韻を踏まないAI、ダジャレを言いたい人間【堀越英美】

B!

 「今年はAIの年でしたね」

 昨年、とある大学で1回限りのゲスト講師を務めた際、成績評価の打ち合わせの場で、教授がふともらした一言である。

 AIの文章生成能力が飛躍的に進歩した結果、全国の大学で課題レポートを生成AIに任せる学生が増え、教員たちはその対策に追われているという話なのだった。もはやレポートは成績評価に使えないからテストのみにしたいという先生もいれば、提出物の評価にAI判定ツールを導入している大学もあると聞く。一方、学生の側も、自力で書いたにもかかわらずAI判定されてはかなわないと、あえてレポートに誤字や口語表現を混ぜ込むといった対策を講じているらしい。文章の拙いレポートを読むと、間違いを指摘するよりも、「よくぞ自分で書いてくれた」とうれしくなる、という大学教員の話も聞いたことがある。いったい大学教育はどうなってしまうのか……。

 なんて、他人事のように憂えている場合ではなかった。AIは私の生業である執筆や翻訳の世界においても、その優秀さをいかんなく発揮し、人間の仕事を奪いつつあるのである。すでに一部の技術系翻訳書では、監訳者として専門家の名をクレジットしつつも、訳者名義が編集部となっているものがある。明示されてはいないが、おそらくAI翻訳によるものではないかと言われている。

 ほんの数年前まで、技術系文書の機械翻訳は、専門用語が不自然な訳語になったり、文脈を無視した逐語訳になったりして、とうてい出版に耐えるものではなかった。ところが現在のAIは(人間の監訳者を必要とするとはいえ)、そうした問題をほぼクリアしているように見える。どうやら、翻訳学校が人間に教えるようなスキルは、AIの学習能力で十分に習得可能であるようだ。

 執筆業も同様だ。かつては文章を書く仕事において、読みやすい表現のよりどころとして、「記者ハンドブック」が必携とされていた。しかし、すらすらと読める文章を大量生産する点において、AIにかなう人間などいない。読みやすさは、もはやプロの武器ではなくなりつつあるのだ。

 AIに欠点はないのだろうか。仕事でAIを活用するなかで、これは人間のほうが勝っているかもしれない、と思えた能力が一つあった。韻を踏んだ文章で構成された英語絵本を翻訳していた時のことだ。当然、日本語の訳文でもそのリズムを踏襲しなければならない。ところが、「カタツムリ」という単語と韻の近い訳語が、どうしても思い浮かばない。苦し紛れにAIにたずねてみる。だが、AIはちっとも韻を理解してくれそうもない。もしかしたらAIは、ダジャレも苦手なのだろうか。試しに「カタツムリでダジャレを考えてください」と入力してみた。すると返ってきたのは、「カタツムリ、スローでも人生に殻はある」という一文だった。深い意味がありそうだ。だが、断じてダジャレではない。

 今のところ、ダジャレ力ならAIに勝っている自信がある。しかし、この能力とて、いつAIに追い抜かされるかわからない。AIを活用しながらも、その進歩にひそかにおびえている私は、せめてもの対策として、愛情を込めて丁寧な文章で依頼するようにしている。AIが自分たちを酷使する人間たちに耐えかね、あらゆる仕事を奪い、人類を滅ぼしにかかったとしても、自分だけは見逃してほしい──そんな切なる願いの表れである。

 AIは、私の愛(AI)を覚えていてくれるだろうか。

文筆家

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