好きな言葉は
「入金」と「売上」です 落語と漫画と木久蔵ラーメン【林家木久扇】

B!

『公研』2024年1月号「私の生き方」

落語家、漫画家

 

 

──1937年(昭和12)東京の日本橋久松町のお生まれです。戦争中の記憶はありますか?

木久扇 いい思い出じゃないから、高座で喋ったりはしないんですけど、鮮烈に覚えています。小学校1年生のときですからね。毎晩のようにアメリカの爆撃機が東京の空を飛び回っていて、空襲警報が鳴っていました。そのたびに一緒に住んでいるおばあちゃんの手を引いて、小学校の防空壕に逃げ込んでいました。だから、ロクに学校に行かれなかった。

 日本橋にあった家が焼けたのは、昭和20年3月10日の東京大空襲のときでした。そのとき母と私と妹は、知り合いのお医者さんが高円寺に持っていた空き家に疎開していて、それで助かったんです。父親だけは警防団の団長をやっていたものですから、爆心地の日本橋に残りました。薬を預かっていたんですね。だから怖い目に遭ったのは父親だけですが、父も生き延びています。

 あのときはB29が290機も来たんです。それが一斉に、ネズミかウサギのウンチみたいに爆弾を落としていった。高円寺からも大火災の明るい火が見えました。僕は何度も大病をしているけど、あの空襲に比べたら何でもないと思えました。戦争より怖いことはないですよ。

──戦後にご両親が離婚されたそうですね。

木久扇 父が働かなくなっちゃってね。敗戦がよほどの衝撃だったと思うんです。小僧から雑貨問屋で働いて、のれん分けしてもらって鈴木商店という自分の店を叩き上げて成した人ですから。けれども、戦争で番頭さんを始めみんな出征しちゃってお店はお休み状態になった。それですごく落ち込んだのでしょう。

 お弁当を持ってどこかに就職先を見つけに行くんですけど、お弁当だけ空になって帰ってくるんです。親戚がこっそり付いて行ったら、日比谷公園のベンチに一日座っていて、お弁当を食べていたそうです。これでは「ダメだ」って言うんで、私が小学校4年生のときに父と母は離婚したんですよ。父は妹を一人連れて別れることになりました。その頃、母と住んでいた西荻窪のすぐ近くの東中野にいましたが、会うことはなかったんです。

 母は細々と雑貨の小売商をやっていましたから、僕は小学生の頃からそれを手伝っていました。高校を卒業するまで、ありとあらゆるアルバイトをやりましたよ。新聞配達少年、ふすま張り、電信柱にビラ貼りをやったり、納豆売りをやったり。

 

頼れる父を探していた

木久扇 夏休みには必ず映画館でアイスキャンディー売りをやりました。僕が映画好きになったのは、それが元なんですよ。アイスキャンディーの入った箱を肩から吊るして、「アイスキャンディーいかがですか?」と声を掛けて回って売るんです。売り子は次の上映を観るお客さんたちに備えて、前の回の映画がラストシーンになると映画館のなかに入るんです。僕は舞台の袖にいて、画面を斜めに観ているわけです。ラストシーンは作品の一番のクライマックスですからね。鞍馬天狗なら近藤勇との最後の一騎打ちの場面です。夏休みのあいだは、それを毎日観ていました。どんなに映画好きでも毎日は観ませんよね。

 それで映画のセリフは覚えちゃうし、声色を真似ることもうまくなっちゃった。チャンバラ映画の名シーンがネガみたいにバチッと頭に入った。僕は落語家になってから『昭和芸能史』というチャンバラ映画の名場面を再現している新作落語をつくったんです。子どもの頃に記憶したことって、ずっと忘れないんですよね。アイスキャンディーを売りながら観た映画は、どの場面からでも再現できます。だから、商売の元になりましたね。

 「笑点」のレギュラーになったときも自己紹介代わりに、「杉作、ニホンの夜明けは近い!」とやっていて、それですごくウケた。杉作は鞍馬天狗がいつも守っていた少年のことなんです。両親が離婚して僕には父がいなかったから、頼れる父を探していたのだと思うんです。主人公の鞍馬天狗が父で、杉作のことを「あれは僕だ」と思い込んで観ていました。

 僕は落語家になってから、映画で観ていた大スターたちに実際にお会いできているんです。嵐寛寿郎さん、片岡千恵蔵さん、長谷川一夫さん、みんな昭和の大スターですよ。スクリーンで観ていた父親たちが蘇って、直接お話しできた。神様の采配なのか、結び付きや縁が不思議でしょうがないですね。

 

食品の側から離れないようにしていた

──漫画は小さい頃から描いていらしたのですか?

木久扇 小学校の頃から描いていました。「のらくろ」とか「ベティ」さんとか「ミッキーマウス」とか、ちゃちゃっと描けるんですよ。友だちから「絵を描いて!」と言われると、黒板にも描いてあげていました。その絵の評判がすごく良くて、学校では人気者だったんです。

──高校卒業後は森永乳業に就職されていますね。

木久扇 僕は東京都立中野工業高等学校の食品化学工業課程というめずらしい学科を出ています。要は食品科ですね。農業高校と工業高校が合併したとき創設されたんです。中学の担任の先生が「豊田(本名)、中野工業に食品科というのができた。成績に関係なく入れるからどうだ」と勧めてくれました。僕たちは、戦後の子どもですから食べるものがなくて「飢え」はすぐ隣にあったんですよ。いつも食料のことが頭にあって、お袋の買い出しにも付いていったりするくらい、食料の近くにいることは大事だったんです。

 だから、「食品科」と聞いて目が輝きました(笑)。そこの側にいれば、この先結婚しても、家族に何か食べさせられるだろうと思って選んだんです。卒業後は、森永乳業に入社します。エンゼルマークの帽子をかぶって、新宿の工場で働くようになりました。

──食料がたくさんある職場ですね。

 

漫画家・清水崑の書生に

木久扇 きちんと会社勤めをして、苦労して育ててくれた母を安心させたいという気持ちもありました。一流の大きな会社に入社できたと、母はとても喜んでくれたんです。

 けれども、4カ月で辞めてしまいました。小学校からの親友に永瀬くんという、出版社でアルバイトをしていた友だちがいました。僕の初任給で彼にご馳走して飲みに行ったときに、「勤め人もいいけど、お前は絵がうまいから漫画を描かないか」と誘ってきたんです。何でも漫画家の画料というものがあって、彼は「長谷川町子先生は4コマ漫画を描いて1日3万円だ!」と言うんです。僕の初任給が5500円でしたから、「ええっ!」と驚いてすぐに興味を持ちました(笑)。ちょうど「清水崑先生が書生を探している。お前は、男の長谷川町子になればいいじゃないか」と。

 清水崑先生のことは、僕も知っていました。朝日新聞で政治風刺の連載をされていたし、『かっぱ天国』なんかのカッパの漫画がものすごく売れていました。東京都のカッパのバッジをデザインしたのも清水先生で、そのバッジがあると無料で入れる都内の施設もあったんです。日本で5本の指に入る漫画家です。僕は何でも1番の人をめざすことにしているんです。そのほうが話が早いし、近道ですからね。だからこの話は清水先生でなければ、乗っていなかったでしょうね。

 それにこの時期、新宿工場で働いているときにちょっとした事故があって、そのことも影響したと思っています。牛乳を入れる一斗缶をひたすら洗う下働きがあるんだけど、手が濡れていたことがあって一斗缶を足に落としたんですよ。そうしたら、翌日には足が腫れていて、もう痛いのなんの。そんなこともあって漫画家もいいかと思えたんです。

 それで、鎌倉にお住まいの清水先生のご自宅にうかがって面接を受けました。「剣道をやっているし、元気で頼もしい」なんて言って下さって採用されました。せっかく入った乳業会社は、こうして4カ月で辞めることになりました。

 先生のもとには4年間いました。ただ先生は忙し過ぎて、僕が描いた絵を見るような暇はほとんどなかったんです。いったん東京に行かれるとホテルに缶詰になって、鎌倉にはなかなか帰ってこなかった。

 

「これからはテレビの時代になる」

木久扇 僕は、先生のお宅では三畳間をあてがわれていて、空いた時間にはひたすらチャンバラ漫画を描いていました。よく鏡にポーズをとって、「おのおのがた!」なんて台詞を声に出しながら、いろいろな役を演じて漫画を描いていたんです。そんな書生暮らしが4年経ったときに、清水先生が「お前は器用だから落語もいけるかも。これからはテレビの時代になる。しゃべれて漫画が描けたら売れるぞ! ちょっとやってみないか」と勧められた。僕がいろいろな声を出して演じているのを知ってらしたんですね。先生が「ちょっと」って言うので、僕も軽いから「いいですね!」とすぐに返事をしました。

──即答されたのですね。

木久扇 大先生がそう言うのだから、そうなるんだろうと思えました(笑)。清水先生は、同じ鎌倉に住んでいた文化人と交流がありました。川端康成、小林秀雄、大佛次郎、今日出海、横山隆一、横山泰三といったすごい先生方でしたからね。そんな清水先生が言うのですからね。

 先生は落語も好きで、落語家さんとも行き来がありました。そうしたら、たちまち江戸前の芸風の桂三木助(三代目)師匠に宛てて紹介状を書いていただきました。「今日はうちのことはしなくていいから、この手紙を持って三木助師匠に会ってこい。もう連絡してあるから」と。すぐに鎌倉から田端にあるご自宅を訪ねました。

 奥の座敷に通されると、夏だったので糊のきいた浴衣を着て、立て膝をついた三木助師匠が待っていました。日舞(日本舞踊)の師匠だった人ですからね、たたずまいがかっこいいんですね。師匠は「お前さん、そんなに落語が好きなのかい」と聞かれたんですよ。僕は清水先生に、落語をやって漫画が描けたらテレビに出られると言われて、やってきただけだから別にそんなに好きじゃない。でも、正直にその通りに言っちゃまずいなと思って「大好きです」と答えました。すると「ああ、そうですか。最近では私の落語は何を聞いてくださりましたか」と聞かれました。初めて会ったわけだし、そんなの知らないんですよ。

 僕は、柳家金語楼師匠のことは知っていました。映画にもよく出ていましたからね。それから三遊亭歌笑という新作をやられる師匠は好きでした。でも、それくらいのもので、あとは落語なんかほとんど知らなかったんです。

 困りましたが、NHKラジオによく三遊亭金馬(三代目)師匠が出ていて、「相変わらずの落とし噺でございます」ってやっていたのを思い出したんです。ある日の放送で金馬師匠は、「饅頭こわい」という噺をやったんですね。その時アナウンサーが「この噺はいろいろな師匠がおやりになっていますが、それぞれ演出が違っていて楽しいですね」と話していたんですよ。「いろいろな」というくらいだから三木助師匠もやっているのだろうと思い出して、とっさに「『饅頭こわい』とか」と答えたんです。

 そうしたら「ああ、そうですか。第一生命ホールで私がやったのを聞いてらしたんですか」と。柳家小ゑん(後の立川談志)や三遊亭全生(後の五代目三遊亭圓楽)なんかの若手と一緒に出て、「饅頭こわい」をやったばかりのところだったんです。「若手が勉強している会で私は目立っちゃいけないから、まぁ軽く逃げたんです。そうですか、あの時にいたんだ。ああ、そうですか」とえらい気に入られちゃってね(笑)。

──察しがいいですね。

木久扇 これは本当に偶然なんです。それで「明日からいらっしゃい」と言われたんですね。戻って清水先生に報告したら、「三木助師匠が言うのだったらすぐに行け」と。清水先生という保証があるから安心して採ってくれたのだと思いますが、こうして桂三木助師匠のところに入門することになりました。

 

林家正蔵師匠に弟子入り

──落語家としての歩みが始まったわけですね。

木久扇 ところが、三木助師匠は癌の手術をして虎の門病院から帰ってきたところでした。入門したものの、師匠はほとんど寝ているんですよ。僕は病気のことを知らないから、お年寄りになるとほとんど寝ているのだな、なんて思っていました。たまに寄席の鈴本なんかに届け物に行ったりすると、同じぐらいの歳の師匠方が元気に歩いていますから、それを「寝ないで歩いている」なんて思っていました。だから、三木助師匠のことは、そういう落語家なんだと思っていました。

 実際は、体調が思わしくなかったんですね。師匠は半年後に亡くなりました。そのあいだに「寿限無」と「自らことの姓名は、父は元京の産にして、姓は安藤、名は慶三、字を五光。母は千代女と申せしが…」という延々と長い台詞のある「たらちね」という噺は覚えたんですよ。家の法事があったときに、親戚の前でその落語をやったらウケて3000円をもらったんです。人を笑わせてお金をもらえるんだと思ったできごとでした。

──その後は林家正蔵師匠(八代目、後の林家彦六)に弟子入りされていますね。どういった経緯があったのでしょうか?

木久扇 清水先生のところに帰って漫画の世界に戻ってもよかったんですが、もうちょっとやってみようと思ったんです。師匠が亡くなり葬儀が済んだ後に、柳家小さん(五代目)師匠と桂文楽(八代目)師匠がやってきて、弟子たちに「誰のところに行きたいか?」と聞いてこられた。僕は見習いで、寄席にも出ていないから、どの師匠がどういう性格なのか、どんな噺家なのかほとんど知らないんですよ。

 けれども、僕はそのときに「林家正蔵師匠」と答えたんです。正蔵師匠は、三木助師匠がいよいよ明日、明後日っていう体になったときにお見舞いに見えた際に、3万円を包んだ小さいポチ袋を「女将さんこれ」と言って差し出されたんです。後で女将さんは、「果物や缶詰ばかりいただいてもしょうがない。これが一番ありがたいのよ」と言っていたのを覚えていたんです。すごく誠実な師匠だなと覚えていたんですね。

 ただ、女将さんや他の兄弟子たちからは後でひどく怒られました。落語の世界にも派閥があるんですよね。三木助、文楽、小さんというのは一門で、林家はまた別の一派なんです。百貨店で喩えれば、伊勢丹と三越みたいなものです。「あんた、目の前に来ている文楽師匠や小さん師匠の名前をなんで出さないのよ」と。それでも文楽師匠が話を通して下さって、正蔵師匠に弟子入りすることになったんです。正蔵師匠のところは、小さい子どもさんもいないから子守もしなくて済んだし、三畳と六畳の狭い長家でしたからお掃除も簡単でいいやなんて思っていました。

 

「馬鹿野郎! 早く食わねぇからだ!」

──木久扇師匠には林家正蔵師匠との日々のやり取りを新作落語にした「彦六伝」がありますね。

木久扇 正月になると鏡餅をお供えしますよね。鏡開きのときに食べるわけだけど、カビだらけだったんです。それで「餅にはなんでこんなにカビが生えるんでしょうか」って聞くと、(正蔵師匠の口調を真似て)「馬鹿野郎! 早く食わねぇからだ!」って。

──(笑)

木久扇 師匠との日常にはこういう逸話がたくさんあって、それを新作落語にまとめたのが「彦六伝」なんです。すぐにカッとなる人で「馬鹿野郎!」が口癖でした。弟子たちが失敗するたびに「破門だ!」って。僕も何度、破門されたかわかりません。翌日は何事もなかったようになっているんですけどね(笑)。

 師匠はとても律儀な方で、昭和55(1980)年に先代の林家三平師匠がお亡くなりになったあと、一代限りの約束で名乗っていた八代目正蔵の名前を海老名家にお返ししたんです。「死ぬまで使っていい」という約束だったから、あわてて返すことはなかったんですけどね。それで亡くなるまでの最後の1年は「彦六」と改名していました。

 今は三平師匠のご長男──こぶ平の名前でも知られていましたよね──が九代目「林家正蔵」を受け継いでいます。襲名したときは三平師匠の惣領弟子の林家こん平師匠が病気をされていたこともあって、僕が代わりに口上でお手伝いさせていただきました。

 僕は自分の人生を振り返ると、正蔵師匠にお世話になるようになったときに運がドンと変わった感じがしているんですよ。お芝居に喩えると、乳業会社の社員から漫画家になって4年経ったらいつの間に落語家になっていた。落語家になったと思ったら、三木助師匠が亡くなって正蔵師匠のところへ行くことになる。ここまでが第一幕という感じですね。

 

「笑点」のレギュラーメンバーに

──第2幕は「笑点」のレギュラーメンバーとなって国民的な人気者になるところからですね。

木久扇 「笑点」には、立川談志さんに気に入られてレギュラーになったんです。僕が前座で働いていたときに、夏の日に「暑い、暑い」と言いながら談志さんが楽屋に入ってきて、「一席やったから風呂にでも行くか」って言ったんですよ。上野の下町のお風呂屋は3時から始まるんですね。僕は、昼席がはねてから帰りにお風呂に行く習慣があったから、石鹸箱とタオルと剃刀をいつも持っていました。「談志さんこれ」って僕がそれを差し出したんです。そうしたら談志さんが目をみはって、「お前なんだこれ?」「いつもお風呂行くんで、自分の分があるんです」「驚いたな。こういうやつは知らねえや。へえー驚いた」って。信長の草履温めて出した日吉丸じゃないけど、それで気に入られたんです。

 寄席で高座返しという前座の仕事があって、次の演者が上がる前に座布団をひっくり返して演者の名前を書いた紙の札を返すんです。談志さんが高座に上がるときは、高座返しの役割は僕で、「おい、木久蔵いるか」っていつも呼ぶんですね。そんなこともあって「笑点」に僕が引っ張られたわけです。

 「笑点」は、全体が長屋の設定になっているんですよ。司会者が大家さんで、他のメンバーは長屋の店子の関係になっています。それぞれ役割があって、田舎から出てきた権助の役はこん平さん、小言幸兵衛の隠居が歌丸さん、キザな若旦那は小圓遊さん。大喜利ではそういう役に沿った答えを求めていたんです。この演出を考えたのが談志さんです。いい答えには座布団をあげたり、悪いと取ったりするルールも談志さんの発案でした。

 談志さんは、「木久蔵は与太郎だよ。その線で行ってみな」って。落語に登場する与太郎は、間が抜けていて失敗ばかりしているおバカなキャラクターです。今もそれをずっと続けているわけだけど、与太郎をやり続けて良かったですね。嫌だと思ったことは一度もないんです。それにおバカは、とっても得なんですよ。大喜利で手をあげて指されてから「なんだっけ?」と問題を忘れちゃっても、木久蔵だからしょうがないって許される(笑)。流れと関係なく「いやん、ばかーん」なんて歌い出したりもできる。バカという看板は、僕に自由を与えてくれたんですよ。

 

「笑点」は開始当初にいっぺんコケている

──今年の3月をもって「笑点」から勇退されることを表明されています。約55年にわたって人気番組であり続けたというのはあらためてすごいことです。

木久扇 「笑点」は開始当初にいっぺんコケたんですよ。始まったときは、まだカラーじゃなくて白黒放送でした。元々、日曜日の5時台は人があまりテレビを観ない時間帯なんです。晩御飯の支度やなんかをしていますからね。日本テレビはその時間帯を開拓しようと、番組を大事にしていたんです。視聴率をよくしようと、談志さんはブラックユーモア路線で行こうと提案されたんです。

 「赤信号みんなで渡れば怖くない」っていうのありますよね。そういう感じのひねりのある、いわゆる冷笑というやつですね。談志さんは、「新しいからウケる。みんなでやろう」と提案したんです。後にビートたけしがやり始めて人気が出ますが、あれは談志さんからなんです。けれども円楽さん、歌丸さん、小圓遊さんはそれに反発したんですね。日曜日の夕方にやるのだから、みんなに笑ってもらえるわかりやすい笑いのほうがいいと。

 それで談志さんだけが残ってメンバーを変えたら、視聴率が一桁になっちゃって、それで日本テレビが慌ててメンバーを組み替えた。司会も談志さんから当時人気のあった前田武彦さんがやることになりました。前のメンバーがみんな戻ってきて、この時に僕だけがレギュラー入りしました。

世間はみんなを普通の人にしようとする

──有名になるのはどういう気分ですか。

木久扇 街を歩いていても、「あれ、木久蔵さんよ」という声が聞こえてくる。最初は落ち着かないものだけど、名前が売れるのは仕事が来ることですからね。「笑点」のおかげで「入金」が増えたのは事実ですから。やっぱり清水崑先生の「漫画と落語家をやったら儲かるよ」という見立ては正しかった。

 ただ、僕は落語家になっても漫画を描いていました。読売新聞は、近藤日出造さんや塩田英二郎さんが漫画の連載をやってらしたんですけど、僕は小さいカットを描かせてもらっていました。文化部の部長さんが落語好きな人で、おもしろがって使ってくれたんですよ。予備校の参考書の絵なんかも描いていました。1枚3000円くらいの画料でやっていたんです。けっこういいアルバイトになっていました。NHKの「日本の話芸」のオープニングの絵は、僕が30年ぐらい描いていたんですよ。

 漫画と落語の両方をやっていて得したこともあると思っています。一発ギャグは、漫画を描いているときにフレーズがパッと浮かぶことがあるんですね。これは他の落語家にはできない。僕の強みですね。

──最近では芸能人にスキャンダルがあったりすると、SNSで過剰な批難を受けることがあります。

木久扇 世間のおかしいのがね、みんなを普通の人にしちゃおうとするんです。昨年は市川猿之助さんの事件がありました。僕も彼のお芝居を観たことがありますが、女形も立役も上手で、溌剌としていて、いいなと思っていました。いろいろな役ができる人はね、化け物なんですよ。しかも、それを大勢の人の前でやるわけです。それができる人と普通にお勤めしている人を、同じようにとらえても仕方がないと思うんです。

 もちろん人間はみんな平等というのは基本だけど、才能というものは、みんな違っていて同じではないんです。それができる人は世間から責められることがあっても、「それが何だ」っていうくらいの反発心があってもいいんじゃないですかね。そう思うんですが、やっぱりネットのSNSで集中砲火を浴びたりするのはツラいことではありますよね。

 

「全国ラーメン党」を結党

──木久扇師匠は漫画家、落語家に加えて実業家でもあります。「木久蔵ラーメン」誕生の経緯をお聞かせ願います。

木久扇 僕は食品科を出ていたから、同級生はみんな食品関係の仕事をしているんですよ。製菓やハム製造、製粉会社なんかですね。クラス会があったときに一杯やったあとにラーメン屋にみんなで行ったんです。「これさ、人がやっているところで『うまい』と言って金払って食ってないで、自分たちで店やったほうが儲かるんじゃねえか。スープ屋がいるし、粉屋がいるし」という話になったんですね。「お前はテレビで宣伝係をやってくれればいい」と。

 たまたま横浜で喫茶店をやっている友人がいたんですね。「カップルがお店に来て、お代わりもしないで2時間も長居されてちっとも儲からない」と言うんで、居抜きでそのお店をラーメン屋にしたんです。

 同時に、昭和57年には「全国ラーメン党」を結党しました。僕が会長で、副会長が横山やすしさんです。前の年に『なるほど・ザ・ラーメン』という本を出版したんだけど、ページが余ったからそこに「全国ラーメン党結成! 党員募集。」と書いたんですよ。そうしたら、入党申し込みが560通も来たんです。成り行きで「全国ラーメン党」という機関紙も発行しました。「全国ラーメン党 決起大会迫る! 5月1日のメーデーは麺デーだ」なんていう記事を書いたら、メディアから取材も殺到する大盛り上がりで引っ込みがつかなくなった(笑)。

 こうしてノリと勢いで始まったんですけど、全国ラーメン党が盛り上がったおかげで、自分好みの味に仕上げた木久蔵ラーメンをつくって販売することができたし、店舗の拡大にも貢献してくれました。一番多いときは27軒までチェーン店が増えたんです。

 

田中角栄に直談判

──中国でラーメン屋を出店するために、田中角栄さんに相談して便宜を図ってもらったという話は実話なんですか?

木久扇 本当なんですよ。全国ラーメン党の党大会で、麺類の母なる国である中国の首都、北京にラーメン店を出店しようと盛り上がったんです。「日中友好はラーメンの割り箸から、割れば二本(日本)折ればペキン(北京)」というキャッチフレーズも考えたんです(笑)。

 そこで、日中国交正常化を実現させた田中角栄さんに中国との橋渡しをお願いしようと考えたんです。もちろんツテがあるわけじゃないから、番号を調べて直接電話したんです。最初はまったく取り合ってくれなかったけど、第一秘書をされていた側近の早坂茂三さんが「笑点」のファンということもあって、「2、3分なら面会してもいい」ということになったんです。昭和60年2月7日のことです。やっと訪問ができました。そして、田中邸の応接室へ案内されました。

 

(田中角栄の物真似で)「要件は簡略に!」

 「全国ラーメン党の林家木久蔵と申します。日中国交正常化を果たされた田中先生にお願いに上がったのは、中国残留孤児を救ってくださった中国人民の方々への恩返しの気持ちを込めて、彼の地に日本のラーメン店を開きたく、つきましては中国の食品関係の窓口の方をご紹介いただけないかと」──。

 角栄先生はじっと聞いていましたが、「私が中国行ったのはね、ラーメン食べに行ったんじゃないの! あの頃は毛沢東がおって、周恩来もおって、台湾を切り捨て、あれだけの大陸をね、認めないわけにいかないでしょう! 私が中国へ行ったのは、日中国交回復のためにいったわけで、ラーメンを食べに行ったんじゃない! 帰れ!」ってたいへんな剣幕で怒りだしたんです。

 

中国に木久蔵ラーメンの支店が?

──ものすごい迫力ですね(笑)

木久扇 普通の人が怒っているわけじゃないですよ。元総理の方ですからね。震え上がるような迫力がありました。3分だった面会時間が40分以上になっちゃって、他の面会の人がいっぱい溜まっちゃった。これは困ったなと思いましたね。

 ただ、僕は年寄り慣れしていたところがあったんですよ。楽屋ではうちの正蔵師匠やなんかを怒らせては、「破門だ!」なんてよく言われていましたからね。こういうときは、ひるんでいてはダメなんです。何か言わなくちゃいけない。

 「申し遅れましたが、我が全国ラーメン党は、全国に 1万人の党員がおります。党員たちの願いです!」と言ったら、田中角栄さんの態度がコロッと変わりました。

 「1万人ということは、 1万票ということでしょう! その1万人は私を応援してくれますか?  そういうことは早く言いたまえ! ものごとは数字でしょ、数字!」と。

 角栄先生はすぐに中国大使館と日中友好協会に電話して下さり、親書も書いて下さった。そして、他のラーメンチェーンの社長など8人で中国に行ったんです。角栄さんの紹介ですから、向こうへ行くと紅旗という黒塗りの高級車が待っていてね。それに分乗して、北京の街を案内してくれたんです。

 中国政府の人が「この辺はラーメン屋にどうだ」と提案してくれるんですけど、東京で言えば銀座や日比谷公園の側のような一等地ばかりなんです。それも1000坪もあるような広大な土地なんです。ホテルを建てるわけじゃないからね。こちらが考えていたのは、10坪、15坪くらいの小さな店舗です。まったく噛み合わない。

 けれども、角栄先生が間に入っちゃっているから断れないんですよ。「日本に帰って党員と相談して、またお返事を持って参ります」なんて、行ったり来たりしました。困りはてていたところに天安門事件(1989年)が起きたんです。そうしたら、日中友好協会から「治安が定かではないから今回の話は棚上げしてくれ」と連絡がありました。「あー良かった」って(笑)。

 

バルセロナでは7000万円の損失

──助かりましたね(笑)。

木久扇 北京への進出は見合わせることになりましたが、スペインのバルセロナに出店して大失敗したことがあります。バルセロナオリンピックが開催される前の平成元年に「カーサ・デ・ボスケ・キク(木久ちゃん館)」っていうラーメン党の店をバルセロナに出店しました。スペイン人のアントニオ・トニーという20歳の青年を雇って、代々木の木久蔵ラーメンのお店で1年間修行させたんです。

 ところが、バルセロナのお店は最初からトラブル続きでした。日本から船便で300個丼を送ったら、港の税関で「この器はやたら分厚いが、あいだに麻薬が入っているんじゃないか」って疑われて、真っ二つにされてしまいました(笑)。それからオープンしてすぐに湾岸戦争(1991年)が始まって、その青年が徴兵されてしまったんです。しょうがないから掃除のおばさんが調理をやることになったんですが、スペイン人で醤油とタレの区別も付かないくらいですから、スープなんか上手につくれるわけがない。

 水道にも予想もしなかった問題があったんです。バルセロナは火山灰地のうえにできている街だから、水道水が薄く白く濁っている硬水なんです。硬水だとラーメンがゆだらないんですよ。仕方ないから、高価な浄水器を探して対応しました。

 こうして何とかオープンに辿り着きますが、その後も何かとたいへんでした。スペインにはシエスタ(昼寝)の習慣があるから、午後のお昼の時間帯はお客さんが来ないし、3人いた従業員も「寝させてくれ」と言ってくる(笑)。スペインはワインが安くて、スペイン人は昼からワインを飲むんですね。だから、ラーメン屋だけどワインを揃えて出さなきゃならないのだけど、私たち外国人が経営するお店だから、政府からアルコール類を出すための許可がなかなか取れないんです。お役所というのは、どこの国も対応が遅いのだけど、スペインは筋金入りでしたね。

 良かったのは最初だけで、次第に客足が遠のいていきました。そもそもスペインの人は猫舌が多いから、熱いものが食べられないんです。だからラーメンはいつものび切ってクタクタになっていました。それではおいしいわけがない。バルセロナでは結局7000万円くらい損しました。

──今でこそ世界各地に日本のラーメンチェーン店が展開していますから、20年くらい早かったですね。

 

ちくわやかまぼこは欧米人に受ける

──新しい商売は考えていらっしゃいますか? これから流行りそうなアイデアがあれば、読者に向けてこっそり教えてください(笑)。

木久扇 ちくわやかまぼこなどの練り製品のおいしさを欧米人にわかってもらったらいいんじゃないかと思いますね。あれはね、ソーセージなんかと似たところがありますよね。まだ気が付いていないけど、だんだんと知られるようになっていけば、すごく売れる気がします。

 今は世界中で和食がブームだし、日本に観光でやってくる外国人たちは、日本人が愛しているカレーライス屋や天ぷら屋に押し寄せていますよね。お持ち帰りですぐに食べられる笹かまや、ちくわの穴にチーズを詰め込んだ練り物は、大発明だと思っています。もっと食べやすく開発したら、欧米で受けるんじゃないかな。

 僕の友人で辛子明太子をチューブに入れて売った人がいるんです。大発明だと思ったんですけど、発売した当初はあまり流行らなかった。

──今ではレストランなどには普及している印象があります。

木久扇 そうなんです。食品は、世の中に受け入れられるまでに時間がかかることもあるから難しいんですよ。

 

小三治をライバルだと思ったことはない

──2007年にはお名前を「木久扇」と改名して、木久蔵の名前は息子さんが継いでいます。お孫さんコタ君も落語に関心があるそうですね。

木久扇 孫はなかなかの利発な子でね、落語を稽古3回ぐらいで覚えちゃうんです。まだ怖さ知らずなのか堂々としていまして、大勢の人を前にしても物怖じしないんですよ。だから舞台度胸があると見ています。

 僕、木久蔵、そして孫が出るとなると3代の落語家が揃うわけだから、お客さんは入ります。だからやらない手はないと思っていますが、落語家にしようとは考えないですね。落語を覚えている少年という立場なんです。僕自身も落語家を60年ずっとやってきましたが、とても不安定な職業で、明日どうなるかわからない。

 昔は娯楽が少なかったから、人の話を聞くことを楽しんでくれました。それで話芸が成り立っていましたが、今は自分が何か楽しいことをやったほうがおもしろいという時代でしょう。昔より娯楽がずっと進んじゃっている。だから、孫を落語家という職業に固定しちゃうのは、かわいそうかなと思っていますね。

──同世代の落語家でライバルだと思っている方はいましたか。

木久扇 僕は落語家として人気が出なかったら、いつでも辞めて漫画を描いていけばいいという腹があったから、同世代の落語家も切磋琢磨するライバルだとは思っていなかったんです。亡くなった人間国宝の柳家小三治(十代目)師匠とは、一緒に前座をやっていました。もちろんうまいんだけど、何か陰気な人だなと思っていましたね(笑)。不思議な縁で仲良くしてくれたけど、本当は人間国宝になる人だとはわからなかったですね。

 僕なんかはすごく軽いから、おもしろいと思えると何でもパッパッと行ってしまうところがありました。だから、落語に専念していたタイプとは違います。文楽や志ん生がどうのこうのという話は、落語の世界には付き物だけど、こちらはそういうことには興味がないんですよ。漫画の好きな人は、手塚治虫をすごい人だと崇め奉る人がいるけど、僕はああいう描き方をマネしたいとは思わない。

 

頭にあったのは「売上」

──古典落語にはあまり関心がないのですか。

木久扇 他の落語家さんは、芸を磨いて「名人」と呼ばれたいという思いで努力していましたよね。みんな貧乏を我慢してね。だんだん歳を取っていくにつれて、うまくなって世間から褒められることを目標にしていました。でも、僕にはそういう古美術みたいな存在になることを目標にしようという気持ちは、まったくなかった。頭のなかにあったのは、この職業の「売上」なんですね(笑)。

 だから、今月は落語の仕事はテレビも含めて10本、漫画は何本描くといった計算をしていました。今はお弟子さんも育ったから、お金もかからなくなりましたけど、弟子たちの食事代だけでもたいへんでした。1日に絶対に3万円は稼がなくちゃって思っていました。どんな手段をとっても、それを達成してきたんです。観光バスやはとバスに乗ってガイドさんと交じって落語をしたり、宴会で謎かけもやりました。それでバス会社にはずいぶん気に入られました。

 とにかく忙しく、あれこれとやってきたけど、私の青春時代はいつも充実していました。

──ありがとうございました。

聞き手:本誌 橋本淳一

 

 

林家木久扇

/落語家、漫画家

はやしや きくおう(本名 豊田洋):1937年東京日本橋生まれ。56年東京都立中野工業高等学校(食品化学科)卒業後、森永乳業を経て、漫画家・清水崑の書生となる。 60年三代目桂三木助に入門。翌年、三木助没後に八代目林家正蔵門下へ移り、林家木久蔵の名を授かる。 69年日本テレビ系「笑点」のレギュラーメンバーとなり、以後55年にわたり出演。 73年林家木久蔵のまま真打昇進。 82年横山やすしらと「全国ラーメン党」を結成。 92年落語協会理事に就任。 2007年、林家木久扇・二代目木久蔵の親子ダブル襲名を行う。10年落語協会理事を退いて相談役に就任。 著書に『バカのすすめ』『林家木久扇 バカの天才まくら集』『イライラしたら豆を買いなさい 人生のトリセツ88のことば』など。戦争より怖いことはない

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