「選挙」を中心に考える 権威主義と民主主義のゆくえ【武内宏樹】【東島雅昌】

B!

『公研』2023年8月号「対話」 ※肩書き等は掲載時のものです。

 

独裁者はどのようにして国民の不満を知り、それを解消させているのだろうか。

権威主義体制の仕組みを知ることは、

存在感を増す中国やロシアについて理解するヒントとなるのではないか。

 

    東京大学准教授 東島 雅昌       ×  サザンメソジスト大学准教授 武内 宏樹

 

独裁者が陥る選挙のジレンマ

 武内 今日は、このたび『民主主義を装う権威主義:世界化する選挙独裁とその論理』(千倉書房、2023年)という刺激的な本を出された東島先生にお話を伺いたいという趣旨で参りました。権威主義体制について理解することは、これからの中国、ロシアについて考えるうえで重要になると思っています。

 まず、東島先生がなぜ中央アジアを研究対象としたのか教えていただけますか。

 東島 もともと旧共産圏の民主化に興味があって、修士論文を書くときに24、5カ国を含むデータを統計分析して回帰直線を引いたんですね。そうしたらカザフスタンとキルギスが回帰直線上に位置していたので、これらの国々で何が起こっているんだろうという気持ちで決めたんです。

 なので、中央アジアに文化的関心があってとか、旅行したときに印象に残ってとか、そういう入り方をしていないんですよね。私より年上の、ソ連が解体する前後の一連の出来事をきっかけに当該地域に興味を持った方々とはきっかけが全然違うので、そういった意味では少し負い目を感じました(笑)。今だったら、ウクライナ侵攻は若手研究者にすごく影響を与えると思います。もちろん研究を進めていくうちに、地域への興味も湧きました。
 

 武内 この本はもともと『The Dictator’s Dilemma at the Ballot Box: Electoral Manipulation, Economic Maneuvering, and Political Order in Autocracies』(University of Michigan Press, 2022)というタイトルで英語で出版されました。日本語版は、単に英語版を翻訳しただけでなく日本の読者に合わせて再構成されているようで、このような良書が日本人にも読みやすい形で出されたことは非常に意義深いと思います。

 権威主義体制(独裁体制)の「選挙」に焦点を当てて論じていますが、比較民主主義論と違って比較権威主義論では選挙の研究ってあまり体系的になされていないんですよね。権威主義を研究する人にとってこれから必読の本となっていくと思います。本の紹介をお願いできますか。
 

 東島 このプロジェクトを始めてから結構時間がかかったのですが、結果的に英語と日本語で一冊の本にまとめることができて、とてもうれしく思っています。

 権威主義体制の制度分析はここ20年ぐらいで発展してきたテーマだと思うのですが、私が独裁制の選挙研究を始めたのには大きく二つ動機があります。

 一つは、「権威主義体制で選挙を行うと独裁者が得をする」という理論があるにもかかわらず、選挙によって独裁者が放逐される事例もあり、既存の理論ではそれを整合的に説明できないのではないかという理論的な関心があったこと。

 もう一つは、中央アジアのカザフスタンとキルギスを比較していると、ソ連の解体後同じタイミングで独立したとてもよく似た国であったにもかかわらず、その後選挙を通じて体制を強化させたカザフスタンと、まさに選挙によって政治が不安定になったキルギスというように分岐していったのはなぜなのかという現実の政治をめぐるパズルが念頭にあったことです。同じように選挙を行っているのに、選挙が独裁者に利したカザフスタンと、そうでなかったキルギスというように分かれたのはなぜなのか、その謎を解明したいと思ったことから始まったんです。

 カザフスタンとキルギスの事例比較から発想を得て、権威主義の選挙にはベネフィットとコストがあると考え、本のなかではその狭間でジレンマに陥る独裁者がどのように選挙をデザインするのかということを理論化し、多国間分析と比較事例研究を用いて実証しています。

 もう少し詳しく言うと、ある程度競争性を担保して不正もなるべく減らした相対的にフェアな選挙で大勝すると、独裁者は自分たちが強いんだということを見せつけることができます。投票結果により下から情報を吸い上げることもできるし、選挙の過程で野党の分裂を促すこともできる。これが選挙のベネフィットです。

 反対に選挙のコストとは、競争的な選挙では大勝しにくいので、たとえ勝ったとしてもギリギリの勝利だと体制の弱さをさらけ出すこととなり、体制の弱体化につながってしまうということです。ましてや負けてしまうと元も子もありません。選挙を優位に進めたい独裁者が「選挙不正」に走るのはよくあることですが、選挙不正をやりすぎてしまうと人々の不満を惹起しますし、その不満が高まると体制を脅かす抗議運動が起こる可能性もあります。

 そこで、私が着目したのは「経済分配」の効率性というもので、経済分配をしたら人々は物質的な利益を享受できるので自発的に独裁者に投票するようになるだろうというのが基本的なアイディアです。そうなると、独裁者は選挙不正に過剰に頼らなくても圧勝できるようになるため、選挙のベネフィットを最大限享受することができる。

 もう少し具体的に言うと、豊かな天然資源で得られた財政資源を草の根までうまく行き渡らせる組織があって、経済分配がうまく機能すれば、ある意味逆説的ですが、独裁者は選挙を「自由化」するという戦略を取るのではないかということです。

 独裁者は、自らの体制への支持率を見極めて、選挙不正と経済分配の度合いを決めていきます。それは、独裁者が彼我の動員能力に関する十全な情報を手にして合理的に選挙を設計できるとうまくいきますが、必ずしも正しい情報を常に把握しているとは限りません。その「情報の不確実性」により、独裁者は適切な選挙設計をすることが難しいことも多いわけで、その結果選挙不正と経済分配のさじ加減を誤って体制の崩壊を招いてしまうことがあるのです。そのような選挙における独裁者のジレンマを「選挙不正」と「経済分配」という二つの観点から整合的に説明しようとしたのが、この本の趣旨です。
 

 武内 比較権威主義論という観点から見ると、この本は議論しなくてはならないトピックが網羅されていて、独裁者にとっていわばハンドブックになるような本ではないでしょうか。ニューヨーク大学のブルース・ブエノ・デ・メスキータ先生とアラステア・スミス先生が『The Dictator’s Handbook: Why Bad Behavior Is Almost Always Good Politics』(Public Affairs, 2012)というタイトルの本を出していますが、私の「比較権威主義論」のクラスでこの本を必読文献にしたら、「あんたは独裁者になりたいのか」とルームメイトに言われたと言ってきた学生がいました(笑)。

 

「情報の不確実性」と「パラノイア」

 武内 先ほど「情報の不確実性」の話がありましたが、権威主義体制における「情報の不確実性」はどのように独裁者の計算を狂わせるのでしょうか。

 東島 やはり民主主義でも、選挙結果を予測することはすごく難しいわけですよね。少し前までは、ネイト・シルバーという応用統計学者が米国の選挙結果をかなり正確に予測していましたけれど、ドナルド・トランプ氏が出てきてから選挙予測がずれたりしています。米国のように世論調査が一番進んでいる民主主義の国でも予測が難しいわけなので、権威主義の選挙となると予測はもっと難しいと思います。「選挙のジレンマ」に直面している独裁者が、信頼に足る情報源が少ないなかで、その場の感覚や限られた情報で選挙不正と経済分配のバランスを取りながら選挙戦略を決めることになるわけで、権威主義の選挙は我々が思っているよりも不確実性が高いといえるのではないでしょうか。

 逆に言うと、そうした不確実性があるからこそ、国際的な支援が権威主義体制を不安定にする攪乱要因として意味を持ってくることもあるのかなと思います。ただ、外から選挙監視をすることで、選挙が透明になりすぎて独裁者の弱さがさらされ、統治エリートが分裂、政治秩序が混乱してしまうという事態もあり得ます。そうなると内戦になることもあるわけで、国際支援が意図していた民主化とは反対に、政治秩序が壊れる方向に向かっていってしまうかもしれない。国際支援も慎重にやらなければいけないと思います。

 どちらにせよ、「情報の不確実性」があるからこそ、国際支援のような外生的な圧力が意味を持ってくるのかなという気がしています。

 武内 今、外生的な要因について話していただきましたが、内からの要因というのはどうでしょうか。

 たとえば、側近は独裁者に忖度して耳障りのいいことばかり伝えるので、なかなか正確な情報が上がってこない。独裁者というのは孤独なものですよね。だから独裁者はパラノイア(偏執病・妄想症)になりやすい。パラノイアになると危機意識が過敏になって、ますます「情報の不確実性」に対して脆弱になってしまいます。本来なら経済分配で政権に取り込めそうな人たちも反乱を起こすのではないかと不安になり、ほかの反乱分子と一緒くたに抑圧してしまう。結果として潜在的な反乱分子を団結させてしまい、抑圧に対する人々の不満も高まって体制が崩壊するということもあり得ますよね。

 パラノイアに起因した過度な抑圧が権威主義政権を一層不安定にしてしまうというのは、スタンフォード大学のリサ・ブレイズ先生が『State of Repression: Iraq under Saddam Hussein』(Princeton University Press, 2018)のなかで指摘しているように、イラクのサダム・フセイン政権など往々にして起こることです。

 権威主義の選挙におけるパラノイアと独裁者の関係はどういうふうに見ていますか。

 東島 武内先生がサザンメソジスト大学(SMU)のサヴニ・デサイさんと共著で書いている論文のなかでパラノイアの話が出てきて、まさに独裁者の判断ミスの話とつながるなと思っていました。選挙が権威主義体制の安定を生み出す均衡は2種類あると思っています。
一つが、選挙の局面で圧倒的な抑圧や不正を用いることで、「我々はこんなに悪いことを組織的にできるんだ」ということを見せつけて体制が強固であると上から誇示する「恐怖の均衡」。メキシコ自治工科大学(ITAM)のアルベルト・シンプサー先生の『Why Governments and Parties Manipulate Elections: Theory, Practice, and Implications』(Cambridge University Press, 2013)のなかで描く独裁選挙の姿が、これにあたります。

 そしてもう一つが、私が本のなかで描いたような、経済分配などによって人々の自発的支持を組織的に集めて、上から強制的にではなく、体制が下から自ずと幅広く支えられるように、操作や抑圧の少ない選挙を通じて体制の強靭性を広く周知することで生まれる均衡です。
独裁者にとっては、選挙で「恐怖の均衡」をつくり出すことができれば万々歳ですが、そのためにはやはり草の根まで行き渡るようなしっかりとした組織的基盤が必要です。しかし、パラノイアに陥っている独裁者というのは、過剰な不安から、組織的基盤がないにもかかわらず場当たり的な抑圧や不正に手を染めてしまい、それがかえって人々の不満を惹起することにつながって体制が崩壊してしまう。選挙を設計する際の独裁者のこうした心理的あるいは認識上の問題も重要なトピックの一つだと思うのですが、政治学では取り上げにくいテーマですよね。

 

抗議運動のメカニズム

 武内 政治学者は選挙というと勝ち負けの話をしたがる傾向があります。民主主義の選挙は勝ち負けを決めることが目的ですが、権威主義の選挙ではそれが目的ではありません。不正が当たり前なので、最初から独裁者が勝つに決まっていますよね。誰が勝つかではなく、どう勝つかというのが重要です。圧勝して対抗勢力の意識を萎えさせて服従を促すということが目的のように思います。

 東島 権威主義体制下における選挙では、独裁者が圧倒的に有利だということはみんなわかっているので、ギリギリで勝ってしまうと問題なわけです。独裁者にとっては、たとえば70%以上の高い得票率で大勝し、先ほど説明した選挙のベネフィットを得られなければ、コストばかりで選挙を実施する意味がないのです。

 最近の事例でいうと、5月に行われたトルコの大統領選で現職のレジェップ・タイイップ・エルドアン氏の再選が決まりましたが、決選投票での得票率はエルドアン氏が52%、野党統一候補のケマル・クルチダルオール氏が48%と非常に僅差での勝利でしたよね。野党が僅差で負けた場合は体制の正当性を問うべく抗議運動を起こすのが一般的ですが、トルコの野党はおとなしく選挙結果を認めました。

 武内 トルコの大統領選は私も注目して見ていましたが、僅差で負けた野党が選挙結果を受け入れたのは意外でした。世論を反映した結果だと判断して敗北を認めたのか、それとも結果が僅差だったのでエルドアン氏の支持率低下を人目にさらせたことに満足して敗北を認めたのか、そのどちらかだと思うのですが。

 東島 トルコは民主主義と権威主義のあいだを行ったり来たりしている国なので、野党のなかにもある種の自制心が育っている可能性があるのかなと思いました。つまり、これだけエルドアン大統領の力が弱まってきているのなら次の選挙ではチャンスがあるのではないかと、長期的視点で次の選挙を見据えている可能性があります。いま抗議運動を起こして国の秩序を乱してしまうよりは、次の選挙を待ってそこで確実に勝とうという。そういう戦略を念頭に自制し、そして自制するだけの組織的基盤を持っているということはあるかもしれないですね。今回の大統領選でも票の買収や集計操作など与党による不正は少なからず行われていたようなので、抗議運動が起こってもおかしくない状況だったことは間違いありません。

 ほかの国を見ると、だいたい野党が組織的に弱い場合って接戦の選挙という好機に直面するとその一回のチャンスに賭けてしまうんですよね。その結果として、選挙の後だけ瞬間的に結束して選挙結果に挑戦する抗議運動を起こして、仮に体制をうまく打倒したとしても、その後に大きく分裂して、結局民主化にはつながらない。

 たとえばキルギスなんかは政党組織が与野党かかわらず弱いので、そういうモーメントになると野党エリートたちはそのときだけ結束しますが、体制を倒した後はバラバラになってしまうことが多いんです。トルコの場合、今回野党が大規模な反体制抗議運動を踏みとどまったのは、長期的に見れば民主化にとっての好材料となるかもしれません。

 武内 ここのところずっとトルコの民主主義は後退しているのではないかと懸念を抱いていましたが、今回の結果を見るとトルコの民主主義を支える基盤は意外に堅固なのかもしれませんね。

 東島 そもそも権威主義体制とは、政治指導者が国民にあまり政治に関心を持たせないようにするものだといわれてきました。国民がなるべく政治に関心を持たず、日々の暮らしにだけ目を向けてくれれば体制は維持できるわけで、経済悪化が与党の失政だとみなされて野党候補に多くの票が投じられている時点で、政治運営がうまくいっていないといえるかもしれませんね。

 武内 これまで政治学者のあいだでは、「明確に不満の対象があるから抗議運動が起きる」というのが通説だったわけですが、実際には「たとえそれが原因でなくても、日々の不満を発散できる対象に対して抗議する」というパターンのほうが多いように思います。

 トロント大学のニコール・ウー先生の研究によれば、米国でグローバリゼーションへの反発が根強いのは、そもそも経済の現状に怒っている人、不満を持っている人が多いからだと結論づけています。たとえばサーベイで、二つのグループに「製造業で職が失われている原因は何だと思いますか」と尋ねたとき、グループAには「オートメーション」という答えを事前に教えておいて、グループBには何の情報も与えなかったとしても、「オートメーション」と回答する人の数がAとBで全然変わらなかったそうです。つまり、本当の理由はどうでもいいんです。オートメーションが原因だとわかっていてもグローバリゼーションに不満のはけ口を求めるわけです。

 さらにおもしろいのが、回答者を支持政党で分けると、共和党支持者は「移民のせい」、民主党支持者は「貿易のせい」だと回答したといいます。移民や貿易は「人」や「国」がターゲットになるので不満のはけ口にしやすく、だから米国でグローバリゼーションに対する反発が高まっているのです。

 東島 人々の不満の源泉と集合行為の関係を探るうえでサーベイ実験は非常に有益なツールになると思います。権威主義体制における抗議行動のダイナミズムについては、私自身も次の研究のテーマとして考えていて、ここ数年カザフスタンで何度かサーベイ実験を行ってきました。

 権威主義体制における抗議活動は、人権侵害や選挙不正の糾弾など政治的な要求をする反体制エリートたちの抗議行動と、賃金や福祉など日々の生活に関わる経済的な要求をする一般市民の抗議行動というように大きく二つに分けられると思いますが、その二つがうまく結びついたときに体制を倒すような大規模な抗議行動につながるのではないか、逆に両者が独裁政府によって分断されていると抗議行動が増えても体制を揺るがすことはないのではないかという仮説を立てて、カザフスタンでサーベイ実験や実際の抗議行動のデータを使って分析を進めています。

 実際にアラブの春などは、経済的不満が政治的不満につながり、大規模な抗議行動が起きて体制が倒れたといったように、ほかの地域の権威主義体制にも含意のある話なので、今後カザフスタンでの現地調査も併用して詳細な事例研究を進めて仮説を洗練させつつ、それからグローバルなデータで検証できればいいなと思っています。

 

中央アジアのロシア離れ?

 武内 中央アジアの話をすると、米国でも中央アジアの専門家ってあまりいなくて、社会科学では特に少ないので、東島先生は非常に貴重な方だと思っているんです。中央アジアは今、1991年のソ連解体で独立したときの、建国の父のような初代大統領が退いて、二代目に代わった非常にダイナミックでおもしろいタイミングですよね。二代目は初代よりもかなり経済を重視していて、国際協力なんかも視野に入れながら外交も積極的に行っている印象です。
政治学的に見ると、今の中央アジアはどのような状況にあるのでしょうか。

 東島 中央アジアでは今、政治改革が進んできているといわれています。カザフスタンを例に挙げると、昨年1月の大規模抗議運動で、二代目に移ってからもずっと「院政」を敷いて権力を保持していた初代大統領のヌルスルタン・ナザルバエフ氏が政治の表舞台から事実上退場しました。「ナザルバエフが長く権力を握っているから腐敗が蔓延した」と人々は考えたんですね。彼の求心力は特に2010年代に入るころからあまりに強くなったために、側近がみんなイエスマンと化してしまい、下から上には都合のいい情報しか報告されないという権威主義体制の典型的な問題が現れていたようです。たとえば、2011年にカザフスタン西部の都市ジャナオゼンで石油労働者による大規模な抗議運動が起きましたが、現地の研究者によると、ナザルバエフ氏はしばらく現場で何が起きているのか十分把握できていなかったそうです。

 二代目大統領のカシム=ジョマルト・トカエフ氏は、こうした状況を打開すべく、大規模抗議行動の勃発とロシアのウクライナ侵攻による経済状況の悪化も追い風となって、憲法や選挙制度の改正など次々に政治改革を行うことで、政治の風通しをよくしようとしています。ただ、やりすぎると自身の権力基盤を切り崩すことにつながるため、改革とはいっても制度上いろいろな抜け道を用意していて、改革と抑圧のジレンマのなかでうまくバランスを取ろうとしていることが窺えます。なので、対外的に政治改革をアピールしているからといって、楽観的に見ることはできないのかなと思います。

 同じような政治改革の動きはウズベキスタンでも初代大統領のイスラム・カリモフ氏が2016年に死去したのち、二代目のシャフカト・ミルジヨエフ氏によって進められていますが、これが一つ内政に関していえることです。

 武内 内政の話が出たので、外交政策についてもお聞かせください。中央アジア5カ国(カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン)は、今まで旧ソ連の国であるということ以外に一体性はなかったわけですが、2021年にウズベキスタンの首都タシケントで「中央・南アジア国際会議」が初めて開かれるなど、最近になって一体性を持たせる動きが出てきていますよね。そこには、特にロシアのウクライナ侵攻以降、やはりロシアから距離を取りたいという意図もあると思います。

 そうしたなかで、今年5月には中国が西安で中央アジア5カ国との首脳会議を開きました。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領も中央アジアのロシア離れ、より正確にはプーチン離れに気づいて、影響力の低下を食い止めようとしていますが、一方で中央アジア側もロシアとの距離の取り方に腐心している様子が見受けられます。中央アジアの国々は共通語がロシア語だったり、ロシア人の人口比率が高かったりと、ロシアから完全に離れることは難しい。そこで、ロシアの影響力を弱めるために米国も中国も両方頼ろうと、そういう傾向が見られるように思います。

 東島 そもそも中央アジアの国同士がうまく連携できるのかは疑問です。経済構造が似ているため貿易でもWin-Winの関係になりにくかったり、飛び地があるなど国境が複雑なため領土問題が深刻だったり、過去にも「中央アジア」として地域協力を進めるなど団結しようという試みは何度かありましたが、今日まで実現していません。それよりも、米国や中国を利用して各国で個別に外交をしたほうがいいと考える可能性もありますよね。

 また、対ロシアに関していうと、よりナショナリスティックなウズベキスタンからよりプラグマティックなカザフスタンといった形で無視できない違いはあるにせよ、伝統的に多方位外交というか、どの国に対しても非常に戦略的にしたたかに関係を維持しようとする傾向があります。ウクライナ侵攻以後、中央アジアがロシアに過度に依存することのリスクを改めて認識して、ロシアに対する警戒感が一層高まっているのは確かですが、大きく袂を分かつこともまた難しい。米国は以前からそれなりの存在感がありますが、同時に伝統的につながりの深いロシアや、物資や貿易でのつながりが強い中国との適度な距離感を保つという態度ですね。

 

反中国の中央アジア?

 武内 対中国はどうですか。

 東島 2009年につくった新疆とトルクメニスタンを結ぶパイプラインを拡張する話を進めたり、ロシア経由ではなくキルギス・ウズベキスタンからイラン・トルコを経由して中国とヨーロッパをより短時間・近距離での輸送を可能とする鉄道を結ぶ計画を話し合ったり、先日の「中国・中央アジアサミット」でも話が出たように融資を増やしたりと、中央アジア諸国がロシアから距離を取り始めていることを契機に、中央アジア諸国政府と結びつきを強めることで、中国は影響力を高めようとしています。

 ただ、中央アジアの人々のあいだでは中国に対するネガティブな感情が強く、それは複数のサーベイでも裏付けられている傾向です。

 たとえば私が2021年春に行ったサーベイ実験では、「どのような移民を受け入れたいか」という一連の移民のプロファイルを回答者に見せたときに、中国からの移民であるという情報は、ほかの国からの移民であるという情報と比較すると、隣人としての受け入れを忌避する感情がとても強くなる傾向にありました。反対に、ロシア系の移民であるという情報は、ロシアとは昔からのつながりがあるので、そのような傾向は見られません。

 中央アジアには、ビジネスチャンスや労働機会を求めて中国からの企業や、移民、労働者がたくさん来ていますが、現地住民との摩擦も少なからず起きています。サーベイの結果が示唆するのは、移民が漢民族のエスニシティを有するというだけで、現地の人はかなりネガティブな感情を持つ傾向にあるということです。政治エリートレベルではつながりを強めようとしているものの、大衆レベルの感情を考えるとなかなか難しいところもあるのではないでしょうか。

 武内 米国に対する印象はポジティブなのでしょうか。

 東島 実際に米国に対する国民感情に関して私自身がサーベイを継続的に取ったわけではないのであくまでも肌感覚としてですが、中国やロシアに比べると地理的に遠く、昔からつながりのあるロシアに比べたら新参者なので、あまり親近感はないというのが基本的なスタンスだと思います。

 ただ、筑波大学のティムール・ダダバエフ先生と東京大学の園田茂人先生によるアジア・バロメターを使った分析では、最近の中央アジアでは米国や欧州諸国に対する好感度が以前よりも高まっていて、特に若年層を中心にその傾向が顕著なようです(「中央アジアの苦悩:国連決議と国民感情の狭間で」『中央公論』2022年6月号)。たとえば、カザフスタン(2005─2019年)では、ロシアに対してはやや好感度が減少しているものの依然として非常に高く、中国に対してはやや減少しているという傾向が報告されています。私自身の感覚やサーベイの結果とも整合的かなという気がしています。

 武内 最近驚いたのは、ウズベキスタンが今、教育省が提唱する“English Speaking Nation” Initiativeのもとで、全国民に英語が普及するよう英語教育に力を入れていて、「フルブライト英語教育アシスタント(English Teaching Assistant:ETA)プログラム」などで米国からたくさんの英語教師を受け入れているんですよね。コロナ禍でも米国からETAの受け入れを積極的に続けていたんです。

 私が思うに、米軍のアフガニスタンでの苦戦を目の当たりにして、米国人は英語ができる人の話しか聞かないということを米軍の撤退以前から学んでいたのではないでしょうか。
アフガニスタンの場合は、タリバンの全土掌握で大統領の座を追われたアシュラフ・ガニー氏が英語が堪能で、米国に向かって「大丈夫」と言っていた。でも実態は全然大丈夫じゃなかったんですよね。そんなことは地元の部族のリーダーにはわかっていたわけですが、彼らは英語が話せないので米国に進言する術がなかった。実態をわかっている人の声が米国に直接届くようにしないといけないということで、ウズベキスタンは英語教育強化へ舵を切ったのだと思います。

 東島 米国が文化や価値観といったソフト・パワーを使って、中央アジアへの影響力を強めようとしている傾向は以前からあるような気がしていますし、そうした機会を使って中央アジアの国々が国力を高めようとしているところもあると思います。

 たとえば、カザフスタンにある初代大統領の名前がついたナザルバエフ大学は、最近まで日本人の方が長く学長を務めていた高等教育機関ですが、オイルマネーを使って米国で博士号を取った外国人研究者をたくさん雇っていて、すごくインターナショナルな雰囲気です。そこには何人か日本人の研究者も在籍していましたが、給料は高く、大学敷地内のアパートも借りられて家賃はタダ、子どものインターナショナル・スクールの学費も出してもらえるなど、かなり待遇がいいみたいです。キルギスにも中央アジア・アメリカ大学という米国の教養教育の影響を強く受けている大学があって、そこでも授業は英語で行われているそうです。

 

権威主義と「資源の呪い」

 武内 中央アジアの国々は、資源を持つ国、持たない国とバリエーションがありますよね。たとえばカザフスタンは、オイルマネーをインフラに投資してとにかく国を発展させようという方針です。トルクメニスタンも天然ガスが多い。ほかの国にはそんなに天然資源がありませんが、天然資源の賦存量は権威主義体制にどう影響するのでしょうか。

 東島 天然資源があれば国民全員が潤うので、人々はみんな満足していて体制は強いというイメージがあるかもしれませんが、そうともいい切れません。権威主義体制の国では資源の恩恵を受けられるのは独裁者に近い限られた人たちだけで、特に資源価格が下落すると、そこから排除された人たちとの格差はさらに広がります。カザフスタンもトルクメニスタンも程度の差はあれ腐敗がかなり進んでいたので、資源の恩恵がどれくらい広範に人々に行き渡っているかということは、もう少し慎重に分析すべきだと思います。

 武内 さらに言うと、中央アジアは国有企業の存在感が大きいですよね。もともと旧ソ連の国なので全て国有企業という状態から始まったわけですが、それをどう民営化し、経済効率を高めていくかというのは大きな課題だと思います。特に、天然資源があると国有企業改革はますます難しくなりますよね。

 東島 天然資源と経済成長の負の関係、政治経済学でいう「資源の呪い」(resource curse:一見成長と発展を約束するかに見える天然資源が政治・経済・社会にもたらす弊害)は単純に天然資源があるところで必然的に起こるわけではなく、国営で運用されている場合に資源が権力者の道具になってしまうため経済成長に負の影響を与えやすくなるというのが、今では社会科学の共通認識になっています。なかでも中央アジアは、天然資源が国有セクターに支配されているので、「資源の呪い」が起こりやすい典型的事例として挙げられています。ただ、民営化したとしても、ロシアのオリガルヒ(新興財閥)のように、民営化初期の寡占的地位を利用して莫大な富を築く人が出てくるなど、反対に民営化が腐敗の温床になる事例もあります。

 武内 ウクライナも、クリミア半島や東部に豊富な天然ガスを埋蔵しています。また、国有セクターが大きいがゆえの腐敗が問題になっていて、ロシアのウクライナ侵攻前は政府に対する国民の支持も高くありませんでした。プーチン氏は石油や天然ガスを抑えることに対する執着が強く、ウクライナ政府が国民の信頼を得ていないことに鑑みて、今般の悲劇的な戦争が始まってしまったということもできます。

 もう一つ中央アジアの特徴として、全て内陸国であるということが挙げられますよね。ウズベキスタンにいたっては世界に2つしかない「二重内陸国」(内陸国に囲まれた内陸国)です。もう一つはリヒテンシュタインですが、国土のほとんどをスイスに囲まれていて、一部オーストリアと国境を接している小さな国です。一方、ウズベキスタンは、アフガニスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンという5つの国に囲まれている大きな国です。

 一般に内陸国は貿易の面から見ても経済発展に不向きだといわれますが、地理的な条件が国の発展に与える影響についてはどうお考えですか。

 東島 ウズベキスタンは人口が3000万人以上いる大きな国なので人的資本には恵まれていますし、カザフスタンも「資源の呪い」という問題はあるにせよ、やはり天然資源で急速に経済成長したことには変わりありません。ただ、キルギスやタジキスタンは苦戦しています。中央アジアのなかでもかなり差があって、ひとくくりに評価することは難しいと思います。しかし、隣国の経済大国である中国の影響力拡大も経済的つながりの深化という意味ではアドバンテージになると思いますし、トルコのような中東の地域大国との地理的な近接性を利用して経済的・人的なつながりを強化しているところもあるので、内陸国だから不利であるとは一概にはいえないのではないでしょうか。

 

プーチンの情報操作

 武内 ロシアの話も聞きたいのですが、プーチン氏が戦争を始めたのは正しい情報が上がってきていなかったがゆえの判断ミスであるともいえますよね。戦況がこうなるとわかっていたら侵攻していなかったでしょう。経済面で見ると、ロシアの2022年のGDP(国内総生産)は2兆2千億ドルで、テキサス州の2兆4千億ドルよりも少ないんです。米国(25兆5千億ドル)の12分の1にすぎません。

 ロシアも典型的な選挙権威主義の国ですが、ロシアは今どのような状況なのでしょうか。

 東島 プーチン氏が大統領に就任する前のロシア経済はガタガタでした。急進的な経済改革がいろいろな形で人々の暮らしを直撃し、1998年には世界経済を大混乱に陥れたロシア財政危機も起こって、そういう状況のなかでプーチン氏は台頭してきました。

 その後は天然資源価格の上昇があり、プーチン氏はそれに助けられて権力基盤を強化することができ、経済パフォーマンスを正当性のよりどころとします。共産主義の政党支配体制だと共産主義というイデオロギーが、サウジアラビアなどのように君主制だと血縁が正当性を担保するのかもしれませんが、権威主義体制は経済パフォーマンスの高さを正当性のよりどころとせざるを得ない場合が多いのです。

 しかし、2010年代に入ると経済はどんどん減速していきます。体制を維持したいプーチン氏は、経済パフォーマンスが悪くなったと思われないよう情報操作に手を出します。私が知っている研究では、たとえば1990年代の終わりごろから2018年ごろまでのロシア国営ニュースの記事全てを対象に、経済報道に関する量的テキスト分析を行ったものがあります。そこで得られた結論は、「経済が良い」というニュースは全てプーチン氏や与党の手柄にされていて、「経済が悪い」というニュースは全て外国勢力など外生的な影響のせいにされているということです。経済は何が要因で良くなったり悪くなったりしているのか判断しにくいので、プーチン氏はそれを利用して、自分たちはきちんと経済を回しているのだということを情報操作でアピールしているわけです。

 就任当初はプーチン氏自身に人気があったので、情報操作をしなくても選挙に勝てていましたが、だんだんと正当性のよりどころとする経済パフォーマンスが危うくなってきて、情報操作をせざるを得ない状況に追い込まれてきたのだと思います。巧みな情報操作は選挙権威主義体制における独裁者の典型的手法と位置づけられるのかなと思います。

 武内 パラノイアとの関係だとどうでしょうか。プーチン氏はどの程度パラノイアに影響された判断をしているといえるのでしょうか。

 東島 やはりプーチン氏のもとにはあまり情報が上がってきていないのかなという気はしています。だいたい情報がきちんと上がってくる国は、何らかの制度を通じて信憑性ある情報が伝達されるチャネルが整備されている場合が多いのです。ロシアをはじめ旧ソ連の国々には、独裁者を支える「統一ロシア」のような「支配政党」がありますが、こうした大規模与党は軒並み独裁者の道具に過ぎません。

 独裁者がいても周りにそれなりに発言権を持った幹部がいて、統治エリート(ruling elites)が話し合って物事を決めるというような集合的意思決定(collective decision making)の制度化がなされていると、極端な考え方は採用されずに淘汰されていきます。上のそうした意思決定のあり方は、組織を下の党員からの意見や批判も吸収しやすいものにするでしょう。

 ところが旧ソ連圏の与党の場合、党自体はいろいろなところに支部があって、その組織は草の根まで行き渡る形になっていますが、部下は上司に忖度してうまく意見を言えないという構造がトップレベルまで貫徹されることで、強固な組織を持った個人独裁体制のような傾向があると思います。そうなると、逆に党組織自体がなまじしっかりしているがために、一度悪い方向に進むとどんどんエスカレートしてしまう悪循環になる傾向を孕むのではないかなと思います。

 武内 情報の風通しが悪いうえに党の基盤自体はしっかりしているために、党そのものが間違った方向に向かってしまうわけですね。組織的基盤の弱い個人独裁のほうがまだ止める方法はありそうですね。

 ナショナリズムに関してはどう思いますか。ナショナリズムというのは道具であって、経済が減速してよりどころにできなくなった場合にナショナリズムに頼るということもいえます。
プーチン氏も、2010年代になって経済が悪くなってきたときにナショナリズムに頼るようになったとも考えられますが、一方でプーチン氏は本当にナショナリストで、心の底からナショナリズムを信じているという仮説も立てられますよね。

 東島 ちょうど今年6月の日本比較政治学会で発表した、大阪大学の鳥飼将雅先生、東北大学の金子智樹先生、早稲田大学の久保慶一先生との共著論文があって、1997年7月から2022年3月まで、ロシアの主要6誌から300万本ほどの新聞記事を使って量的テキスト分析をしました。そうしたら、やはりプロパガンダの内容と方向性にははっきりとした時系列的変化があるんですよね。

 具体的には、プーチン氏が個人支配を確立するにつれて、報道のウェイトが内政から外交・国際関係に顕著にシフトし、さらに2014年のクリミア併合前後で、「ウクライナ」を「ファシスト」といった言葉と関連づけて報道する記事が一気に増えるんです。「ウクライナ」という言葉に触発されるようにナショナリスト的言説が浮かび上がってくる。

 もしプーチン氏が本当に本質主義的なナショナリストだったら最初から同じことを言っているはずですが、そうした官製メディアを中心とした報道内容の顕著な変化に鑑みると、やはりプーチン氏は原理主義的ナショナリストというわけではなく、状況に応じて機会主義的・構築主義的に戦術としてのナショナリズムに訴えて支持を勝ち取ろうとしているのではないかと思います。

 

権威主義における選挙の役割

 武内 ロシアのウクライナ侵攻以降、中国の台湾侵攻の可能性についてよく聞かれます。そのたびに、「中国とロシア、習近平とプーチン、台湾とウクライナは違う」と答えているのですが、それでも中国とロシアを比較する意味はあると思っています。
体制としては、ロシアは選挙権威主義国で中国は違いますが、ロシアと中国に類似性は感じますか。

 東島 制度を見ている者からすると、中国は国政選挙はありませんが村落レベルの選挙は行われていますよね。そこでは複数候補者選挙を行っていて、権威主義体制のもとで独裁者が信憑性のある情報をいかに集めるかというところに腐心しているという点では、選挙を行うロシアと似ている部分があると思います。共産党一党支配かどうかという違いはありつつも、情報の不確実性とか、末端の腐敗とか、そういった問題に直面している点は同じではないでしょうか。武内先生は中国の村落選挙の分析をしていましたよね。

 武内 やはり「情報」というのはキーワードで、それは独裁者にとっては永遠の課題ではないでしょうか。だからジレンマにも陥るわけですよね。中国とロシアを比較したときに、中国は共産党の一党支配を制度化することによって、ロシアは選挙制度を利用することによって情報の風通しをよくしてきたのだと思います。しかしそれは諸刃の剣でもあり、やりすぎると体制が倒れかねないリスクを負っているというジレンマは中国もロシアも同じです。

 中国の村落選挙に関しては、データがたくさんあるので多くの先行研究があります。ただ、実際に農村に足を運んで調査して実感したのは、やはり国政レベルの選挙とは全然違うということですね。村落レベルでは候補者と投票者が知り合いなわけで、選挙の意義は自ずと異なります。もともと情報が共有されたなかでやるわけですから、選挙による情報の拡散効果はあまりありません。

 それにもかかわらずなぜ村落レベルに選挙を導入したかというと、改革・開放政策が始まった1980年代に農村の自治組織である村民委員会の委員のなり手がいなかったからです。その当時、村のリーダーになるためには共産党員であることが条件でした。でも、党員ではないけどすごく評判のいい人がいるときに、その人にリーダーとしての正当性を与えるには選挙は便利な制度です。そういう人は圧倒的な得票率で当選してしまったりするわけです。

 ですから、2014年に私が出した『Tax Reform in Rural China: Revenue, Resistance, and Authoritarian Rule』(Cambridge University Press)でも書いたのですが、選挙で圧勝した候補者のほうが行政サービスなどが行き届いているという傾向があります。競争的でない選挙のほうが立派なリーダーを選ぶ傾向にあるというのは、選挙における候補者同士の競争が説明責任を担保するという政治学における「選挙の常識」とは異なる現象です。村落選挙は有権者が少なくて票の買収をするコストが低いので、僅差の競争的な選挙になると買収合戦になりやすいのです。競争的な選挙は説明責任ではなく選挙腐敗をもたらす傾向があるわけです。

 東島 カザフスタンでも最近、中央政府が現地の情報を把握してよりよい政策立案を行うという大義名分のもと、村落レベルの複数候補者選挙を導入し始めています。

 おもしろいのが、地方議会から任命された前任村長の任期切れのタイミングで順次競争選挙が導入されていくため、選挙が導入された村とまだ導入されていない村とで居住者の政治意識に差があれば、それが選挙導入の影響であると特定できるわけです。つまり、選挙が人々の政治認識に与える効果を検証することのできる貴重な自然実験的状況をもたらしています。

 この二つのグループを比較することで独裁制下の選挙が人々にどのような効果をもたらすのかという因果関係を明らかにしようと、明治大学の加藤言人先生、ミシガン大学の白糸裕輝先生、アリゾナ大学のポール・シューラー先生とサーベイを取って人々の意見を聞いてみました。結構興味深い差が生まれたのですが、与党有利のかなり腐敗した選挙だったにもかかわらず、「選挙を実施した村のほうが、政治に参加して影響を与えているという有効性感覚をより強く持つようになる」ということがわかりました。ただし、候補者自体を公共政策などの基準できちんと評価しているという傾向は見られませんでした。

 また、「選挙で選ばれた村長がいる村落だと、自分の私財を一部寄付してでも村のコミュニティのために公共心をもって協力しようと思う」という傾向もあることがわかりました。選挙それ自体は腐敗して不正にまみれていて政策効果は期待できないとしても、選挙を実施することでコミュニティの一体感や指導者への正当性をつくり出すような効果が生まれるのかもしれないと思っています。

選挙制度を利用する独裁者

 武内 選挙はエリートの取り込みにも役立ちそうですよね。中国の村落選挙でも、特に共産党員ではないエリートが選挙に勝ったら正当性や権威が与えられると同時に箔がつくわけです。中国では、1980年代からの改革・開放政策によって農村の工業化が進んだので、それで財を成した人が私財をなげうって公共財を提供するような篤志家となる場合が結構あります。そういう人に村長になってもらうときに、村民委員会の選挙をやることで正当性が与えられます。誰が勝つかはあらかじめ決まっていますが、選挙をする意義はあるわけです。
 おもしろいのは、ほかの研究者のインタビューを見ていると、村の篤志家のような人たちは村長を何期も務めるつもりはなくて、1期か2期やって別の人に代わってもらうというのがベストなようです。本業で忙しいわけですから、みんなから選ばれたということで箔がつけば目的が達せられたことになり、村長の地位にとどまることで自分のビジネスに有利になるとは思っていないんですね。

 そのあたり、権威主義体制下におけるエリートの取り込みという意味では、選挙の意義をどのように考えていますか。

 東島 カザフスタンとキルギスは典型的で、ロシアにも当てはまるかもしれないのですが、エリートの取り込みに対する選挙制度の効果は大きいと思っています。本のなかではあまり強調しなかったのですが、小選挙区制だと、どうしても選挙キャンペーンで選挙区に顔が利く地元のエリートたちに依存する部分が出てきて、自分たちの能力や資源のおかげで選挙に勝ったという正当性も担保されることで、地方エリートが中央政府から自立的になってしまうわけですね。小選挙区制は与党の獲得した得票率以上の議席占有率を生み出すので、より多くの有力な地方エリートを体制内に取り込むことはできるものの、副作用として自立性の高い強力な統治エリートを生んでしまう。彼(女)らは基本的には独裁者に賛成するものの、要所要所で対抗するということをやるので、独裁者自身の自前の権力基盤が強くなると小選挙区制から比例代表制に変える傾向があります。比例代表制では与党が圧勝できる確率は下がりますが、候補者は全て独裁者が決めることになるので、エリートの自立性を奪い、独裁者に従属させるような装置として機能するからです。ロシアもカザフスタンも、独裁者の求心力が高まったときに小選挙区制ベースの混合制度から比例代表制に選挙制度を変えました。

 逆も起こり得ます。たとえばカザフスタンにおいて、2022年1月の大規模騒乱やロシアのウクライナ侵攻に伴う経済的打撃はトカエフ大統領の権力基盤を揺るがしかねませんでした。そうしたなか、政治改革に果敢に取り組むというアピールをしながら、昨年、2004年の議会選挙まで採用していた小選挙区制と比例代表制の混合制度に戻しました。結果的に、今年3月の議会選挙で与党が「圧勝」するうえで小選挙区制は大きな議席プレミアムをもたらしました。

 武内 権威主義体制下での選挙は、誰が勝つかを決めることが目的ではなくて政権党が圧勝することが目的で、小選挙区制のほうが圧勝しやすいけれども、真にエリートを政権側に取り込むには比例代表制のほうが有効だと。ただ、比例代表制で圧勝するのは難しいので、それが独裁者にとってのジレンマになるわけですね。
選挙を行う選挙権威主義とそれ以外の権威主義を比べてみると、選挙は経済成長に影響したりするのでしょうか。

 東島 選挙権威主義を経済パフォーマンスの面から比較するのは、まだあまり先行研究がありませんし、おもしろそうだなと思っています。ただ、政府統計が操作されているリスクのある権威主義体制の文脈で経済パフォーマンスをどのように測るかというところが結構難しいですよね。

 ほかの研究者の分析を見ると、たとえば公衆衛生に関わる公共財をどのように分配しているのかという分析で、社会福祉の面で選挙権威主義はパフォーマンスがいいという研究があります。選挙があると、人々の支持を集めなければいけないというインセンティブがそれなりにあるため、民主主義と似たようなパフォーマンスを取るところも出てくるのかもしれません。
 

 武内 選挙によって情報の風通しがよくなるとすれば、選挙権威主義のほうが公共財の分配も効率的になりますよね。
 

 東島 確かに、ターゲットを絞ってできるので、効率的にはなります。ただ、選挙権威主義体制では選挙のときに社会支出を上げて、それ以外のときには軍事支出を上げる傾向があるという分析もあります。選挙のときには国民のほうを向いて分配に注力するけれども、選挙がないときにはみんなが気がつかないところでエリートに資するような軍事支出を増やしているということです。安易な経済分配は債務超過にもつながるため、長期的に見ると経済成長に効果的ではないともいえるので、結局は選挙のことしか考えていないということになりますよね。これは民主主義でもある程度似たような面があるかもしれません。

 

 武内 以前日本比較政治学会の議論の席で、龍谷大学の濱中新吾先生が「民主主義下の選挙と権威主義下の選挙はジャイアントパンダとレッサーパンダぐらい違う」と言っていましたが、言い得て妙だと思います。そもそも同じ「パンダ」の名を冠していても、ジャイアントパンダとレッサーパンダは違う系統の動物なんです。同様に、民主主義下の選挙と権威主義下の選挙も、同じ「選挙」であっても目的が全然違うわけです。授業でこのたとえをよく使うのですが、パンダの話しか覚えていない学生がいるのは困ります(笑)。
ただ、似て非なるものだとはいえ、選挙の機能性が劣るわけではないので、権威主義政治における選挙の役割を考察することは比較権威主義研究において今後ますます大事になってくると思います。
 

 東島 権威主義の選挙では必ず圧勝する必要があるわけですが、民主主義の選挙では勝つ必要はあっても辛勝でもいいわけです。これは大きな違いです。そうした違いを背景にして生まれる選挙不正行使のロジックはやはり全然違うと思います。経済的恩恵を受け取る代わりに投票でそれに応えるというクライエンテリズム(恩顧主義)が幅を利かすという点では共通するところもありますが、負けそうになったら不正をし、負けても選挙結果を認めない可能性が高い権威主義の選挙と、負けそうになっても大規模な不正はせず、負けたら選挙結果を認める民主主義の選挙は、はっきり別物として見なければいけないと思います。
 

 武内 SMUのキーリー・マクネミーさんと共著で日本の自由民主党とメキシコの制度的革命党(PRI)の20世紀における一党支配を比較した論文を書いているところなのですが、PRIの選挙不正は自民党の比ではなく、日本が戦後一貫して「民主主義国」に分類されてきたのに対して、メキシコは1980年代まで「権威主義国」に分類されていたのは宜なるかなと思います。

 

グローバル・サウス諸国との付き合い方

 武内 政治学では、「比較権威主義」というテーマはデータが取りにくいこともあって過小評価されてきました。でも、今でも権威主義のもとで暮らしている人のほうが民主主義のもとで暮らしている人より多いわけです。過去を振り返れば、民主主義のほうがはるかに歴史が浅いですから、人類はずっと権威主義のもとで生きてきたといってもいいでしょう。
今年のG7広島サミットでも話題になったグローバル・サウスの国々はほとんどが権威主義です。これから日本がグローバル・サウスの国々と関わっていくうえで、どのようなことに留意する必要があるでしょうか。
 

 東島 中央アジアの国は全て権威主義ですが、外交をする際、権威主義・民主主義という政治体制の違いはあまり意識していないと思います。単純に政治体制だけで考えれば、中央アジアの国はおしなべて同じ体制の中国やロシアの側に立って米国に敵対するはずだということになりますが、現実はもっと複雑で、単純に政治体制で割り切れるような国際関係ではないと思います。

 米国と中国の対立が深まり、「民主主義対権威主義」という言説が既成事実化していった場合、政治体制の違いが理念的対立をつくり出すということもひょっとしたらあり得るのかもしれません。シンガポール国立大学の益田肇先生が、近著『人びとのなかの冷戦世界:想像が現実となるとき』(岩波書店、2021年)のなかで、冷戦の対立も構築され想像されたものだという興味深い議論を展開していますが、同じようなことが起こる可能性はあります。

 ただ、それでも「民主主義対権威主義」は「資本主義対共産主義」のような経済システムまでを内包したものではあり得ませんし、今の状況はもっとルーズというか、グローバル・サウスに属する国々がそのときどきの利害でそれぞれどっちにつくかを決めているような感じを受けます。中央アジア以外の国も同じように、「民主主義対権威主義」という政治体制の対立軸ではなく、イデオロギーよりも現実的な利害関係で動くのではないかという気がします。
 

 武内 バイデン政権は「民主主義対権威主義」という対立軸を盛んに煽っていますが、政治体制の違いはあまり強調しないほうがいいと思います。むしろ米国は、様々な国際問題解決のために権威主義の国にどう働きかけるべきかということに注力すべきでしょう。コロナ禍で顕在化した公衆衛生の問題のほか、貧困、気候変動、テロなど中国やグローバル・サウスの国々の協力が必要な問題は多々あります。権威主義の国が民主化するのを待っている余裕はないはずです。

 ところで、昨今民主主義の権威主義化がよく話題になりますが、特にトランプ政権が誕生してからの米国の民主主義についてはどう見ていますか。
 

 東島 もちろん議事堂の占拠事件などを見ると民主主義が弱まってきている面があるとは思うのですが、一方でトランプ氏が大統領のときでも、制度が歯止めになって政権の行動をある程度制限できたという面もたくさんあったと思うんですよね。やはり米国は憲法のもとで、トランプ氏みたいな人が出てくることも見越して強固な制度づくりをしてきたわけです。トランプ政権の4年間で米国民主主義の正当性が国際的にも国内的にも大きく傷つけられたことは確かですし、それを取り戻すことは一朝一夕ではいかないと思います。ただ、制度によるブレーキが利いているという意味では、権威主義化が一気に進んでしまったトルコやハンガリー、ベネズエラとは違うといえるのではないでしょうか。

 一方、制度をなかなか変えることができないと、代議制民主主義への不信がさらに高まってしまうという負のスパイラルに陥る可能性もあるとは思います。それでも、憲法がブレーキとして機能している米国の民主主義は、憲法を簡単に変えて求心力を高められる権威主義体制とはやはり別物だと思います。米国は影響力が大きいのであのような事件が起きたこと自体問題ですが、トランプ大統領のような極端なケースが出てきても、憲法によってある程度抑制が利いたのかなと思います。

 そもそもトランプ氏は2016年の大統領選挙で、予備選挙という党の公認する候補を選出する制度を通して台頭してきました。やはり予備選挙では極端な考え方を持った人のほうが選ばれやすいのでしょうか。

 

民主主義と権威主義の将来

 武内 米国の大統領選挙は二大政党制のもとでの「定数1の選挙」なので、政治経済学の中位投票者定理によれば、本選挙では極端な立ち位置を取る候補者は出てこないはずです。でも、予備選挙は投票率が低く、極端な人ほど投票所に足を運ぶ傾向があるので、各党候補者の立ち位置が左右両極に寄ってしまうことがあります。

 以前の選挙では、予備選挙での立ち位置にかかわらず、本選挙では真ん中のほうに寄ってくるというパターンだったのですが、トランプ氏はそうではありませんでした。近年の大統領選挙では、トランプ氏だけでなく、2016年と20年の民主党予備選挙で候補者指名まであと一歩に迫ったバーニー・サンダース氏のように、「ぶれない候補者」が評価される傾向にあるようです。

 なぜそうなってきたのかは今後きちんと検証していかなくてはいけませんが、私はソーシャルメディアの台頭が影響しているのではないかと考えています。

 米国の大統領選挙では、有権者は「全国区の顔」を探そうとします。これまではテレビが全国区のイメージを構築するのに役立ってきました。でも、今の時代、特に都市部に住む若い人たちはテレビを全く見ない人が多くなっています。かくいう私も若いわけではありませんが(笑)、テレビはもっぱらスポーツ観戦のためで、ニュースはほとんど見ません。私は新聞の電子版とラジオでニュースを取っていますが、ソーシャルメディアでしか情報を取らない人が米国では過半数を占めます。ソーシャルメディアを通して全国区になるには極端な立ち位置を取ったほうが有利です。結果として、国民は穏健な候補者を選びたいのに、極端な考え方を持った候補者が台頭してくるということではないでしょうか。

 ジョー・バイデン大統領は長く政治の世界にいるので穏健派でも「全国区」ですが、これからの時代まともな考えを持っている人が大統領候補になるのは難しいのではないかと危惧しています。技術革新による政治メディアの急激な変化に、選挙をはじめとする民主主義の制度が追いついていないというのが現状だと思います。

 東島さんが本で議論している「民主主義を装う権威主義」の国では、独裁者がソーシャルメディアをうまく活用しているように見えます。新しいメディアと政治の関係は独裁者に有利に働いているのでしょうか。これから民主主義が権威主義化しないためにはどうしたらいいのでしょうか。
 

 東島 権威主義体制だとメディアが独裁者の道具として占有されてしまう傾向はどうしても強くなってしまうわけで、ソーシャルメディアも例外ではないと思います。独裁選挙で圧勝するということが、経済分配などある種の独裁者の「パフォーマンス」によって支えられているのであれば、独裁者の「パフォーマンス」が落ちたときに選挙は独裁者を放逐する制度として機能する可能性も残されているわけですが、ソーシャルメディアを通じた偽情報の組織的拡散や検閲、体制による旺盛かつ巧妙なプロパガンダの展開は、そうした独裁者の「パフォーマンス」を市民が適切に評価することを難しくするでしょう。自分の取り巻きや政権に近いビジネスエリートたちだけを向いて政治を行っている独裁者やポピュリスト政治家たちが、カリスマがあり、頼り甲斐のある「救世主」としてメディアに演出されて、所得の低い人々から熱心に支持されたりすることが往々にして起こるのも、体制によるそうした情報操作の寄与するところが大きいのではないでしょうか。

 そのようにして、ソーシャルメディアをはじめとした新しいメディア・ツールは、『民主主義を装う権威主義』で論じた、独裁者たちが直面する「選挙のジレンマ」を緩和するための便利な道具として使われることになります。メディアを介した市民と政治指導者の関係は、現代の独裁体制の強靭さを支えるだけでなく、トランプ氏の台頭などを見ても明らかなとおり民主主義を切り崩す際にも頻繁に利用されます。その意味で、政治体制の区別を超えた普遍的な問題であり、新しいメディア技術を政治家が選挙での支持獲得のために都合よく使わないようにするためにいかなる仕組みや制度をデザインするべきかは、世界の政治体制の将来に関わる重要な 問題だと考えています。

(終)

 東島 雅昌 著

『民主主義を装う権威主義:世界化する選挙独裁とその論理』(千倉書房、2023年)画像左

『The Dictator’s Dilemma at the Ballot Box: Electoral Manipulation, Economic Maneuvering, and Political Order in Autocracies』(University of Michigan Press, 2022)画像右

たけうち ひろき:1973年東京生まれ。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)博士課程修了、博士(政治学)。UCLA政治学部講師、スタンフォード大学公共政策プログラム講師などを経て、2014年より現職。SMUタワーセンター政治学研究所サン・アンド・スター日本・東アジアプログラム部長を兼務。専門は中国政治、日本政治、東アジアの国際関係及び政治経済学。著書に『党国体制の現在:変容する社会と中国共産党の適応』(共編著)、『Tax Reform in Rural China: Revenue, Resistance, and Authoritarian Rule』など。

ひがしじま まさあき:1982年沖縄生まれ。ミシガン州立大学政治学部博士課程修了、博士(政治学)。早稲田大学高等研究所助教、東北大学大学院准教授などを経て、2023年より現職。専門は比較政治経済学、権威主義体制、体制変動論、中央アジア政治。著書に、『The Dictator’s Dilemma at the Ballot Box: Electoral Manipulation, Economic Maneuvering, and Political Order in Autocracies』、邦語版:『民主主義を装う権威主義:世界化する選挙独裁とその論理』。

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