『公研』2020年4月号 第 602 回 私の生き方
伊東 四朗・喜劇役者
戦前に15代目市村羽左衛門の歌舞伎を観た
──1937年東京生まれですが、戦前の記憶はありますか?
伊東 戦争が始まる前か、始まったばかりの頃に親父に連れて行ってもらって15代目の市村羽左衛門さんの歌舞伎を新橋演舞場で観たことを覚えています。市川猿之助さん(2代目)の弁慶で、羽左衛門さんの富樫でした。
4歳くらいでしたから、よくそんなちっちゃい子を連れて行ったなと思いますが、私の誇りなんですよ。
また、一回り離れた一番上の兄貴にエノケン(榎本健一)さんの孫悟空の舞台を観させてもらったこともありました。舞台全体に瓢箪が吊ってあって、そこに悟空が吸い込まれていく演出をよく覚えています。
──ご家族も芸能好きだったのですね。
伊東 好きでしたね。父は自分でも三味線を爪弾いていたし、うちに蓄音機があって義太夫かなんかを聴いてました。姉はクラシックが好きで、その蓄音機で聴いたシューベルトの『未完成』が最初に聴いたクラシックです。おふくろはおふくろで1日中鼻歌を歌っているような人でしたから、いつも「音」に浸かっていましたね。
──ご実家はどのようなお仕事をされていたのですか。
伊東 家は洋服屋です。と言っても、店を開いているんじゃなくて、いわゆる下請けです。下谷区竹町の本当にひと一人がやっと通れるような狭い路地の奥にあるうちでした。先日ちょっと思い立って、久しぶりにそこへ行ってみたんですけど本当に狭いところだったんだなと改めて思いましたね。今は台東区東台東なんていう無味乾燥な地名になっています。
「あ、兵隊さんだ」
──どんな子どもでしたか。
伊東 どんな子どもだったのかな。戦時中は怯えていた記憶があります。爆弾が落っこちてくる音や焼夷弾が炸裂している音を聴いていますから、それが怖かった。今でもちゃんと耳に残っているんですよ。五人きょうだいの私が四番目なんですが、よく家族全員が生き残っていたなと思います。
一番上の兄は出征して中国に行っていましたが、無事に戻ってこられた。東京の竹町の家まで帰ってくるんですが、その頃我々は母の実家のある静岡の掛川に疎開していて、竹町にはいなかった。それでも何とかその疎開先まで辿り着くことができた。学校から帰ってきたら兄がいて、私の第一声は「あ、兵隊さんだ!」だったそうです。
兄は手先がとても器用で、色鉛筆で偽札(笑)をつくってくれたことがありました。当時の十銭札で、すぐに偽物とわかるんだけど精巧でしたよ。私は逆に手先はまったくダメなんですけどね。兄は「薬局まで行ってそれでヘボロミンを買ってこい」なんて言ってました。ヘボロミンなんていう薬はないから無論デタラメです。
ボール紙を墨で黒く塗って蒸気機関車をつくってくれたこともありました。胴体に綿を入れて、中で火を点けて煙が出るようになっているんです。小さい頃からよく遊んでくれた兄貴でしたね。
──お兄様は戦争を経験されて変わったところはありましたか。
伊東 まったく変わらなかったんじゃないですか。復員してすぐに劇団をつくったくらいですから。「お前も出ろ」ってその舞台に私も子役で出ています。敗戦にもまったくめげていなかったと思いますね。
よく映画にも連れて行ってくれました。掛川には掛川座という昔からある映画館があって、そこの館主が同じ劇団員だったんですよ。ですから私は、そこで映画をぜんぶタダで観られた。当時のアボットとコステロだとか、チャーリー・チャップリン、ローレル&ハーディ、バスター・キートンなんかをいっぱい観ました。お金を払ってなんてとても行けませんから、とても有り難かったですね。私の財産になっています。
大学生協で時給30円でアルバイト
──その頃からご自身も役者になりたいという目標はあったのですか。
伊東 まったくない。芸能人になろうなんて考えたこともないです。映画も舞台も今よりずっと遠いところにありました。銀幕のスターでしたからね。だから、どこかに就職試験で受かっていたら、定年までそこで働いていただろうと思います。
時は高校3年生。同級生と面接を受けに行っても、私だけが落とされるんですよ。どこに行っても必ず面接で落ちる。とうとう頭にきて内申書をこっそり開けて見たら、「第一印象がとても悪そうな男だが、深く付き合ってみればそうでもない」と書いてありました。それじゃあ面接官もビビって採用しないだろうね(笑)。
──仮にどこかに採用されていたら、どんな人生を歩まれたでしょうか。
伊東 一生懸命働くいい社員だったと思います。でも、きっと早めに窓際族になっていたんじゃないかな。あんまり能力はないけど、懸命に働く人であったとは思う。結局、就職先が見つからなかったから、早稲田と東大の大学生協でアルバイトすることになりました。二番目の兄が早稲田の学生だったから、そのツテを頼って働くことになったんです。時給30円、今振り返っても安いと思いますね。最初は、牛乳瓶の蓋をめくる仕事を任されました。その頃の牛乳は紙パックじゃなくて瓶だから、その蓋を先の尖ったもので、ペッ、ペッと剥がしていくんです。掛け持ちで書籍部や食堂なんかでも働いていました。
相変わらずお芝居や歌舞伎が大好きでしたから仕事を終えると浅草、新宿、池袋などの小屋に通うことが日課になっていました。でも入場料は高くてとても払えない。そこで思いついたのが団体客に紛れ込む方法です。バスからゾロゾロ降りてくる団体客は、必ず歌舞伎座の前で集合写真を撮るんです。その撮影に写り込んで、そのまま一緒になかに入り込む。大道具さんや売店のスタッフ、取材にきた記者のフリをして紛れ込んだこともありました。ほとんど犯罪です(笑)。
コント目当てにストリップ劇場に
──いろいろよく考えつかれるものですね。
伊東 浅草のストリップ劇場「フランス座」には、紛れ込むわけにはいかなかったけどよく通いました。もちろんメインは踊り子さんたちなんだけど、ショーの合間にコントや短い20分くらいの軽演劇があるんです。私はそれを目当てにしていました。本当ですよ(笑)。
当時はそこに綺羅星のごとくの人たちがいました。渥美清さんを筆頭に谷幹一さん、関敬六さん、海野かつをさん、由利徹さん、南利明さんといった人たちです。踊り子さんたちよりずっと安いギャラでやっているわけだから、「何くそ!」という感じが出ていましたね。熱がありましたよ。
フランス座に通っているうちに、そこでコントやお芝居をやっていた石井均という人が私のことを舞台上から覚えてくれたんです。それで、「楽屋へ寄ってけ」と言われて、いろいろな話をするようになります。そのうちに、「今度ここを辞めて一座を持つんだ」という話を聞かされるんです。そこに出ていた八田圭介、水谷史郎を連れて一座「笑う仲間」を旗揚げすることになりました。一座には、のちに「てんぷくトリオ」を一緒にやることになる戸塚睦夫さんもいました。昭和33年のことです。
一座の旗揚げ公演は、江東楽天地の健康ランドでした。私もバイトの合間に駆けつけたら、石井さんから「出てみるか」と言われたんですね。みんな弁当を食べたりお酒飲んだりしているところでやる芝居ですから、観ている人もいれば観ていない人もいます。だから気楽に「お前も出てみろ」と言われたんじゃないですかね。稽古も何もなくて、ぶっつけ本番ですよ。舞台の真ん中の公衆便所から出てきて、ジッパーを上げながら口笛を吹いて去っていくだけの役でした。これが私の舞台デビューです。
21歳で「笑う仲間」の座員に
──思わぬかたちで憧れの役者になってしまわれた。
伊東 ちょうど同じようなタイミングで働いていた生協から、「正社員として働かないか」と誘われたんです。21歳でしたが、人生で初めて迷いました。
芝居に出たと言ってもまだちょっとやっただけでしたが、それでも忘れられなくなっていました。正社員もすごく魅力的でした。給料が上がりますからね。一座に入って研究生になると、給料は月4000円でしたから、生協でのアルバイトよりもずっと安くなっちゃうんです。時給30円でもひと月働けば7200円ぐらいになるから、半分ぐらいになってしまう。どうしようかなと迷っていましたが、いつの間にか舞台のほうに傾いたんでしょうね。当時は、実家から通っていたからやっていけたこともありますね。
こうして、この世界に入ることになりました。江東楽天地で初舞台を踏んで、浅草の松竹演芸場の公演から正式に「笑う仲間」の座員になりました。
──「笑う仲間」は一時的に解散することになって、その後「石井均一座」として再出発しますが、その間に剣劇の一座に参加されていたことがあるそうですね。
伊東 お祭り専門の各地を巡行してまわっている一座で、「嵐吉ナントカ一座」と言いましたか。おかみさんはおかみさんで別看板で、娘も別看板だという一座だったんです。石井さんに「行け!」と命じられて、もう一人の座員の男と一緒に参加することになったんです。私たちの時は三浦半島を一周する興行で、座員は他の仕事をやってる人たちが声を掛けられると方々から集まってくる。元一座の人たちだったんじゃないですかね。大道具から何から何までみんなで担いで、電車に乗ってお祭りをまわっていくんです。
口立て芝居で、「お前はコレコレ。お前はコレコレ」とそれだけでもうやっちゃう。私たちは時代劇で斬られ役をやって、二人でコントもやりました。
参加してしばらくすると、「これはオレ違うな」って思いましてね。
──「違う」とはどういうことですか?
──芸能の世界は誰しもが有名になれるわけではありませんから、歳を取ってからも厳しい暮らしを余儀なくされた方もいたのだと思います。喜劇役者として生きて行くことに不安を覚えることはなかったのですか?
伊東 そんなことを考える余裕はまったくなかったですね。毎日夢中でしたから。将来あんなふうになっちゃうのかなと思ったこともありません。それにね、そういう実例も見ていない気がするんですよ。あの当時はみんな貧しかったから、売れている人でも貧乏だったんじゃないですかね。
新宿の劇場に出るようになった時に聞いたんですが、劇団に払われるギャラが1日5000円でした。そこから500円を税金で取られて、残り4500円。それを9人か10人の座員に分けるわけです。座長は一番取るわけですから、そりゃこちらにくるお金は少なくなります。貧乏暮らしになるのは当たり前です。
「伊東くん、あとはよろしく頼む」
──将来を悲観する暇もないと。
伊東 とにかく忙しくて、そりゃすごいですよ。舞台は毎日365日やっているわけですから。10日代わりで月に3回公演なんですよ。9日目を終えると、もう次の演目の稽古に1日だけ充てて、本番を迎えちゃう。だから、自分はこの先どうなるんだろうなんて当時は考えたこともない。何かを深刻に考えている暇なんてなかったんですよ。
今だったら台本はとっくにできていて充分稽古しますが、あの時は台本を書いている人が途中で居なくなっちゃうこともありました。鉄筆でカーボン紙一枚一枚に台詞を入れていって、座員に配る。私は台本のコピー役だったんです。あるとき脚本を書いている人が「伊東くんちょっとタバコ吸ってくるわ」と言って出て行ったきり、ちっとも帰ってこない。どうしたのかなぁと思って原稿用紙を見たら「伊東くん、あとはよろしく頼む」と書いてある(笑)。
そうなるとみんな招集されて、そこからは口立て芝居です。セットは発注してあるので舞台設定だけは決まるけど、あとは一から考える。「お前何の役やりたい?」というところから始まったりしてね。「じゃあオレは画家をやってみたい。でも有名な画家じゃねぇんだよな。お風呂屋さんの富士山を描いているような画家でいこうか」とかね。
そういうつくり方で、みんなで一晩中「わーわー」やりながら、初日を開けることもありました。だから初日と楽日を観ると、全然違う芝居になっていたりするんです。お客さんはお客さんで、そういうのが好きな人がいてね。その中の一人が二代目水戸黄門の西村晃さんです。
──そうなんですか。舞台の上からも客席をよく見ているのですね。
伊東 よく来ていましたね。「あの人また来てるよ」って我々の間では有名でした。
「てんぷくトリオ」の結成は成り行き
──昭和を代表するコメディアンであり、「てんぷくトリオ」のリーダーでもある三波伸介さんとの出会いは?
伊東 フランス座の舞台で石井均さんと一緒にコメディアンとして出ていたのを観たのが最初です。私が石井均一座に出ていた時も一緒になったことはないですね。
ただ、戸塚睦夫は三波と二人で、芝居がはねた後にキャバレーでコントをするアルバイトに行ってたんです。劇場は違うけど、同じ新宿だったからすぐそばなんでね。でも三波には放浪癖があって、そのうちにいなくなっちゃうんです。それで戸塚に「三波の代わりをやってくれよ」とお願いされて、代役を引き受けることになりました。キャバレーの仕事だから、名前は三波でも北でも西でもかまわないんです。私は、そのまま「三波」の名前を受け継いで、「三波・戸塚」コンビとしてやり始めました。
あるとき二人でテレビを観てたら、三波が出ているんですよ。大阪で玉川良一と東けんじと三人で「おとぼけガイズ」というトリオを組んでいたんです。「おいおい大阪に行ってたのか」とびっくりしましたよ。
そのうちに、そこも何があったのか解散になった。それで私と戸塚のもとに戻ってきて、「どうする?」と。「伊東を辞めさせるのも酷だから、じゃあ3人でやるか」という話になりました。だからトリオを組もうとか、そんな気持ちでも何でもなくて、流れに乗ったまま始めたんですね。
ちょうど1961年に石井均一座が解散したこともあって、最初は夜の副業だったこのトリオが本業になっていくんです。
──「てんぷくトリオ」は成り行きで結成されたんですね。
伊東 そうです。トリオの名前も成り行きで決まったようなものでした。最初は「三波・戸塚・伊東トリオ」という名前でやったんですが、キャバレーの司会者が「覚えられない」って怒るんですよ。司会者が「本当にぐうたらでいけないよ。あんたがたは」と言うんで、「じゃあ、その『ぐうたらトリオ』でいいです」とその日から「ぐうたらトリオ」になったんです。
そのうちに当時の一つの目標でもあった丸の内の日劇(日本劇場…1981年に閉館)にも呼ばれるようになったんだけど、支配人が「そんな名前、丸の内ではとても上げられない。こっちで考える」って。それで付けてくれたのが「てんぷくトリオ」なんです。「脱線トリオ」の後だから「てんぷく」だったんだと思います。
日劇でも売れてきて、看板も大きくなっていきました。ある時、名古屋の名鉄ホールに日劇が乗り込んでいくことになったんですが、そのポスターを見たら「てんぷくトリオ」は小さい字で書いてある。「何だよ、これは情けないな。これだけ大きくなってきたのに」と思って主催者に聞いたら、「鉄道会社ですから、てんぷくは困る」と言われて納得したこともありました(笑)。
三波伸介は生まれついてのリーダー
──三人のなかでの役割分担や力関係は?
伊東 三波はお山の大将そのままの男で、生まれついてのリーダーでした。戸塚が大ボケをやって、私がその間を取り持つような関係ですね。
三波という人は本当に不思議な人で、しゃべり出したら自分の話を一つの落語のようにしてつくっちゃうんです。キャバレーの営業をしていた頃は、よく地方に行って三人一緒の部屋に寝たんですけど彼は一晩中しゃべっていましたね。布団の中に入ってもしゃべっていて、最後の落ちまで話してそれから寝る。寝りゃ寝たで大いびき(笑)。
ある時、朝起きたら旅館の女将さんが、「しんすけ! こっちいらっしゃい。こんなところでウンコして、ダメだっていつも言っているでしょ!」と大声で叱りつける声が聞こえてきた。そこの犬が「しんすけ」という名前だったんだけど、笑いましたね。北海道だったなぁ、今でもよく覚えています。
てんぷくトリオは、最初は自分たちで本を書いてたんですが、それこそぐうたらで3本か4本書いたら次を考えない。三人ともそうでした。二人とは七つも六つも違うわけだから、私なんかは特に口に出すようなことはなかったんだけどね。ただ寄席番組も増えていましたから、同じネタばかりでは居られなくなっていったんです。
そんな我々を救ってくれたのが井上ひさしさんでした。坂本九さんがメインを務めていた『九ちゃん!』という番組で井上さんに出会ったんです。井上さんは『九ちゃん!』の構成作家でしたが、「我々トリオの本も書いてくれませんか」とお願いしたんです。いま考えるとたいへん不遜なんですけどね。直木賞作家に座付き作家みたいなことをやってもらったんですから。
でも、それで我々は息を繋げることができたんです。井上さんがいなかったら長持ちしなかったと思います。
──三波さんは52歳の若さで亡くなります。
伊東 身体が悪いとは聞いてなかったので、本当にびっくりしました。三波が亡くなったとき、私はテレビドラマの『右門捕物帖』(1982年、日本テレビ系列)に出演していました。杉良太郎さんがむっつり右門役で私があばたの敬四郎でした。実は三波も1969年に放送された『右門捕物帖』に出ているんですよ。中村吉右衛門(2代目)さんがむっつり右門で、三波があばたの敬四郎です。ちょうど、その撮影中に亡くなりましたから、因縁みたいなものを感じましたね。その仕事が終わってうちに帰ったら、事務所から「いま三波が死んだ」と電話がありました。腰が抜けましたよ。
──その後の芸能界で三波さんに似たタイプの方はいますか。
伊東 絶対的なリーダーだったという意味では、いかりや長介さんに似ているかなと思います。よくドリフターズの仕事にも出してもらいましたが、長さんは考え出すと無制限に時間を使う人で、ずっと頭を抱えているんです。その間みんなはもう知らん顔していて、加藤茶さんや高木ブーさんなんかは将棋を指し出したりしていました。
リーダーは独りで考えているんだけど、他のメンバーは一緒に考えるわけでもないんですよ。私もそばにいて、いたたまれなくなるくらいでした。次の仕事が入っていたときなんかは、「長さんオレちょっとよその仕事に行っていいかな?」と断って、ひと仕事して帰ってきたら、長さんはまだポーズが一緒だったんだ。それほどうち込む人ですよね。
『電線音頭』とベンジャミン伊東
──伊東四朗さんには『電線音頭』のことはぜひお伺いしなければと思っていました。『公研』の読者には電線に関わりのある方が多いものですから。しかし、電線音頭はなぜあんなに受けたのだと思いますか?
伊東 私もあんなに予想外のものはなかったですね。電線音頭は『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』(テレビ朝日系列)に桂三枝さんが出てくれたときに、彼が即興で町内の演芸大会みたいなコントで「♪電線に~~」とやったことがそもそもの始まりです。
プロデューサーがそれを目に留めていて、一つのコーナーにしようと考えた。私のところへきて、「伊東さん電線軍団のリーダーになってくれますか?」と言うんです。「小松政夫、キャンディーズ、東八郎、ザ・ハンダースなんかもそのコーナーに出てもらうので、何か考えてください。再来週撮りです。お願いします」という具合に、プロデューサーの話を聞いているうちにいつのまにか話が決まった。ムリやり押し付けられて、やむを得ず引き受けることになったんです。
まず私のキャラクターを考えて、あのサーカスの団長みたいな衣装も台本の裏に描いて発注してもらいました。それから、コタツの上で踊るところまではすぐに決まったんです。肝心の振り付けは、西条満という当時キャンディーズをやっていた一流の振付師が担当することになりました。稽古場で振り付けを二人で練ることになったんだけど、この先生が何も考えてくれない人だったんですよ。「伊東さんどうしようか」って逆に私に聞いてくる。「どうしようかって、先生何か考えてくださいよ」と私が言っても、「オレこういうことはやったことないからなぁ。なんだよ、電線にって?」という感じでした。そりゃそうですよね。
──いきなり電線音頭と言われても困りますよね(笑)。
伊東 それで二人で暗くなっちゃって、私が「♪電線に~」って勢いでやり始めたら、西条さんは「いいじゃない。それでいいよ。今日は終わり」って。結局、私が全部やってそれで決定なんです。だから、ほとんど私に丸投げで、見切り発車しちゃったような感じでした。
──勢いでできたわけですね。練り上げて考えたわけではない。
伊東 まったくその通りです。電線音頭用に「ベンジャミン伊東」という名前も考えました。伊東四朗でやると顰蹙を買った時には風当たりが強いだろうと思ったんです。ヤコブソン伊東だとか、ジャッキー伊東だとかいろいろ考えたんですけどね。ベンジャミンは、ベンジャミン・フランクリンから取りました。凧揚げをしていたときに凧が雷に打たれて電気の存在を発見したというエピソードがありましたから、ちょうどいいやと思って。
だからもう、ほとんど何も考えないうちにやっちゃったところがありました。ところが、あれよあれよという間にお茶の間を騒がせることになった。
そうしたら、やっぱり全国のPTAから「あの番組だけは止めろ!」と総スカンを食らいました。「じゃあ止めようか」と私がプロデューサーに言ったら、「とんでもない。このまま突っ走りますよ」って。最初はスタジオだけでやっていたのが、外に出て「電線音頭の出前をする」と言い出した。披露宴の真っ最中の結婚式場に約束なしで押し掛けたりしてね。式場の責任者一人だけには、事前に伝えてあったけど他は誰も知らないところにいきなり入って行って、電線音頭をやるわけです。
お寺や白バイの駐屯地にも行きましたよ。駐屯地でやったときには、そのまま捕まるんじゃないかって本気で心配しましたね。ま、暴走みたいなものですから。
「四朗ちゃん。あんた大丈夫か?」
──今だったらすぐに問題になったでしょうね。
伊東 顰蹙の塊みたいなものですよ。子どもたちにも悪い影響が出ているんだろうなとは思ってました。子どもたちがバカにするんですよ。ベンジャミンと言わないで「便所虫」って。「なんだか情けないな」なんて思いながらやってましたけどね。
同じ時期に歌番組の司会もやっていたんだけど、美空ひばりさんが出た時に「四朗ちゃん、コタツに乗って踊るの。あれ止めてくれない。うちの息子が真似してしょうがない」って言っていましたよ(笑)。
──それでもウケるのは気持ちいいものではないですか。
伊東 まぁウケてはいたのだろうとは思います。でも、なにがウケているのか全然わからなかった。こんなの絶対にすぐに終わると思っていましたから。
──尋常ではないテンションですが、気持ちを切り替えて踊られていたのでしょうか。
伊東 切り替えないとできません。ああいったものはね、ちょっとでも照れてやるとお客さんは見てくれないんですよ。「こいつ本当にイっちゃったんじゃないか」と思わせないと。
我々の仲間内でも本当に心配してくれた人もいました。あの藤田まことさんに、あるパーティーで会った時に私の腕を掴むんです。会場の隅っこに連れて行って、「四朗ちゃん。あんた大丈夫か?」と言ってくれたんです。藤田さんは本当に私の気が触れてしまって、あれをやっていると思ったらしいんです。そこまで見てくれるんだったら、逆に成功しているのかなと思うようになりましたよ。
ただ電線音頭をやるのはとても疲れるんです。出前をやっていたときは、1日3箇所ぐらい行って電線音頭をやっていたけど、その都度あの衣装は着替えていました。あのままの格好でロケバスに乗って行けばいいんだけど、移動している間は一回素に戻る必要がありましたね。一日中あれになっていると頭の回線が切れますから。
小松政夫なんかは、「なんで着替えるの。面倒くさいでしょ」なんて言ってました。「いいんだよ。オレはオレで切り替えてやってんだから」って。
おしんの父親は自分の父に似ていた
──電線音頭でお茶の間の話題をさらっている最中に、ドラマでは正統派とも言えるようなシリアスな役も演じられています。『望郷・日本最初の第九交響曲』(1977年、フジテレビ系列)は、一つの転機になったそうですね。
伊東 正統派とか正統派じゃないという区別は、私のなかにはありません。喜劇には、正統派と言われる芝居をしなければ成り立たない役があるんです。そういう人がふざけちゃうと、もう芝居にならない。私も笑いが一つもない役をやったことは何度もあります。ですから、話がきた時は何にも不思議じゃなかったですね。
『望郷・日本最初の第九交響曲』は、第一次世界大戦時の徳島にあったドイツ兵の捕虜収容所の話でした。しかも主役です。テレビマンユニオンのプロデューサー今野勉さんからの話でしたが、ネックになったのはちょうどその時に電線音頭をやっていて、私は世間の顰蹙を買っていたことです。
私はこういう芝居にベンジャミンが出るのはドラマにとってデメリットじゃないかな、と思いました。おそらく今野さんは電線音頭のことを知らないんじゃないかと思ったんです。それで「実は私こんなことをやっているんですが、それでもよろしいんでしょうか」と聞いたら、「それがどうしました? 話を続けます」と言ってくれた。何にも気にしていないんです。とても嬉しかったですね。私の別の側面をちゃんと見てくれていた。
──役者としての資質をきちんと見抜いていた方はいたわけですね。
伊東 昭和43年の元旦の朝日新聞では、映画監督の市川崑さんが「今年期待する人たち」というコーナーのなかで「てんぷくトリオの中の一番若くて一番痩せている人。演技開眼したらしく、からだとセリフのタイミングが見事。おもしろい」と評価してくれました。驚きました。ああいう人がコント番組を観ているんだなと。これは励みになりましたね。誰が観てるかわからんぞ、と思いましたよね。まったく雲の上のような人だったんですから。
──1983年にはドラマ史上最高の視聴率を記録したNHKの連続テレビ小説『おしん』に父親役として出演されます。厳しい父親でしたが、彼に共感できるところはありますか。
伊東 あの人は、私の父親によく似てたんですよ。おしんの父親を演じているときは、自分の父が参考になりました。手が先に出るし、寡黙なんだけど言うことは辛辣というようなね。子どもにとっては恐怖ですよ。
ただ、山形弁をしゃべるのは難しかった。私はいろいろな地方の方言をやっています。富山弁、伊予弁もやっています。『私の青空』(2000年、NHK)では下北弁をやりましたが、これも難しかった。
──方言を身に付けるコツはあるのですか?
伊東 私は部屋に閉じこもります。一週間分の台本をずっと広げておいて、その役を演じている間は、そのアクセントにどっぷりと浸かって過ごすんです。女房との会話でも方言になったりしますね。「〇○さんという人から電話」と言われたりすると、「わがらね」とつい出てしまう。「〇〇さんよ、〇〇さん」と女房が続けると、「しらね。わがらねぇものはわからねぇべ!」ともう自然と出てくるようになる。そういうのは自分でも可笑しくてね。
──『おしん』は平均視聴率が50%を超えて海外でも人気になりましたが、伊東さんが白河法皇役としてご出演された大河ドラマ『平清盛』はあまりふるわなかった。ただ個人的には近年の大河では最も面白いと思いました。やはり視聴率は気になるものですか?
伊東 役者は気にしちゃいけないんですけどね。デメリットだと思うから。視聴率云々は僕らが気にすることではないと思っていますけどね。もちろん、数字は高いほうがそりゃ張り合いは出てきます。
『平清盛』の白河法皇は、とてもやりにくい役でした。特殊メイクだったからメーキャップに1時間半くらいかかるんです。ただ、そうするとその間に自分の中で段々でき上がっていくんです。簡単に塗って、「はいスタジオに入ってください!」というケースとは違って、あのメイクの時間があってこそああいう芝居になったのだと思います。
オンエア後に三谷幸喜さんから「まさに高貴なる『もののけ』でしたね」と電話がありました。言い得て妙かなと思いますね。
──今まで様々な役を演じられていますが、印象に残っている役はありますか。
伊東 自分の記憶に残さないようにしているんです。いつまでも覚えていてもメリットはほとんどないですよ。一つひとつ置いて行ってしまわないとね。どちらかと言えば、自分自身から遠い役のほうが演じている気がします。だから、「これはオレじゃないな」という役のほうが嬉しいんです。よく「自分に近い役で、やりやすい」と言う人がいますが、私は嫌ですね。性格的に似てたりすると、「これでギャラをもらうのは、まずいな」という気持ちになりますね。楽はしたくない。
ラジオの魅力とは?
──ラジオのパーソナリティも長く続けられていますね。生放送のラジオは常に誰かがしゃべっていなければなりませんから、たいへんな緊張感だろうなと思って聞いています。
伊東 すごいプレッシャーですよ。ラジオには文化放送の三木明博さん(現・セントラルミュージック会長)が若い頃に私を引っ張ってくれて、それで始まったのが『伊東四朗のあっぱれ土曜ワイド』(1984年─1996年)でした。こんな無口なやつをなんでラジオのパーソナリティにしようと思ったのか未だに謎です。それも朝9時から13時までいきなり4時間ですよ。今は吉田照美と一緒に『伊東四朗 吉田照美 親父・熱愛』を2時間やっていますが、土曜ワイドは私とアシスタントの女性と二人っきりだったんです。よくそんな勇気があったなと思いますね。
今から37年も前のことで、それ以来ずっとやっているんですけどね。やっぱりラジオは、生放送で自分の意見が言えることが魅力的です。曖昧なことばかり言っていては番組が成り立ちません。そういうところがとても好きですね。
──テレビは戦後の日本社会に強い影響を与えてきたメディアです。テレビは日本をどう変えてきたとお考えでしょうか?
ただ、「妙なこと言っているな」と感じることはよくありましたけどね。「そうだ。そうだ」と納得したことは、あまりなかった気がしています。
汚い言葉が一遍に流行るのは、テレビの悪い面でしょうね。私は若い人たちが平気で使っている「ヤバい」という言葉が大嫌いなんですよ。今ではお年寄りも女性も使うようになっていますが、あれは元々、犯罪者の隠語ですからね。特に女性には使ってほしくない。それが今ではおいしいものを表現するのにも「ヤバい」と言ったりする。まずいのか、おいしいのかどっちなんだよと思いますね。
──「ヤバい!」と言われると、食あたりするんじゃないかと心配してしまいます。
伊東 「うまい」の「い」を省いて「うま!」なんて言う人もいる。それから「はや!」とかね。「い」を入れるのが嫌なのかなとも思いますね。こういうことを言い出すと、頑固じじいと思われるかもしれませんが、ずっと気になっています。
ものわかりのいい年寄りでいるのは戦略
──伊東さんとは若いタレントとも上手く溶け込まれる柔軟な印象があります。ただ今回ご著作の『ボケてたまるか!』を拝読して、古風な考え方をされる方なのだなと意外にも感じました。
伊東 そうです。ものわかりのいい年寄りでいるのは戦略ですよ。画面の中で頑固オヤジになってしまうと、それを通さなきゃならないんだ。それはそれでたいへんです。でも、若い人の感覚が今の世の中だと思うから彼らからいろいろと吸収しようとしています。『伊東家の食卓』をやっている時はV6の三宅健君とはよく付き合って、いろいろな話をしましたね。そうすることで、現代を感じようと思っていましたから。
──若い人たちに嫌われないようにする上でのアドバイスをいただけますか?
伊東 ある程度のポリシーは持ちながらも、若い人には迎合をしないといけないんじゃないですか。「今」という時代の最前線を歩いているわけですから。全面迎合では若い人たちも頭いいから、それは見破りますよ。
──笑いは時代と共に変化していきますが、伊東さんはどの時代においても存在感を示されています。最近で言えば、ダウンタウンが登場して笑いは大きく変わったなと感じましたが、彼らともよく共演されていますね。
伊東 自分たちがやっていた笑いが正しかったとは、絶対に思えないんです。笑いほど時代を反映するものはなくて、笑いは時代と共に変わっていくんです。だから、そこで流行っている人たちが現代なんです。その笑いに対して、「間違っている」ということはあり得ません。とにかく頑張ってやっているのは今の時代の人たちで、私はそれに必死に付いていこうという気持ちでやっています。もちろん年齢的には先輩ですが、今を取り仕切っている人たちに逆らっても得なことは一つもないですからね。
新しいスタイルの笑いが出てきて、それにお客さんが沸いているとしたら、それが今の正解です。「違う」とは絶対に言わないし、言えないですね。「じゃあお前は何をしてたんだ」と言われると、もうぐうの音も出ませんよ。
喜劇はどこかに危うさがあるのがいい
──ご自身のことを「喜劇役者である」とおっしゃっていますが、舞台でお客さんを笑わせるのは、実際はたいへんだろうなと想像します。
伊東 とても難しいです。0・1秒の世界ですからね。ちょっとでもズレてしまうと笑いにはつながらない。だから、舞台をやるときは相手の役者を知らなければならないし、いつでもお客さんの視点を意識しなければならないんです。それが今まで私が続けてきたなかで勉強したことですね。
初日が開いて3日もすると相手のしゃべることもだいたいわかってきて、それで理解したつもりになっちゃうんです。でも、これが一番怖いんです。ほとんどのお客さんは初めてその舞台を観るのだから、何も知らないわけですからね。
だから、いつでも自分を客席に置いておくような、そういう気持ちでやることがとても大事です。そうすると自分も危ういままに出ているから、いつでも新鮮でいられるんです。喜劇は危うさがどこかにあるのがいいんですよ。でき上がっている舞台を観ていてもそんなに感動しませんよ。「危ないな。この人は」という雰囲気を残しておかなかきゃならないと思いますね。
──舞台に立つことが怖くなったことはありますか。
伊東 何度もあります。初日からウケていたところが、途中からまったく受けなくなって、それが続いてしまうこともあります。そういう時なんか、「どうしよう」と悩んでそのまま帰りたくなったりもします。先人はよく、「悩んだ時は、初日に戻れ」と言ったんです。初日にはヒントがあることが多いんだけど、焦りがあると初日のことを思い出せなくなったりもする。
──お客さんは笑いに行くわけですから、考えてみると喜劇は最初から高いハードルが課せられていますね。
伊東 そう。「喜劇」とサブタイトルを付けただけでもプレッシャーです。笑えなかったら詐欺ですからね。笑いのない芝居をやっているときのほうが楽ですよ。そういう意味では喜劇はとても怖いんです。
──今後、舞台に立たれるご予定は?
伊東 今年(2020年)は5月、7月にトークライブ『あたシ・シストリー』をやって、来年2月にはラサール石井さんの演出で戸田恵子さんらと久しぶりに喜劇をやる予定があります。三宅裕司さんとコントライブをやって以来ですから、3年ぶりになりますね。
──休日はどのように過ごされるのですか。
伊東 特に何もしませんね。また何もしないのが得意なんです。休みの日に1日なんにもしなくても退屈することはありません。若い頃から退屈を知らない人ですね。何するでもなく、さあどうしようかなと思っているうちに日が暮れます。1日話をしなくても、何の苦痛もありません。
──今の世相について気になることはありますか。
伊東 このまま憲法を改正しないで、本当に大丈夫なのかなという気はしています。まずは自衛隊の存在そのものを明記しないと、あれだけ大きな軍隊をそのままにしておくのはまずいんじゃないか。
自衛隊の存在をきちんと認めて、いざ緊急の事態になれば一気に動いてもらうことができるように憲法を改正したほうがいいと思っています。このままでは、有事の際に「会議は踊る」になってしまうことを心配しています。
──現在82歳でとても元気にされていますが、この先さらに歳を取ることについてはどう思われますか。
伊東 なるようになるでしょう。いざとなったら狼狽えるかもしれませんが、今はもうだいたいおまけの人生を歩んでいると思っています。昔風に言えば、還暦を過ぎたらもうおまけです。そこから20年以上も経っていますからね。自分としては、もう淡々としていますよ。
──ありがとうございました。聞き手:本誌 橋本 淳一