技術と信念で歴史を刻む 大佛師ものづくりの魂【松本明観】

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『公研』2025年4月号 第 662 回 「私の生き方」

 

大佛師

松本明観


まつもと みょうかん:1967年京都生まれ。86年京都市立銅駝美術工芸高等学校 彫刻科卒業、87年松本明慶工房に入門。2000年第39回京都佛像彫刻展にて史上初の知事賞・市長賞をW受賞、以降数々の賞を受賞。35歳で大佛師の称号を得る。その後、他の大本山・総本山からも大佛師を授かる。24年東京・増上寺に徳川家康像を納佛。


 

僕らに失敗はない

──本日は清々しい木の香りに包まれた工房にお邪魔し、大佛の製作現場を見せていただきました。2体同時につくられていましたが、それだけ需要があることに驚きました。

松本 うちの工房は日本で一番職人の数が多いし、大きな佛像をつくれるだけの大量の乾燥木材を持ってる日本で唯一の工房なんです。他にはない経験と技術を携えているので、全てうちに注文がくるのかもしれません。

佛像をつくるには腕のいい職人がいっぱい必要ですし、乾かすために何十年も寝かせた木材が大量に必要なんです。切ったばかりの生木だと、大佛を組み立てた後に木が乾いて歪みが発生してしまうんですね。我々が最初に大佛をつくってから44年間、注文は途絶えてません。

 

着彩をしない大佛は、木肌を美しく見せて寄木をするのでより難しい。

 

 

──多種・大量の木材が保管された倉庫にも驚きました。建築物のような巨大な佛像はどのような工程で彫刻製作されているのでしょうか。

松本 賽さいわりほうという方法でやっています。
小さい雛形をつくってから本番に臨むんです。組み立てる時、普通は接着剤だけでくっつけるんですけど、強度を上げるために僕たちはホゾ(部材を接合する為に一方の材につくる突起)を入れてます。賽割法でホゾを入れる人は、ほとんどいないんです。なぜならホゾが一つでも、数ミリでもずれたら全てやり直しになりますので。それでもホゾを入れるのは、あるのとないのとでは数百年後に違いが出るからです。そのために、ものすごい手間をかけるか、かけないか。僕たちは修復もたくさん手がけているんですが、昔の作品を見てもこんなに正直な本数のホゾを入れている作品見たことがないです。

 

賽割法は、雛形を一定の基準で縦と横に分割し、最終的に雛形で決めた比率を基に、大佛の各部位をつくり組み立てる。

 

──合わなくてやり直しになることはないのですか?

松本 僕らに失敗はないんです。まぐれでできているわけではないです。絶対に失敗しない弟子にしか仕事は任せませんから。

 木彫刻の難しさは、削ってつくっていくことなんですね。いきすぎるともう戻れないでしょ。だから初心者は攻めて彫れないんで失敗を恐れてボテボテの作品しかできません。

 

組み立ては少人数で行う。

 

 

──あんなに大きなものに対して、たった2人で作業されているのですね。

松本 大きなものの現場では少ない担当人数でやります。人数が多いと責任が分散してしまうんです。2人でやると何があっても間違えられないから自分の責任と思って懸命にやりますけど、10人でやるとサボる人も出てきてその覚悟がなくなるんです。

 ヒューマンエラーを起こさない秘訣は、ベテラン同士でなくて新人とベテランで組ませることです。ベテランになると当たり前になって確認をしなくなることでも、新人は初めてだから、当たり前のようなことも聞いてくる。だからベテランにとっては再確認にもなるのと、教える自分の責任にもなります。さらに若手の弟子にとっても、机上で教えられるよりも現場で教えてもらったほうがスッと入ってくるんですね。

 だから僕は「見て盗む」という職人の世界にあるような言葉は嫌いです。言葉と実践で教えてあげたほうが弟子の習得が早いやないですか。徹底的に伝承していかんとその人だけが習得した技で途絶えてしまいますよね。父から教わったことは全て弟子に教える。それで僕は空っぽになるんじゃなくて、さらに新しい技術を習得して向上するチャンスでもあるわけです。上は下にどんどん教えていって、上はさらに上をめざす。トライアンドエラーを繰り返していく中で、急にコツを掴む瞬間があります。だから教える時は自分が試行錯誤して得た技術を、一番上達の早い方法で教えてあげることで弟子は自分よりも早く技術を習得できるわけです。それを惜しまず教えていることが大事なんやと思ってます。

 

大佛さまからの目線。中は空洞。

 

 

絶対に必要なのは亀のようなスピリッツ

──今、何人のお弟子さんがいらっしゃいますか?

松本 50人います。僕は昨年まで、京都佛像彫刻家協会の会長をしていたんですが、うちの職人は全国でも一番多いんです。他は親方一人だったり、弟子が数人の工房なんです。

 僕が雑誌やテレビで取材を受けたのを見て憧れて弟子入りにやってくる人もいます。訪ねてくる人は全員話を聞きます。どれだけ厳しい世界かを説明して一旦脅しをかけますが、それでも目を輝かせている人には明日からおいで、と言います。うちにいる優秀な弟子は「明日ではなく今日から働らかせてください」というような前のめりな人ばかりです。「明日は予定があるから」と先延ばしにするような人はすぐに挫折してやめてしまいますね。

 だから、僕が見てるのは技術ではなくて決意の強さです。つまり、「うさぎと亀」やと思うんです。絶対に必要なのはウサギのような脚力でなくて、亀のように「絶対ゴールするんや」というスピリッツなんです。技術がない人のほうが、失敗をきちんと理解して技術を吸収しやすい。あと、怒られ上手な人ですね。この人のために苦言を呈してやろうと思わせる人のほうが、成長しやすいし得なんです。チャンスは与えて、「辞める」と言ったら一度引き留めて、その理由を聞いてます。自ら納得してダメだと思ったほうが次にきちんといけるんです。「来るもの拒まず、去るものは追う」というのは父からも引き継いでいる考え方です。

──現在、大佛師・松本明慶氏の二代目として松本工房をささえていらっしゃいますが、幼い頃からお父様の影響は大きかったのでしょうか?

松本 小さい頃からなんの疑いもなく、当たり前に佛師になると思っていましたね。やっぱ長男だし昭和の子供なんで、自分の家が八百屋やったらお父ちゃんの仕事を手伝う、ってのとおんなじですね。僕も知らずのうちに、父親の背中を見てそう思ったんやと思います。家族や弟子を食わせるためにも命を削るようなやり方でやってきた。その上で習得した技術を僕が引き継がないで誰が引き継ぐんや、と思ってました。言われるんじゃなくて、見せつけられたんやと思います。父親もああしろ、こうしろとも特に何も言わなかったですね。僕がなろうとしているのは知っていたので静観していたんでしょうね。

 

心が震えた体験で意識が変わる

松本 でも一つ、それまでは「お父さんってすごいな。自分も大きくなって後を継ぐんだ」みたいな子供の考え方から変わったきっかけがありました。

 僕が高校生ぐらいのとき、父親が佛像を納めるんで、お寺に一緒に連れて行ってもらったことがありました。すごい大きなお寺の真ん中に佛像が置かれていて、父親のおかげで自分まで高い席(上座)に座らせてもらったんです。その場所から「後ろを振り返ってみなさい」と父親に言われて見た先には、本当に大勢の信者さん檀家さんが一緒に祈りを捧げてはったわけですよ。

 「父ちゃんすげえな。これだけの多くの人を感動させられる作品をつくって、こんな高い席で偉いお坊さんから一目置いてもらえて」と気持ちが昂ったんです。でも「いや、そこじゃないよ」って言われて見たのが、席につけなくてお堂から溢れた人の中にいた高齢の親子と思われるおばあちゃんとおばさんです。娘さんのほうがお身体が悪そうで、おばあちゃんに支えてもらいながら一生懸命に手を合わしてはったんですよ。

 父親に「ああいう人たちのために、こういう佛像は必要なんだ」って言われたときに、自分は華やかな部分しか目がいってなかったんだと気づいて、本当に心震える経験をしました。

 多くの人に感動を与えられ、そして衣食住に関わるものじゃないにもかかわらず、これだけ切実に欲してる人がいらっしゃる。それが何百年何千年と続いていくっていうのが本当に魅力的というか奥が深いというか、ロマンをすごく感じたっていうのがあります。自分も多くの方に未来永劫必要とされるような佛像をつくれるようになりたいと、そのとき本当に思いましたね。

 

父親が佛師になった契機

──お父様はどのようなきっかけで佛師になられたのでしょうか。

松本 元々、父親の家は貧しかったので、小さい頃から金持ちになることが将来の夢やったんですね。というのも、身体の弱い弟の面倒を見るつもりだったからです。しかし、盲腸を取るくらいの簡単な手術やのに、医療ミスのようなかたちで急に弟を亡くしたんです。父が高校生の時でした。毎日両親は泣いてて、父も悲しみの行き場所がなかったんです。

 こんな救いのない状況に佛はいるのかと思って佛像を独学で学んだのです。佛像を彫っているときだけは余計なことを考えずに無心になることができた。気がついたら父はずーっと彫り続けていたんで、家中彫刻だらけになってたそうです。ある種、取り憑かれている状況の父を見かねた高校の恩師が、野崎宗慶先生という慶派(佛師の流派の一つ)で昭和最後の生き残りと言われている師のところへ連れていってくれました。でも1年半で野崎先生が亡くなられた。父親は最後の弟子でしたから、ご子息が「親父の後を受け継いだのは君しかいないのだから、『明慶』と名乗って慶派を継いでくれ」と言われて、そこから松本明慶を名乗るようになったんです。

──たった1年半の修行だったんですね。他で修行はしたんですか?

松本 他へは行かなかったんです。「自分の師匠は野崎先生一人しかいない」と亡くなられた後も先生のスピリッツを携えていたからだと思います。僕も、もし父親がお星様になっても「父ならどうしたか、こう言いそうやな」とか、そのスピリッツを引き継いでいれば、わかることがあると思うんです。だからそういうことを感じられる信頼関係があったんやと思いますね。

 

熱帯魚屋で全国に名が轟く

──佛師は不安定な職業だったのではないかと思います。どのように生計を立てていたんでしょうか。

松本 もちろんすぐに、佛師だけでは食べていけません。父親は早くに結婚をして、22歳の時に僕が生まれてますから、家族を養うために彫刻をやりながら副業してました。僕が幼小の頃、熱帯魚屋をやってたんです。学生の時から生物が好きで詳しかったから。

 当時アマゾンから稚魚を仕入れて販売するのが通常のルートやったんですけど、父親はそれやとコストもかかるからといって自分で卵から育てる、いわゆるブリーダーをやって全国に名が轟くくらい有名なお店になったんですよ。

 店自体はちっさいんですけど、水槽の置き方一つにしても、一つでも多くの種類の魚が見せられるように水槽を縦置きにして工夫したり、自分で棚を溶接したり、先見の明があってとにかくバイタリティーの塊みたいな人でした。だからと言って店舗を広げるんではなく、あくまでも彫刻をするための副業でした。

 だから僕が小学校高学年のとき、父が京都朝日会館で個展をしたのを機に彫刻で一気に名が知れ渡るようになったら、あっさりと熱帯魚屋はやめてしまったんですよ。収入でいったら熱帯魚屋のほうがはるかに多かったんですけど。あくまで家計を支えるためのことやったんで、とにかく彫刻の技術を伸ばしていくための時間の邪魔になるからといってやめてるんです。

──少し勿体ないような気もしますね。

松本 彫刻をやっていくことにブレがなかったんやと思います。それに、父親には京都朝日会館で個展をやるずっと前の若い頃から弟子がいたんですよ。その弟子を育てていかなあかん、という気持ちも後押ししてたんやと思います。

 熱帯魚屋をやっている時から遊びにくる子やらいるんですが、飯を食いに連れていってやったりして段々とついてくる子が増えたんですね。父は親分肌で人を育てることについても能力がある人なんで。幼かった僕でも父のそういった雰囲気をよく覚えています。

 

大人がつくったと疑われていた

──明観様はどのように技術を習得していたのでしょうか。

松本 小さい頃から彫るのが好きでした。遊びの延長やったんですね。

 玩具屋さんで色々見て、ギミックを観察して自分ならここまでできるなとか、こうやったらどうかなとか、色々やりたくなってアイディアやモチーフを真似してきてつくるんです。そうすると「こんなアイディアや技術は大人でないとできひん」て言われて疑われるんです。アイディアは真似しましたけど、つくったのは僕です。父親は絶対に手伝ってくれませんでしたから。

 その頃つくったのは、例えばモデルガンを置く台です。拳銃を握っているような手の形を彫刻しました。それから夏休みの宿題も木製の立体パズルや、コインが仕分けされる貯金箱など「親に手伝ってもらったんやろ」って言われるくらい完成度が高かったんです。

──どんなお子さんでしたか?

松本 問題児でしたね(笑)。ある日、作務衣と下駄で高校に行ったことがありました。校長先生に呼び出されましたけど、「用事があるんやったら、校長から来いよ。なんで僕が行かなあかんのや。作務衣は先生たちが着てるようなスーツよりもずっと日本古来のもんではないか。だから何が悪いんや」と、言い負かしてましたね(笑)。

──工房に入ったのはいつですか?

松本 19歳の時ですね。1年間はサラリーマンしてるんですよ。高校を出てからすぐにでも工房に入ろうかと思ってたんですけど、父親が「一度、京都で老舗の佛具屋さんで宗派や佛像のことを学んでこい」と、佛具屋さんに頼んどいてくれたんです。でっち修行みたいなことを受け入れてくれはって、1年間勤め終わって僕は工房に入門しました。そん時、弟子はまだ10名そこそこくらいでした。僕が入ってからは、あっという間に弟子の数も増えていきました。

 僕は2代目として、お金の管理の役割も担ってます。父親は職人気質なので、仕事がとにかく一番なんで、他の雑務とか二の次になってしまうんですよ。だから僕は30歳の時から経理を任されてるんですけど、衝突が結構ありましたね。父親は財務を気にしないので、平気で数千万単位の高価な木材を仕入れてきたこともありました。どんぶりでしか勘定していないので、僕が細かくやりくりしていると「ビジネスマン気取りか」と言われてバチバチの喧嘩をしたこともあります(笑)。

──そんなに高い木材があるのですね。

松本 信じられないかもですけど、今工房にある材料の中でも伽羅、沈香など貴重な香木は大変高価なんです。1グラムが金より高く取引されてます。埋木うもれぎといって、土の中から掘り起こしてくる化石みたいな材料で、希少価値がとても高いんですよ。こういう素材を使って彫る佛像は、小さくても1千万円を超える場合があります。

 

 

廃仏毀釈で渡仏していた佛像を修復する

──佛像製作だけではなく、多くの修復も手掛けていらっしゃいます。以前お父様とフランスのギメ東洋美術館が所蔵している佛像を修復されたそうですが。

松本 僕が工房に入って3年経った22歳のときでしたね。当時西武百貨店グループが「フランス国立ギメ美術館創立100周年記念」としてギメの古佛の美術品を日本に誘致して展示するという企画がありました。それをフランス政府に持ちかけたところ、傷んできている部位を直して返却することを日本に里帰りさせる条件として提示されました。そこで、150体以上の佛像修復でうちに声がかかったんです。

 これほどたくさんの佛像は、元々廃佛毀釈が行われていた明治時代に、フランスの事業家エミール・ギメが宗教調査使節として来日した際、日本から持ち帰った佛像だったんです。

 僕がこの依頼を受けてまず思ったんは「こんなに素晴らしい佛像が全部向こうに行ってしまってたんか」と廃佛毀釈への怒りが込み上げたことです。しかし、父親からは「日本にあったら戦争で焼けてたかもわからんぞ」と言われて。日本にはないけど世界のどこかにあるのと、この世からなくなってしまうのと、どちらが良いか──そう考えると、ギメに助けてもらったんやな、と気持ちを切り替えることができました。

──修復でご苦労された点は?

松本 苦労というか、ジレンマが大きかったです。歴史的なものであるがゆえに、修復したいけどできないっていうジレンマです。我々が修復した佛像は古いものなので、過去に何度も修復されてきている佛像です。でも当時直した人の技術が未熟やったんで、明らかに元々の作者とは腕前の違う人がつくった部位がある、という違和感があったんですよ。だから当然その部位も修復したくなってしまいます。でも、その時代から佛像は100~200年の間、身体の一部としてついてきて人々からの祈りを支えてきはった。その歴史を背負っておられるわけです。それをどう捉えて、どこを修復していくかです。

 それはギメの時に限らず修復のときは、毎回葛藤があります。理想的にはもっとオリジナルに近かったであろう形に僕らが直したほうが、これから先何百年たったときに違和感なく納めてもらえるんです。でも、それが施主さまの意向と違って、修復したいっていう自分のエゴだとしたら、やって意味がないこと。だから施主さまであるお寺さまとかともご相談をかけながら決めていくことなんですよね。

 

理解し難い保存修理

──修復に必要な技術とは、なんでしょうか。

松本 佛像修復の時、古いものであればあるほど、取れたパーツがなくなっているんですね。

例えば室町時代につくられた佛像だとして、江戸時代前期に取れた右腕をAさんが、さらに江戸後期にBさんが左腕を修復したとします。それぞれ修復はしたけど下手だったり、元の佛像を真似て修復できてないと、1体の佛像なのに明らかに右腕と左腕、さらに元々の作者とはテイストが違うものが三者三様に浮いて見えてしまうわけです。僕らはそういう作品を見たときに、ものすごい違和感として、すぐに気づいてしまうんですよね。だから上手いだけではダメです。モノマネ力が必要ですね。

 うちには、修復する時のルールがあります。修復する対象の佛像を見て、その佛像をつくった人の技術より遥かに凌駕した技術を持っていて、なおかつモノマネをする能力がないと修復をやってはいけません。例えば歌手のモノマネで、歌はうまくてもその人に声の質やトーンが似ていないとモノマネになりませんよね。本人よりも上手く歌っては、違うもんになってしまうでしょ(笑)。

 佛像の修復も、修復した部分がめちゃめちゃ綺麗でも、他の部分とテイストが違うと修復にならないんです。つくった人のテイストを見て、その人やったらこの破損している部分はこうやってつくったんやないか、と癖とかタッチを読み取ってつくれば全く違和感なく直しができるんです。

 でも世の中は圧倒的に修復する側の技術が下になっていることが多いんです。他ではパテで修復したりしてますが、それは邪道中の邪道ですから、やめてくれと思います。パテで直すと色でごまかせたとしても、パテの上に塗った色と木の色は退色の仕方とか色の痩せ方が違うんで、月日が経てばどんどん目立ってくるんですよ。

 僕は、同じ素材で木目まで揃うように木で修復しているので、現時点でどこを直したかわからないような状態になっています。ここから同時に経年変化を起こしていって、時が経てば経つほど余計わからなくなるんです。つくった人と会話してるみたいな感覚でやっているから、何も折れてなかったように直せるんです。

 でも、ここまでの技術がないからか、最近「保存修理」っていうことを言い始めている人もいます。なんやそれ、と思いましたけど。

 例えば、指が折れてありませんでした、となったら「指が取れてるのがオリジナルやから、ここに新しく指をつけるのはやめましょう」と言って再現されない。「残った指はこれ以上折れないようにしましょう」って言って樹脂で固めたりしてしまうんです。樹脂で固められた指は、プラスチックのような見た目になってしまいます。

──佛像の一部が欠けていることに対して、考え方が違うのでしょうか。

松本 僕らにとって佛像を修復するときは、やっぱりドクター目線なんですよね。医療に喩えて言うなら、僕は患っている部位が完治できる治療方法を提案しているのですが、「余計なことだ」と望まないんです。身体の一部が欠損していたら、治してあげたいと思うのが当然だと思うんですが──。そういう修復の現場が多くて、理解し難いと感じています。

 

超写実彫刻 蝉も留まっている木も全て木彫刻。

 

美術と佛教美術は違うジャンル

──現代は、必死に祈りを捧げていた古い時代とは佛像を見る目が少し変わってきているのではと思います。佛像を美術作品として見られることや佛像ブームは、つくる方の目線からすると、どのように映りますか?

松本 僕はね、あんまり佛像ブームには関心ないんですよ。そういった取材を受けたこともありますけど、別に僕はブームに乗っかって佛師になったわけじゃないんです。他人からすれば、佛師なんてそんなこと今でもやってる人がいるのか?っていうようなマイノリティな仕事かもわかりませんけど。平安時代から続いてる職業の一つで、僕らはそこにすごい誇りを持ってます。

 もちろん佛像彫刻は美術の括りにも入ってくると思うので、それはあえて言うなら美術の中でも「佛教の美術」っていうジャンルやと思うんですよね。

 なんで僕が美術としてひとまとめにしないかっていうと、絵画とかはその作品の素晴らしさの前に、誰が描いたか、のほうが先に来るからなんですよ。

 例えば一本の線を書いた紙があったとします。それにピカソのサインが入っただけで途端に価値が出ますよね。ピカソの作品は非常に素晴らしいですが、サインがなければおそらくただの線です。

 絵画や陶芸などの芸術は先ず作者が誰か、という先入観で見ている場合があると思います。でも佛像彫刻って名前を表に出さないんです。例えば古いお寺さまにある阿弥陀さまでも、その佛像を観てファンがつきます。それは、誰々がつくらはったから、っていうことではないと思うんですよ。それが佛像の世界であって、絵画とか陶芸とかの世界との一番の違いなんやないかと思います。だから、うちの工房でつくっていない佛像であっても名前は関係なく素晴らしいクオリティのものであれば素晴らしいと思えるんです。誰かれのサインがあるから値段が上がるとか、曖昧なものと僕らのとは同じに並べて欲しくないです。

 松本明慶の素晴らしい技術を弟子たちが継承して、磨き上げられた技術に価値があると思っています。

 

 

一木彫(写真手前と奥) 「一いち木ぼく彫ぼりという一本の木から全てを彫り出す彫刻があるんです。彫ってから組み合わせるのなら同じ形を彫ることができる人はいますが、1本の木から全て彫り出す技術です。木目には逆目と正目があって彫れる方向があります。鉛筆削りをしたことがありますか? えんぴつの芯の先から下に向かっては削れません。一定の方向からしか彫れないので、手が入りにくい場所から彫らなくてはいけないことも出てきます」

 

 

歴史的に一番うまい佛師の集団をめざす

──技術に価値があると。

松本 大佛をつくるにしても、截きりかねなど彩色もうちの職人は歴史上で一番上手い技術をめざしています。職人の意地ですね。文字にすると生意気と取られるかもしれませんが、僕は先人たちに何も負けてはならないと思っているんです。

 運慶と快慶は僕らの業界にとってもスーパースターで尊敬していますが、いつまでも彼らに現代の佛師が負けている、とかあってはならないし、彼らを超えないと失礼やし恥やと思うんです。僕らは彼らの作品を見て学んで、それを超える作品をつくれる機会と、いい道具がいくらでもある立場にあります。慶派の流れを汲んだ工房ですが、そういう意味では彼らはライバルです。だから、僕らがめざすのは歴史的に一番うまい佛師の集団であることなんです。

 それは現代だけじゃなくて、過去、未来の中でも一番いいものをつくりたい。我々の命がなくなっても「平成、令和にめちゃめちゃすごいやつがおったんやな。こんなん人間の手では誰もつくれへんぞ」と、未来人たちも一目おくようなものをつくりたい。

 やっぱり物づくりって、自分に自信を持って物をつくってないと世に出せないと思うんですよ。もし、自分が他よりも下手と思っているんだったら、何か注文してきはった人がいても「自分よりあっちの人にお願いしちゃったらどうですか」って思うので、胸張れないじゃないですか。それって物をつくる人にとってはプライドが許さないんですよね。そういう物づくりの高い信念が、やっぱり僕は強くて、なめられてたまるかと思ってる。

 だから、うちよりいい作品をつくれる人がいはるんやったらお願いしたいですけど、うちがやったほうが絶対いい佛像を納められる自信がありますから、どんなに小さい仕事でもやりたいんです。それを、商売人とか言われたら本当に腹が立ちます。お金を求めてるんじゃなくて、未来永劫そこにお祀りされて人の祈りを受け止める佛像は、いいもんが納められていないとあかん。その思いに尽きます。そこについては貪欲なのかもわかんないです。

 我々の作品を好みで嫌いと言われるのは仕方ないです。だってどんなに美人な俳優さんでも好みでない、とかありますよね。だけど「下手やな」と言われるのだけは絶対に認められない。これだけは絶対に言わせません。

 

「着彩に関しては専門の職人がしてます。模様は下書きなしで描いていきます。佛像の衣服部分に曲線のある地に描くと微妙に線を歪めながら柄を繋げていかなくてはならないんです、それを一度も間違わずに描いていきます。言い方がアレやけど、変態の領域ですね。機械でやっているんと間違われます」

 

──いい技術を持つには?

松本 例えば、一人の職人の50年分の仕事量は、50人の職人がいるうちの工房では1年分です。素晴らしい技術を持った工房でつくっていくことで、一人では経験できない数の佛像彫刻ができます。それと、やっぱり最初に言った、受け継ぎ方の原理が松本工房の進化に繋がっているんです。松本明慶が産みの苦しみで築き上げてきた技術を僕が一生懸命に受け継いで、そこから3代目はすごい進化の度合いで仕事をしてきている。父親が25歳だった時より僕が25歳の時のほうがすごい技術を持っていたし、最近は3代目であるうちの息子が一番すごいんじゃないかと気づいたんです。25歳の史上最年少で大佛師を大本山から認許されましたんで。

 僕は、死ぬまで現役をしていようとは思っていないんです。上がいると伸び切らない技術や、やりにくい部分は最終的に出てきます。自分よりも心技体で超えた、と思う人がいる場合は、その人が先頭に立ったほうがいい。引き際を見て僕は3代目に譲ろうと思っています。そこは父親とは違うところですね。

 

約400年ぶりに納めた新たな佛像

──表現に関してお伺いします。古くからある佛像から現在デザインが変化している部分はあるのでしょうか?

松本 不動明王さまや観音さま、みなそれぞれ佛像の形には決まりがあります。例えば不動明王さまやったら、こんな髪型でこれとあれを持ってこれを着ていないといけないとか。決まりごとの範囲内で作家は自分の理想的な顔はこれですとか、プロポーションのバランスはこれがいいとか、自由にはできます。でも決まりごとから外れてしまうと、もうお不動さまとか観音さまと呼べなくなってくるんですよ。

 滋賀県に西国三十三箇所第十三番札所の大本山石山寺さまの依頼でつくった弥勒菩薩さまは、蓮華の下に特別に石をあしらったデザインにしています。石山寺さまは石の上に国宝のお堂が建っているので特別につくったデザインです。

 弥勒菩薩さまは未来佛さまといって、お釈迦さまが入滅されてから56億7千万年後に世に現れて世界を救ってくれはる佛像なんですね。この56億7千万っていう数字にかけて、光背に567体の化ぶつ(佛像の頭上や光背に置かれている小さな仏像、または佛が衆生を救うために別の姿で現れること)を取り付けたのも特別なもんです。

 ここの国宝の本堂の中に新しい佛像が入られたのは400何年ぶりだそうで。そういう歴史の巡り合わせの中に僕らが生きていて、彫らせてもらいました。そのおかげで、石山寺さまからも大佛師の御門をもらってます。石山寺さまがこれまでに大佛師を誰かに認許したっていう記述はないそうなので、僕ら親子3代が初めてになります。

──佛像は今も変化をし続けているんですね。

松本 うちの場合は依頼を受けてつくる他に、自由な発想でつくることもあります。

 「ほっぺた撫でてみたい、触ってみたい」っていう「触欲」が人間にはあると思います。そんな触りたくなるような佛像として、オリジナルでつくったのがわらべ地蔵さんです。そもそもは新潟中越地震のときに山古志村で倒木してしまった杉の木で「何か市民の心のよりどころになるものを──」って言われて寄贈したものです。避難所でたくさんの被災者の方々に撫でてもらっていました。こういったものは今までの佛像では存在しなかった作品ですが、その後、佛像のジャンルのように定着してきました。

わらべ地蔵

 

徳川家康像は現在、厨子の中に入っているので後ろの様子までは見ることができない。「無精髭を表現したほうがリアルになるんですけど、特別な記念像としてあえてそこは表現してません」

 

大本山増上寺に徳川家康像を安置する

──たくさんの佛像や作品を世に送り出してきていらっしゃいますが、その中でも印象的なのは?

松本 たくさんありますが、その一つとして、2024年に東京芝公園の大本山増上寺さまに納めた徳川家康像です。これはどちらかというと肖像彫刻のジャンルです。時々、お寺の発展に寄与された先代の遷せんされた住職を開山さんとしてお祀りしたい、と像を依頼されることもあります。そういうときは住職さんの写真を見ながらそっくりにつくります。肖像彫刻の場合は手とかもちょっとリアルなシワをつけて細かい部分まで再現します。佛像彫刻はそういったエイジングはやりませんけどね。

──徳川家康像はどういった経緯で製作することになったのでしょうか。

松本 全国に徳川家康像っていっぱいあるんですけど、唯一家康公自らが、60歳の還暦のときに見分したんじゃないかって言われる像が以前、増上寺の安国殿にありました。真っ黒になるまで家康公が手元に置いてた黒本尊さまと並んで祀られてあったんです。でも明治の廃佛毀釈のときに神佛分離令で芝東照宮に移設されてしまって、それ以来もうお戻りにならなくなったんです。増上寺さまは家康公の葬式もあげられている所縁あるお寺さまなのにも関わらず、明治から今日まで150年もの間、家康公の居場所だけぽっかり空いていたんですね。そこで、浄土宗の開宗850年記念事業として、家康像を元の場所につくりたいと発願されました。僕の尊敬する方が増上寺さまとご縁があり、家康像を寄付されることになってお声がかかりました。

 早速、僕は芝東照宮さまにいらっしゃる御像と同じものをつくるために、芝東照宮さまに取材させてもらおうと思いました。実物を見たことないもんですから。当然、歓迎されるだろうと思って行ったんですけど「御神体の写真を撮りたいとか、寸法を測りたいとか何を考えているんだ」くらいにお叱りを受けました。取材させてもらえなかったら、同じものをつくれないんで困りましたね。

 なんとか見せてもらえることになりましたが、見せる条件として「芝東照宮は御神体として100年以上お祀りしてるのに、それとそっくりにつくられたんじゃ、偽物がいるみたいになる。だから松本先生は、ご覧になって御霊写しをして、先生なりに家康をつくってください」と言われました。でも、元々増上寺さまからは、芝東照宮に祀られているものと同じものが欲しいという依頼やったんですよね。だから増上寺さまと芝東照宮さまの要望の間に挟まれてしまったんです。

 でも、芝東照宮さまにある家康像を見せてもらった時、僕はもっとリアルな家康像をつくりたいと感じたんです。だから見たままそっくりにつくろうとは思いませんでした。増上寺さまにもその意向を説明して着手することになりました。

 

天下泰平を済ました家康公をとことん再現

──どのようにリアルにしたのでしょうか。

松本 よく目にする家康公の肖像画でも省略されてたり、再現されてないところのリアリティをもっと追求したいと思って、装束屋さんに取材に行きました。石帯の表現や下襲、襟の留めなどを見せてもらって、腑に落ちるまでとことん取材しましたね。

 ただ、家康公がこだわったところなのでは、と思う部分は芝東照宮さまの家康像を踏襲しました。例えば口を開けてはるところとか、ポージングなどです。

 普通、武士はすぐに刀を抜けるように必ず自分の手前に置いておくんですよ。腰に刀を差したまま座ったら抜けないですよね。でも芝東照宮さまにある家康像は腰に差したまま、刀を使う右手も隠して座っていたんです。これは「もう刀は抜かないよ」という天下泰平を済ましておられる家康公の平和のポーズなんですね。

 だから僕の家康像では、天下泰平を済ましておられることを意識して、白髪混じりにしました。戦国時代は武将に白髪があると敵から舐められるんで、炭で塗って白髪を隠してたんです。けど、もう髪を染める必要はないわけです。60歳の人を想定した量の白髪で表現しました。

 他にも襪しとうず(足袋の一種)も漂白剤が無い時代の真っ白ではない江戸時代の白を出したり、とにかく装束の縫い方一つから隅々までこだわりました。それから雛形の段階で顔だけは何個もつくり、試行錯誤しました。誰よりも家康のことを考えて、全身全霊で製作にあたったんです。だからこの家康像はタイムマシンに乗って本人に会いに行っても相当似てるはずです(笑)。

 製作中にご子孫の徳川家広さま(徳川宗家19代当主)に初めてお会いしました。僕が家康像をつくっていることを知ってぜひとも見に行きたいと、京都までわざわざ来られたんです。

 感想を聞いたら、おじいちゃんと対面するお孫さんみたいにニコっと笑って、じっと向き合っておられました。ようやく口を開かれたのは「令和の家康さんですね。当時だったらもっと厳しい一面が表情の中の奥底にあったかもわかりません。ただ、今は令和ですから。穏やかな顔をされてて、令和の家康像としてふさわしいんじゃないでしょうか」って言っていただきました。徳川家康像は僕の代表作になりましたね。

──ありがとうございました。

聞き手 本誌:並木 悠

 

 

松本明慶工房親子孫3代 (右から松本明観氏・明慶氏・宗観氏)

 

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