自民党の少数与党化、参政党の躍進、民意と政治制度のズレ──。
日本政治は潜在化していた課題に直面しているかのような印象がある。
政党政治は新たな局面を迎えようとしているのか?
イギリスとの比較も交えながら考える。
京都大学大学院法学研究科教授
待鳥聡史(画像右)
成蹊大学法学部教授
今井貴子(画像中央)
東京大学大学院法学政治学研究科法学部教授
境家史郎(画像左)
まちどり さとし:1971年生まれ。京都大学大学院法学研究科博士後期課程退学。博士(法学)。大阪大学大学院法学研究科助教授などを経て、2007年より現職。専門は比較政治論。著書に『政治改革再考』『代議制民主主義』『首相政治の制度分析』『政党システムと政党組織』『民主主義にとって政党とは何か』など。
いまい たかこ:東京大学大学院総合文化研究科博士課程退学。博士(学術)。2009年に成蹊大学法学部助教、10年准教授を経て、2012年から現職(教授)。専門は英国政治、比較政治。ケンブリッジ大学、欧州大学院での客員研究など。著書に『政権交代の政治力学』、共著書に『アウトサイダー・ポリティクス──ポピュリズム時代の民主主義』など。
さかいや しろう:1978年生まれ。2002年東京大学法学部卒業。08年東京大学より博士(法学)取得。東京大学社会科学研究所准教授、首都大学東京(現・東京都立大学)法学部教授などを経て、20年11月より現職。専門は日本政治、政治過程論。主な著作に『憲法と世論』『政治的情報と選挙過程』『戦後日本政治史─占領期から「ネオ55年体制」まで』など。
ネオ五五年体制の終焉
待鳥 昨年の衆院選と今年の参院選を経て、既存政党への信頼低下や多党化の進行など、「日本政治は転換点に差しかかっている」とも言われます。石破首相の辞任から高市首相の誕生、さらには選挙構図の再編まで、政治は一気に動きました。
本日は「分岐点に立つ日本政治──民意と制度」というテーマのもと、境家史郎先生、今井貴子先生と、いま起きている変化を整理しつつ、日本政治の行方や、これから求められる制度改革について議論していきます。境家先生には有権者の動向を含めた政党政治の全体像についても、今井先生にはイギリスの制度や政治状況との比較からも、是非お話しいただければと思います。
今井 比較政治の視座から議論の材料を提供できればと思います。
境家 最初に、足元で起きている変化が何を意味しているのかを整理しておきたいと思います。
私は、2012年末に成立した第二次安倍政権以降の構図を「ネオ五五年体制」と呼んでいます。自民・公明が強固な与党ブロックを維持する一方、民主党を中心とする野党陣営が分裂を繰り返し、往年の五五年体制を思わせる一党優位状況が長く続いてきました。
しかし、この構図が大きく揺らいだのが、2022年の安倍元首相暗殺とその翌年に火が付いた旧安倍派の裏金問題です。ここから自民党への不信感が一気に高まり、長く続いた安定が崩れ始めました。さらに物価高対応の失敗によって、自民党の「政権担当能力」へのイメージも大きく損なわれ、昨年の衆院選での大敗につながったと考えています。
待鳥 おっしゃる通りで、この一連の流れが「ネオ五五年体制の終わり」を決定づけたのだと思います。
特に物価高対策の失敗は、選挙結果に非常に鮮明に表れました。国民民主党が「現役世代を重視した経済政策」を掲げ、これまで野党側が取り切れなかった層を一定程度掴んだのです。民主党政権が終わってから、経済政策について自民党に正面から挑戦する政党はどれも成功しませんでした。今回は物価高や旧安倍派問題という環境が重なり、初めて有権者にストレートに届いたものと考えられます。
さらに大きな変化は、公明党の連立離脱です。これは私自身も予想していなかった展開でした。ネオ五五年体制の終わりを決定づけた出来事だと言えます。
境家 つまり、日本政治の大きな一つの括りがここで終わり、新しい局面に入りつつあるわけですね。
待鳥 新しい局面として「日本政治は多党化の時代に差し掛かっている」といった論調が、昨年ごろから目立ちます。しかし、実際にはより複雑で、今後の政治の方向性としては三つに想定できる分岐点にあると考えています。
一つは、自民と維新が事実上のブロックをつくり、野党は分裂したままで、自公の時ほど強固ではありませんが、ネオ五五年体制のような一党優位に近い構図へ戻る可能性です。二つ目は、立憲と公明の連携によって野党側にもまとまった塊が生まれ、二大政党ブロック体制に向かう可能性。もしこの体制になれば、ネオ五十五年体制の終わりはより明確になるはずです。
そして三つ目は、自民党ですら国会の3分の1規模にとどまるような、本格的な多党制へ進む可能性です。正直、どちらの方向に進むのかはまだ見通せない複雑な状況にあります。
揺らぎ始めたイギリスの二大政党システム
待鳥 こうした「どの方向へ転ぶかわからない分岐点」という状況は、二大政党が伝統的に強いイギリスとは対照的ではないでしょうか。イギリスは、制度として二大政党制を採っているわけではないですが、小選挙区制の効果が非常に強いため多党化が抑えられて、これまで保守党と労働党が中心に残り続けてきました。今の日本のように「二大ブロックに向かうのか、多党化に進むのか」という分岐点に立つ構造とは、少し事情が違うわけです。
とはいえ、最近のイギリスでも地域政党が伸びたり、小さな政党が存在感を増したりと、揺らぎは確かに起きている。ここにはどのような意味があるのか、今井さんはどう見ておられますか?
今井 おっしゃるように、イギリスでも二大政党離れが加速し、小・中規模の政党がかつてない存在感と影響力を示しています。二大政党を軸にした政治システムの改編につながる可能性も否定できません。支持の分散は突発的な事象ではなく、イギリス特有の多層構造がつくる外側からの波及効果が一因でした。単純小選挙区制の国政(庶民院)とは別に、スコットランド議会や欧州議会選挙(当時)といった比例性の高い選挙で、小政党がまず議席を獲得し、有権者がその姿を目にする。外側での成功経験が、「この政党なら国政でも投票してよい」という認識を広げ、多党化を促したと理解できます。
これと類似した現象は、日本でも見られるのではないでしょうか。
待鳥 日本でも地方政治を足がかりに参政党が台頭するなど、同様の構図が見られました。
今井 はい。ただし、日本ではイギリスと違い、外側からの波及効果だけでは説明できません。むしろ、制度の内側から多党化を誘発する構造になっていました。平成の政治改革は「二大政党による政権交代」を想定していました。ところが実際には、勝っている側には求心力が、負けている側には分裂して比例で生き残るインセンティブが働きやすい仕組みです。例えば民主党分裂後、国民民主党などいくつもの新党が比例を足場に政党として残ってきました。
2009年の政権交代までは、まだ「二つのブロックで競う」という二大政党制的なイメージが共有されていましたが、2012年以降はとくに、野党の側で「分裂して比例で生き残る」ほうが合理的だという学習が定着していったように見えます。政党交付金や政策純度の確保という点でも、構造が内側から分岐を強めていきました。
待鳥 学習の先に多党化があったということですね。
今井 はい。そのうえで、有権者側でも「比例であれば小政党に投票しても死票にならない」という経験が、この30年で積み重なっていたのではないでしょうか。さらに、裏金問題や政策不信が重なり、権力を一強に集中させることへの警戒が強まり、多様な価値観を受け止める「新しい皿」を求める機運が高まった。
多党化を偶然の産物と片づけることはできないと思います。
待鳥 民意が多党制を求めているということなのでしょうか?そうだと思う半面で、日本社会で人々が多様な価値観を持ち出したのは、最近のことではない気もします。さらに、その多様化が制度にまで表出するかという問題もあるように思いますが、境家さんからするといかがですか?
境家 多党制という政党システムそのものを有権者が求めているかは、正直わかりません。どちらかというと私は、有権者の素直な選好表明によって、結果として多党化したものと捉えています。
多党化を促した短期的な要因としては、主要政党の中道化により、イデオロギー的に両端の人たちの意見がすくわれにくくなったという局面の変化が考えられます。昨年秋、自民党も立憲民主党も代表が中道寄りの人物に変わり、少なくとも外見上、二大政党の立ち位置が真ん中に近づくことになりました。結果、左右両極にいる有権者は、「自分たちを代表してくれる政党はこの二大政党ではない」と感じたわけです。中道的立ち位置というのは敵ができにくい半面、強い味方も付きにくいという両刃の剣的性質があります。
その両端の人々の受け皿の一つとなったのが参政党です。もちろん、参政党支持の理由がすべてそれだとは言えませんが、この構図が大きな要因になったのは間違いないでしょう。
待鳥 そもそもなぜ上位二政党は中道化したのでしょうか?
境家 自民党については、中道化そのものが目的であったというより、旧安倍派に絡むスキャンダルがあったので、「安倍的でないもの」の象徴として石破茂氏が選ばれたという党内政局的側面が強いように思います。自民党執行部の中道化は、意図的というより偶発的要素が強いのではないでしょうか。
立憲民主党については、それまでのリベラル路線の下での党勢低迷に対する、意識的な反省でしょうね。リベラル路線で共産党と組んでも政権交代には届きそうにないと、ようやく党内でも認識されるようになったということでしょう。
今井 比較の観点からみれば、そうした力学は、欧州の既成政党離れに重なります。経済的にも文化的にも政策距離が接近したように見える既成政党に、有権者は失望と不信感を募らせる。左右の両端に生じた空隙で存在感を示 す政党──とりわけ急進右派ポピュリスト政党──が疎外意識を抱いた有権者を吸収し、多党化につながる票の流動化が進みました。
従来の軸では説明できない不満が多党化を招く?
待鳥 ただ、ここで一つ考えておきたいのは、これまでも日本では多党化につながりそうな動きは、何度もあったはずだということです。しかし、過去30年に関して言えば、最終的には大きな二つの塊にまとまっていきましたし、主要政党が中道寄りになることは教科書的にはむしろ評価されていました。ところが2000年代以降のヨーロッパでは多党化が進み、日本も同じようになる兆しがある。
つまり従来の説明だけでは、いま起きている現象を十分に説明しきれないということです。もっと別の要因が働いているのだろうと思います。
その一つとして考えられるのが、経済政策のような従来型の争点では説明しきれない不満や疎外感を抱く人が増えてきた、という点です。『學士會会報』でも境家さんが論じられていましたが(「今夏の参院選の結果と今後の日本政治の動向」同誌975号)、従来の争点は、「どれだけ政府が社会経済的課題に関与するのか」でした。しかし、それ以外の文化軸的な争点で疎外感を抱く人が増えてきました。そして、この「従来の軸では説明できない不満」が広がると、どの争点を中心にしているのかが曖昧な政党に支持が流れやすくなります。
これは、参政党の支持者が何者なのかという問題にも関係してくるのだと思います。参政党が急進右派ポピュリスト政党であることは確かですが、どこに一番の顔があるのかわかりにくい部分があります。また、主要政党の外側にいる人たちが「自分たちの声を受け止めてくれる政党がない」と不満や疎外感を持つことは理解できる。しかし、その不満がなぜ「政党」というかたちに結びつくのか、もっと他の方法があるのではないかと思うのです。そこを説明する決定的な要因は、まだ見えていません。
急進右派ポピュリストとしては「純度」が低い参政党
境家 そうですね。参政党の支持層というのは、まだよくわかっていないところがあります。明らかなのは、いろいろな不満や思いを抱えた人たちの「ごった煮」のような存在で、けっして一枚岩でないということです。イデオロギー的右派層が流れ込んだ部分もありますし、経済的に苦しく「もっと支援をしてほしい」「生活をなんとかしてほしい」という思いから支持している人たちもいるのでしょう。
待鳥 他方で同じ「端」でも、れいわ新選組はまだわかりやすく、もう少し経済争点に近いところにいるように感じます。急進左派ポピュリスト政党としての基本属性を持っていると言ったらいいでしょうか。反米的な姿勢や、市場経済への批判的なスタンスも見られ、これはギリシャやスペインで登場した急進左派政党とよく似たタイプと言えます。
境家 れいわ新選組が経済政策によって支持を集める政党であるという点、よくわかります。10月末に宮城県知事選が行われました。結果は現職の村井嘉浩氏が当選しましたが、参政党の支援を受けた和田政宗氏が僅差で2位に入りました。
出口調査の結果で興味深かったのは、多くのれいわ新選組支持者が和田氏に投票していたことです。私はこのデータを見て、れいわ支持層が、「外国人問題」のようなイデオロギー的争点の政策ではなく、社会経済政策の方向性を判断基準としているのだと強く感じました。
待鳥 そうなんですよね。れいわ新選組とは対照的に、参政党はよくわからない。適切な言い方かどうかわかりませんが、急進右派ポピュリストとしては「純度」が低いんですよね。「安倍的なものが自民党の中で弱まってしまったが故に、自民党の外に支持層として流れ出た岩盤保守の人々が参政党を支持している」という説明は、現象を半分くらいうまく説明できます。しかし、そこだけでは参政党支持者の説明として不十分だとも思うのです。
境家 そうですね。参政党はそもそもまとまりのある塊として捉えにくいです。
待鳥 参政党の支持者の中には、政権交代がおきた2009年の衆議院選挙の時に旧民主党に投票した方が相当数いるのではないでしょうか。このとき旧民主党は、自民党支持者の中にいる「保守だけど現状も改革して欲しい」という層を吸い取りました。
大阪では、この層は民主党の弱体化とともに維新に行きました。大阪での旧民主党系の政党は、自民党以上に存在感が薄いです。立憲民主党はもはや辻元清美さんの「個人商店」みたいになっている。大阪で民主党から維新に流れた人たちというのは、「弱者支援を厚く」という社民主義的な方向ではなくて、基本は保守寄りだけど現状への強い不満や変革志向を持っているタイプの有権者です。
全国的には、このようなタイプの有権者の一部が参政党に共感し、流れ込んでいるのではないでしょうか。
このあたりが、参政党という政党を説明しづらくしている理由でもあると思います。参政党が単純な急進右派ポピュリストなのであれば、高市さんのような岩盤保守に訴求する政治家が自民党を率いるようになれば、「保守層が自民党に戻る」という流れはある程度起きるでしょう。しかし、参政党支持基盤の複雑さを考えたときに、「完全に戻るのか?」と言われると、現時点ではまだよくわかりません。
境家 待鳥さんがおっしゃるように、参政党は、維新と差別化された改革保守政党の方向性に持っていこうとしていることはわかります。でも、維新と比べても、どうも政策の体系性がはっきりしない。「常識」と違う政策を総花的に掲げているというか。
待鳥 基本的に体系性はなく、それがポピュリストのポピュリストたるゆえんですよね。
境家 その場その場で「これが受けそうだな」「支持されそうだな」という問題をアドホックに拾い上げているということですね。そうなれば、支持者にも体系性がなく掴みにくい。
日本で外国人問題は現実の争点として成立するのか?
待鳥 また、参政党の特徴の一つが「今の目立つ何かを、とにかく変える」というところを強調している点です。典型的なのが外国人政策です。日本における外国人の現状が問題だから、それを変えなければならないという主張なのでしょう。しかし、掲げる政策を実行したら日本がどうなるのか、あるいはすでにある社会とどう整合させるのか、そういう説明はなく、抽象的な存在として外国人の存在が否定的に語られる。
実際問題としては、身の回りのコンビニにも外国人の店員さんがいるし、居酒屋にも普通にいますよね。その現実とどう整合するのかという話なのに、そこは触れられないまま支持を集めているわけです。
これはやはり排外主義なのでしょうが、そもそも排外主義的な主張の動機自体も、正直よくわからない部分があります。ヨーロッパで移民・外国人問題が政治的な争点として強く出てくるのは、人口比で外国人が10%程度まで上がった時ですが、日本の外国人比率は現時点で約3%です。
今井 ご指摘どおりで、日本では実際の人口構成と、政治的な争点化が必ずしも整合していません。欧州では、人口比率で10~20%規模の移民を抱える主要国において、移民・難民政策が、福祉国家の制度や人びとの社会的地位低下への不安と結びつき、主要争点として定着しました。
一方日本では、移民比率が欧米諸国よりもかなり低い水準であるにもかかわらず、争点として急浮上している。このズレが、日本の文化軸上の対立を理解する鍵ではないかと思います。
待鳥 そうですよね。いまの日本程度の数字で移民・外国人問題が顕在化することがあり得るのだろうかと疑問に思います。
実態としては、急増したインバウンド観光客に対する不満とないまぜにしてしまっている部分があるようにも思います。「通学・通勤中に電車で座りたいのに、外国人観光客が大挙して先に座っていて嫌だ」というような感覚。これと定住している外国人に対する不満が、意識的あるいは無意識的にないまぜにされているのではないかという印象です。
境家 他方で、参政党が外国人政策の厳格化を主張しているのは確かですが、ヨーロッパの極右政党と同じレベルで危険だと言い切れるのか、そこはまだ見極めが必要ではないでしょうか。
待鳥 まだ実態がわからない部分がありますよね。急進右派だとは思いますが、極右と呼ぶべきかどうかについては、私も慎重です。ただ、どこか危うさも感じざるを得ません。
境家 興味深いのは、その危うさがありながらも、参政党は一般の人向けにうまくアピールしているところです。一見似たような立ち位置の日本保守党は、おそらくもっと暴力的な要素が強いように見られていて、有権者のウケもあまり良くない。
待鳥 本当にごく一部の層にしか刺さっていないですからね。
境家 この2党は同じようなことを言っているようでいて、影響力には大きな差があります。参政党の一般向けの顔が、単なる見せかけなのか、それとも彼らなりに「して良いことと悪いこと」のラインを引いているのか。そのどちらであるかによって、日本の政党システム全体において、参政党台頭の意味することは違ってくるように思います。
極端な政党の参入を止める「防疫線」
待鳥 そういった面でも、新興急進政党の「危うさ」や、多党化に伴う政策決定の難しさという点から、自民党と日本維新の会が連立合意に盛り込んだ議員定数の削減案について、私は当初マイナス評価ばかりではないように考えています。
議員定数の1割削減が妥当かどうかはいろいろな考え方があるとしても、比例代表を削減して小選挙区の比重が高まれば、比例代表で議席を得てきた小規模政党が国政で影響力を持ちにくくなる。そこにはもちろん、左右両翼の急進政党も含まれます。その効果は考える価値があるかもしれない。ところが、結局は小選挙区と比例代表を似た比率で削減するようで、それでは単なる定数削減に止まります。
今井 たしかに、イギリスの場合は、小選挙区制が極端な政党への参入障壁として機能してきました。日本の場合、少なくとも現時点では、排外主義が欧州のように構造化した争点になっているとは言いにくいでしょう。そのうえで、民主政の安定には制度的抑制という観点は避けて通れないと思います。欧州は全体主義の反省から、制度や慣行による「防疫線」を張って反民主的政党の影響を限定してきました。
しかし、現状を見ると、その抑制力にも限界があることがはっきりしてきました。急進右派ポピュリスト政党であるリフォームUKを見ると、2024年総選挙では14・3%得票で5議席に抑え込まれ、小選挙区制の効果が働いたように見えました。しかし、最大野党の保守党の議席率は20%を切り、野党の多党化が進んでいます。翌25年の地方選では改選議席の4割を獲得し、政党支持率でも首位に立つ世論調査が相次いでいます。リフォームUKの党勢拡大は、労働党の移民政策を確実に右方向へとシフトさせている。
有権者行動が変化して、制度の壁を押し動かすほどの力を発揮しつつある。比例制がないから極右を抑制できるという前提が崩れているのは注目すべきポイントだと思います。
境家 リフォームUKはすでに3割ほどの支持率を持っているわけで、それはもう「端」の存在とは言えませんよね。この数の人を排除する選挙制度にすると、政治システム全体に多大なストレスがかかってしまうのではないかと心配です。そう考えると、日本の「端」の勢力はまだそこまでの規模には至っていません。
待鳥 左右両翼の急進政党の支持率を合わせても、「最大瞬間風速」レベルで15%ほどです。このぐらいの規模だと、まだ選挙制度によって、「政治過程の正当性を持ったプレイヤーではない」と脱正統化し、一時的なブームを終わらすことができる。
ただ、制度で抑えるにしてもどこかには限界点はあるので、そこを超えると難しいというのもおっしゃる通りです。リフォームUKの数字でギリギリで、ドイツのAfDほどの支持を集めてしまうと抑えることは難しいのでしょう。
無防備な日本の制度
境家 選挙制度によって防疫線を引くという意味では、単純小選挙区制以外にも、ドイツのいわゆる「5%条項」がわかりやすい例かと思います。比例得票率が5%に届かない政党には原則として議席を与えない。小さな政党が乱立しないようにするための制度的な防疫線です。
待鳥 日本の比例代表制度にはこの防疫線がまったくないのが問題です。最低得票率の条件がないから、全国で1~2%しか取れなくても比例で議席が取れてしまう。昨日まで「諸派」だったのに、今日は政党名で呼んでもらえる。これは、相撲で言えば幕下の力士が十両に昇進して、一夜にして関取として扱われるようになるのと同じくらい、立ち位置が大きく変わります。これはやはり制度としてあまりに無防備だと思います。
今井 日本の制度は開放性が非常に高いと言えます。欧州ではすでに突破されつつあるとはいえ、制度、選挙協力、政治文化といった点を含めて、日本が向き合わざるを得ない本質的な課題だと考えています。日本の場合、どの段階でどのレベルで防疫線を引くのが適切なのかという制度設計の議論は、十分に進んでいません。
欧州諸国は、選挙制度だけでなく、連立交渉の段階での排除、閣外協力の限定的利用など、防疫線を重層的に組み合わせてきました。ただし、政治学者の空井護さんが指摘するように、排外主義を掲げる勢力に対して、基本的人権の保障や法の支配といった民主主義の基盤を守るために排除の理論を適用することは、厳密にいえば民主主義の寛容原理と整合的ではありません。いわゆる寛容のパラドクスに向きあうジレンマです。
待鳥 今井さんのお話にあった「どこに防疫線を引くか」は、本当に難しい。大連立で政権に入れないようにする方法もありますが、実際には簡単ではありません。結局、その線引きが難しすぎて、境家さんがおっしゃるようにむしろ政治システム全体にかかるストレスのほうが大きくなってしまうという懸念もあります。
あとは、ドイツのように、憲法レベルで「民主的基本秩序を害する政党は違憲とする」といった基本法21条を設けたり、政党法で厳格に条件を定めたりする方法もあります。ただ日本で同じことをやるのは、現実的にはかなり難しいでしょう。どの勢力を禁止対象にするかで、激しい政治論争になりますし、戦後の歴史認識まで巻き込んだ議論に発展する可能性が高い。
結局、理念レベルではなく、選挙制度の段階で排除力を持たせる方向が、やはり日本では一番現実的なんじゃないかと私は思います。
民意の行き場は政党なのか?
境家 ただ、現実的に考えると、すでに一つの勢力として政党が成立してしまってから後づけで排除ルールをつくるのは、政治的に相当難しいだろうと思います。
待鳥 おっしゃるとおりで、参議院ではすでに相当の勢力を参政党やれいわ新選組は持っているので、ここは仕方がないです。しかし、参議院というのは結局のところ「第二院」で、そこで得られる正統性もいわば半分くらいですよね。参議院にしか議席がない政党は、制度で排除しなくてもだんだん穏健化していくか、長続きしないかのどちらかになりやすい。
新興急進政党も穏健化していくのなら、私は特に問題ないと思っています。参政党の場合、一番まずいのは排外主義の部分なので、そこを手放して、反科学・環境・スピリチュアル寄りの政党として再編されるのなら、それはそれで党として成立し得るかもしれません。右派の環境政党は世界的にも珍しいですが、あってもおかしくはない。
今井 参政党の「環境」への言及は、欧州の緑の党のようなリベラル環境派とは、性質が異なります。気候変動・再エネ推進ではなく、むしろメガソーラー反対など、地域共同体や景観といった保守的主張に根ざしています。これはイギリスで農村保守層の不満を吸収したUKIP(現リフォームUK)に近い位置取りです。
こうした争点は、大政党で吸収し得る領域ですが、日本の場合は、新しい政党として外側に出やすい。比例代表で一定の議席が取れるため、独立した政党として成立する構造が働く。
待鳥 そうですね。そのような主張をする勢力を、わざわざ独立した政党として外側に置く必然性があるのかは疑問です。メガソーラー反対のような主張は、自民党の中にも共感する人は相当数いるはずで、本来なら党内分派として吸収できる話なのです。
どのような勢力であれ、ある争点に関する主張に一定の支持があるからといって、すぐ「新しい政党」というかたちで外に出す必要があるのか。むしろ二大政党の内部に分派として抱え込んでおいたほうが、政治全体としてはまだ健全だと感じています。
「民意があるんだから全部そのまま出せばいい」と考えるのは、実はすごく単純化された理解なのです。民意をそのまま政治に流し込めば、民主主義がうまく動くわけではなくて、実際には整理整頓のプロセスが必要ですし、民意を表出させるルートもある程度絞り込む仕組みが必要です。
そもそもイギリスの小選挙区制は、民意を細かく拾うように設計されていないエリート主義的制度です。だから不満はたまりやすいし、拾いきれなかった声はたしかに積み上がっていく。でも、制度としてはどこかで線引きが必要で、すべてのルートを開くわけにもいかない、という側面もあるのだと思います。
穏健な多党制という「誤解」
待鳥 これまで「日本が多党化傾向にあること」についてお話ししてきましたが、この多党化の議論に関連してよく耳にするのが、「日本は二大政党制に向いていないから、むしろ穏健な多党制をめざすべきだ」といった主張です。
しかし、穏健な多党制が成り立つには、かなり特殊な条件が必要です。実際にそれが成立していたのは、20世紀後半の大陸ヨーロッパのように、「主要政党のあいだで争点について一定の合意があり、経済成長が続き、分配のパイが安定的に確保されていた時期」でした。そうした前提があったからこそ、政治の争点は「そのパイをどう配分するか」に集中し、政権がどちらに移っても政策が大きく変わらないという状態が保たれていたのです。
今井 日本は分配のパイ自体が痩せ細り、国債に依存している状況であり、分配構造の点でも、政党配置の点でもそのような条件が当てはまっていないと思います。
待鳥 中小政党の指導者などがポジショントークとして語るのは理解できますが、それに引き寄せられる人が一定数いるのも事実なので注意が必要です。
今井 ご指摘のとおり、現在の日本は「穏健な多党制」が成立していた欧州とは前提条件が異なります。また、主要政党の間で争点をめぐって合意を形成する制度整備もありません。合意形成型の多党制を機能させる土台が備わっていないと思います。
一方で、日本には二大政党制はそぐわないという議論については、やや見直しが必要だと感じています。勝者と敗者を明確に可視化する多数決型が安定するには、社会の分断が相対的に限定されていることが大きな意味をもちます。イギリスにおいても北アイルランドのように深い亀裂があると、対立を助長し政治が不安定化します。日本社会における社会的分断が相対的に限定的であるとすれば、本来的には二大政党制が馴染まないという結論へと導かれない。
ただし現在の日本で起きているのは、どちらの制度が適しているかという次元よりも、既存政党の外側に次々と新党で出ていく分裂型の多党化で、判別がしにくい状況です。
待鳥 多党化をめぐる議論で一つ気になるのが、衆議院がどんどん多党化していくことを、まるで時代の自然な流れのように語ることです。「多党化時代」という言い方も、どこか日本政治が社会の流れに合わせて勝手にかたちを変えていくような、昔ながらの文化論に聞こえてしまう。しかし、実際には政治制度は人為的に選べるのであって、多党制にしたいならそう舵を切ればいい。
ただ、多党制を本気で考えるのであれば、極端な立場の政党が出てくることを前提に議論する必要があります。今の日本で多党制を議論するときには、そうした視点があまり見られず、どこかで「穏健で扱いやすい多党制」を都合よく想定してしまっているところがあるのではないか、と感じています。
既存政党の外側に次々と政党が生まれるようなかたちで多党制が進んでしまうと、政治のハンドリングはかなり難しくなります。それならば、選挙制度で過度に極端な勢力を排除しておいたほうがまだ良い、と私は思うのです。
不十分な制度改革がもたらした現在の混乱
境家 そもそも、今のように次々と小さな政党が生まれる状況は、当初、選挙制度改革でめざしていたかたちとは大きく異なります。1994年の選挙制度改革では、本来、小選挙区制を軸に「政権交代が可能な大きなまとまり」をつくることをめざしていました。少数意見を拾うために比例代表を併用したとはいえ、今のような多党化が進む状況になるとは想定されていなかった。
待鳥 この改革で問題だったのは、中選挙区から小選挙区に移行した際の激変緩和措置として、比例との並立制を採用したことにあると考えます。小選挙区と比例代表制という、二つの異なるロジックが同居することで、制度としての一貫性が保てず、比例だけで議席を得られる構造が生まれてしまった。
また、参議院の選挙制度や、両院の権限関係の整理が放置されてきたことも大きい。どちらか一方でも手をつけていれば、今のような運用上の混乱はかなり違っていたはずです。例えば、参議院の問責決議は「法的拘束力はない」と明確にしておくだけで、辞任圧力や審議ストップといった過剰な政治的混乱を防げましたし、両院協議会の仕組みも少し見直すだけで改善できたはずです。
境家 当時は、「とにかく中選挙区制が問題だ」「変えれば今よりは良くなるだろう」という点だけをとりあえずコンセンサスとして、改革に走ってしまったわけです。
今井 国会を含め、その改革は未完であると思います。さらにここにきて、選挙制度改革を求める声が改めて上がっていることも側聞します。しかし、選挙制度そのものを再び大きく組み替えるとなれば、その政治的・社会的コストは相当高いはずです。現在の日本に、そうした議論を本格的に進めるだけの余力があるのかとなると、やはり難しい状況だと思います。
待鳥 今の日本政治にその余力はないですね。
今井 だからこそ、現実的には「今ある制度をどう運用するか」を考えることになります。多数決型であれば、与野党間のほぼ互角の競争を通じて政権交代の可能性が確保されるはずでした。しかし日本では、これまで一貫して非対称な状況が続き、そのうえ政党交付金や比例枠の仕組みが重なった結果、政党システム全体に遠心力がかかってしまった。
となると、必要なのは制度を作り直すことよりも、現実に合わせて制度運用のルールを整えることです。多数決型に向かうにせよ、合意型に近づけるにせよ、いずれにも野党に特化した支援制度や透明性の確保といった固有のルールがあるはずですが、十分に整備されてこなかった。そうして築かれた経路によって、制度がうまく噛み合わなくなっているのだと思います。
待鳥 まったくそのとおりですね。にもかかわらず、去年あたりから、「多党化すれば合意形成型の熟議の国会になる」といった議論をずいぶん目にしています。これも相当に甘い感じがあって、実現させようと思ったら、相当な制度改革と運用の転換が必要になる。
例えば、多党制による合意形成型方式に近づけようとすると、本来は法案ごとに頻繁な修正が必要になります。ところが日本の国会は、省庁と与党の事前審査で法案がほぼ固まり、野党の批判はあっても多くの法案がそのまま通る前提で人員や時間が配分されています。つまり、合意形成型に移行するには、この前提となっているリソース配分自体を根本から作り直さなければなりません。
今井 構造変化に適合的な制度やルールの再設定は、他国でも経験されていることです。
待鳥 さらに、多党化した後に政治はどう運営されるのか、そのためにどこを改革すべきなのかという肝心な部分については、誰も明確な答えを持っていないし、真剣に考えようとしていないのが現状です。そうなると、多数決型でもない、合意形成型でもない、よくわからない類型として生きていくしかなくなります。
今井 おっしゃるとおりで、多数決型と合意型、あるいは日本独自の折衷、いずれかの制度モデルで政治を運営するのかを、政治の側は見極めなければならない。
そのうえで、もし多数決型を維持する方向に考えるのであれば、参照のためしばしば持ちだされるのがスウェーデンのブロック政治です。選挙前の段階で入念な政策協議を行い、右派・左派の二つの大きな塊をつくり、有権者がその二択の間で政権を委ねる仕組みです。ただし、日本の場合は政党分布が右に偏っているため、左側のブロックが小さく、より多くの選択肢がある自民党が有利であるように見えます。
公明党の選択が左右する二大ブロックの行方
待鳥 そこに関して言うと、日本が二大政党ブロック制に近づくかどうかは、冒頭でも少し出てきましたが、結局、公明党がどれくらい本気で自民・維新のブロックと距離を置くかにかかっているところが大きいと思います。もし公明党が腹をくくって、立憲民主党側につくのなら、日本政治は本当に二大ブロックに再編されます。
ただ、公明党がどういった意図で連立を抜け出したかは、本当のところは誰にもわかっていないので先が読みにくい。
境家 公明党の中の人も、正直、自分たちがこれからどこに軸足を置くべきなのかまだ決めきれていないんじゃないでしょうか。今は、高市政権がこのまま安定するのか、それとも転ぶのか、見極めをしている段階だと思います。
もう一つ公明党が注視しているのが、立憲民主党の政策位置です。特に外交・安全保障分野がカギで、公明党はこれまで政権与党として、立憲民主党の立場を非現実主義的として批判してきた経緯があります。
これに関して注目されるのが、10月に立憲の枝野幸男氏が平和安全法制について「違憲部分はない」と発言したことです。枝野氏は元来、現実主義的政治家だと思いますが、とはいえこのタイミングでのこの発言は、国民民主党や公明党との連携を見据えた動きと考えるのが自然でしょう。党内での足並みはまだまだそろっていないようですけれども。
いずれにせよ、五五年体制の時期にも、公明党は「自公民路線」と「社公民路線」を行き来するなど、結局、勝ち馬に乗ろうとする傾向が強い。そう考えると、公明党の態度は今後も立憲民主党の動向次第で変わり得る、ということだと思います。
待鳥 立憲の幹部は公明党との連携に前向きでしょう。ただ、地方組織や支援者には護憲・リベラル色の強い層が多いので、党としてどちらへ舵を切るのかは、正直読めません。
境家 立憲が党全体として右寄りに舵を切るのは簡単ではないと思います。
待鳥 いまの立憲の支持層は高齢者が中心で、旧社会党系の支持者を再発見して取り込んだ層が厚いですからね。その支持を手放すのは難しい。
実際、過去の旧民主党は、外交・安保をある種「棚上げ」して曖昧にし、旧社会党系の支持をつなぎとめながら政権交代に成功しました。今また同じように「外交・安保は棚上げします」と言えば、都合よく使い分けているように見られ、支持者は反発するでしょう。大量に離れていくとは思いませんが、投票意欲は下がり選挙ではマイナスに働きます。
境家 その一方で、やはり公明党と組むメリットは、立憲にとってかなり大きいのでしょうね。
待鳥 減ったとはいえ、公明党には600万の得票能力があります。ある程度の立憲支持者が離れたとしても、その分を補って余りある票数です。一方、維新と自民が組んでも、大阪以外では、維新が自民候補を応援しても効果は限定的でしょう。大阪は維新、それ以外は自民という地域分業になるはずです。
そうなると、本当に立民・公明で組むことになれば、割合素直に二大ブロックに収斂する可能性があります。ただ、立憲はもともと揺れやすい党であると、政治家が一番知っているので、最終的に誰も組まない可能性も十分あり得ます。
トップダウンが効かない野党
今井 お二人のお話を伺っていると、立憲民主党が公明党と本格的に組めるかどうかは、外交・安全保障についても党として一貫した立場が示せるかが核心であると感じます。
そしてこれは、支持層構造だけでなく、立憲の政党組織そのものの弱さと結びついています。本来、小選挙区制のもとである程度の規模を維持できている政党であれば、幅広い支持層を抱えたまま党内で合意をつくり、「一つの声」として方針を示せることが必要です。しかし現状ではその仕組みが十分に機能しておらず、結果として、政策的位置づけが見えにくくなり、対抗政党としての存在感が損なわれている。
もっとも、立憲には避けがたいジレンマがあります。間口を狭めれば党内の統一は進む一方、小選挙区で勝つには、幅広い人材と政策の振れ幅を抱える必要がある。支持層の幅を維持すれば党としての声がまとまりにくい。イギリス保守党が幅を狭めすぎて再生が難しくなっているように、過度に狭めれば政党としての再編可能性を損ねてしまいかねない。
その意味でも、公明党との連携が現実味を帯びてくるほど、立憲が「どこに立つのか」を明確にし、党内で整理しきれるかが問われると思います。
待鳥 日本の小選挙区制だと、与党側は間口が広くても比較的まとまりやすいんですよね。政権を担っている分、党の規律が働きやすい。総理や執行部にはポストや財源、公認権というアメとムチがあり、所属議員を従わせる力があるから、トップダウンを効かせるインセンティブが強く働きます。
一方、政権を持っていない野党は、そのトップダウンがなかなか効きません。野党には官僚機構も予算もポストも動かす権限がないので、執行部が「こうする」と言っても議員に従わせる実効的な手段が弱い。従っても得が少ないですし、逆らっても大きく損をするわけでもないので、議員がそれぞれの支持基盤や地域事情に合わせて動きやすく、党内がまとまりにくい。
だから、むしろ野党の段階では間口を広くして、ある程度まではいろんな人に参画してもらう回路として政党を使ってもらう、「うちの党を使ってくれていいですよ」という見せ方が必要です。その上で、最終的にはしっかりまとまる。そういう二段構えの運営をしていくことが大事だと思います。
大政党への期待と、抱えるジレンマ
今井 おっしゃるように、野党は間口を広げざるを得ないため、そのぶん政策の集約が難しくなります。だからこそ、分散しがちな党内政治において、異なる考え方を最終的に集約させる手続きや場を制度化することが欠かせません。
待鳥 それこそ、イギリスでも見られることですが、名古屋大学の近藤康史さんが指摘するように(『社会民主主義は生き残れるか』)、大きな政党は本来、市民が政治的意思決定に関わる「参加の回路」として機能し得ます。政党組織論から見ても、大政党にはそうした役割が期待されているのです。
そういう意味でも、私は多党化と言われる今でも、大政党中心の政治や二大政党制に「もう未来はない」とまでは思っていません。運営の仕方次第で可能性はいくらでもありますし、大政党が持つ利点は今でも十分に大きいと思います。
今井 たしかに、大政党には本来「参加の回路」としての役割があり、その潜在力は大きいと思います。他方で、その役割を本気で果たそうとすると、とても難しい側面もあります。
待鳥 そうです。簡単ではないです。というのも、大政党が本気で党内民主主義を徹底して、参加の回路として間口を広げようとすると、どうしても意思決定に時間がかかってしまう。結果として、大政党中心の政治の強みである「政策転換のしやすさ」や「決定のスピード」が損なわれかねないわけです。だからこそ、どこまで開くか、そしてどうスピード感を保つか、そのバランスが常に問われるのだと思います。
また、党内を開いていくと、仲間に対して不寛容になったり、アイデンティティ政治を強く主張する純粋主義の人たちも出てきて、内部対立の火種になることも少なくありません。アメリカ民主党がまさにその典型で、そうした対立で何度も空中分解しかけています。
今井 文化軸での対立は党内にも分極化を引き起こします。とくに野党は、議員・選挙区組織・党員の立場がそろいにくく、価値観の争点が入るとまとまりが崩れやすい。参加を広げるほど多様性は確保できますが、そのぶん立ち位置も不安定になります。
立憲民主党の場合は、党分裂後に調整の仕組みを十分に作り直せていない点が大きいと思います。参議院との関係も含めて、最終的に意見をどこでまとめていくのかが明確でない。与党とのまとまりの差が如実に出てしまう背景には、この集約の場の欠如があるように思います。
本来であれば、文化軸の対立をそのまま党内の亀裂構図にしないためには、組織設計として、参加を広げる回路と、最終的に政策判断をくだす意思決定メカニズムの回路が鍵になるでしょう。ここが整わない限り、大政党として開かれれば開かれるほど、かえって不安定化するという逆説が起きてしまう。
依然として凝集性の高い自民党
今井 その意味で、自民党の凝集性の高さは対照的ですね。政策的に距離がある政治家がいても、最終的には「どこで集約するか」の仕組みが一定程度働いている。石破氏のように独自性の強い政治家がいても、基本線では党内は一貫していた、という理解でよいのでしょうか。
境家 そうですね。石破氏は昔から自民党にいましたし、基本的な状況は今も変わっていないのではないでしょうか。自民党は依然として、立憲民主党に比べれば凝集性の高い集団だと言えるでしょう。
いま顕在化している外国人問題にしても、自民内では意見の温度差はあるにせよ、党を本格的に割るほどの争点にはなっていません。リベラル派の知識人などに、自民党のイデオロギー軸に沿った大分裂を期待する向きもありますが、そんなことは歴史的に起きたことがないですし、近い将来にも起きそうにないと考えます。
要するに我々は、今後も引き続き、右派の大政党とバラバラの野党を前提にした政治システムと付き合っていかざるを得ない。この前提の上で、いかに政治のパフォーマンスを上げていけるかを考えなければなりません。
ふり返って見ると、政治運営の仕組みという点で、五五年体制はある意味でよくできたシステムでした。自民党と社会党が表では外交安保や憲法をめぐってプロレスのように戦いながらも、裏では社会経済政策面で取引し、一定のコンセンサスがあった。
こうした構図は、今後もかたちを変えて再現し得るでしょうか。つまり、主要政党間で形式的なイデオロギー対立の図式を示しつつも、社会経済政策分野では合意をつくりながら着実に政策を前へ進めていくような政治のあり方です。
待鳥 政党間の合意で私が理想だと思うのは、まず安全保障の分野で、最低限の共通理解があることです。そのうえで、社会経済政策の分野では、たとえば「高齢世代を重視する政党」と「将来世代を重視する政党」が、現役世代の支持をめぐって競い合うようなかたちが望ましい。
というのも、境家さんがおっしゃるような「社会経済政策での合意」だと、今の主要政党ではどうしても「現世利益」を優先した政策ばかりが前面に出がちで、将来への負担を先送りにしがちになってしまいます。このやり方だと社会の持続可能性がありません。複数の責任政党が長期視点を共有して競争する。この前提があってこそ、二大政党制は本来の力を発揮できるはずです。
今井 五五年体制がイギリスの戦後コンセンサスとある意味で似た構造を持っていたことがわかります。表では明確な保革対立がありながら、福祉国家の枠組みという基本土台には合意があり、具体的な拡充や調整をめぐって競い合っていた。しかし、低成長、財政余力といった前提条件が大きく変わった現代では、そうした合意をそのまま再現することは難しく、持続可能な政策についてどこまで共通了解を持てるのかが問われます。
また、イギリスのように政権交代を前提に、安全保障や外交の継続性を確保するための慣行(機密の共有など)が日本には存在しません。そう考えると、現実に政権交代があってもなくても、それを想定して国家運営が途切れないための制度的・運用的な基盤をどう整えるのかが、今の日本の論点になるのではないでしょうか。
待鳥 おっしゃる通りで、野党化した与党にも情報を共有する慣習を作るべきなんですよね。
ここが難しい背景には、なにより自民党が「いざとなれば政権を降りる」という選択肢を持たない、持とうとしないことがあると思います。そのため、何としても多数を維持する方向に動きがちで、これが政治の構造を固定化させている。ここが変わらなければ、全体の動きもなかなか変わらないでしょう。
また、安保法制をめぐる対立がこの10年、日本政治に与えた影響は本当に大きかったと思います。そろそろこの分断の構図を終わらせるべきではないかと考えています。
経済政策の核心から逃げる中道左派
待鳥 今後の政治を考える上で大事なのは、最大野党の立憲民主党が「きちんとした経済政策」を打ち出せておらず、そのせいで政権担当能力を自ら下げてしまっているという点です。安全保障以上に、経済の部分で的外れなことを言っていることが多い。ただ、中道左派の政党が体系的な経済政策を示せないというのは、実は日本だけでなく国際的にも見られる傾向です。
1990年代にはニューレーバーなどをきっかけに、世界的に中道左派のリバイバルが起こりました。イギリス労働党・アメリカ民主党・ドイツ社民党などが相次いで政権に戻ってきた。日本の民主党も、その流れにゆるく乗っていくかたちで、2009年に政権交代をしました。
その時代の中道左派は、グローバル化に上手く対応して、グローバル化の利益を国内の再分配に回そうという発想だったと私はざっくり理解しています。しかし、リーマンショックでその路線が崩れてしまってからは、中道左派がこれだと言えるような新しい経済政策の柱が、世界的にほとんど出ていません。
アメリカの民主党は、文化やアイデンティティに関わる文化リベラルのほうへ軸足を移していきましたし、日本の立憲民主党は逆に外交・安全保障の議論に重点を置くようになりました。
境家 どの国の中道左派も、経済政策の再構築という核心から視線をそらしていますね。
待鳥 そうですね。別の争点へ逃げている状態です。だからこそ、中道左派がかつてのような魅力的な経済ビジョンを再構築できるのか、そしてその可能性がどこにあるのか、ここについては、まだ私も確信が持てないところです。この点について、イギリスの与党である労働党の最近の動きはいかがですか?
今井 欧州の中道左派に共通することですが、いまの労働党政権にとって決定的なのは、経済の再構築に踏み込もうとしても、財政を動かす余地がほとんどないという点です。日本とは異なり赤字をこれ以上広げる選択肢は取り得ない。労働者層への増税もできない。つまり、中道左派が強みとしてきた分配政策を動かすスペースがないわけです。
政権交代の直接の契機は、保守党への経済運営における信頼がトラス・ショックで崩れたことでした。裏付けのない減税と財政出動で市場が混乱した。労働党はその反動として市場に不安を与えない均衡財政を優先し、増税に踏みこまざるを得なくなった。
こうした厳しい制約のなかで、彼らが頼れるのは「5年」という任期の長さです。地味でも確実な改善、たとえば労働者の権利強化や公務員給与の底上げ、公共サービスの改善、貧困対策など、再分配を進めようとしています。ただ、財政の引き締めはすぐ痛みが出るのに、こうした政策は即効性に乏しく、支持率には結びつきにくい。
経済争点を示せない立憲民主党
待鳥 こういう状況は左派にとって本当に難しい。MMT(現代貨幣理論:自国通貨を発行できる政府は、財政破綻しないという理論)が話題になったのはコロナ前くらいで、「お金を刷って配ればいい」という主張が、中道左派にとっては最後の希望みたいに扱われた時期もありました。
しかし、日本では安倍政権の中盤から、それに近い政策である大規模な金融緩和や財政出動をすでにやってしまっていました。だから左派としても、その路線を自分たちの武器として打ち出せなくなり、ますます苦しくなっているという状況です。
立憲民主党がもし公明党と組めるなら、公明党が持っている徹底した「現世主義」のような、すごくミクロで身近な政策は一定の効果があるかもしれない。ただ、それは長期的なビジョンではないから、本当に一緒にやるのがいいのか……という気持ちもある。
境家 中道左派は、体系的で実現可能な経済政策を見失っている。だから結局、その場しのぎのワンショット政策で支持を取りに行くしかなくなる。国民民主党の「手取りアップ」政策にもそうした側面があって、それはそれで有権者にウケたわけですが、立憲民主党に至ってはそういうアピールのアイデアすら出てこない。
待鳥 「手取りを増やす」といっても、あくまで成長後の最終的な結果にすぎません。投資して成長した結果を手取り増に回そうという話であって、成長の部分は別に新しくも無いんです。配分の部分だけをうまく見せたものという面がある。
境家 ただ、逆に言えば、少なくとも有権者への「見せ方」としては、国民民主党はうまくやったということです。同じようなことを立憲も本来はやれたはずだと思うのですが。
今の立憲民主党は売りとなる政策が一つもないですよね。「紙の健康保険証復活」などと言っているようでは……。
待鳥 話にならないですね。今年の参議院選挙でも最後の最後に経済政策の柱を消費税減税にしました。そもそも、消費税減税自体が責任ある主張かどうか疑わしいのに、他の政党が減税を掲げた後に、ただの後追いのように出してきたのが、残念な感じがしました。やはり、最大野党である立憲民主党がどう次の一手をだすのか、ここも今後の日本政治の動向を決める上で重要になるのでしょう。
冒頭でもお話しましたが、いま日本の政治は分岐点にいる状況です。大政党制ブロック化するのか、またネオ五五年体制のようなものに戻るのか、本当に多党化するのか。ただ、オーソドックスな多党化が起きて、自民党が過半数に全く届かない、30%程度の議席しかとれない未来もあまり想像できないんですよね。そして、そうなった時に日本の政治に何が起こるのか見通しづらいのも正直なところです。
しかしながら、制度の側から見ても、政党の側から見ても、これまでの延長線上だけでは対応できない局面に入っている。必要なのは、制度をどう運用するか、そして政治文化そのものをどうしていくかという視点です。自民党も立憲民主党も難局に立たされているので簡単ではありませんが、こうした議論を重ねながら、次の枠組みをつくっていくことが求められているのだと思います。(終)