社会学は死ぬまでの極道 弱さに寄り添う エビデンスと理論を【上野千鶴子】

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『公研』2024年5月号 第651回「私の生き方

 

(後藤さくら撮影)

社会学者
上野千鶴子


うえの ちづこ:1948年富山県生まれ。京都大学大学院社会学博士課程修了。平安女学院短期大学助教授、シカゴ大学人類学部客員研究員、京都精華大学助教授、国際日本文化研究センター客員助教授、ボン大学客員教授、コロンビア大学客員教授、メキシコ大学院大学客員教授等を経る。93年東京大学文学部助教授(社会学)、95年から2011年3月まで、東京大学大学院人文社会系研究科教授。12年度から16年度まで、立命館大学特別招聘教授。11年4月から認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長。著書に『資本制と家事労働 : マルクス主義フェミニズムの問題構制』『おひとりさまの老後』『ケアの社会学』『女ぎらい ニッポンのミソジニー』等。


 

「普通の最低な両親」

──1948年富山県上市町のお生まれです。

上野 上市町は両親の疎開先でした。もともと、両親は富山市で暮らしていたのですが、空襲によって上市町に疎開し、終戦後にそこで私は生まれます。そして3歳の時に富山市に戻ったため、生まれた上市町の記憶がほとんどありません。その後は中学生まで富山市で過ごし、両親の引っ越しのため高校時代は金沢市で過ごします。

──富山市と金沢市は上野先生にとってどのような場所でしょうか?

上野 子ども時代を過ごした富山市と金沢市に特別の郷土愛があるわけではありません。これを言ったら地元の方々に怒られてしまうかもしれませんが(笑)。子どもは自分が生まれ育つ場所を選ぶことができませんし、家庭と学校という狭い世界しか知ることができませんので。

 私にとって地元とは、一言で言うと「親がいるために一刻もはやく出たいところ」でした。不仲な両親のもとで娘として育つことは、子どもにとってあまり嬉しいことではないですよね。親がいるところでなければどこでもいいと、大学に入るまで感じていました。

──ご著書の中では、お母様のことを「普通の最低な母親」と表現されていました。

上野 私の両親は不仲だったのですが、もともとは恋愛結婚でした。不仲の原因の一つが嫁と姑の確執です。北陸地方の長男の家に嫁いだことが原因の一つです。マザコンの父は、嫁と姑の確執が起きた時、嫁ではなく母に付く最低な夫でした。これも日本によくいる普通の最低な夫です。自分の環境を母は嘆き、「離婚したいけどお前たちがいるからできない」と、最低なセリフを子どもに吐きます。これも日本社会でよく聞く話ですが、親として最低なセリフですよね。自分の不幸の原因はお前たち子どもにあるのだという呪いの言葉ですから。

 Jewish Mother(ユダヤ人の母)」という言葉をご存じですか? ユダヤ教も非常に強い家父長制の文化を持っていて、ユダヤ人の母親の常套句として、“Look! What You’ve Done to Me”というセリフがあります。英語圏ではジョークとして使われることもありますが、「あなたが私に何をしたか見てごらん」と、責めるようなセリフを子どもに言うのです。自分の不幸の原因を子どもに押し付けて、子どもをマザコンに仕立て上げる。その構造をアメリカで学んだ時、「なんだ、日本の母親と同じじゃないか」と感じました。

 

「こんなのやってられない」

──そんなセリフを言われたら母を憎みそうですが、逆にマザコンになるのが不思議です。

上野 子どもにとって母親ほど絶対的な存在はいません。母の不幸は僕に責任がある。だから僕が母を守らなきゃいけないと子どもは考え、マザコンの息子が誕生します。

 娘である私も、小さいときは母に同情の気持ちを抱いていました。これはこのような環境にいる子どもの最初の反応です。次に、私は両親を観察しました。母は恋愛結婚で父と結ばれたので、自分の不幸を人のせいにはできないと。母は「自分には男を見る目がなかった」とこぼしていました。さらに、父と母の関係をジーッと見ていると、父も極悪人ではないことに気が付きます。普通によくいるマザコン男です。普通だけど最低。そんな両親でした。

 そんな中、10代のある時に気が付いたのです。「お母さん、夫を変えてもあなたの不幸はなくならないよ」と。「この構造にはまってしまったあなたの問題であり、そして構造の問題なのだ」と。ですから、子どもの時から不仲の両親をジーッと見つめる意地の悪い娘だった私は、この構造には決して入るまいと思い、10代で結婚はしないとすでに決心していました。わかりやすいでしょ(笑)。

──五つ上にお兄さん、二つ下に弟さんがいます。

上野 そのような家庭で娘として育つか、息子として育つかはずいぶんと違います。娘は母親と同一化するので、自分の将来、女として生きる道は母のような人生になると予想しますよね。それを見て娘の私は「こんなのやってられない」と思いました。

 一方で息子たちはどう思うのか。やはり母の不幸を目の当たりにするので、母に同情をします。そして素晴らしいことに、親の背を見て学習した私の兄と弟は、父のようにはなるまいと思い、妻思いの夫になりました。両親から学んだ兄と弟は父と違って、自分の妻と姑である母との確執があると、妻側に付いたのです。これは素晴らしい学習効果でしたね。

 しかし、母は嘆いてこうこぼします。「自分の夫は母に付き、自分の息子は妻に付く。私の側に付くものは誰もいない」と。そんな愚痴に対して、「まあまあ、息子たちの夫婦関係が良いのが一番でしょ」となだめるのが私の役割でした。嫁というのはどこの家庭でも最底辺の立場にいて、姑が権力を握り、その権力を陰で支えるのが家督相続人である息子です。私はそれを皇太后権力と呼んでいます。日本の家父長制は女性の共犯のもとに、マザコンの息子を再生産し続けてきたのです。

 

父親からのペット愛

──上野先生とお父様とのご関係は?

上野 愛されていました。ただ、愛にもいろいろな種類があって、可愛がられていたと言ったほうがいいかもしれません。後になって父からの愛が「ペット愛」だったと気が付きます。長男が生まれた後、5年間子どもができなかったところに生まれた、待ちに待った一人娘ですから、ベタ可愛がられの対象でした。私自身は、意地悪な可愛げのない子どもでしたが(笑)。

──ペット愛。なかなか強い表現ですね。

上野 父は私に何も期待をしていなかったのです。息子たちには厳しく、娘には甘かった。それはペットだったからです。

 ここには家庭内の力学があります。母は子どもたちにとって目の前に立ちはだかる巨人、権力者です。ところが、その権力者が顔色をうかがうもう一人の権力者がいることに子どもは気が付きます。それが父親です。そして、その父親が私にだけはメロメロだったので、その権力を借りて私は威張っていました。母親にとっては本当に嫌な娘ですよね。

──権力者に甘やかされるということは、家の中が居心地良かったのではないのでしょうか?

上野 そうはなりません。そうなれば、母は息子たちを味方に付けます。家の中で父側と母側の対立が生まれるわけですから、居心地が良いわけありません。家族関係とはそんなに甘くないのです。

 ある日、母は「離婚をするとしたら弟を連れて行くが、お前はお父さんっ子だから置いていく」と私に言ったことがありました。この言葉に物凄い絶望を感じたことを覚えています。子どもにとって、とてつもなく傷つくセリフですよね。私は「自分は置きざりにされるのか」と衝撃を受けました。そう簡単に受け止められる言葉ではありません。家庭内の人間関係の確執が渦巻いていた子ども時代を過ごしました。

 

家父長制を研究して気づく家庭内の力学

──ご自身の家庭環境に納得できる日が来たのですか?

上野 そうですね。やはり、時間が経って家父長制を研究することで家庭内の力学に気が付きました。「ああ、こういうことだったのか」と、するすると糸がほどけるように理解できました。私の家庭は、普通の最低な家父長制の家庭だったのです。だから、親の性格が特別に悪かったわけでも、極悪人だったわけでもない。普通の善良な庶民でも、この家父長制という仕組みにはまると、こんな不幸を生み出すのかと学びました。

──子ども時代に夢中になったことはありますか?

上野 それがあまり夢中になったものがなくて。強いていうなら読書です。現実があまり楽しいものではなかったので、フィクションの世界に逃避していました。

──上野先生は学生時代に飛びぬけて成績が良かったとどこかで見ました。

上野 結果として良かったですが、勉強をして成績を上げようとしたわけではありませんでした。当時の女の子は勉強ができる必要がなかったですから。娘はただ可愛ければいいので、かえって「勉強するな」と言われていましたよ。

 本を長時間読むことを禁止されていたので、隠れて布団の中で読んでいたら、視力がどんどん落ちてしまったことがありました。それが父親にバレて、しまいには「勉強をするな」「本を読むな」と強く言われていたぐらいです。父は医者をしていましたから、息子には進路のレールを敷きましたが、私は何をやってもよかった。ペットは役に立たない存在ですから。

好奇心を満たしたくて選んだ社会学

──京都大学文学部哲学科に進学されています。

上野 この大学を選んだのは消去法です。まずはとにかく両親がいないところに行きたいというのが第一条件でした(笑)。私が18歳の時に一つだけ進学したい大学がありました。東京にあるICU(国際基督教大学)に行きたかった。私はクリスチャン・ファミリーで生まれ育ちましたのでキリスト教に馴染みがあったのと、当時、国際的な教育を受けることのできるリベラルな大学として知られていたからです。

 ところが父は、東京は娘が住むところではないと突っぱねます。彼が私に与えた選択肢は三つ。二つは自宅通学をするか、さもなければ兄がすでに関西の大学に通っていたため、兄と同居するか。つまり、保護者のいないところに娘がいてはいけないと。5歳上の兄は保護者のような存在でしたから。

 三つ目は寮のある女子大です。父が私に行ってほしかった大学は神戸女子大学で、パンフレットが机の上に置いてありました。自宅通学は嫌、女子大は嫌、そうなると兄のところから通学するという選択肢しか残りませんでした。ですから京都大学を選んだまでです。

 

高齢者施設での取材風景@ホームホスピス宮崎「かあさんの家」

 

──文学部哲学科で何か学びたいことがあったのでしょうか?

上野 これも特にありません。とんでもなく世間知らずな子どもだったので、働いてお金を稼いで生きていくということをまったく教えられずに育ってきました。大学で資格を取って経済的に自立をして生きて行こうという考えはなぜだか持っていませんでした。しかし、幸か不幸か、私は非常に好奇心の強い娘でした。では自分の好奇心を満足させるにはどんな学問がいいかと考えた時に、語学は嫌い。文学は好きでしたが大学に行ってまで勉強するものではないだろうと思いました。歴史は古文書を読むのが嫌で選択肢から外れます。消去法で考えていったら、残ったものが社会学でした。思い返してみると本当にいいかげんな選択ですよね(笑)。

 当時は、ちょうど社会学という学問が勃興し始める時代で、全国の大学で社会学部や社会学科が設立されていました。社会学は聞いたところによると生きて動いているものを相手にする学問だと。それを聞いて、海のものとも山のものともわからないが、私の好奇心を満たしてくれそうだと直感的に感じたので、社会学を学べる哲学科への進学を決めました。

──ご両親の反応はいかがでしたか?

上野 父親も社会学がどんなものかよくわかっていなかっただろうと思います。ただ、娘は何をやってもよかったので、口出しはしてきませんでした。私も社会学が何かわからず、父もわからないまま進学を決めたと。社会学なんて極道の延長ですから。それでも新しい学問に興味を惹かれたのです。

──極道の延長というのは……?

上野 社会学は何の役にも立ちませんから、極道です。だって好奇心を満たしても何のお金にもなりませんよね。女の子でもお金をきちんと稼ぎたいのなら、当時だと語学力を鍛えたり、教員免許を取ったりして、生きていく技を身に付けろと言う人もいましたが、私は怠け者だったので(笑)。

 

全共闘運動で大学のあり方を問う

──在学時期が全共闘運動の真只中です。上野先生も学生運動に参加されていたそうですが、きっかけはございましたか?

上野 1967年の山崎博昭くん事件がきっかけでした。私と同期生で同じ大学同じ学部の山崎博昭くんは、佐藤栄作の訪米阻止運動に参加した一人でした。10月8日に羽田空港への突入を図る学生らと機動隊が衝突し、その闘争の中で山崎くんは亡くなりました。その山崎くんの追悼デモが京都大学で行われました。

──上野先生にとっても衝撃が大きかったのでしょうか?

上野 やはり自分と同世代の京都大学生が命を挺して亡くなったことは非常にショックでしたね。山崎くん追悼デモが私にとって初めてのデモで、そこから全共闘運動にも参加します。

──全共闘運動は何となくではなく?

上野 そうですね。とにかく大学がつまらなくて、不満を感じていました。入学してみたら大学がここまでつまらないものかと驚きましたよ。300人ぐらいの教室で一方通行の授業をして、古い講義ノートで同じことを繰り返すだけの講義。私の時代は大学がエリート教育から大衆化に移る転換期でしたので、ものすごい数の学生を収容していました。私学などは定員以上の学生を採用して、半分はキャンパスに来ないことを見越してマスプロ授業をしていました。何もしなくても卒業できるほど大学が腐っていたのです。

 そんな状況の中で、全共闘運動は東大医学部の学生不当処分に対する抗議から始まります。最高学府と言われていた大学の人々が、保身に走る姿を目の前で見たのです。じゃあ、自分たちはここで何を学んでいるのか、黙っていてもエリートになれるこの社会は一体何なのかと多くの学生が疑問を持ちました。

──上野先生は具体的にどんな活動を?

上野 大学の回答を求めて当局と団体交渉をしたり、クラス討論をしてストライキに入ったり、バリケード封鎖をしたりしました。当時はベトナム戦争の真っ最中でしたから、ベトナム反戦を掲げて路上デモもやりました。

 当時の大学進学率は平均14%、男子で20%と非常に低いものでした。進学率が2割を超すと大学の大衆化が始まると言われていて、男子にとってエリート教育が終わる転換点だったのです。一方で、当時女子の大学進学率は5%ほどでした。

──当時大学に通う女性は、相当なエリート女子だったわけですね。

上野 いいえ。女子はエリートになる道が塞がれていましたから、大学に行ってもエリートにはなれません。大学に進学した時点で女性の将来は終わってしまいます。なぜなら、大学に4年在籍している間に婚期を逃すからです。私の時代の結婚適齢期は23歳と言われていましたから、女性は卒業式のときに、左の薬指に婚約指輪があることが永久就職先を見つけたことを意味しました。女子大学の教員は結婚のお膳立てもしていたほどです。今となっては考えられない話ですね。

──大学へ進学した女性でも結婚以外の道がなかったのでしょうか?

上野 就職では、大卒女子はたった二つの選択肢しかありませんでした。教師と公務員です。企業は大卒女子を採用してくれませんから。先ほど、結婚適齢期は23歳だったと言いましたが、高卒の女性を採用すると23歳まで5年間働いてもらえますが、大卒女性を雇っても1、2年で辞められてしまいますよね。給料は高いわ、すぐに辞めるわで、何の役にも立ちません。おまけに頭も高い(笑)。企業にとって得なことなどなかったのでしょう。今と違って企業は大卒女性の使い方を知りませんでした。

 大学に男子宛ての求人はおもしろいように来ていましたが、女子には来ません。だから、大学に行った途端、女の子は就職も結婚も不利になる世の中だったのです。女子が有利な就職や結婚をしたいのなら、短大に行くのがベストでした。企業が社員のお嫁さん要員として雇ってくれましたから。

 

「食いっぱぐれがない人生はつまらん」

──先生は女性が大学に入ることの厳しさをわかった上で進学されたのですか?

上野 いいえ。よくわかっていませんでした。甘やかされて育った世間知らずの娘だったので(笑)。働いて稼いで頑張って生きて行こうなんて考えたこともなかったですね。

 そんな私でも、いくつか選択肢に上がってきた職業があります。一つは医者です。もし、自宅から通える金沢大学を選んでいたら、たまたま成績が良かったので医学部に入っていたことでしょう。ただ、医者である父の働きぶりをジーッと見て、医者はつまらん商売やなあと思いました。父が医者の仕事をこう言うのです。「患者さんたちは暗い顔をして自分のところにやってきて、明るい顔になった時には出ていく。だから、患者さんと暗い顔の時にだけ付き合うのが医者という商売だ」と。こういう影響もあったのかもしれません。後から考えると父が職業人として患者さんから信頼される医者だったことは理解できましたが、家族にとっては独善的で支配的な父親でした。

 それに、医者になると人生のレールがサーッと敷かれるような感じが私にはしたのです。一生が見えてしまいます。先が見えて、食いっぱぐれがない人生はつまらん。どうやって生きていくか計画的に考えたことはありません。なんだか本当に世間知らずで自分でもこんなことを言っていて恥ずかしいですね(笑)。

 二つ目が公務員か教師になる道です。大卒女子の就職先はこの二つぐらいだと言われていたのですが、私は学校が好きではなかったので、どうしても教師にはなりたくありませんでした。なので、その退路を断つために意図的に教職免許は取りませんでしたし、公務員に至っては思いつきもしませんでした。

 結果として大学教師になりましたが、大学教師は教員免許がなくても就ける唯一の教育職だからです。なりたくてなったわけではありません。ただ、大学教師になって良かったと思うのが、小中高の生徒は教師を選ぶことができませんが、大学だけは学生側に選択権があることです。上野ゼミが開かれていても、嫌なら来なくていいのですから。ゼミの志望者がゼロという年もありました。

──学部を卒業して大学院に進まれたのはなぜでしょうか?

上野 とにかく就職をしたくありませんでした。私たちの世代は、入院期間が長くなると社会復帰が難しくなることに例えて、大学院進学を自虐的に「モラトリアム入院」と呼んでいました。まさにそれです。トータルで12年間ほど大学に在籍していましたね。

 

失語症の文学

──大学院生時代は京大俳句会に入っていたとお聞きしました。今でも俳句は詠みますか?

上野 もうすっきり止めています。1990年に歌集を出して、そこで「今後は一句も増えません」と宣言をしました。それが最後です。自分にとって必要がなくなったのです。

──俳句で何かを表現する必要がなくなったのでしょうか……?

上野 俳句は不自由な表現です。とにかく短い。私は俳句を「失語症の文学」と呼んでいます。私は俳句で何を表現していたのか。私たちの大学闘争は惨憺たる敗北に終わりました。あの闘争からより多くを学んだのは大学側です。大学は学生の管理の仕方を闘争から学んだのです。夜間に門を施錠するとか、電源をオフにするとか、キャンパスの管理が厳重かつ巧妙になったのを実際に見てきました。

 しかし、学生は惨憺たる思いで敗北を味わいました。そうするとだんだんと言葉が出なくなってくるんです。それでも、やはりポロッとつぶやきみたいなものが漏れる。それは世界で最短の詩型である、わずか17文字の俳句で思いを表現するのにぴったりでした。自分のつぶやきを盛る器として、当時の私は俳句に縋ったのです。それが10年経ってみたら私は俳句に縋る必要がなくなったので、もう詠むことはありません。それだけの話です。

──他の表現方法に出会ったのでしょうか?

上野 私がその10年間で出会ったのが、女性学です。女性学に出会った時、目から鱗が落ちる思いがしました。こんな学問が存在するのかと。この出会いによって俳句に縋る必要がなくなりました。

 そもそも、自分の好奇心を満たしてくれると期待して社会学を始めましたが、やってみたら社会学もつまらなかったのです。学問の中に私の居場所はないと感じました。なぜだろうとよくよく考えてみると、それまでの学問とは、男の男による男のための学問、つまり男の子がいかに生きるかということを学ぶものだったのです。女である私がいかに生きるのかということに、学問は答えてくれそうにないと感じましたね。

 

女が女を語ることが許されていなかった

──どこにそこまで惹かれたのでしょうか?

上野 自分自身を研究の対象にしてもいいと思えたことです。しかし、学問は中立的かつ客観的でなければならないと考えられてきました。その考えに基づくと、女が女の研究をすると主観的であり、それは学問ではないと言われたのです。

 ただ、男が書いた女性論はたくさんあったんですよ。ドイツ哲学ではショーペンハウエルやバイニンガー、社会学ではジンメルが女性論を書いています。

 デカルト、カントと並ぶ三大哲学者のショーペンハウエルが女性を何と定義したかご存じですか? 「成人女性は成人男性と子どもの中間の生き物である、なぜなら男は子どもと遊ぶとすぐに飽きるが、女は1日中飽きもせず遊んでいることができる。女はその分だけ子どもに近いからだ」と。笑ってしまいました。これが哲学の論証だと見なされていたのです。

 私の師匠の一人である社会学者の作田啓一さんはジャン=ジャック・ルソー研究者として有名な人です。そのルソーは、「民主主義の父」「フランス革命の父」として歴史に名を残している人物で、『エミール』という素晴らしい教育書を書いています。実は、私の父が、『エミール』は抱いて寝ていたぐらいの愛読書であったと言うのです。父がそこまで言う本はどんな本なのかと私も読みました。すると、本の最後に「以上述べてきたことは女の子には当てはまらない」と書いてあったのです。「女の子は男を支えるように育てるべきだ」と。冗談かと思いましたね。

 日本の小説家では吉行淳之介や渡辺淳一も女性論を書いています。読みましたが、妄想の集合でしかありません。女性を貶めるか女神化するかのどちらかですが、どちらも女性にとっては迷惑です。

 渡辺淳一は「女のことは僕が一番よく知っている。だから、女について知りたければ僕に聞きなさい」と言いました。でも考えてみてください。女がどういう生き物で何を感じて何を考えるかは、「あんたに教えていらねえよ」です。こんなことを話していると怒りが湧いてきますね(笑)。

 男性が書いた女性論は腐るほどあったのですが、学問の世界では女が女を語ることは許されていなかった。だから、私にとって女性学は目から鱗の学問だったのです。ただ、そんなものは学問ではないと言われていたのですが。

 

問答無用のエビデンスと理論

──上野先生が考える女性学とは?

上野 私が定義するまでもなく、女性学を日本に持ち込んだ井上輝子さんというパイオニアが、「女性学とは女の女による女のための学問研究」だと定義しました。ただ、この定番は物議をかもしました。「女の女による」という点が問題となりました。男たちが「男は女性学をできないのか」と言い出したのです。しかし、女が学問の客体から主体になることが大事でした。

 加えて「女のため」という点も気に入らなかったようです。「女のため」となると、ある特定の社会集団の利益になる学問となりますので、「中立性」の原則に反します。したがって女性学は偏ったイデオロギーであると批判されました。

 例えば、マルクス主義も労働者階級の利益のための学問とされていたので、日本ではマルクス主義は偏ったイデオロギーだと考えられていました。同じように女性学も女性という特定の社会集団の利益に奉仕する学問ですから、偏ったイデオロギーであって、そのようなものは学問ではないと。これを跳ね返すのに大変な思いをしました。

──どのようにその批判を跳ね返したのでしょうか。

上野 問答無用のエビデンスと理論です。これでもか! これでもか! とデータを示して理論的に証明していきましたよ。ここでようやくそれまで身に付けた学問が、私の武器として役に立ったのです。エビデンスと理論があれば相手を黙らせることができますから。私は論争に強い女と呼ばれました。

 

家事は「不払い労働」である

──ご著書『家父長制と資本制』の中で「家事は労働である」と提言されました。当時としてはかなり常識とは異なる考えです。

上野 そうですね。当時は専門の経済学者たちから「家事を労働だと君たちが主張するのは、君たちが経済学に無知だからだ」と、取り合ってもらえませんでした。労働の概念が狭すぎることが問題だと、「不払い労働」という概念を定着させていきました。

──家事の扱いに違和感を持ったきっかけは?

上野 私の母を見ていたからです。当時、主婦は三食昼寝付きで、「良いご身分だね」と言われていました。ところが私の母を見ていると、朝は父より早く起きて家族の朝ごはんをつくり、姑が要介護になれば世話もしていました。朝から晩まで母はこまねずみのように働いていましたから、私からするとこれはまったく三食昼寝付きどころではない。なのに感謝すらしてもらえない。

 そして、母の謎を解こうと、主婦は何する人なのか研究をしてみたら、とても奥が深かった。10年かけて『家父長制と資本制』を書き上げて、「家事は労働ではない」と言ってきた人たちに、ようやく母のリベンジ戦を果たせたと思っています。

 ただ、家事は労働であると提唱したら、経済学者だけでなく、主婦からも猛反発が来ました。彼女たちの主張によると、家事はお金に換えられない価値のある愛の行為だと言うのです。今もそう思っている人はいるのではないでしょうか。

──私は評価されているような気がして嬉しいです。

上野 そうですか。労働の定義は、「第三者に移転可能な活動」です。家事も育児も介護も第三者に移転可能ですから、労働です。それを第三者に委ねると対価が発生するのに、妻や嫁がやると対価が発生しない、おかしい、というのが出発点です。誰かがやらなければならない重要な労働なのに、不当に支払われないから「不払い労働」と呼びます。今になってようやく世の中の常識が変わってきたようですね。

 

学問はスッキリするための極道

──怒りに飲み込まれてしまうことはないでしょうか? 上野先生は闘士のように戦っているイメージがあります。

上野 そんなことないですよ。研究自体はとても楽しいですから。新しい発見の連続で、好奇心を満たしてくれます、こんなに楽しいものはございません。学問は自分がスッキリするための死ぬまでの極道だと言っています。それが人の役に立つかどうかはよくわかりません。お金にならなくてもいいのです。

──世の中を良くしたいなどが動機ではないのでしょうか?

上野 それもありますが、研究者の動機とは自分自身の謎を解きたいという好奇心に尽きます。目の前にある謎を解きたい。子どもの頃に夢中になったものはないと言いましたが、私が初めて夢中になったものが女性学です。

 極道といえば、音楽やスポーツも同じです。これらが具体的に何の役に立っているのかといったら答えられませんよね。オリンピックに出場して「皆さんに勇気を与えたい」と言うアスリートの方がいますが、大きなお世話です。では、この方たちは何のために厳しい練習に耐えているのか。それは、達成感を味わうことが自分自身に対する最大の報酬だからではないでしょうか。世のため人のためでも、拍手喝采を浴びるためでもありません。

 だから、私は学問が他のあまたある極道よりも優れたものだと思っていないのです。ですから他の極道に比べて、偉そうな顔はしないでおこうと自戒しています。

 私の場合、幸運だったのは、私が謎だと感じていたものが、当時の多くの女たちが直面する共通の謎だったことです。同じ謎に取り組む仲間がいたのです。しかも日本に限らず世界中に。私が情報を発信すると、それを受け止めてくれる人たちがいました。

「女房の言い分に耳を傾けろ」

──そうですね。結果として女性の地位向上につながっています。

上野 それは結果でしかありません。私が『家父長制と資本制』を出したときに、ある男性の哲学者の方に面と向かってこう言われたことがあります。「上野さんの本を読んで、うちの女房が常日頃言っていることがようやくわかったよ」と。それを聞いて私が何を感じたと思いますか?

──「研究したかいがあった」とかでしょうか?

上野 いいえ! 私の本を読む前に女房の言い分にきちんと耳を傾けろよ、です。女房の話は聞かないのに、私がエビデンスと理論を以て語ることでようやく聞いてもらうことができたということですね。女の言うことは愚痴かヒステリーとしか受け入れられません。ただ、男性は筋道を立てて理論的に話すと聞いてくれる傾向にあります。そこで、きちんと順序立てて論理的に解き明かして、「あんたたちがやってきたことはこんなことだよ」と男に言ったら腑に落ちたわけです。

 そのために、私は女の経験を男言葉に翻訳しました。学問の言葉はすべて男言葉でしたから、男言葉を学ばなければ男の耳には届きません。最近では、女言葉が学問の世界にたくさん入ってきましたよね。例えば、セクシュアルハラスメントやドメスティックバイオレンス、性暴力などという言葉は、男の世界にはありませんでしたから。「いたずら」や「からかい」と言われていたものをセクシュアルハラスメントに、夫による妻の「躾」と言われていたものをドメスティックバイオレンスに置き換えました。言葉からもわかりますが、男と女とでは見ている世界がまったく違ったのです。

──上野先生は八ヶ岳の麓で色川大吉さん(歴史家)の最後を看取られています。3年半の介護を支えたことは簡単なことではないように思います。

上野 やはり介護保険があったからできたことです。私は司令塔をやっていただけですから、別にオムツを変えたりしたわけではありません。ケアマネジャーさんからの連絡を受けて、キーパーソンの役割を果たしました。

──なぜ司令塔を引き受けたのでしょうか?

上野 私は色川さんをたいへん敬愛していましたし、何より私を信頼してくださっていました。家族とも離れておられて、あの方にとって私がもっとも身近な存在だったので引き受けるのは自然なことでした。

 他人ですから大変なことはたくさんありましたよ。銀行が相手にしてくれませんし、最終的に入院することはなかったのですが、もし入院することになったら身元保証人にはなれなかったでしょう。日本は家族主義の社会ですから。

 

弱者の武器は言葉

──上野先生は社会が変化する時、理念が先行するとお考えでしょうか?

上野 思いません。現実のほうが先に進みます。女がこれだけ働きに出て、自分の財布を持つようになり、夫や親の許可なく物が買えるようになった。こんな変化は理念ではなく現実の変化です。考えてみてください。世の中には美しい理念がたくさん存在します。人権、SDGs、「誰一人取り残さない社会」など。しかし、その理念に沿って社会は変わっていますか? いませんよね。理念で世の中が変わったことはほとんどありません。

 男は論理的な生き物で、女は感情的な生き物だとよく言いますが、私は男が理論で動くと思ったことは一度もありません。では、男は何で動くのか。彼らは利害で動きます。男が利害で動くことを知っていたら、男のふるまいが非常によくわかります。

 弱者の武器は言葉です。利害に対抗するために、理論を積みあげてきたのです。

──そうなると性差別などの課題は、当事者である女性にしか響かないのではと思ってしまいます……。

上野 ちょっと待ってください。当事者って女だけですか? そんなことありませんよね。女と関わらずに生きていける男はほぼいません。その女が変われば男は変わらざるを得ません。

 さらに、女に一定のふるまいを押し付けてきたのは男なのですから、性差別は女の問題ではなく、むしろ男の問題だとこれまで女性学は突き付けてきたのです。ジェンダーに関係しない男女は誰一人いません。男も女も、誰もがジェンダーに縛られている。お互いに縛り合ってきたのです。

 男も当事者ですから、「オレには関係ない」と言うことはできないのです。そう言わせないために、エビデンスと理論を示して、男がやっていることはこういうことだよと提示し続けてきたのです。自分たちの問題から目をそらさないでくれと。

 

ネオリベラリズムが生んだ幻想

──2019年東京大学入学式の祝辞で「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください」というメッセージが印象的でした。批判はありましたか?

上野 もちろんありました。特にネオリベラリズムの考えを内面化した人たちからの批判です。この世代は良いことがあったら自分の努力と能力のおかげ、悪いことがあったら自分が無能なせいだと考える傾向があります。

 そしてこの考えは、この30年間にむしろ強まっていると感じます。私たちが学生の時代には、「社会が悪い」と主張しました。しかし、今の子どもたちは「自分が悪い」と自分を責めます。

 それを痛感したのは2000年代に入ってからですね。上野ゼミ生にメンヘラー(メンタルヘルスに問題のある人のこと)、とりわけ自傷系の子たちが増えたのです。その子たちは「社会が悪い」と思えたら、自分自身を傷つけないで済んだはずです。きっかけは就職活動です。就活に失敗すると、全人格を否定されたような気分に陥ってしまい、自分には生きる価値がないと短絡しがちです。

 このネオリベラリズムは、「女性も男性と対等にフェアな競争に参加できる」という幻想を女の子たちに抱かせます。実際にはちっともフェアではないのに。それがバレた出来事が東京医科大学の不正入試問題です。こういう差別は医科大のみならず、さまざまな分野で今でもざらに起きています。しかし、女の子は自分の能力が足りなかったのだと自分を責めるのです。

 ネオリベラリズムの原則は自己決定・自己責任、それが女性にも強く内面化されていることを感じますね。それがエリート女性のプライドを支えていますから、自分の弱さを認めることができなくなってしまう。すると弱い人を見ると嫌悪するのです。私は弱くない、こんな人たちと一緒にしないでほしいと。エリート女性からはそういう弱さ嫌悪(weakness phobia)を感じます。

2019年東京大学入学式で祝辞を述べる上野氏

最初と最後は誰もが弱者

──祝辞でも弱さについて、「フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想」だとおっしゃっていました。

上野 考えてみてください。DVを受けている妻に、「抵抗して反撃をしろ」と言えますか? そんなことをやったが最後、もっとひどい目に遭います。介護を受けている寝たきりの高齢者に、「虐待されたらやり返せ」って言えますか? 強者と弱者の関係は非対称的です。しかし、抵抗できないからといって不当な差別や抑圧を受けるいわれはまったくありません。

 すべての人が社会的にも身体的にも強くあることは100%不可能です。それだけでなく、どんな強者もいずれは弱者になっていきます。加齢はどの人にとっても平等に訪れます。人生の最初と最後は弱者であることを免れません。だから、弱者が弱者のままで尊重される必要があるのです。

──ありがとうございました。

 

聞き手 本誌:薮 桃加

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