でやっているようにも見える。この人は一体何を考え何を求めているのか、日本にいるとどうにも掴みきれない。加藤さんは、ティールという人の内面をどう理解していますか。

 加藤 印象としては、理論的な整合性が取れていない人、と言ったらよいでしょうか。彼のテキストを読んでいても伝わってくる部分ではありますが、一度、朝食を食べながらお話しする機会があり、その時の印象もまさにそうでした。

 彼の中に一つだけ一貫した理論があるとすれば「究極的に自分が唯一無二の存在でありたい」と思っている点でしょうか。つまり誰とも争いたくないと。

 宇野 まさにティールの著書『Zero to One』の主張ですね。競争は敗者のものであり、勝者とはゼロから誰も真似できないものを生み出す者なのだと。

 加藤 彼からはそうした唯一無二性への執着を強く感じました。ルネ・ジラールやレオ・シュトラウスといった思想家を論じられる一方で、成功した起業家という他者が真似できないポジションに固執しているように見えるのです。

 だからこそ、その両面を守るために様々な分野の人たちと対話を重ねる。とはいえ、専門家から見ると彼の思想はかなり混淆しているように思います。優秀なアシスタントの方が彼のバラバラな思想を何とか整合性のあるかたちにまとめている部分もあるようですが、どこまで真剣に受け止めていいのかはわかりません。

 さらにそこにキリスト教が入ってくることで、より一貫性のなさが際立っています。彼は福音派に近いプロテスタント信仰を持っているのだと思いますが、聖書や黙示録の解釈はかなり独自のもので、正当な神学の枠には収まっていません。それを本人が楽しんでいるのか、一種の特権だと思っているのか……。

 宇野 わかりにくい人物ですね。

 加藤 そして、おそらく彼が関わる多くのプロジェクトが、「唯一無二でありたい」という彼の願望に引きずられている部分があると思います。

 例えば安全保障の分野では、政府の管理下にないテロリスト集団が核兵器のようなものを手にし、既存の秩序を破壊してしまうことへの強い危機感を彼は持っていて、それを何とか食い止めなければ、という使命感自体は本物でしょう。パランティアは、膨大な監視データをAIで解析し、標的を識別するシステムなどを国防総省に提供していて、近年は数十億ドル規模の契約を次々に結んでいます。こうしたシステムをつくった動機も、9・11のような事態を核のレベルで二度と起こさせない、というところが大きいはずで、ここは理解できなくもないです。

 ただ、彼の中ではこの使命感が「核戦争という黙示録的な終末を、自分こそがたった一人で食い止める存在なのだ」という自己認識と一体化しているようにも見える。ある種、使命感と、自分を特別視する妄想と、テクノロジーへの信奉がごちゃまぜになっている気がします。

 宇野 非常に厄介な人ですね。

 

イエスになぞらえるティールの自己像

 宇野 ティールに関して一つお聞きしたいのが、彼はスタンフォード大学時代に学んだ哲学者ルネ・ジラールから強い影響を受けたとされています。ここは彼を理解するうえで重要な点だと思うのですが、その思想が実際にティールの中でどう結びついているのかが、私にはいまひとつ見えてきません。

 ジラールの理論を簡単に整理すると、人間が自分自身の欲望だと思っているものは、実は他者の欲望を模倣(ミメーシス)しているに過ぎない、というものです。欲望を模倣する人間同士はぶつかり合い、その対立はやがて暴力の連鎖を生み出します。人間社会は歴史的に、この連鎖を鎮めるために一人をスケープゴートに仕立てて排除するということを繰り返してきた。ジラールは、この構造の究極の例として、イエスがゴルゴタの丘で処刑された出来事に注目します。

 正直に言うと、この出来事をジラールがどう捉えているのか、私にはずっとよくわかりませんでした。一見すると、誰か一人を生け贄にしてそれを叩くことで大衆をまとめ上げるという、いわば人々を操るための「うまい統治のやり方」を説明しているようにも読めてしまう。しかし、どうもそうではないようですね。

 加藤 ジラールの分析では、スケープゴートを立てても根本的な解決にはならないとしています。満たしきれない問題が、結局人類には残り続けてしまうからです。しかし、完全無欠の神であるイエスが、無実の人間として十字架にかけられたという出来事だけは別だとジラールは考えました。人は他者の欲望の模倣という性質から逃れられませんが、イエスの姿を見るとき、初めて利他性を思い起こし愛に目覚めることができる。つまり、イエスこそが人類の歴史上初めて暴力の連鎖を止め得るものだった。だからこそジラール自身もカトリックになったのだと思いますし、ティールもイエスをそうした意味での唯一無二のスケープゴートとして理解しているからこそ、キリスト教徒なのだと思います。

 ただ問題は、こうしたイエスの理解がティールの思想や活動にどれだけ反映されているのか正直よくわからない点です。今、彼がパランティアでやっていることをミメーシスに当てはめると、アメリカはAIによってより強大な武力を持ち、自由をつくり出し守るシステムを築こうとしている。それを見た中国も、同じように模倣的にアメリカに対抗しようとする。こうした競争の連鎖が止まらないのが今の時代なのだと思います。

 しかし、もし本当にイエスが唯一無二の最善のスケープゴートとするのならば、その競争から降りることこそが重要なはずです。それなのにティールは自ら競争に参加することで「アメリカを守っているんだ」「東シナ海を守っているんだ」と理解している節がある。この点は、ジラールのキリスト理解とは少しずれているように思います。

 宇野 やはり矛盾していますよね。イエスの教えに倣うのではなく、むしろ自分をイエスになぞらえ、世界を救う特別な存在だと考えている。

 

権力者の被害者意識という矛盾

 宇野 さらに言えば、ティールには「リベラルという名の反キリストに、自分たちは潰されてしまう」という、一種の被害者意識すらあるように見えます。企業活動を規制しようとする民主党のアプローチこそ反キリストであり、放っておけば自由な起業家精神は窒息させられてしまう。だから、国家が企業を規制するという発想そのものを打ち倒さなければならない、という考えになる。どこまで本気なのかはわかりませんが、もしかすると本人は心からそう信じているのかもしれません。あれほど強大な権力を持ち、世界を動かしている人物でありながら。

 加藤 それはすごくあると思います。環境保全運動やAI規制を企業活動への脅威とみなすティールは、グレタ・トゥーンベリらの環境運動を反キリスト的な思想と結び付けて論じています。また、AI規制を訴えたローマ教皇レオ14世についても、その主張は結果として中国共産党を利するとして、「中国共産党のために働いている(working for the Chinese Communists)」と批判しました。

 本来、イエスの弟子であれば利他的な愛を実践すべきです。しかしティールの場合、自分の欲望を邪魔するものを排除することこそが最大の目的になっていて、信仰と矛盾した言動を繰り返しているように見える。むしろ、そうした姿勢こそ聖書が描く「欲望の最大化を求める存在」としてのサタンに近いのではないか、とすら思えてしまいます。

 宇野 そんな考えの人物がトランプ政権のゴッドファーザー的な存在として背後に控えている。私たちはそのことをきちんと理解しておかなければならないですね。

 

なぜ今アメリカでCEO的君主制が支持されるのか

 宇野 こうしたトランプ政権周辺の思想家の中で、もう一人注目すべき人物がカーティス・ヤーヴィンです。元プログラマーでブロガーの彼は、反民主主義と反平等主義を掲げる暗黒啓蒙と呼ばれる思想潮流の生みの親ともされています。ヴァンスが彼の主張を引用したことをきっかけに注目を集めました。今や保守派の思想的な空気をつくっている人物として知られています。

 彼の主張は一貫していて、様々な制約に縛られて身動きが取れない大統領よりも、アメリカを一つの経営体とみなし合理的に改革を進める強いリーダーシップこそが必要で、CEOのような強力な君主が統治する体制に置き換えるべきだ、というものです。当初は既存のリベラルエリートを激しく敵視する、いわば「キワモノ」的な存在でしたが、今ではキワモノとして切り捨てられないほど、一定の支持を集めています。

 加藤 そうですね。ティールも彼の思想に感銘を受けていて、連邦政府内の若い世代にもシンパが多いと聞きます。

 宇野 まさにそこが衝撃でした。そもそも「プレジデント」という言葉自体、元はフランス語の議長(Président)に由来していて、本来そこまで強いイメージではありません。また、アメリカの基本思想が民主主義かどうかは怪しいですが、君主制ではなく共和制、コモンウェルスであるということは建国以来の至上の信念だったはずです。そのアメリカで君主制を主張する論調が一大スキャンダルにならない、という今の状況にかなりショックを受けました。これは一体何が起きているんでしょうか。

 加藤 ここに関して、一つ興味深い見方があります。2026年7月号の『中央公論』で、東京大学の上村剛さんが寄稿していたのですが、そもそも大統領制は当時の東インド会社のような株式会社の制度を模倣した面があり、大統領もそうした会社のトップを念頭に置いて構想されたということです。そう考えると、大統領にはもともと強い執行権が想定されていた面もあり、CEO的君主制が必ずしもアメリカの伝統とかけ離れているわけではないのかもしれません。

 宇野 しかし、企業のCEOなら取締役会に解任権がありますよね。CEO的な大統領は、誰が辞めさせられるのでしょうか。

 加藤 それについて、私もヤーヴィンに直接聞いてみました。ヤーヴィンは、国家を株式会社のように再編し、その所有者たる株主がブロックチェーン技術を用いて所有権や議決権を管理する構想を描きます。そこでは、公開鍵によって識別される仮名の主体が、中央集権的な管理者を介さずに契約や意思決定を共有し、取締役会や株主総会に相当する統治機能を担うことが想定されています。もちろん現実的にはかなり難しいと思いますが、その取締役会が「この大統領はもうダメだ」と判断すれば、大統領の権限を無効化し、次の人物に交代させられる、という仕組みを構想しているそうです。

 宇野 特定の誰かが決めるのではなく、ネット上に集まった不特定多数が理事会役をやるところがおもしろいですね。まさにDAO(分散型自律組織)的です。本部や経営者を置かず、参加者同士がルールに従って自動的に意思決定していく、暗号資産の世界でよく使われる仕組みです。荒唐無稽ではありますが、彼なりに筋道は考えているんだなとは思います。

 

支持され続けるマッチョな孤高のリーダー像

 加藤 では、なぜこうしたCEO的君主制が一定の支持を集めるのか。背景にはアメリカ人のリーダー観が大きく関わっていると思います。

 一つは、文化的な土壌です。アメリカ人って起業家が大好きですよね。知性的で切れ者の強いリーダーが大きなシステムをつくり、富を築いていくというサクセスストーリーに惹かれる人が多い。また、西部開拓時代を描いたジョン・フォードの映画もマッチョな孤高のリーダー像を提示しますし、福音派の世界でも、「強い男性リーダー」像がこの50年ほど繰り返し語られてきました。

 もう一つは時代的な背景です。1960年代以降、ローズベルト時代に肥大化した連邦政府が、文化的にリベラルな政策を推し進めるようになります。それへの反発が半世紀にわたって積み重なってきました。

 こうした鬱屈が積もったところに響くのが、一種の強いリーダー待望論です。肥大化した政府を、道徳的で人々から尊敬される指導者が打ち破り、国民がその後に続いていく。そうした物語が、今のアメリカでは共感を集めやすい。

 つまり、強いリーダーへの憧れという文化的な土壌の上に、政府への長年の不満という政治的な文脈が重なって、CEO的君主制というアイデアが受け入れられる土台ができているわけです。

 しかしながら、トランプさんが実際にそのCEO型の強いリーダー像に当てはまるかというと、少し違うようにも思います。ヤーヴィンも、「トランプ政権の執行権はローズベルト時代に比べればはるかに小さく、本来は就任直後にもっと大胆な改革ができたはずなのに、それが十分にできなかったことは失敗だった」と言っています。理想として掲げられるCEO型リーダー像と、実際のトランプとの間には、ヤーヴィン自身が認めるほどのギャップがあるのでしょう。

 

政治の行き詰まり感という共通の根

 宇野 興味深いのは、君主制を支持する根本にある、変えられるはずなのに変えられないというヤーヴィンの苛立ちは、実はもっと穏健な論者とも共通している点です。

 一つ比較になるのが、政治学者フランシス・フクヤマの主張です。デニーンやヤーヴィンとは立場が明らかに異なるフクヤマですが、トランプ以前からアメリカ政治を「ヴィートクラシー(vetocracy)」だと批判してきました。三権分立やチェック&バランスの仕組みの中で、誰もが拒否権を行使し合い、結局何も決められなくなっている状態のことです。つまり、法の支配や権力分立が行き過ぎ、政治が機能不全に陥っているという認識です。

 これへの解決方法として、フクヤマは制度の改革を求め、ヤーヴィンは君主制をもちだすなどそれぞれですが、アメリカ政治が機能不全に陥っているという認識自体は、思想的立場を超えて広く共有されているのだと思います。

 加藤 まさにその通りだと思います。既存の政治システムへの不信感があるからこそ、CEO的な君主というアイデアも完全には否定されない。カトリックが求められるのも、デニーンさんのポストリベラリズムが支持されるのも、根っこにあるのは同じ行き詰まり感なのでしょう。

 宇野 それをトランプが何もかもガラッと変えてくれるのではないかという、ある種の破壊者願望がある。その旗のもとに、百鬼夜行のごとく魑魅魍魎が跋扈しています。ただこれらは支離滅裂に見えても、それぞれ彼らなりの理屈があって、いろいろな思想的伝統を引っ張ってきているんですよね。デニーンの構想の背景には、古代以来の混合政体──君主制・貴族制・民主制を組み合わせる考え方──がありますが、実はヤーヴィンの構想も同じ枠組みで読み解けます。匿名の理事会が貴族制の役割を果たし、その上にCEO的な君主が立つ。彼もまた、現代版の混合政体のようなモデルを思い描いているのだと思います。

 日本の政治思想には、こうして異なる統治原理を組み合わせて再設計するという発想自体がそもそも根付いていない気がします。

 加藤 そうですね。だからこそ日本はアメリカに追随してしまう傾向にあるのかと思います。

 

日本賛美という突き放し

 宇野 一方で面白いのは、反対にアメリカの保守系知識人も、日本をかなり意識していることです。ヤーヴィンが最近出した『ネオ君主論──民主主義の敗北とテック右派の時代』は、日本オリジナル版の編集でしたが、それもあってか、妙に日本を持ち上げる論調になっていました。徳川時代を賛美したり、日本には秩序があって循環型経済を実現していると。傍から見ると典型的なオリエンタリズムなのですが、やたらと日本を意識している。

 こうした日本賛美は、ヤーヴィンに限った話ではありません。アメリカの社会学者ロバート・ベラーは、日本研究者でもあり、彼は徳川時代の日本に、表立った宗教はなくとも社会秩序を支える宗教的な精神──彼の言う市民宗教──を見出し、その視点をアメリカに持ち帰って、アメリカにも市民宗教があると論じました。このように日米の間では、互いのイメージが昔からぐるぐると循環していて、その思想的な文脈の中で、日本はどこか独特の位置を占めている。

 加藤 ただ、賛美されている当の日本人からすると、複雑な気分です。

 宇野 そうなのです。これまで日本はリベラルな民主主義国家アメリカをお手本として仰いできました。ところがいま起きているのは、そのお手本が勝手に座を降りながら、代わりに日本を持ち上げる、ということです。つまり彼らの日本賛美は、裏を返せば「お前にはお前の伝統があるんだから、勝手に生きていけ」という突き放しにも見えかねない。ヤーヴィンの議論は、「江戸時代の日本のほうが良かった、アメリカの支配から自由になればいい、デニーンもトランプ以前のアメリカにはもう戻らない。日本は日本で生き延びていけばいい」と言っているように、私には聞こえるんです。日本人として見ると、どこか居心地の悪さを感じます。

 というのも、今日話してきたような閉塞感は、日本にも同じようにあるからです。だからこそ対岸の火事として眺めるのではなく、こうした危うい議論を日本側としてどう受け止め、どのような戦略を描いていくのかが問われているのだと思います。アメリカからの自立路線も、簡単に選べる話ではありません。

 

アメトラに見る伝統の再発見

 加藤 すごく重要な問いです。その前に一つ例え話をさせてください。アメリカン・トラディショナル、通称「アメトラ」というファッション文化があります。ボタンダウンシャツに象徴されるような、アメリカの伝統的な学生スタイルを日本流に取り入れたものです。

 興味深いのはその成り立ちです。1960年代、日本のファッション関係者がアイビーリーグの大学をめぐり、学生たちの服装を撮影しました。それが後に、伝説的な写真集『Take Ivy』として出版されます。ただ実際には、その頃アメリカの大学生はもうアイビースタイルをほとんど着ておらず、写真に収められたのは、かろうじて残っていたその名残でした。それでも日本では「アメリカの学生はこんな格好をしている」ということにして、そこから日本独自のアイビーブームをつくり出します。

 面白いのは、この『Take Ivy』が2010年代になってアメリカで再評価され、大反響を呼んだことです。アメリカ人自身が「自分たちにはこういう伝統があったのか」と、日本を経由して自国の文化を再発見する、という現象が起きました。

 宇野 まさに逆輸入です。

 加藤 この構図は今の日本とアメリカの状況にどこか似ていると感じます。政治の話に戻すと、戦後日本はアメリカ由来の革新主義的な伝統を受け継いだ日本国憲法のもと、日米同盟という枠組みとともに80年間歩んできました。自由主義と民主主義を土台に紆余曲折を経ながらアップデートを重ね、今の日本は世界中から行きたい国として好意的に見られる、豊かな文化的土壌を築いています。アメトラの再解釈も、その一例と言えるでしょう。

 だからこそ今は、この80年間で紡いできたものを単純に捨てて「戦前に戻ろう」と言うのではなく、そこから何を引き出しもう一度世界に発信していけるのかを、もっと主体的に考え直す時期に来ているのではないかと思います。

 ただ、そのまま繰り返せばいいわけではありません。アメトラもその後何十年もかけてイッセイ・ミヤケのような日本独自のファッションブランドを生む土壌になりました。それと同じように、私たちの世代でこの伝統をアップデートできる時代が来ているのではないかと、楽観的かもしれませんが、そんな気がしています。

 

一方通行ではない、鏡のような相互影響

 宇野 世界史の理解の仕方としてすごく面白いです。かつては「進んだ欧米」対「遅れたアジア」という構図で、いかに欧米をうまく理解し、学ぶかが議論の中心でした。しかし実際には、一方通行の関係ではなくお互いが鏡のように影響し合い、相手に勝手なイメージを投影しながら自分自身を振り返ってきたのだと思います。

 アメリカにとって戦後日本の統治は成功例でした。アメリカの制度や文化がうまく根付いたと見なされたからです。ただ、同じことをイラクでもやろうとして、なぜかうまくいかなかった。つまり、その成功は、どこでも簡単に再現できるものではなかったわけです。

 そして今、一部のアメリカの保守系知識人たちが、日本には良き秩序や社会倫理、良き伝統があると言っている。これもまた不思議な現象で、裏を返せば、そうした秩序がアメリカ自身の中では失われつつあることの合わせ鏡なんですね。

 加藤 まさに、ベラーが日本で市民宗教を発見したのと同じことですね。アメリカが日本を経由して、自分たちの伝統を再発見している。

 宇野 日米はああやって、お互いを鏡にしながらイメージを循環させてきた。私たちはアメリカの影響を受けてきた側面ばかり語りがちですが、逆方向の影響も同じくらいあった。それが今も機能しているというのは、とても興味深いと思います。

 戦後日本がアメリカ経由で受け取った民主主義やリベラルな価値観も、日本なりに工夫しながら自分たちのものへと作り替えてきました。だからこれからは、その経験を世界に向けて示していく番なのだと思います。アメリカが民主主義を見直す方向へ進んだからといって、日本までその流れに従う必要はありません。

 世界が互いに影響を与え合う時代だからこそ、日本は自国の政治が何を最も大切な原理としてきたのかを改めて問い直す必要があります。アメリカが君主制を言い出したから、日本もそうしよう、といった短絡的な発想には陥ってはいけないということです。

 

閉塞感をどう乗り越えるのか

 宇野 最後に伺いたいのですが、今日繰り返し出てきた「自分は少数派で、誰かに押しつぶされている」というこの感覚は、アメリカだけの話ではありません。日本、そして世界中の人がどこかでこの閉塞感に囚われ始めている。これを乗り越えていくためには、どうしたらよいのでしょうか。

 デニーン流に言えば地域の支え合いを取り戻す、ということになるのでしょうが、この変化の速い時代にそれは悠長すぎないでしょうか。私も答えは出ていないのですが、加藤さんはどう思われますか。

 加藤 ここまで危機の話ばかりしてきて、最後にこう言うのも変ですが、まず大事なのが危機を必要以上に肥大化させないことだと思います。

 PRRI(公共宗教研究所)の今年6月の調査によると、アメリカ国民のうち「多民族的な多元主義」を求める人は、「白人・キリスト教中心の国」を望む人よりはるかに多く、6~7割に達しています。外交についても、武力行使は最後の手段にとどめたいと考える人が7割に上ります。つまり、アメリカの多数派は、今も国際協調や多元性を望んでいるということです。声の大きい極端な塊が目立つと世界全体が極端なほうに向かっている気がしてしまいますが、実際はそうでもないことが多い。これは日本も同じで、明日にも戦前の天皇制を復活させようと本気で思っている人は、声は大きくてもごく少数のはずです。

 宇野 やはり社会全体は世俗化に向かっているし、多様性を受け入れ、他国と協調するという価値観をよしとする流れは、社会の潮流として間違いなく進んでいるわけですよね。

 加藤 おっしゃる通りです。ただ、「極端なところがただ目立っているだけだ」といって油断もできません。人々が政治に無関心になっている隙に、声の大きい人たちが組織票を固め、政治制度そのものを変えてしまうことがある。しかも一度変わってしまうと、簡単には元に戻せません。だからこそ、しっかりと目を開いておく必要があります。

 もう一つ、閉塞感を乗り越えるために必要なのが、広がりすぎた格差をどう是正していくかという問題です。超富裕層をどう規制するのかは、右も左も関係なく、政治も経済も共に考えていかなければならない課題です。これは日本国内だけでなくグローバルな問題でもあり、国際的な連携の中で少しずつでも変えていく必要があります。

 そこでは、伝統を重んじつつ日本の伝統の中にある良い部分を現代的にアップデートすることで、強者との関係を考え直せるかもしれません。あるいは、デニーンの言う共通善の中にヒントがあるのかもしれない。いずれにせよ、超富裕層や超強者たちをどう規制していくかは、これからの学問がクリエイティブに考えていかなければならない、今後最も重要なテーマの一つだと思います。

 

アメリカの試行錯誤から、日本の民主主義を考える

 宇野 そうした格差の是正は簡単ではありませんが、実際に移行の痛みを負わされている人は多くいます。行き詰まり感や孤立感を抱え、自分の存在意義を確かめられるものを求めた結果、福音派のような信仰に頼る人が出てくるのも、決しておかしなことではないと思います。

 むしろ今のアメリカは、そこに政治思想から宗教まであらゆる伝統を動員して、この状態をどう説明するかを、知的なおもちゃ箱から一つずつ出すかのように「コモングッド、使えるかな」「混合政体、また使えるかな」と試している。こうして、答えを急いで一つに絞り込むのではなく、様々な伝統を総動員して試行錯誤していること自体が、むしろ健全な模索の過程とも思うのです。

 だからこそ、繰り返しになりますが、こうした混乱期には一部の極端な意見が実態以上に大きく見えます。しかし、それを見て「アメリカは全部違う国になった」「民主主義は終わった」と絶望するのはまだ早い。とにかくやれるところをやっていくしかないのです。それはデニーンの言う地域の立て直しもそうですし、加藤さんがおっしゃった通り、極端な格差は民主政体を維持する上で不都合なので埋めていく必要があります。

 そうした課題に向き合う上で、日本には日本的な知的伝統もあれば、近代を通じて追いかけてきたリベラルデモクラシーがきちんとある。これを組み合わせながら、自分たちなりの答えを探していくべきです。アメリカのこうした試行錯誤を面白がりつつ、そこで何が問われているかを確認し、その問いを自分たちに引き戻して考える、そういうきっかけにするべきなのだと思います。

 だから、アメリカをトランプは変な人、福音派は困った人とキワモノのようにしてしまうのでは理解が浅いでしょう。これだけ多くの伝統や思想を動員してでも危機と向き合おうとしているアメリカから、私たちが学べることは
まだたくさんあるはずです。加藤さんのような研究者が今の日本で求められているのも、その表れなのだと思います。

(終)

 

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