義憤の政治と憐れみの政治【山本圭】

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『公研』2024年12月号「issues of the day」

 

 今年の初めに上梓した『嫉妬論』(光文社新書)のなかで、政治における嫉妬感情の役割について考察した。そのポイントを繰り返せば、同書で強調したのは、嫉妬と民主主義との関係であった。すなわち、民主主義が実現する平等の理想は、逆説的にも人々の嫉妬心を強めてしまうのではないか、そのかぎりで嫉妬心は民主社会には必ずついて回る情念ではないか、というようなことを説いたのである。

 もとより、嫉妬に限らず、感情はときに政治に大きな影響をもたらすことがある。とりわけ、選挙はふだん意識することのない社会の様々な分断線が前景化するタイミングである。そのため、選挙においてこそさまざまな感情のもつれが露わになるとしても、そう不思議ではない。

 近年の選挙では、とりわけこの傾向が目立つ。いくつか例に挙げてみよう。

 たとえば10月の衆院選。自民党の裏金問題、および2000万円の活動費振り込み問題が人々の関心を呼び、そのことが少なからず選挙結果にも影響を与えたと総括されている。増税や物価高が庶民の暮らしを圧迫するなかで、政治家だけがズルをしているのは許せないという感覚があったことは間違いない。政治を大きく動かしたのは、こうした不公正な状況に対する、人々の「義憤」の感情であったということもできよう。

 「義憤」とはどのような感情だろうか。辞書的には「道理に外れたことや、公平ではないことに対する怒り」とある。さらに、ここではアリストテレスの議論を参照してみたい。それによると義憤とは「不当な好運に苦痛を覚えること」(『弁論術』210ページ)、あるいは「それに値しないのに恵まれた状態にあると思われる人を目にして、心の痛みを覚えることである」(213ページ)らしい。これはいわば、自堕落でまったく努力もしていない人が莫大な遺産を相続したり、とても意地の悪い人物が善良な人を差し置いて出世するときに私たちが感じる苦々しい感情のことである。だとすると、政治家がズルをして不当な金銭を得たことに人々が義憤を感じ、憤るのももっともなことと言える。

 他方で、ほとんど同時期に衆目を集めた兵庫県知事選はどうだろうか。ソーシャルメディアを活用した選挙戦略が話題となり、さまざまな疑惑のあった斎藤元彦氏が再選を果たした。多くの報道では、推し活的な仕方で、斎藤候補の応援に入ったデジタル・ボランティアの存在が注目されていた。ここで人々を動かした感情に注目すると、それは「憐れみ」であったと言えるだろう。またしてもアリストテレスによるが、「憐れみ」とは「そのはずのない人が破滅につながるような、または苦痛に満ちた不幸に見舞われているのを目にした時に感じられる一種の苦痛」(205ページ)のことであるという。斎藤候補はあられもない嫌疑をかけられているのではないか、そんな彼を助けたい、真偽はどうあれそうした感情が少なくない人々を動かしたわけだ。

 

政治を動かす想像力とは

 義憤と憐れみ──。この二つの感情が、今般の二つの選挙を理解する鍵である。このまったく別々の現象が交わるところに、時代の顔貌を浮かび上がらせることができるかもしれない。そもそも、「義憤の政治」においても「憐れみの政治」においても、政治学で言うところの合理的な有権者が主役というわけではない。言い換えれば、具体的な政策や公約の中身が支持・不支持の主要な判断根拠になっているわけではない。

 むしろ、ここで人々を動かしているのは「想像力」であろう。「~は不当に金銭を得ていてずるい」、あるいは「~さんは不当な目に遭っていてかわいそう」など、想像力こそが感情を刺激し、政治参加の原動力になっているというわけだ。

 想像力をたくましくして政治に関わるということは、それ自体悪いことではないし、むしろ他者の境遇に思いをめぐらすという観点からすれば、好ましいとすら言える。実際、私の専門分野である政治思想研究においても、政治における想像力の役割はくりかえし強調されてきた。なにより、自分の暮らしと政治の問題を結びつけ、義憤の感情に人々をさらしたのは、まさに想像力の仕事であっただろう。

 だが、想像力が人々を政治へと動機づけているとしても、それがつねによい帰結をもたらすとは限らない。問題なのは、現代のSNSの時代にあって、人々は自分の想像した通りの情報を求め、そして求めた通りの物語とイメージを手に入れてしまえるということだ。これが誇大妄想じみた陰謀論的な言説にきわめて脆弱であるということは周知の通りだ。逆説的な言い方をすれば、人々はいま、自身の想像力に閉じこめられているのである。

 これからの政治は、人々の想像力をどのように動員するかというゲームになるのかもしれない。そうであれば、自己に閉じた想像力ではなく、他者へと開かれた想像力をいかにして取り戻せるか、このことに私たちの民主主義の未来はかかってくる。

 立命館大学准教授 

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