知の追求が本義の「大学」と、利の追求が本義の「経営」。これら相容れない二者をどうにか両立させるのが大学経営の役割だ。
少子化による地方大学の衰退、国際卓越研究大学制度の是非、「Fラン」不要論といったトピックを辿りながら、日本の大学経営が向かうべき道を探る。
朝日新聞記者
増谷文生(画像左)
やまもとけんじ:1948年生まれ。山口県出身。京都大学大学院教育学研究科(博士課程)単位取得後、和歌山大学教育学部助手。以後、同大にて研究・教育に尽力。2009年に同学長就任。2015年より一般社団法人国立大学協会専務理事を務める。2022年より現職。大学経営のほか、大阪府南部を中心に保育所事業や地域振興プロジェクトも手がける。主著に『地方国立大学 一学長の約束と挑戦』がある。
ますたにふみお:1971年生まれ。栃木県出身。大阪市立大(現大阪公立大学)卒業後、朝日新聞社に入社。長野、千葉、名古屋、仙台、大阪、京都で勤務する傍ら、大学を中心とした教育分野の取材に精力的に取り組む。2020~25年には教育分野の論説委員も担当。共著に『限界の国立大学─法人化20年、何が最高学府を劣化させるのか』がある。
問題の根源は少子化?
山本 私は現在、学校法人・大阪観光大学の理事長を務めています。大阪観光大学は私の家から1キロ程度の場所にあります。私が国立大学協会専務理事の座を退き、さあ「終活」でもするかと大阪に帰ってきたら、学校法人明浄学院(当時)を担当していた管財人から「経営に携わってほしい」と依頼されました。当時、明浄学院は経営が立ち行かず、民事再生手続きをしている最中でした。管財人は私が和歌山大学の学長や国立大協会専務理事を歴任しているところに目をつけ、助けを求めたのでしょう。
いくら経歴があるとはいえ、私学経営は未経験。周囲からは「やめろ」と反対されました。しかし私は目の前の大学の学生たちと働いている教職員のことを思い、また大学が地元から消えてしまうことを憂い、経営の手伝いに乗り出すことを決意しました。その頃は別の方が理事長になる予定だったのですが、巡りめぐって私が理事長をやることになってしまいました。
私は長らく大学経営事業に携わってきました。幼いころから目の前の理不尽をどうにかしたいという気持ちが強く、学生時代には当然のように学生運動へ身を投じていました。そんな学生の面倒を見てくれる会社はないだろうと思い、また理不尽と闘える自由のある場として研究者の道を選択したのです。そこで社会教育研究に従事するうちに、大学経営の道に入り込み、今に至るわけです。
増谷 私は朝日新聞社会部の記者で、教育、特に大学取材を担当しています。
私も入社当初から教育分野に興味があったわけではありません。入社から10年あまり経った2005年に上司から「大学教育を担当しなさい」というミッションを与えられ、そこから教育分野に関する勉強を始めました。2005年といえば、ちょうど国立大学法人化の直後です。それから他の仕事も挟みながら、合計で10年間ほど大学を中心とする教育の取材に取り組んできました。
山本先生は和歌山大学の学長時代に、国立大学運営費交付金をめぐる問題に積極的にコミットされました。国立大学はこの交付金をメインの財源として教職員給与や研究費を賄っています。それを財務省や文部科学省が減額したり、あるいは競争的な部分を増やしたりすることで、国として合理的な方向に大学を少しずつ誘導しようとしました。そこで山本先生は東北大学など何人かの国立大学の学長を束ねて、財務省や文科省の進め方に異議を唱える記者会見を開きました。2015年のことです。
その後、東京で国立大学協会の専務理事を5年間務められました。そこでも旧7帝大の錚々たる学長たちと議論を重ねたり、時には政治家への陳情やアドバイスも行ったりしました。そして2022年には大阪観光大学の理事長に就任します。正直に言えば驚きを隠せませんでした。「大きな問題を抱えた『Fラン(偏差値が算出できないほど入試で不合格者が少ないボーダーフリー大学が転じて、一般的に知名度の低い大学の意味として使われる)』と言われる大学になぜ敢えて先生が?」と思ったからです。
山本 私は「Fランで何が悪い?」と常々思っています。それに、そういう大学でこそ見えるものがあるという確信があります。
増谷 キャリアを通じて地方と首都圏、国立と私立、あるいは難関と「Fラン」それぞれの大学事情にこれほど精通されている方は非常に珍しく、今回の対談相手としてお声がけさせていただきました。
増谷 先ほど国立大学運営費交付金が削られつつあるというお話をしました。これによって真っ先に疲弊するのが地方の小規模国立大学です。ただ、東京大学や京都大学のような大規模大学だからといって安心はできません。大規模大学は大きな研究設備を設置したり新調したりと支出が多いので、交付金を絞られると経営が苦しくなる。
私立は私立で苦しい局面に立たされています。私立は早稲田大学や慶應義塾大学のような都心にある一部の有名私大が伸長する一方で、地方の無名私大には入学者が満足に集まらない。少子化の影響をダイレクトに受けてしまっています。地方私大は生き残るために入試難易度を下げたり、一般選抜以外のさまざまな入試方法を導入したりといろいろな試みを行っているものの、それを上回る速度で少子化が進んでいます。昨今の大学問題の原因を一言で語るのは難しいですが、第一に挙げるとすれば、それは少子化です。大学や政府はこうした現状をどう捉えているのでしょうか?
山本 たとえば「2100年の日本」と聞くと遠い未来の話のように聞こえますが、今の学生の多くはその時代を生きて目の当たりにすることになります。少子化がこのまま進めば、その頃には日本の人口は4000万人程度にまで落ち込むという推計があります。これは明治維新の頃の日本人口より少し多い程度です。しかも全国に人口が分散していた明治維新の頃とは異なり、首都圏や関西などの一部地域に人口が完全に密集している。その頃には北海道、東北、四国、九州などは今と比較にならないくらい衰退しているかもしれません。
そのため文部科学省は、地域存続について各自治体の首長と大学の学長たちがしっかり議論するよう求めています。「選択と集中」路線を貫けば、自ずと地方から学校が消えていきます。大学だけではなく、小学校も、中学校も、高校も消えていき、地域そのものも消えます。そんな状況を見てみないふりはできない。文科省も矜持があるので「地域の若者が高等教育にアクセスできる機会を残そう」と盛んに喧伝している。だったら私も大阪観光大学の理事長として一役買ってやろうじゃないかと思案しています。
ただ、自治体の首長も大学の経営者も、少子化をそこまで深刻に考えていないように見受けられます。とにかく今を乗り切れたらそれでいいという思考なんでしょうか。私が「2100年に向けていま何をすべきか?」などと言うとびっくりされる。
増谷 図1を見ていただければわかる通り、18歳人口がものすごい勢いで減っています。第二次ベビーブーム期の200万人から40年余りで100万人を切ってしまいます。
こうした事実に気づいてすでに動き出している地方大学もありますが、なかなかそれに気づかない、あるいは気づいてはいても資金や人員の不足から身動きのとれない大学も多い。特に私立大学は大幅な定員割れが続くと私学助成金の削減等といったペナルティを受けます。そうした窮状にある大学には、なかなか遠い未来のことまで見据える余裕はありません。
山本 だからこそ、いろいろなセクターでどうしていくのかを議論していく必要があるわけです。
地方に大学がある意義
増谷 自県進学率というデータがあります。これは、たとえば和歌山県内の高校に通っている高校生らが、卒業後にどれだけ和歌山県内の大学に進学しているかを示すものです。ちなみに和歌山県は40年以上連続で全国最下位でした。なぜかというと、あまりにも大阪府へのアクセスが容易だから。南海線やJR阪和線を使えば大阪府内の大学に通えてしまうんです。
和歌山県内に大学が少ないことも大きく影響しています。2017年までは和歌山大学と和歌山県立医科大学と高野山大学しかありませんでした。県内進学先の選択肢が限られているため、必然的に生徒の流出が起きます。2002年には和歌山県の自県進学率はたったの7%でした。しかし現在は18%にまで上昇しています。若者の県外流出や慢性的な少子化に危機感を覚えた和歌山市と県が、専門職系の大学を四つも誘致したからです。
山本 大学誘致に際して、和歌山市などは補助金を拠出するとともに市内中心部にあった廃校をリニューアルする移転案を提起しました。大学側からすれば土地買収や校舎建造の初期投資を抑えられる魅力的な話でした。そうして四つの大学を誘致することに成功しました。自県進学率が多少なりとも伸び得た背景には、こうした自治体の働きかけがあります。
ただ最近、和歌山県に進出した大学は他地域に本部があり、進退の意思決定権は和歌山県が握っているわけではありません。これから少子化が加速して入学者を思うように集められなくなれば、撤退していく可能性があります。
関西圏で言えば、大規模な大学や付属施設が人口密集地域に移転し話題となっています。そうするとこれまで地域で住民のサービスや専門職養成を担ってきた小規模な機関が踏み潰されてしまうのではないかという危惧が生まれています。競争原理のもとで大学運営を行う限り、こうした問題が起きるのは当然です。だからこそ国立も私立も関係なく、その地域社会に必要な機能をいかに存続させていくかについて真剣に議論をしていく必要があるというのが私の立場です。
私はいち私立大学の経営者ですが、自分の大学の帰趨よりも、地域の「公共財」としての私学のあり方について考えることのほうがよっぽど大切だと考えます。少なくない私学は、家族的経営、家業のような閉鎖的な経営体制の下にあるように見えます。しかしそうした大学の中にも、創立100年を超えるような歴史の長い学校がある。その街の「公共財」として、市民とともに100年もの歴史を歩んできたことそれ自体が素晴らしいのだと私は主張しているんです。自分の大学さえ死守できればいいと考えておられるのでは困ります。地域自治体の首長や住民に「自分たちにとっての公共財だ」と思ってもらう必要があります。
教育機関=「公共財」という認識が浸透していないのは財務省も同じです。文科省は毎年約3000億円を私学助成として拠出しています。現在私立大学は600校程度存在しますが、大学の規模等によって助成額に傾斜がつきます。早稲田大学のような大規模私立であれば100億円程度の補助金が貰えますが、地方の小規模私大であれば数千万円程度に留まることも少なくありません。
歳出を減らしたい財務省が考えているように、仮に地方の小規模私大をすべて潰せば、100億円程度は助成金を抑えることができるでしょう。しかし帳簿上の数合わせのためだけに地域から大学を消し去ってしまえば、地域をさらに衰退させてしまう危険性があることをしっかり理解してほしい。
「知のネットワーク」のハブとしての 地方大学
増谷 たとえば鳥取県には 3校しか大学がありません。鳥取大学、公立鳥取環境大学、鳥取看護大学だけです。島根県や佐賀県も同じような状況にある。地域医療における地元大学の重要性は先に説明した通りですが、ただでさえ大学の少ない地域から、保育士や看護師などの人材を輩出している大学を奪うことは、地域の崩壊に直結しますよね。
小さい県ほどそのことに気がつきはじめています。たとえば佐賀県には今年の4月に県で二つ目の私立大学である武雄アジア大学が新設される。場所は武雄市という人口5万人ほどの小さな自治体です。佐賀県は高校生の85%が県外に進学するため、自県進学率は15%に留まります。これ以上の流出を食い止めたいというのが、新大学設置に込められた願いでした。そうは言ってもこれほど小さな自治体に大学をつくる意味があるのか、私は初めこそ疑問に思っていましたが、現地取材を通じて認識を改めました。経営面に関しては県と市が一丸となってバックアップ体制を敷いていますし、なおかつ日本全国から優秀な先生が集まり、地域社会と密接に連携した知のネットワークをつくりあげようとしている。
山本 東日本大震災が起きたときには、震災地域の大学は大きな役割を果たしました。水産学部のない岩手大や原子力工学科のない福島大学が大きな貢献をした。なぜかというと大学が存在することで国内外に知のネットワークが形成されていたからです。水産や原子力の専門家でなくとも、大学や所属教員の学術的コネクションを駆使することで、それらに関する専門的な情報を収集することができました。
和歌山大学学長時代、私は「紀伊半島における防災・減災に関する和歌山大学の方針作成のための有識者会議」(2013年)を設立しました。南海トラフ地震を見越して、震災前に和歌山大学を中心とした復興計画を練っておこうと考えたのです。すると当時の和歌山県知事は「和歌山大学がやることではない。東大や京大にやってもらえばいい」と言ったのです。和歌山大学には震災復興の専門家はいませんでした。したがって敢えて首を突っ込む必要はないと思われたのでしょうね。しかし私はこう反論しました。「地域を熟知し、地域の方々との信頼をつくっている地元の大学があるからこそ、外部からの支援も有効になる」と。
社会は、大学を単なる単体として見ていると思いますが、有機的な知のネットワークのハブとして大きな広がりや可能性を持っています。
近年では大学が主体的に教育や地域貢献に注力するようになりました。従来の大学は研究への注力に比して足元の地域への関心が欠如していたことは否めません。それが結果的に「大学はいらない」という世論を生んでしまっていましたからね。大学が存在することで地域にどれだけプラスの作用があるのかということを、大学側から地域・自治体にどんどんアピールしていくことが大切です。
国際卓越研究大学とはいうけれど……
増谷 近年、国際卓越研究大学という国の政策が注目を集めています。国内では東北大学、東京科学大学が認定を受け、京都大学も認定される見通しです。
山本 これも国の「選択と集中」方針の最たるものですね。財務省や文科省は多くの大学に一律に配る分を減らし、一部の有力な大学に資金力や研究力を集約しようと考えています。
増谷 国立大学の法人化以降、そうした風潮は顕著ですよね。確かに、大学の詳しい事情を知らない方からすれば、一部の優秀な大規模大学を除いて大学数を減らそうとする国の方針は、むしろ歓迎すべきものと感じるかもしれません。しかし先生がおっしゃったように、小規模大学を簡単に潰してしまうことには、地方を中心に大きなリスクがある。
山本 有力な大学に資金が大量投下されること自体は素晴らしいと思います。ただ、多くの大学への投資を削り、そのぶんを優秀な大学に回すというやり方はいかがなものか。これは要するに、国が管理する競争主義ですよね。卓越大にしてみても、年3%の事業成長をするというノルマが課せられています。未達なら卓越大の看板を外されたり、国からの助成を大幅に減らされたりします。そういった厳しい縛りとプレッシャーの中で、学術共同事業体が健全に発展するとは思えません。
2018年11月には、当時の財務省が、国立大学運営費交付金のうち各大学の教育や研究の評価に応じて配分する枠を10%に拡大する方針を示しました。そのとき私は、当時の国大協会長の山極壽一さんと一緒に財務省まで抗議に行きました。応対した主計局次長は「競争こそが成長や発展を生む」というマインドの方でした。彼は省庁や企業のロジックが、大学組織に対しても適用可能だと考えていたのでしょう。
ただ、研究者の多くは別に偉くなりたくて研究しているわけではありません。自分の興味関心を突き詰め、学術の発展に寄与したいだけです。省庁と大学とでは有効な組織論がまったく異なるということをもっと理解してほしかったですね。
先日、京都大学関係者から、国際卓越研究大学への申請書を創る過程で大学内、経営者層の間でも摩擦が起こっていると話を聞きました。そしてそんな雰囲気の中で働いている職員がいる。競争原理によってプラン作成の段階からすでに組織の健全性が損なわれているのではないかと心配になりましたね。
私自身も10年在学したのでよくわかりますが、京大と言えばやっぱり自由な校風です。卓越大の計画で掲げられた「デパートメント方式での効率的管理」といった方針は京大には根本的にそぐわないように思います。学生も教員も、上から厳しく管理されることに強い反感を抱いていますから。
この方針に修正を加えたのが、昨年に金属有機構造体の開発でノーベル賞を受賞した京大理事の北川進さんだといいます。北川さんは自身も京大の自由な雰囲気の中で研究をされてきた方ですから、基礎研究の重要性をよく理解しています。そこで研究の評価指標に「伏流性」と「積層性」を追加したそうです。成果が出やすい研究ばかりではなく、長い時間をかけてゆっくりと価値が出てくるような研究もしっかりと評価していくべきだと北川さんは考えるわけですね。彼のような「ブレーキ役」がいたことは、京大にとって非常に幸運だったと言えるでしょう。
「ガラガラポン」で消える伝統
増谷 現在継続審査を受けている東大も学部の権限が非常に強く、大学本部による統制を嫌う大学です。卓越大になることに反発する声は多いですよね。
山本 東大の教員陣には卓越大化によるマイナスの側面に気がついている方も多いのでしょう。
たとえば東北大学は卓越大認定を受けるにあたり、今までの学内制度を軒並み刷新したわけですが、これは言い換えれば「既存の制度に見切りをつけて新しい大学に生まれ変わらない限り、卓越大として認められる見込みは薄い」ということでもある。しかし何でもかんでも「ガラガラポン」するやり方が本当に正しいのでしょうか?
たとえばイギリスのオックスフォード大学では、制度の「建て増し」はしても、古い制度をむやみに潰してしまうようなことはしていないと言います(苅谷剛彦・吉見俊哉『大学はもう死んでいる?トップユニバーシティからの問題提起』集英社 2020年)。有名な例だと、オックスフォードの卒業試験は今でも自筆(ハンドライティング)だということです。良し悪しはさておき、一つの制度が中世の頃から今に至るまで連綿と続いているわけです。そこへ時代に応じて新しい制度が適宜導入されていくという、過去と現在のハイブリッド方式ですね。
こうした例を踏まえると、既存の価値をすべて入れ替えない限り新しいものとして認めない、予算もつけない、という卓越大の制度設計は、アカデミアにおいてはマイナスに作用する側面が非常に大きいのではないでしょうか。ある程度なら目標を定めてもいいけど、裁量はこちらに握らせてほしい、というのが大学側の本音ですね。
ただ、日本は欧米と異なり大学の歴史が浅い国です。大学の設立契機や過程に関しても、海外大学のそれとは大きく異なります。そういう意味で、今回の卓越大制度は国と大学を巻き込んだ壮大な「歴史的実験」と言えるかもしれません。吉と出るか凶と出るかはまだわかりません。
増谷 海外大学とはあらゆる事情が異なるというのはその通りだと思います。それを踏まえて制度設計していく必要がある。たとえば日本は資金力でも欧米や中国に劣るわけですから、各大学が自由に使える共同利用機関のようなものに集中的に投資するのも一つの手ではないかと思います。
競争か共同か
山本 国大協在職の時、広報誌『国立大学』(2018年夏号)の取材で元国立天文台の海部宣男さんにインタビューしたことがあります。そのとき海部さんは、ノーベル物理学賞受賞記念の京都大学湯川記念館(現基礎物理学研究所)での設備の共同利用についてこう述べています。「敗戦から間もない時期で、研究を支える資金が乏しかったが、共同利用という形で一カ所に重点的に装置を整備するのは、非常に効率的だった」と。ところが国立大学が法人化されたことで、「大学は独立した組織、互いの競争が激化し、共同利用はその個別の檻の中で機能を失ってしまった」のだと。
私流に解釈すれば、小国が世界の最前線を走ろうとする場合、二つの道があります。一つは競争の道。大規模投資のできるアメリカ、中国のような超大国であれば競争はかなり有効でしょう。競争によって何かが潰れても、そもそもの母数が多いので痛くも痒くもないわけですから。もう一つは海部さんの言う共同の道。つまり互いに協力しながら目標を達成していくという道ですね。日本は歴史的に見ても本来共同の道のほうが有効なのではないかと思います。
単純に言えば、財務省の価値観(=競争)と海部さんの価値観(=共同)のどちらで学術や高等教育の制度設計をするのかが問われている状況であるということです。
増谷 宮城県仙台市の東北大の敷地内に「ナノテラス」という放射光の実験設備があります。ここは国の施設ですが、大阪公立大学など全国10大学が実験を行っています。非常に特殊な設備なので、ここでしかできない実験も多いんですね。
東北大は日本初の卓越大であるわけですが、国から集中投下された資金で設けた設備などを、このように他大学にもどんどん開いていってほしいですね。地方大学や海外大学とうまく連携していくほうが、多様性の確保にもつながり、中長期的には大きな研究成果にもつながるでしょうから。
大学の企業化 教員の反応は二極化
山本 しかしここで思い出したいのが、卓越大に課される「毎年3%の事業成長を上げ続けなければいけない」という目標です。東北大や科学大は極端に規模の大きな大学ではないので、支出の3%の利益は上げやすいでしょう。一方で東大や京大は非常に支出が大きい。年に何千億円もの支出がある中での3%ともなれば、非常に大きな額になります。そこばかりに注意を向けるようになれば、他大学との連携を考えている余裕はなくなってしまいかねません。
そもそもこの3%という目標自体が漠然としています。放っておいたら大学がサボるんじゃないかという憶測から、ただなんとなく「毎年3%成長しろ」と言っているかのようです。だから大規模な大学であればあるほど、増益が最優先となって周囲との協力関係がおざなりになるのではないか、と心配になります。
官僚や大学外の民間企業経営者出身の大学経営者たちは学術事業体に対する解像度が低い方が多い。企業的な経営手法がそのままアカデミアにも通用するはずがありません。私立大の理事長に企業の社長が就任することがありますが、そうした「敏腕経営者」が即時的な利益を生まない研究をバサバサ切っていき、その結果内部から反発を受けて退任したという話も聞きます。反発で済むならまだしも、研究者たちがこぞって大学を去ってしまうという最悪のパターンもありますからね。
研究者側にしてみても、自分の専門分野に閉じこもり、その他のことには無関心を決め込んでしまう方が最近は多い。2015年の学校教育法改正で、教員同士の学術教育組織問題の議論を封じたことが、研究者の無関心をいっそう助長したと私は考えます。
和歌山大学長の頃、私は教員に「みなさんの好奇心に基づく研究は永久不滅です」と繰り返し伝えていました。しかし併せて、「自分の研究が、自分の属する教育組織にどういう貢献ができるかという自らの答えをもち、大学という組織、そして学生に説明する責任がある」とも問い続けました。私は教員を管理し、方向付けしたいという発想は持ちませんでした。組織全体としての目標を示したおおまかな地図を提示しただけです。地図はここにあるから、そのどこに位置取るかは皆さんで考えてくださいね、と。
しかし、近年では、大学側が研究者に金銭的なインセンティブをちらつかせることで、どうにか組織運営への意識を高めようとする動きも出てきています。
増谷 たとえば東北大には、卓越大になる前から成果連動型の給与体系がありますが、これを駆使して毎年何千万円もの収入を得ている教員もいるのだと、冨永悌二総長がおっしゃっていました。どこの国立大学でも学長の収入は学内トップクラスですが、冨永総長は11番目だそうです。総長よりも収入の高い教員が学内に10人もいらっしゃるということです。
とはいえ従来型の給与体系のまま勤務されている先生が大多数です。彼らが一部のトップ教員を見てギクシャクしないように気を配っていると冨永さんはおっしゃっていました。
山本 大学教員の減少も由々しき問題です。和歌山大学も、私がいた頃は最大で330名いた教員が、今や210名にまで激減している。少子化や運営費交付金の減少等の原因で財務状況が悪化しているので、大学側も定年退職した教員の後釜を取らないといったかたちで段階的に人員を削減しています。
和歌山大は、学部学生が1学年約900人、全部で約4000人おり、それに対して教員は330人。教員を210人まで減らすのであれば、本来は学生定員も1学年600人程度に抑えなければ教育の質を担保できません。
増谷 教員(Teacher)1人に対する学生(Student)数を示すST比という指標があります。大規模私立の特に文系学部は、ST比が1対50~60のところが多く、問題視されています。しかし、このままでは、国立大のST比が大規模私立大に近づいてしまいかねません。
山本 昔の国立大は先生1人に対して学生20~30人程度の比率だった。しかし法人化され、組織を維持する経費が10数年にわたり削減されたことで、支出の大半を占める人件費の確保も困難となり、教員の総数を減らさざるを得なくなりました。加えて研究費の削減ですよね。聞いた話では、年間に5万円程度しか研究費をもらえない例もあるといいます。こんなもの、国内出張しただけで飛んでいくような端金ですよ。
人件費、研究費ときたら次は設備費ですかね。図書館の蔵書数なんかが減っていくかもしれません。
増谷 実際、蔵書数を減らしたり、購読するオンラインジャーナルを減らしたりする大学も多いんですよ。ただ、有力なオンラインジャーナルを手がける会社が世界で数社しか存在しないので、価格を吊り上げられてしまっている問題もあります。正規雇用の教授を簡単に解雇することもできませんから、細々とした経費削減でどうにか経営を維持しているような状況です。
「おかしい」と言える知性を
山本 教育から少し話は逸れますが、現在の日本の防衛費は10兆円近くになっています。防衛費についての議論は安全保障法制が制定された2014年頃から活発化しはじめました。私は当時、防衛費増額について「そういうこともあるか」程度の認識でした。しかし日本経済団体連合会幹部の知人から「学長、現在は防衛費と文教費が5兆程度で並んでいるけどね、あっという間に防衛費が増えていくよ」と警告されました。実際、2027年には復興特別所得税(税率2・1%)のうちの1%が防衛費に回されることになります。
教育問題について、国はよく「財源がない」という言い方をしますが、これは要するに「高等教育や学術に財政を注ぎ込む優先順位が低い」という意味です。ですから我々は、大学の意義や必要性をもっと強くアピールしていかなければいけません。
また私は少子化対策・次世代育成の法整備に関わって厚生労働省でレクをしたことがあります。そのとき、ある幹部は私に「少子化が大変だと誰もが言うが、本腰を入れている組織は少ない。厚労省としては一刻も早く少子化解消に向けて動き出したいけれど、我々の力だけでは難しい」と言いました。その頃私は、大阪府の熊取町や貝塚市で住民参加型の地域振興プロジェクトの仕事に携わっていました。これは計画への参加を通じて住民に主権者としての自覚を持ってもらうことをめざしたプロジェクトですね。厚労省の方は、こうしたプロジェクトを通じて市民の一人ひとりが政治眼を養っていくことが何よりも重要だと考えていました。「これはちょっとおかしいぞ」という世論がボトムアップ的に発生すれば、厚労省が動き出す「動機」が生まれると。こうした手法をもっと制度設計実務に当たっている若手官僚に教えてやってほしい、と彼は私に言いました。
とにかく市民が主体的に政治を判断する力を身につけることが重要です。そして、そうした判断力を身につけるために大学教育がいかに有効であるかということを、大学は地域シンポジウム等を通じて積極的に発信していく必要があります。
不本意入学で何が悪い
増谷 極端な主張が横行する昨今のSNSを見ていると、大学に関しても、有名大学だけあればいい、偏差値も採算性も低い地方私立大なんかいらない、といった意見が目立っている印象です。
こうした価値観をどうすれば変えていけるでしょうか。たとえば規模の小さい地方私立大には、ST比が小さく、きめ細かい教育を施すことができるという強みがある。地方私立には偏差値を算出できない「Fラン」大学も多いため、入学時点での基礎学力は低い傾向にあります。それでも、きめ細かい教育を施すことで社会生活を送るうえでの最低限の知識を身につけてもらうことができると思います。
山本 日本の教育には長いこと偏差値主導の競争主義が根付いてしまっています。極端に言えば大学に入学したことをゴールとみなす風潮が長く続いています。偏差値の高い大学に入れたら勝ち、そうでなければ負け、といった具合です。
和歌山大の事例で言えば、予備校データ曰く、高校3年の夏頃までは和歌山大を第一志望にしている生徒はほとんどいません。模擬テストを繰り返し、秋から冬にかけて自分の本当の学力を悟っていく過程で、仕方なく和歌山大が第一志望に浮上する。いわば不本意入学です。
増谷 和歌山大学ほどの大学でも不本意入学なんですか。
山本 あえて極端に偏差値モデルを言えば、東大だって医学部以外は不本意入学といわれるぐらいに大学受験の競争主義的価値観は強い。
だから私は常々言っています。「不本意入学で何が悪い?」と。とはいえ京大や阪大を諦めて和歌山大に来ている学生は、入学の喜びより意気消沈のほうが大きい。だから私が教員として意識したのは、まずはその不本意な気持ちをリハビリして、自分なりの新しい目標を見つけさせることでした。大学入学はゴールではありませんからね。
大阪観光大学に来る日本人学生は、満遍なく「お勉強」ができることをよしとする日本の教育から離脱ないしは脱落した若者です。でも、それ以外の分野で何らかの強みを持っています。たとえば、勉強は苦手だけど、趣味に関しては無類の知識と興味がある、とかね。大学は自分の関心分野を伸ばすにはもってこいの場所ですから、そうした熱意が何らかの研究や仕事に結びつくことがある。学生の中に、地理が大好きな子がいました。彼は父親の故郷である北海道の過疎化問題に強く興味を持ち、自分に何ができるかと考えた結果、観光学に辿り着いたといいます。
「学力」評価は低くても、それ以外に何か一つでも関心があれば、大学はそれを研究なり仕事なりに導いてくれる。大阪観光大学には、言うなれば日本の受験システムから漏れてしまった才能の「再生工場」としての側面があるんです。
すでに言い尽くされていることですが、受験システムの問題は、日本の教育、社会システム全体の問題です。小中高の教育段階からあまりにも受験を偏重しすぎています。子供に中学受験をさせた保護者に「受験を強いることで子供の人生を奪ってしまった」と後悔している方は多いという調査結果もある。
こうした18歳までの教育制度がもっと改善されれば、各大学の位置付けや意味合いも変わってくるのではないでしょうか。それこそ、自由教育のもとで自分の持ち味を早いうちから自分自身で見つけることができれば、大学進学せずに高卒で仕事の道へ進むというルートも確立されるはずです。
「ゾンビ大学」の実態は?
増谷 OECDが15歳を対象に実施するPISAという国際学力調査の結果を見ると、日本の義務教育のレベルは今でも高い。ですが不登校やいじめの件数は年々増え続けていますし、教員の過労死や休職も大きな課題です。近年では教員志願者の減少もあり、担任がつかないクラスもそれほど珍しくないといいます。すると本来であれば手をかけなければいけない生徒たちが放置され、引きこもりになったり、目標もないまま大学に流れ着いたりする。
「Fラン」大学には、そうした小中高の教育の「歪み」を背負った学生たちを、どうにか一人前に育て上げて社会へ送り出すという使命もあるんですよね。特に地方の小規模大学では、そうした「再生工場」のような取り組みが進んでいます。
財務省にはこうした取り組みの価値を考慮したうえで政策を考えてほしい。そんな記事を書いたことがあります。後から財務省担当の記者に聞くと、職員は「大学がそんな役割を果たす必要はない」と不満だったようですが。財務省には、「本来は撤退しているべき状況なのに生き残っている」という意味で、長く定員割れが続いているような大学を「ゾンビ大学」という言い方をする方がいます。「そんな大学にはお金を出したくない」という考えなので、財政制度等審議会などでは毎年、財務省が色々なデータを参照しながら文科省の政策を批判します。しかも、その際に参照するデータにも、やや恣意的に感じられる部分がある。たとえば朝日新聞と河合塾が2011年から続けている「ひらく 日本の大学」という全国大学調査のデータも引用されることがあるのですが、前後のデータと合わせて発信しているものなのに、都合のいい部分だけを抜き出されて使われてしまうのです。主計官OBの方が、「最近のデータのつくり方には問題がある」とおっしゃっていたという話もあります。
財務省には、これまで紹介してきたような実情にもっと目を向けてほしいと思います。そして文科省も、こうした誤解に基づく政策に対してはもっと強く反論していってほしいですね。
山本 私立大学の収入のうち、国から配分される私学助成の割合は、全国平均で8・5%でしかありません。つまり残りの91・5%は授業料や寄付金で賄っています。しかも保護者が大学に収める授業料と、保護者が国に収めている税金のどちらが高いかと言えば、後者ですよね。
増谷 ただ、そうした姿勢の背景には、「Fラン」大学なんか必要ないと考える国民感情の後押しもあるということに留意しなければいけません。
山本 今の親世代が思う大学像と、現在の大学像には大きな乖離があります。有名な大規模大学だけが価値があるという考え方は古い。こうした認識のギャップを埋めていくためには、大学や文科省がもっとアクションを起こしていく必要があります。
細分化する大学評価基準
増谷 文科省の最近の取り組みで私が注目しているのは、「ポジティブリスト」の公開です(図2)。これは同省が24年に実施した全国学生調査の第4回試行調査の結果を基にしたリストです。知名度や偏差値は関係なく、学生がその項目に肯定的に回答した割合が高かった順に大学を並べるものです。「課題等の提出物に適切なコメントが付されて返却される」「グループワークやディスカッションの機会がある」といった項目への回答結果がランキングになっています。しかも大学単位ではなく、学部単位で細分化されています。
リストを見ればわかる通り、多くの人には聞き馴染みのない大学も多いですよね。これには二つの理由があります。一つは、大規模大学には回答率が低いケースが多いこと。もう一つは、小規模大学には文科省が求める内容や方式に合った教育を進めているケースが多いことです。
知名度や偏差値以外の指標を設けることで、文科省は小規模大学のやる気を引き出そうと考えている面もあるのでしょう。事実、大教室で教員が一方的に話し続ける昔ながらの授業が残る大規模大学では、勉学への意欲を失ってしまう学生もいます。面倒見のよい小規模大学がその存在感を高めていくことは歓迎すべき傾向です。本リストで上位にランクインした小規模大は、そのことを広報等でアピールしていくことができますから。
ただリスト公開の取り組みは始まったばかりです。今後は大規模大が力を入れて、各ランキングの上位に登場してくる可能性はあります。本リストが小規模大にとどまらず大規模大にも、教育力を高めるインセンティブになっていくことを期待して、引き続き注目していきたいですね。
山本 確かによい試みです。ただ、リストを基に学部ごとに評価して助成額に傾斜をつけよう、といった動きが出てこないか心配です。
増谷 評価と言えば、大学や短大は7年に一度受けることが義務づけられている認証評価という制度があります。経営状況は正常か、教育内容に不備はないか等の項目を国が認めた認証評価機関がチェックし、その機関の基準に「適合」しているか、「不適合」か、を判断します。ただ、「不適合」になったからといって、具体的な処罰等が科されるわけではありません。
いま、認証評価制度の抜本的な見直しが文科省の有識者会議で議論されています。そこでは、これまで大学単位だった評価対象を学部や学科単位に変更し、結果も3~4段階で示す方向で議論が進んでいます。これまでの認証評価結果は、大学側には不評でした。評価資料をそろえることなどに大変な労力をかけているのに、公表される資料の分量が多く、大学関係者以外に存在が知られていない。五つの認証評価機関がバラバラの基準で結果を発表する点も一般の人にわかりづらく、良い結果だったからといって志願者が増えるといった「ご褒美」がないからです。見直しによって、一般の人にもわかりやすい制度になるかがポイントです。アメリカのように評価結果を受験生や保護者が大学選びの材料にする動きが出てくれば、大学に改革を促す何よりの動機となるでしょう。
山本 中央教育審議会や文科省は、各大学に対する評価基準をますます細かくしようとしています。大学の良し悪しを選別する基準を出せという財務省に対して、文科省が忖度気味に対応しているのかもしれません。
文科省には財務省に迎合してほしくない。かと言って露骨な対立姿勢を取るのも難しいということは理解できます。財務省の顔を立てつつ小規模大学の魅力の社会的承認を得ていく。そんなうまい立ち回りができれば、昨今の「反Fラン」の風潮にも一石を投じることができるかもしれませんね。
少子化対策のカギを握る留学生
増谷 近年、少子化対策などとして、東アジアやヨーロッパを中心に外国人留学生を積極的に受け入れる流れがあります。大阪観光大学も学生に占める外国人の割合が7~8割だとお聞きしました。
山本 大阪観光大では現在15カ国から600名程度の外国人留学生が学んでいます。しかもその約8割が日本の労働市場に出ていく。留学生が集まる理由は大きく三つあります。他の私立大に比べて学費が安いこと、外国人学生がブランドや偏差値を重視していないこと、そして面倒見がよいことです。大阪観光大は学習面のみならず、ビザ管理から日常生活の面からも留学生を積極的にサポートしています。また2年から3年に進級する絶対条件として、日本語能力検定の2級以上取得を規定しているので、卒業する頃には就労に十分な日本語力が身についている。こうした外国人人材は特に地方の労働市場から重宝されます。
大阪観光大のみならず、今や多くの大学が上記のような手厚い留学生サポートをし始めています。そうした地方の大学が日本語習得を専修できる教育機関を持つようになれば、「公共材」として役割を果たせるでしょう。移民の大部分を「祖国を追われ仕方なく元宗主国に逃れてきた難民」が占めているフランスやドイツとは異なり、日本にやってくる外国人は基本的に日本の文化に親しみ、日本で就労することを目的としています。だから日本で働くために必要不可欠な日本語能力を養う教育機関を増やすことは、少子化を解消する現実的手段としても非常に有効であると考えます。
日本以上に外国人受け入れに近年力を入れているのが韓国です。韓国の大学を卒業した外国人は、その後数年で永住資格を得ることができます。かつての韓国は今の日本の比ではないくらいに排他的なムードが強かったのですが、急速な少子化を前に受け入れの方向に舵を切りました。日本もうかうかしていたら留学生を周辺のアジア諸国に取られてしまいます。排外主義を主張している場合ではありません。
令和時代の大学選び
増谷 『公研』読者には保護者の方も多いと聞きました。大学事情がこれだけ目まぐるしく様変わりしている中で、どのように大学を選んでいくべきでしょうか。
山本 まずは自分の子供の幸せは何か、ということをしっかり考えることが大切です。子供には向き不向きがありますから、「旧帝大」とか「MARCH」とかいったブランドだけで大学を選ぶのは悪手ですね。
どういう教員が在籍しているかを知ることも大学選びの重要なポイントです。私は和歌山大学で1年生のメンターをしたことがあるのですが、その中に、京都大学に落ちて和歌山大学に進学したという学生がいました。先にも述べた「不本意入学」の学生ですね。彼は初めこそ、「仮面浪人」して京大の再受験をめざしていました。彼は私に再受験すべきかどうかと問うてきたので、私はこう答えました。「確かに京大でも君の学びたい学問は学べるけど、教員個人で見ればウチのほうが実績のある先生も多いよ」と。彼はいろいろな授業を受ける中で、和歌山大にも面白い先生がたくさんいることに気づき、残って学問に励む道を選びました。
大学は教員の力に依存している部分が非常に大きい。東大に入れたからといって、そこに「いい先生」がいるとは必ずしもいえません。
保護者の方が注意すべきなのは、授業の様相はご自身が学んだ20~30年前と比べて大きく様変わりしているという点です。昔の大学では、大教室で教員が一方的に話し続ける授業が一般的でした。就職に関しても、国公立や大規模私立はほとんど面倒を見てくれませんでした。しかし今や大規模大学であっても、学生一人ひとりに、きめ細かな対応をしてくれます。授業や就職、メンタルケアに至るまで面倒を見てくれる大学がたくさんある。小規模大学は特にそうした傾向が顕著です。
こうした偏差値やブランド以外の側面があることを知らない保護者の方も多いかと思います。そこは大学側の発信不足ともいえるでしょうね。
増谷 それでも最近は親子でオープンキャンパスに来られる方が随分と多いですよね。
山本 オープンキャンパスは大学のいい面ばかりを押し出すイベント形式のものが多いですが、大阪観光大学の場合はマンツーマンの面談などをメインにしています。大学内部の実情を知る大学職員と受験前にじっくり話す機会を作れば、入学後に「なんか違うな」と後悔するリスクが軽減されます。
ある学生から、こんな話を聞きました。友人が近畿の有名私学に入学したけど、1年間大学に通っていて、先生と話したことが一度もないのだと。周囲からは「いい大学だね」と言われるけど、そんなことは感じたことがないと漏らしていたそうです。
増谷 一方で教員に声をかけられたくない、のびのびと遊びたい、という学生もいますよね。当人がどういう大学生活を望んでいるかを把握したうえで、実際の大学を見にいくことが重要ですね。
山本 2022年度からは、高校生が主体的に問いを立て、大学などに話を聞きに行く探究学習が必修化されています。高校生と地元大学との距離は昔よりは近くなっているのではないかと思います。そこで地元大学の教員や学生と交流を持つことによって、高校生は体験レベルで地元大学を知ることができます。ブランドや偏差値といった指標の外側にある大学の魅力を知り、価値観を広げていくことで、学生もより自分の肌に合った大学選びができるのではないでしょうか。
(終)