田沼意次は積極財政派か【呉座勇一】

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『公研』2025年2月号「めいん・すとりいと」

 現在放送中のNHK大河ドラマ『べらぼう』は、喜多川歌麿・東洲斎写楽などをプロデュースした江戸の出版人、蔦谷重三郎である。重三郎が活躍した時代には、田沼意次(1719~1788)が江戸幕府の政治を牛耳っていた。

 田沼意次は戦前戦後を通じて、賄賂を好む汚職政治家として、たいへん評判が悪かった。こうした田沼像を鮮やかに転換したのが、歴史学者の大石慎三郎氏が1991年に発表した『田沼意次の時代』(岩波書店)である。

 大石氏は、田沼が金権政治家であったことを示すとされてきた史料のほとんどは、田沼失脚後、世間に流れた噂話の類を書き留めたものであると論じた。そして大石氏は、商業に注目した田沼の政治手腕を高く評価した。

 有能で清廉な田沼が失脚したのは、家柄が低いにもかかわらず実力によって老中兼側用人として幕府の中枢まで登り詰め、大胆な改革を行っていたため、無能で前例踏襲的な譜代門閥層の嫉妬と反感を買っていたからだという。田沼失脚後に成立した松平定信政権は、現実に対応する柔軟な適応力に欠けた農業重視の反動保守政権であり、以後の幕府権力は基本的にこの路線を継承し、衰退の方向をたどった、というのが大石氏の見解である。

 現在の田沼「再評価」論は、基本的に大石氏の主張を発展拡大させたものである。特に、緩やかな物価上昇を是とする「リフレ派」と呼ばれる経済学者・経済評論家と、その影響を受けた保守派の論客の間では、田沼の経済政策に対する評価が高い。

 けれども現在の歴史学界では、田沼の評価に対する揺り戻しが起こっており、田沼の政策の限界・問題点が指摘されている。

 田沼は型破りの人物と捉えられがちだが、幕府という巨大組織の中で、組織の論理に巧みに順応できたからこそ、異例の昇進を遂げたのである。主君の寵愛を笠に着て驕り高ぶっていたという通俗的イメージとは裏腹に、田沼は腰が低く、諸大名とも親しく付き合い、下級の家来にも声をかけた。典型的な根回し上手の官僚である。

 だが、それゆえに田沼は〝幕府第一主義〟であった。享保の改革で改善した幕府財政は、田沼時代に相次いだ天災・飢饉によって再び悪化し始めた。田沼は財政再建のため、倹約令を頻発している。この点では享保の改革の緊縮路線を引き継いでいると言える。

 しかも、田沼は拝借金を停止してしまった。拝借金とは災害などで経済難に陥った大名が、無利子で幕府から資金を借りられるという制度である。現代で言えば地方交付税交付金のようなものである。

 したがって拝借金の停止は、悪い言い方をすれば地方切り捨てである。かつて小泉構造改革では、国の財政再建のために地方交付税交付金を大幅削減している。その意味で田沼の財政再建策は、リフレ派が批判する〝小泉〟的であり、〝積極財政派〟とは言い難い。

 田沼には、財政出動によって経済を活性化させるという発想はなかった。田沼が重視していたのは幕府財政の再建である。〝無駄な支出〟を削り、印旛沼干拓工事や蝦夷地開発計画などの〝大規模公共事業〟によって税収増を図った。そこには、国家全体の経済をどうするかという視点が欠落している。

 結局、蝦夷地開発計画の迷走や印旛沼干拓工事の失敗といった政策責任を取らされるかたちで田沼は失脚した。田沼を過大評価するのには疑問が残る。国際日本文化研究センター助教

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