『北斗の拳』作者が辿る「わが生涯」【原哲夫】

B!

『公研』2026年7月号 第 676 回「私の生き方」

漫画家
原 哲夫


はら てつお:1961年東京都渋谷区生まれ。漫画家を志し、高橋よしひろのアシスタントを務めながら「劇画村塾」で学ぶ。82年に『週刊少年ジャンプ』にて『鉄のドンキホーテ』で連載デビューを果たす。翌83年、原作・武論尊とともに『北斗の拳』の連載を開始。緻密で重厚な画力と熱い漢たちを描く作風で社会現象的ブームを起こす。その後も『花の慶次 ─雲のかなたに─』などの代表作を生み出し続け、2000年には株式会社コアミックスの設立に参加。同社取締役を務めながら自身の作品を精力的に発表している。



絵にのめり込んだ少年時代

──原先生が漫画に興味を持たれたきっかけを教えてください。

 父がサラリーマンで、朝早く起きて、電車に乗って会社に行く、という生活スタイルを見て、僕にはとても真似できないと思いました。僕は物心がつく前からずっと絵を描いていたので、これで食べていける仕事はないかなと考えて、小学校2年生の頃に漫画家になろうと思いました。

 ただ、僕はその頃あまり漫画は読んでいなくて、どちらかというと漫画原作のアニメを観ていました。絵が止まっている漫画より、動きのあるアニメーションのほうがいい、と思っていたんですね。そんなとき、クラスメイトの女の子が、たまたま僕に漫画をプレゼントしてくれたんですよ。赤塚不二夫先生の『おそ松くん』でした。試しに開いてみたら、読んでいるうちにだんだん絵が動き出して見えてきました。漫画ってすごいな、とそのとき初めて感じましたね。

──漫画を描き始めたのはいつ頃からだったのでしょうか?

 ちゃんと描き始めたのは小学校3年生ぐらいからです。その頃に、母から『藤子不二雄先生のまんが入門』という本を買ってもらったことも大きいでしょうね。当時の絵を描くのが好きな子どもたちにとって、バイブル的な一冊だったかもしれません。

 僕は学校の授業もほとんど聞かないでひたすら絵や漫画ばかり描いていました。だから勉強はできない代わりに突飛な発想ができた。漫画や特撮には、毎週のように凝ったデザインの新しい怪人や怪獣が出てくるじゃないですか。だから僕は、漫画家は週一でこういうのを思いつける能力がないとダメなんだと思って、ひたすらデザインを考えて描いていました。

──そうしてメキメキと漫画の腕を上げられていったわけですね。漫画賞などへの応募はいつ頃から始めたのでしょうか?

 僕が中学生の頃、石ノ森章太郎先生が少年ビッグコミックで担当されていた企画コーナーで、4コマ漫画を募集していました。そこに応募したのが最初ですね。物語の起承転結を身につけるためには4コマを練習するのが一番です。ときどき作品が入選すると、「原くんの漫画はここがいいね」とコメントが書いてあって、本当に嬉しかったのを今でも覚えています。

 石ノ森先生とは僕が漫画家デビューしてから数年後に直接お会いする機会があったのですが、緊張のあまり4コマのことはとても話せませんでした。

──その後、私立本郷高校のデザイン科に入学されます。

 高校時代は漫画劇画部という部活に所属していました。しかし当時はブルース・リーのカンフーブーム真っ只中だったので、先輩たちは漫画そっちのけでカンフーが題材の自主映画を撮っていました。僕もカンフー映画はよく観ていましたが、仮にも漫画部ならそれを漫画で表現するべきだろうと思って漫画で描いていましたね。ちなみにこのときのカンフーへの興味が、後の『北斗の拳』のケンシロウのキャラクター造形にもつながっていきます。

ジャンプで出会った名編集者

──高校卒業後、先生は週刊少年ジャンプでデビューを果たされます。

 僕は大学に行く気はなかったので、まずはアシスタントをして漫画を学ぼうと思っていました。最初は、週刊少年マガジンで『釣りキチ三平』を連載していた矢口高雄先生にアシスタント希望を出したんですよ。でも落とされてしまいました。それで、このままじゃいけないと思い、仕方なくジャンプのアシスタント募集に応募したんですよね。今からだと想像しづらいですが、当時はサンデーとマガジンが主流の時代です。ジャンプはその後を追うかたちでした。若い新人作家の育成に力を入れていたジャンプは、常に新人アシスタントを募集していました。

 それ以前に、僕は高校1年と2年の夏休みに、作品をすでにジャンプへ応募していました。1年生のときは落ちてしまいましたが、2年生のときは最終選考に残って編集部にも呼ばれました。そのとき「新しいものを描いてもう一回持ってきなさい」と言われたので、描きかけの原稿を持っていったら、厳しい言葉をかけられました。「こんなのじゃ全然ダメだ。『キン肉マン』のゆでたまご先生は、君とほとんど歳が変わらないのに連載を持っているんだよ」と言われたことをよく覚えています。悔しくて、もうジャンプには連絡するものかと思っていたのですが、やむをえず編集部に電話をかけたとき、出たのが編集者の堀江信彦さんでした。

──堀江さんといえば、『北斗の拳』から『花の慶次 ─雲のかなたに─』まで、長らく先生の担当編集を務められた方ですね。

 その頃の堀江さんはジャンプ編集部の新人でしたから、電話番をしていました。それでたまたま僕がかけた電話を彼が受けた。今思えば、そこが運命の変わった瞬間だったのかもしれません。

 それまでの僕は、本当に描きたいものが描けなかったんですよ。僕は自分の劇画調の絵に合う硬派なストーリーを思いつけなかった。だからギャグ漫画ばかり応募していました。でも堀江さんに僕本来の画風である劇画調の絵を見せたら、すごく気に入ってもらえて。カッコいい男を描きたいよね、と盛り上がってすっかり意気投合しました。

 そして、「ちゃんと人気を得ている作家のところで勉強することに意味がある」という堀江さんのアドバイスと紹介を受けて、僕は高橋よしひろ先生(ヒット作に『悪たれ巨人』、『銀牙 ─流れ星 銀─』など)のもとへ行き、修行を積みました。

初連載はもう死んでいる!

──それから数度の読み切り掲載を経て、モトクロスを題材とした『鉄のドンキホーテ』の連載がスタート。しかし本作はわずか10回で連載打ち切りとなってしまいます。

 本当は2話目の時点で打ち切りが決まっていたんです。1話目の読者アンケートがダメで、2話目もダメだったから。2話目がダメだと打ち切りがほとんど確定になるんですよ。でも僕は連載が終了することを知らされないまま描き続けていて、6話目まで描いたところで堀江さんが「もうその漫画は終わるから、次の話をしよう」なんて言い出したんです。「原くん、中国拳法の漫画が描きたいって言っていたね。次は、経絡秘孔っていう人体のツボを突くと人間が爆発する話はどうだ?」。

 この人は何を言ってるんだと思いましたね。秘孔を突いたら人間が爆発するなんて、そんなおかしな話があるかと。ただでさえ打ち切りが決定してお先真っ暗だっていうのに、「決め台詞は『お前はもう死んでいる』だ!」なんて(笑)。

 とはいえ『鉄のドンキホーテ』を描くにあたり、僕も見通しが甘かったのかもしれません。デビューすることばかり考えて、自分が本当に描きたいもの、描けるものが何なのかをちゃんと考えていませんでした。だから次に全てを賭けよう、次でダメならもう諦めようと強く決意して『北斗の拳』の構想を練りはじめました。

『北斗の拳 新装版』第1巻(コアミックス刊)

 

──『北斗の拳』の構想はどのように固まっていったのでしょうか?

 堀江さんは『必殺シリーズ』のような、標的を針で刺して殺す地味な暗殺モノで行こうと考えていました。そこへ僕がブルース・リーの要素を無理やりくっつけたことで、『北斗』のテイストが固まっていきました。本来であれば相手の秘孔を突いて殺すのに派手なアクションは不要なんですが、僕はやりたいことを全部やるぞと思って北斗百裂拳などの豪快な必殺技を勝手に考案しました。秘孔はその間に突いていたという設定です(笑)。

 堀江さんも堀江さんで色々なネタを出してくれました。「中国じゃ北斗七星は死を司る神だと言われているから、拳法の名前は北斗拳でいこう」とか。でも僕は「北斗拳」では語呂が悪いと思って、当時流行っていたジャッキー・チェンの『飛龍神拳』という映画から取って「北斗神拳」と名付けました。

「寿司でも行くか」で
『北斗の拳』人気を直感

──そしてついに『北斗の拳』が連載開始。ご感触はいかがでしたか?

 連載が始まる前に、読み切りの『北斗』の掲載が2話ありました。僕は一度連載で失敗していた身であり、編集部からの信頼が薄かったですからね。でも、読み切りは2話とも確かな手応えがありました。そして連載が決定しました。

 僕は『鉄のドンキホーテ』より前に、映画の『マッドマックス2』に触発されて『マッドファイター』という読み切りを描いたこともあり、その作品も人気がありました。『マッドマックス2』のバイオレンスに満ちた終末的な世界観が好きだったので、連載の『北斗』ではそれを前面に押し出すことにしました。ただ、堀江さんには「原くんは絵に時間がかかるから原作者をつける必要がある」と言われ、武論尊先生が原作に入るかたちになりました。

 自分の描きたいことを突き詰めなかったせいで失敗に終わってしまった『鉄のドンキホーテ』の反省から、『北斗』では自分が心から面白いと思ったものしか描かないと決めていました。だから武論尊先生の原作や堀江さんの編集者としての意見に対しても、僕は自分の中で納得がいくものだけを作品に落とし込みました。もう絶対に後悔したくなかったんです。

──やがて全国的な『北斗の拳』ブームが巻き起こります。その熱気をご自身で感じられたわけですね。

 それが意外にも感じないんですよ。当時は今と違ってインターネットがありませんでしたから。それに私自身、調子に乗ったりしないために、読者アンケートの人気順位は基本的に聞きませんでした。

 でも、堀江さんの機嫌でなんとなくわかりました(笑)。普段は厳しい態度の堀江さんが、妙にご機嫌なんです。電話で「ちょっと原稿持ってきて」と言われたので、編集部に持っていったら「寿司でも食いに行くか」と。その翌週は高級な肉料理店でした。そんなことが2週も3週も続けば、さすがに僕もわかるわけです。ああ、今これ人気出ているな、と。わかりやすいですよね(笑)。

 当時はジャンプもサンデーもマガジンも、300万部の壁に苦しんでいました。どの雑誌も200万部後半までは伸びるのですが、あと一歩が届かない。超人気作が3本ないと300万部には届かないと言われていました。ジャンプは『キン肉マン』と『キャプテン翼』があって、そこへ『北斗』が加わったかたちです。するとあっという間に300万部の壁を越えて、毎週20万部のペースで部数が伸び、遂には400万部まで伸びた。当時はアニメで火がついて原作の漫画が大ヒットするという流れが多かったですが、『北斗』は漫画の時点で絶大な人気を誇っていたそうです。堀江さんがご機嫌だったのも頷けますよね。

アニメ『北斗の拳 ─FIST OF THE NORTH STAR─』©武論尊・原哲夫/コアミックス,「北斗の拳」製作委員会

 

悩みの種は人間関係と目の病気

──とはいえ、あれだけ緻密な作画の漫画を毎週ペースで連載するのは大変だったのではないですか?

 堀江さんからは3年くらいのつもりでやろうと言われていました。それなら頑張れると思って、僕は腹を括りました。実際、『北斗』を描くこと自体は本当に楽しかったです。

 ただ、私生活を捨てなきゃいけないし、アシスタントさんたちとの人間関係には苦労しました。当時の僕は22歳の若輩ですから、アシスタントで入ってくれる方が年上だったりするわけですよ。だから僕がモタモタ描いていると、注意されてちょっと気まずい空気になる(笑)。

 僕はもともと人付き合いが苦手なタイプだったし、漫画も自分一人で描き上げたい気持ちがありました。でも連載である以上、締め切りには必ず間に合わせる必要があります。これも勉強のうちだと思って、アシスタントの人たちと寝食をともにしながら制作していました。

──連載中には目のご病気にも悩まされたと聞きます。

 デビュー前の18歳くらいのときから、目がおかしいと感じていました。円錐角膜っていう珍しい病気だったんですよね。簡単に言えば角膜が飛び出してくる病気です。視力が著しく低下するので、漫画を描くのにはものすごく苦労しました。頭が痛くなったり気持ち悪くなったりする。それに目のピントが合わないから、狙ったところに線が引けない。コンタクトレンズも使ってみましたが、拒絶反応が出てしまいました。

 いろいろな病院に通って、どうにか治らないか相談してみましたが、角膜移植をしたところであまり効果はないと言われました。だから僕は人生の30年くらいをこの病気に悩まされ続けてきたわけです。肉体的に言えば地獄でした。

 でも2024年になって、僕はようやく角膜移植手術を受ける決意をしました。結果的には手術は成功して、視力が0・02から0・2に上がった。だからジャンプで連載を持っていた頃よりも、今の方がよく見えるんです。医療技術の発達に感謝ですね。

「少年誌で時代劇はウケない」のジンクス

──1988年、約5年にも及んだ『北斗の拳』の連載がようやく幕を閉じました。これほどのヒットの後であれば、引退して余生を楽しく過ごすという選択肢もあったのではないでしょうか?

 『北斗』が終わったら僕は漫画家を辞めるつもりだったんですよ。『北斗』以外に描きたいものも思いつけませんでしたから。でも、辞められなかった。収益の大半が税金に消えてしまったので、手元にお金が全然残らなかったんです。漫画家という職業の大変さを思い知らされましたね。

 そんなとき、堀江さんが時代小説の漫画化の話を持ちかけてきました。「原くんのために時代小説を500冊読んで考えてきたぞ!」なんて言うんです。500冊なんて、さすがにちょっと盛ってるんじゃないの? とは思いましたけど(笑)。最初に時代小説と聞いたときには、裃を着ておしろいを塗った時代劇のイメージが思い浮かんできて、僕には描けない領域だなと思いました。でも堀江さんが勧めてくれたのは、隆慶一郎先生の『一夢庵風流記』という小説でした。それを原作にしたのが『花の慶次 ─雲のかなたに─』です。主人公である前田慶次の「傾奇者」という奇抜なキャラクター像は興味深かったし、僕が描きたい筋骨隆々のキャラクターと、戦国時代の和洋折衷デザインの着物や甲冑はとても相性が良いと思いました。これならいけると直感しましたね。

『花の慶次 ─雲のかなたに─[新装版]』第1巻(コアミックス刊)

 

──時代劇を漫画として連載することには、現代劇とは違った苦労も多かったのではないでしょうか。

 当時の少年誌には「時代劇はウケない」というジンクスがありました。だから僕はそこへ挑戦したかたちになってしまいました。さらに、「友情・努力・勝利」を謳うジャンプで、勝者だけでなく、負けた側の美学も描くことは特異なことでした。とはいえ半分ぐらいは自信がありました。なんだかんだうまくいくんじゃないかなと。でもやっぱり、どう頑張っても『北斗』のときみたいにアンケートで1位や2位を獲ることはできませんでした。よくても7位くらいでした。連載は3年半ほど続きましたが、その間ずっと低空飛行だったのがつらかったですね。

 あと、『花の慶次』の主人公の前田慶次は笑顔が印象的なキャラクターなのですが、僕はケンシロウやラオウのような無骨な男ばかりを描いてきたので、笑顔の似合う男を描くのが苦手だったんですよ。だから連載の最初の頃はよく原稿の描き直しをさせられました。内心で「そんなの描けないよ」と思いながらも笑顔のキャラクターを描くのに挑戦していましたね。このように、『花の慶次』は常に悩みを抱えながら描いた作品だったんですよね。

──しかし『花の慶次 ─雲のかなたに─』には、そんな悩みを少しも感じさせないほどの、原先生の揺るぎない「芯」のようなものがあるように感じました。

 確かに悩みの尽きない作品でしたが、僕は本作の連載を通じて武士道の精神を学ぶことができました。それは今でも僕の人生に大きな影響を与え続けています。特に、隆先生も愛読されていた武士の教訓や説話の口伝集『葉隠』(口述・山本常朝、筆録・田代陣基)は、僕の人生にとって重要な一冊です。

 ここには「常住死身」という心構えが書かれています。私はこれを、自分を殺し、死人(しびと)として生きることで逆に生を得る、という意味に解釈しました。想念上のことではありますが、朝起きたら、ことにあたる前に、弓や刀で自分を殺しておくよう『葉隠』は説いています。この、前もって死んでおくということが、動じない心を生むと悟りました。死人が不安をおぼえることはありません。また、苦しい状況でも、あえて火の中に飛び込むことで活路を開く。そんな姿勢も、『葉隠』から学びました。こうした『葉隠』の「常住死身」の精神は、30代以降の僕の人生に指針を与えてくれるものでした。

──『花の慶次 ─雲のかなたに─』以降も『影武者 徳川家康』『影武者 徳川家康外伝 左近 戦国風雲録』『いくさの子 ─織田三郎信長伝─』など、数多くの時代劇を手がけられています。今、取り上げてみたい歴史上の人物はいらっしゃいますか?

 実はいないんですよね。僕の役割は、堀江さんが考えたネタをわかりやすく漫画にアレンジして、読者の皆さんに提供すること。だから僕はネタを面白く読ませるための絵が描ければ満足なんです。言うなれば料理人ですね。受け取った食材を調理して、お客さんに振る舞う。そして料理人歴が長くなればなるほど、つくるコツが掴めてくるから、どんな食材でもそれなりに美味しいものに仕上げられるようになるわけです。

決死の覚悟で挑んだ起業

──2000年に、原先生や堀江さんを中心に株式会社コアミックスが設立されました。こちらは堀江さんが先導したものなのでしょうか?

 たぶん発案者は僕です(笑)。当時はホリエモン(堀江貴文)が注目されていた頃だったんですよ。その影響で僕も起業を決意しました。

 僕はその頃、漫画家として厳しい時期を迎えていました。『北斗』以降、『CYBERブルー』はコケてしまったし、『花の慶次』もスマッシュヒットで終わってしまった。その頃僕はまだ33歳だったので、この先の人生をどうすべきか不安に感じていました。そこへ彗星のごとく現れたのがホリエモンでした。すごい人が出てきたなと思いましたよ。僕もそれに触発されて経営の勉強をしたりしました。そうした中で次第に、起業への意欲が高まっていきました。

もともと僕は営業が全然できませんでした。口の上手い人に言いくるめられちゃうんです。たとえば「原さん、今度ウチの会社で『北斗』を再録させてくださいよ。でも印税は半分の半分の半分でいいですよね?」といった具合に、理不尽な条件をどんどん呑まされそうになってしまいました。僕の一番大切な『北斗』でさえも、僕一人の力では守っていくことができないんだと思って恐ろしくなりました。

 だから僕は、自分一人で頑張るのではなく、信頼できる仲間を集めてチームをつくることが必要だと感じるようになりました。それで真っ先に堀江さんに声をかけました。実はその頃、堀江さんも厳しい時期を迎えていました。週刊少年ジャンプの編集長からは退いていたんです。誘うなら今がチャンスだと思いました。

 僕が言うことはいつも突飛なので、起業の話も最初は「何を言ってるんだ?」と一蹴されてしまいました。いくらホリエモンブームの最中とはいえ、当時の堀江さんは45歳。そこから新しいことを始めるのは肉体的にも精神的にもキツいものがあったと思います。でも僕は敢えて「やりましょうよ」と言い続けました。「失敗したっていいじゃないですか。僕たち2人さえいれば漫画は描いていけるんですから。僕が絵で、堀江さんが原作で。今までだってずっとそうしてきたじゃないですか」と。

 やがて堀江さんは、「原くん一人では無理だよ。他の仲間も探そう」と言って『シティーハンター』の北条司さんや『よろしくメカドック』の次原隆二さんに声をかけてくれました。堀江さんってそういう人なんですよ。最初は取り合わないんだけれども、だんだんその気になってきて、最終的にはまるで自分ごとのように全力を出してくれるんです。そうしてコアミックスが設立されました。早いもので、それから26年もの月日が経ちました。

『ボノロン』はすべての子どもたちのために

──先生は児童向けの絵物語作品『森の戦士ボノロン』のプロデューサーも務められています。従来の原先生の作風からは想像がつかないくらいハートフルな作品です。

 やっぱり僕も自分に子どもが生まれたタイミングで、いろいろと思うことがありました。小さい子どもが夢中になるコンテンツというと、大抵ディズニーかアンパンマンですよね。僕はそれがちょっと悔しかった。僕も一人の創作者ですから、自分のつくったキャラクターで子どもたちを育てていきたいと思っていました。そんなことを堀江さんと話していたら、彼も同じようなことを考えていました。それなら絵物語をつくろうという話になり、『ボノロン』が生まれました。堀江さんはやると決めたらとことん継続できる人なので、『ボノロン』は20年以上にわたり新しいお話を届けてきました。

『森の戦士ボノロン』2026年春号「タンタとざしきわらしの巻」

 

──CS放送チャンネルのキッズステーションで『ボノロン』のテレビアニメが放送されていたことや、近所のセブン-イレブンで『ボノロン』が掲載されているフリーペーパーが配布されていたことをよく覚えています。現在の20~30代の方の中には、『北斗』よりも先に『ボノロン』で原先生の関連作品に触れた方も多いかもしれません。

 そうやって僕の作品に触れながら子どもたちが育っていってくれたら嬉しいなと思ったんですよ。

 また当時はリーマンショック等の影響もあり、「子どもの貧困」が叫ばれ始めた時期でした。家の経済状況によって、ちゃんとした教育を受けられる子と受けられない子、親に本を買ってもらえる子と買ってもらえない子の間に差が出てしまうことが懸念されました。

 「全国の子どもたちが平等に楽しめるものをつくれないか」という僕たちの呼びかけに応じてくださったのがセブン銀行さんでした。セブン銀行さんのご支援によって、全国のセブン-イレブンでの『ボノロン』の無料配布が実現しました。無料配布という点からもわかるように、『ボノロン』は利益目的の事業ではありません。『ボノロン』では「子どもたちのために」という志を優先しようと決意したんです。

ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、原哲夫

──ビジネス方面に活路を開いていかれた一方で、近年ではイタリアのウフィツィ美術館に自画像を提供されるなど、美術分野への活躍もめざましい印象です。

 僕は全然知らなかったのですが、どうやらイタリアでは『北斗』が相当な人気だそうです。昨年現地へ行ってみると、イタリアの『北斗』ファンのみなさんが僕の来訪を熱心に喜んでくれました。イタリアは日本と似ている部分も多かった。人情味のある人柄も、ちょっと薄暗くて雨模様の多い天候も、どことなく日本を想起させました。

 またイタリアは、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロといったルネサンスの巨匠の作品が残る国。昨年、僕の作品展が行われた教会では、ウフィツィ美術館が所蔵する貴重なルネサンス期の作品を、僕が描いた絵と並べて展示してくれました。バッチョ・バンディネッリという、ルネサンス期に主にフィレンツェで活躍した芸術家であり、ジョルジョ・ヴァザーリの『美術家列伝』にもその名を残す人物の作品と、僕の絵を同列に扱ってくれたのです。彼らは肉体美という点で僕の絵にシンパシーを感じてくれていたらしいんです。そもそも、イタリアではアートと漫画の間に境目がないんですよ。漫画も立派なアートの一種だという意識があります。

 ちなみに、現在コアミックスにはイタリアのローマ出身の社員がいるんですが、彼も熱心な『北斗』ファンです。彼はイタリアの漫画に関するボランティア事業をやっていて、いろいろな人とつながりを持っていました。ウフィツィ美術館の一件も、今年1月のジョルジャ・メローニ首相との面会も、彼が尽力してくれています。

──イタリアからわざわざ日本の出版社へ…… それだけで相当な熱意が伺えますね。

 やっぱり仲間に入れるなら、心の底から『北斗』が好きな人じゃないとダメなんですよ。僕はいろいろな人に仕事を頼んできましたが、本当に『北斗』が好きな人に頼むと、やっぱり情熱が全然違うんです。彼らのおかげで今でも『北斗』の人気が保てていると言っても過言ではありません。

1月16日、イタリアのジョルジャ・メローニ氏と面会した原哲夫氏(写真提供:コアミックス)

 

ページを開いた瞬間にのけぞってしまう絵

──ここからは主に先生の漫画技術の秘密に迫っていきたいと思います。画風に関して、大きく影響を受けた漫画家はいらっしゃいますか?

 劇画ブームの世代なので、劇画系の漫画家にはものすごく影響を受けましたね。すぐに思いつくのは、池上遼一先生、ながやす巧先生、川崎のぼる先生。劇画以外ならちばてつや先生、石ノ森章太郎先生。でも、最初に好きになったのは赤塚不二夫先生ですね。僕は赤塚先生のおかげでギャグ漫画の面白さを知りました。もう涙を流すくらい笑い転げましたからね。泣くほど笑えるというのは、赤塚先生の天才ぶりの成せる技だと思います。

 他にも影響を受けた漫画家はいっぱいいます。あの頃はレジェンド級の漫画家だらけでしたから。もちろん、トキワ荘の先生たちからも影響を受けています。

──原先生といえば、今にも動き出しそうな肉感たっぷりの作画ですよね。

 僕は「2Dだけど3Dに見える絵」というものにこだわり続けてきました。ページを開いた瞬間に、読者がびっくりしてのけぞってしまうような絵です。

 実はそういう場面に生で遭遇したことがあるんですよ。『北斗』連載中、電車に乗っていたときのことです。当時は乗客が車内でこぞって漫画雑誌を広げている時代でした。当然ジャンプを読んでいる若い子たちもいて、僕は後ろからとコッソリ覗き込んだわけですよ。そしたらちょうど『北斗』を読んでいて、ページを捲るなり「うわっ!」と驚いたんです。それから隣の友達に「おいこれ読んだか?」なんて興奮気味に語りかけている。それを後ろから見ながら、僕は心の中で「よっしゃあ!」とガッツポーズしました。嬉しかったですね。とはいえ、僕のような若輩がまさか作者とは、車内の誰も信じてくれなかったでしょうね(笑)。

実写のようなデフォルメをめざして

──漫画家以外に、海外のイラストレーターからも大きな影響を受けておられるとのことです。

 池上遼一先生が影響を受けたニール・アダムスさんというアメリカのイラストレーターがいるのを知って、彼の本を洋書屋さんまで探しに行ったら置いてなかったんですよ。代わりに何か買おうと本棚を眺めていて、たまたま「これだ!」と直感したのがフランク・フラゼッタさんでした。何が良いかって、彼の描く筋肉はボディビルの筋肉ではなく、戦う筋肉、戦場の筋肉なんですよ。僕もこんな筋肉が描きたいと思いました。

──フラゼッタは写真資料を模写するのが嫌いだったそうです。そうではなく、想像の中の動的なイメージを勢いよくキャンバスに描きつけていくのだと。これはおそらく原先生の創作のスタンスともつながっているのではないかと思いました。

 そうですね。フラゼッタさんと同じで、僕も写真とまったく同じに描くことには意味がないと思っています。そのため僕の描く絵は、リアルではあるんだけど、漫画なんですよ。要するにデフォルメです。だけど、僕はギャグ漫画のようなデフォルメではなく、実写のようなデフォルメをめざすことにしました。「デフォルメのリアル化」というか。

 たとえば『北斗』では、物理的に考えたらおかしい巨大な敵が登場します。人間ではあるはずなのに、ケンシロウの2倍も3倍も大きい。でもそれによって、敵の強大さや邪悪さを強調することができます。縮尺を無視しているという点では、これも一つのデフォルメですよね。このように、リアルな絵柄でデフォルメを追究していくと、最終的にはフラゼッタさんの絵に行き着くのかもしれません。

──原作品には多くの動物が登場しますが、とりわけ『北斗の拳』の黒王号や『花の慶次 ─雲のかなたに─』の松風といった、馬の存在感は格別です。黒々とした巨躯で、脚部がばんえい馬のように太い風体は、フラゼッタの代表作である『デス・ディーラー』をどこか彷彿とさせます。

 おっしゃる通りです。僕はフラゼッタさんの描く馬を見て、馬の作画のインスピレーションを得ました。基本的に、僕は画家が描いた絵を参考にしています。馬で言えば、実物の馬を観察しながら描くのではなく、画家が描いた馬の絵を分析する。馬の本質を捉えている人のフィルターを通った絵を参考にして、それから実際の馬を見たり、写真を見たりして、比べながら自分なりの描き方を探っていきます。これもある意味でデフォルメ作業ですよね。

堀江さんはお父さん

──フラゼッタさんは画業のみならず、自分の体を鍛えたりスポーツに興じたりすることにも意欲的だったそうです。原先生はいかがでしょうか?

 小学校の頃は漫画の影響で柔道や剣道を習ったこともありましたが、あまり運動は得意ではなかったので、それ以降はやめてしまいました。

 でもプロの漫画家になってから、体力の重要性を痛感しました。『北斗』の頃が特にそうでしたが、体中がガタガタになっちゃった。漫画というものは、きちんとパワーを充電しておかないと描けないものです。だから30代からはジムに通ったり健康に気を遣ったりするようになりました。

 それに、僕はメディアにも出ることがあるので、自分をしっかりブランディングしなきゃいけないと考えています。生前、デザイナーのジョルジオ・アルマーニさんに会ったとき、自分の見た目がファンのイメージを損なうことのないよう、こまやかに配慮することが大事であると学びました。それ以来、僕も汚らしく見えたりすることのないよう心がけています。

──漫画家やイラストレーター以外で原先生に影響を与えた方がいるとすれば、それは今までもたびたび話題に上がっていた、編集の堀江信彦さんなのではないかなと思います。原先生にとって堀江さんとはどんな存在ですか?

 お父さんですね。僕からすれば、堀江さんは一つ上の次元の存在です。堀江さんのおかげで自分のダメな部分を早いうちに矯正することができました。今で言うところのメンターみたいな存在ですね。一方で、僕の描いた漫画で堀江さんも大ヒットを飛ばすことができたわけですから、そういう意味ではお互いウィンウィンな関係と言えるかもしれません。

 最初の頃の堀江さんはとても厳しかった。原稿の描き直しを幾度させられたかわかりません。でも、そこで僕はへこたれませんでした。僕は他の人たちとは違うんだぞ、ということをどうにか印象付けてやろうと思って頑張りました。今では同じ会社を一緒にやらせてもらえているわけですから、そういう意味では僕はかなり頑張ったほうなんじゃないかと思っています。

 

──人間関係という点に関してもう一つ。先生は他の漫画家の方ともご親交は多いほうなのでしょうか?

 僕自身はそれほど親交が多いほうではありません。ただ、奥様と妻が仲良しだからということで、『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦さんとはちょくちょく関わりがありますね。最近でも年に2回ほどのペースで食事をご一緒しています。でも、僕が直接荒木さんに連絡しても返事がなかなか返ってこないんです。僕の妻が呼びかけるとすぐ返事が来ます(笑)。

 よく言われる話ですが、漫画家同士ってあまりうまくいかないものなんですよね。でも、誰かが間に入ってくれれば良好な関係を保つことができる。妻のおかげで、荒木さんとは今でも仲良くできているわけです。

義理人情をもって愛とする

──『北斗の拳』然り『花の慶次 ─雲のかなたに─』然り、原作品に通奏低音として流れている主題は「愛」です。原先生にとって、愛とは何でしょうか?

 やっぱり、義理人情ですね。日本人の価値観の奥底に、ずっとあるものだと思っています。義理人情は、時代ごとにさまざまな姿をとりながら、やがて漫画やアニメといったエンタメにも潜んでいったと僕は考えています。義理人情を真っ向から描いた『北斗』は日本中でブームを巻き起こしたわけです。先人たちの大切な価値観は、漫画やアニメを通じて、知らず知らずのうちに次の世代の子どもたちへと受け継がれていっているように思います。

──最後に、漫画家をされていて一番つらいこと、一番嬉しいことをそれぞれ教えてください。

 一番つらいのは、自分の漫画で人気が取れないことですね。あとは、病気になって描きたいけれども描けない身体になってしまうこと。

 逆に一番嬉しいことは、僕の作品を読んで読者が喜んでくれることです。感想を言ってもらえたときなんかは、本当に嬉しい。作品を通じて世界とつながっている感じも素敵ですね。海外からお招きいただくと、世界中に僕の漫画が好きな読者がいて、彼らのお役に立てていることがわかる。こんなに嬉しいことってないですよね。もっと皆さんに喜んでもらえるように頑張っていかなきゃなと思っています。

──ありがとうございました。

聞き手 本誌:岡本滉太

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