日本人の命の謎──新型コロナウイルス脅威の中で【竹村公太郎】

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『公研』2020年5月号「めいん・すとりいと」

竹村 公太郎

2020年5月現在、人類は新型コロナウイルスと懸命に戦っている。この中で台湾の対応が出色であり、世界中で評価されている。この台湾の優れた衛生水準の礎は、日本人が構築していた。実はその日本人は100年前に、私たち日本人の命の恩人でもあった。

奇妙な歴史

 以前、「近代水道の普及が日本人の命に好影響を与えた」という仮説を立てて、日本人の寿命と水道普及の相関を取っていた。それは良い相関が取れていたが、ある決定的な欠陥があった。明治から大正10年に向けて、寿命が減少していた。日本の近代水道は、明治20年横浜市から開始された。その後、大正10年ごろには全国の給水人口は、約1千人に達しようとしていた。

 その水道の伸びの大正10年頃にかけて、寿命が低下していた。さらに奇妙なことに、大正10年前後で最低値の42・7歳になり、その後は一転して急上昇し現在に至っている。

 大正10年頃に何かが起こった。国民の寿命は、乳児の死亡率に依存している。乳児の死亡の絶対数を見ても、明治末期から大正10年頃までは増加し続け、大正10年を境に、乳児の死亡は劇的な減少に転じている。

 その謎は偶然に解けた。大正10年に東京市で水道の塩素殺菌が開始されていた。大正10年までの間、多くの乳児の命が奪われていたが、大正10年以降は乳児の命は劇的に救われていった。

ロシア革命と液体塩素

 その後、現・保土谷化学工業(当時程谷曹達工場)の社史と出会った。そこには「シベリア出兵に際し、陸軍から毒ガス製造を依頼された。それに応じて液体塩素を開発した。しかし、シベリア出兵はすぐ終了してしまったので液体塩素の使い道がなくなった。これを民生利用として水道水の殺菌に転用することとなった。」と書かれていた。

 このシベリア出兵の中で液体塩素が生まれ、シベリア撤退以降は、その軍事秘密兵器の液体塩素が、水道水の殺菌という民生利用という活躍の場を得た。

 これも不思議なことであった。シベリア撤退と間髪おかず、液体塩素が民生に利用された。当時、水道水の細菌を的確に死滅させる方法を知っていたのは、生化学の最先端の高度な専門知識を持つ者だけであった。当時の日本でこの知識を持っている人物は半端ではない。

 また、国家の最高機密の液体塩素が簡単に民生に転用されている。誰がどのようにして、この毒ガス兵器を民生に転用できたのか?

後藤新平

 偶然に、後藤新平が大正9年、東京市長になっていたことを知った。大正10年、東京市で最初に水道水を塩素殺菌したときの市長であった。

 彼は岩手県水沢市の下級藩士の家に生まれ、内務省衛生局に入り、ドイツの「コッホ研究所」で細菌の研究の留学をし、のちに博士号も得ている。さらに、彼は東京市長になる2年前、大正7年に外務大臣に就任していた。大正7年はシベリア出兵があった年である。彼はシベリアに出向いて、出兵作戦の最前線の中心人物であった。細菌学者の後藤は、そのシベリアで「液体塩素」と出会った。その2年後、帰国した彼は東京市長となっていた。

 東京市長になった後藤は、雑菌を大量に含んだ生水が、市民に送り出されているのを目撃した。後籐は陸軍の横やりを抑え、液体塩素を民生転用した。彼はそれを転用する「政治権力」も備えていた。

 すべてのジグソーパズルのピースがはまった。後藤新平が日本人の命を助けた。日本水フォーラム代表理事

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