『公研』2025年8月号「めいん・すとりいと」
G-SHOCKが好きだ。講演会やイベントなど、ステージでの仕事に時間管理は欠かせない。しかし、普段は腕時計を使わない自分にとって、講演の日にだけ逐一準備をするのは面倒くさい。いつものカバンに放り込んでおいて、使うときだけ取り出せる……そんな都合の良い時計が、ズボラな私にぴったりのG-SHOCKだった。講演開始5分前、思い出したように取り出しても挙動はいつも通り。頑丈な相棒とともに、全国津々浦々、様々な現場を乗り越えてきた。
しかしひとつだけ、ややこしいことがある。
中学校での講演会でのことだ。休憩時間、生徒たちは私を取り囲んで質問攻めを敢行するのだが、決まって最初に出てくる質問がある。
「その時計、いくらですか?」
一度や二度ではない。ここ一年、ほぼ毎回だ。「一番かっこよかった芸能人は?」みたいな可愛らしい質問よりも、出現頻度は高いのである。
たしかに私のG-SHOCKは通常のものよりゴツい見た目をしているものの、値段は数万円。特異であるが高級感はない。なぜ彼らは、彼らの日常会話に登場せぬような「時計の値段」を、そうも気にするのか。あれこれ考えてみた結果として、私はその原因を、彼らの情報源となっている「ショート動画」に見出した。YouTuberや芸能人のつけている時計を、お値段とともに紹介するような動画が多数あるのだ。
そのような情報に日々接する彼らにとっては、有名人の象徴として「高い時計」があり、私の時計もまた「有名人の時計なんだから、高いに決まっている」という理解になるのだろう。高いものは希少、希少なものは見ておくべき。時計そのものへの憧れというよりは、レアリティの体感という、観光地に行くようなテンションで彼らは私のもとを訪れるのだ。
いやいや、私は別に、彼らの行動をそしりたいわけではない。そんなことには意味がないし、流れてくる情報を俯瞰しながら自覚的に選択するというのは大人でも難しいことだ。
むしろ、本来は彼らから遠いところにあるものを、興味の対象へと変える「メディアの力」に、ポジティブな可能性を感じているのである。この力を、たとえば教育の領域で活かすことが出来たら、社会全体により良い影響をもたらせるのではないだろうか。
もちろん、時計と同じようにはいかないだろう。値段というわかりやすい指標を持つ高級時計と、単純な数値化にそぐわない学問では、メディアとの相性が段違いだ。そもそも「わかりやすさ」ばかり追い求めるのは、学問的な態度としては誤りである。
でも、それだけでこの強大なパワーをほっておくのはもったいない。相性が悪いというだけで、見過ごしていいチャンスではないはずだ。
これは理想論かもしれないが、学問側とメディア側が接近し、共に議論をする場があってもよいのではないだろうか。例えば大学とGoogle、例えば研究者団体とテレビ局。エビデンスベースドな情報の価値が揺らぐ現代にあって、質的低下を座して待つよりは、よほど有意義な選択肢だ。もちろん双方に割り切りはマストで、メディア側は面倒でも事実に向かい合う態度を徹底し、学問側は学問本体と「学問への入口」を峻別する必要があるだろう。それでも、若い世代へのアプローチを模索する価値は、長期的には大きいはずである。
何よりも優先されるべきは子どもたちの自然な興味関心であるが、そこに教育が入り込める可能性を、私は高級時計から感じ取った。彼らの興味は無限大で、しかし出会いは有限。限られた「出会いの場」としてのメディアが、多様かつ上質な情報で満たされる日を、能動的につくり上げていきたい。
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